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中編;簡単な旅路、戦いと戦いと未熟

中編と後編は合わせて一話の予定でした。

1



 さて、約束の正午の刻。

 蟹と少女、令嬢と老執事は東門に集結していた。


 目的地ウィンダムはエミダリの衛星集落であり、都市より北東に位置する。


 さしたる規模でもない宿場の街ともいえるが、エミダリア平原北方におけるエミダリ最後の中継地として古くから利用された街である。


 三人と一匹は、水やパン、酢漬け、干し肉などを袋に入れて、ナイフやロープを収めた小さな荷袋を背中に背負っていた。

 同じような大小様々の荷袋を背負い巨大な、赤茶けた石壁を背景に行き交う多くの人々。

 旅装に身を包んだ者、あるいは近隣の街まで徒党を組んで遠出する者。

 近場、それほど危険度のない野辺や丘に繰り出す者など、その目的は様々だ。


 人の流れが濃い大門のほか、蟹と少女が数週間前に利用したような小門にも人々が溢れている。

 各小門の門番、役人たちが正当な、あるいは長期の滞在に備えた人々に入市許可証を渡していた。

 

 そうした人々の流れから離れ、城壁に沿うように並ぶ貸馬屋。

 あるいは小門の開門時間を過ぎてエミダリに到着し、なおかつ大門を超えることを憚るような善良な人々に向けた宿屋が数件立ち並ぶ辺りに三人と一匹は居た。


 手を胸の前で交差させ、ぶつぶつと何かを呟いている――祈りを神に捧げている――少女。

 同じように、しかしそれほどの熱心さを持たずに祈りを捧げる令嬢と老執事。

 

 彼らを尻目に、蟹はいよいよ勢力を増して、より燦々と照り映える日射しに己の青い殻を浮き上がらせている。

 いかにも何もすることもないといった様子で、ぼーっと人々の行き交う姿を見ていた。

 

 少し経って、祈りが済んだ少女が目を見開き、晴れやかさと緊張の入り交じった表情で蟹を見た。


 「お待たせ」


 「ふむ、やけに長かったな」


 いや、人草の祈りには疎いので、詳しくは知らぬがな。と呟く蟹に、

 少女は笑みを浮かべ答えた。


 「今日は、『闘争』さまだけじゃなく『至高』なる『有角姫』さまにも祈ってたから」

 

 蟹は苦笑を隠せなかった。その反応に少女は少し頬を膨らませ、そしてまた仕方がないと諦める。

 少女は魔獣、それも蟹の魔獣に対して信仰を強いるほどに狂信でも浅薄でもなかった。

 

 「さて、こうしてここで立ち往生していてもな……時間はただ流れるだけ」

 

 黒眼に興趣の名残を残しつつ、蟹は少し離れたところにいる元令嬢たちを鋏で指し示す。

 少女は頷き、蟹から贈られた堅く、頑丈でありながら軽い外套。

 そして小さな荷袋、化粧気のないズボンと己の荷を再確認し、最後にちらりと腰に帯びた武器――先ほど蟹より贈答された剣――を見据えた。

 

 僅かにほくそ得む少女に向けられた「まだですこと?」という焦れたような元令嬢レセの声。

 

 「ふむ、そう慌てるな」蟹が鋏を掲げて何度かシャキンと音を掻き鳴らす。

 

 品の良さが窺える綺麗な姿勢で、レセは蟹を見た。

 どこか悪戯気に満ちた澄ました態度で、蟹は鋏を掲げてレセを見る。

 

 「ふむ、急いては事を仕損じる。とも言うだろう?

 それに……乙女の準備とは時間が掛かるのが相場と聞く、慌てるものではないぞ」とからかうように蟹が応じる。

 

 思いのほか、茶目っ気に満ちた蟹の態度に毒気が抜かれたのか、令嬢は呆れたように溜息を吐いた。

 少女が、いつものように、口から適当な言葉を作る蟹にじと目を与え、

そして己の金髪を撫でながら言う。


 「待たせたわね、ごめんなさい」

 

 「……ま、細かいことはいいですわ。

 貴方も市外の本格任務が初めて……、というのなら色々考えることがありますでしょうから」

 

 応じるレセの髮――磨きぬかれた金髪が織り成す縦ロール――が揺れた。

 ちなみに数刻前――蟹がその髮を観察して「ふむ、ありゃ一体どこの部族の風習かは量りかねるが、どうにも食欲が促進される」と少女に言い、少女ルナーレが「……それ、絶対に本人には言わないことっ」と返す場面が数分前に秘密裏に交わされたことはレセは知らない。


 「ッ、……そう、お気遣いありがとう……」と返すのはルナーレ。

 未だ出会ったばかりのレセに含むところがあるのか、砂を噛んだような物言いとなっていた。

 蟹が諫めるように少女の尻を叩いて、なにはともあれ一同は移動を開始する。


 東門から続く整地された街道、幾つかの方向に分かたれたそれの中から目的地に最短である道を選び歩き始める。


 こうして二組の冒険者がパーティを組んでの任務。

 それまでの任務とは一味も二味も違った任務が始まったのだった。

 

 

 








 

 どうしてこの蟹は「私の髮をこんなに熱心に観察していらっしゃるのかしら?」とレセは思った。

 そんなに綺麗かしらね、などとレセは内心喜ぶ。

 蟹の内心、知らぬが仏とはこのことか。

 

 現在のところ四者は特に邪魔もなく道を進んでいた。

 

 春の風が時折、少女たちの髮を靡かせ、心地よい息吹を伝える。

小鳥が囀り、花々が街道より少し離れたところにある木々、あるいはくさむらがそれに答えるようにさざめいていた。


 これが散歩、あるいはピクニックであれば素直に自然の心地よさ、春の風、穏やかな空気、花々の匂い、そして鳥の合唱に浸ることが出来たのだろう。

 だが、これは任務、れっきとした任務である。


 だからこそレセがふと、目線を隣で歩く少女――田舎者の割には整った、流れるような金髪と、溢れる若さから緊張が滲む面持ちの少女見て、

そこに初の大型任務に必要以上に気張っているらしい少女の内心を容易に窺い知ることもできるのだ。

 余りにも周囲をきょろきょろと見つめ、そして時折、野生の動物、おそらく鳥か何かが発した音にびくりと反応している少女。

 初めてのお遊戯会に参加する学童でさえももっと堂々としているだろう、そう思える程に、少女の四肢はガチガチに固まって見えた。

 

 彼女の相棒らしき蟹は、その様子を見て、おそらくは苦笑していた。

おそらく、というのは、レセには蟹の表情など窺い知れず、その瞳から推測するしかないからである。

 

 見るに見かねてレセが、

 「ねぇあなた、少し気を張りすぎじゃあありませんこと?」と声を掛ければ。

少女は、素早く振り向いて、顔を真っ赤にして「っ!! ……そ、そんなこと、ないわよ!? っき、気なんて張ってないしッ」などとのたまう。

 

 レセは呆れを感じた。そして微かな笑いが後方と前方から響いた。

 蟹を背後に、執事を前方に歩いていることをかんがみれば、それぞれの相棒が発したらしき笑いであることは一目瞭然であった。

 

 「レセ嬢の言うとおりだぞルナーレ!」と蟹が言い、その言に少女が蟹へ振り向いて、どこかむくれたように、その形のよい眉を顰める。

 

 「な、何よ、あんたまで」

 

 「いやいや、嬢。

 気を入れるのは悪いことではない。

 適度な緊張感は、事を上手く運ばせる」

 「…………」

 

 一拍の間。蟹は稚気に溢れた黒い眼を空に向けている。

 

 「だからな、肝心なのは力を入れすぎないことだ」

 

 そうして蟹は鋏を、しゃん、と掻き鳴らして、どこか冗談めいた口調で言葉を続けた。

 

 「本番の前に緊張し過ぎた若人が、

 本番に入った瞬間に逝ってしまうことなど古今東西、よくあることだからな!」

 

 レセはその通りだと思った。

 己の初めての迷宮探索や、大型任務を思い出してもその言は当たっているだろう。

 少女も神妙な表情になって、口をもごもごさせている。

 認めがたいような、しかし大切な蟹の言うべきだからこそ素直に受け入れている、といった風情である。

 

 レセは、何もおかしなことは言ってない会話の流れ、にも関わらず、

己の執事ウォルトンがさらに小さな笑いを重ねたことを不思議に思った。

 

 

 「ふむ、蟹殿、本腰を入れるにも加減がある、ということですな」

 

 「うむ、まあそういうことだ」執事の言に鷹揚に頷く蟹。

 

 言い回しとは微妙なもの。言葉とは多重な意味の衣を羽織っているもので、


それに気付かぬレセにも、未だ若かさは輝いていた。

 

 

 





 既に一同が歩き始めて一時間は経過しただろうか。

 

 ウィンダムまでの距離は、およそ歩いて八刻ほど。

 しかしそれは旅慣れた成人男子ならば、の話だ。

 周囲に気を配りながら、あまり任務に慣れていない者を成員に含む集団が、任務を進めようとするならば、十二刻ほどを見ておきたかった。

 

 エミダリ南部、港からエミダリまでは、そう高くもない丘と、まばらな森林地帯しかなく、人々の往来は激しい.

 さらに言えば地域が狭く限定されており、

エミダリ行政局が軍を巡回させたり、時には冒険者組合に巡回警邏の任を嘱託して巡回させることも容易い。

およそ狭い限定された地域ではあるがゆえに、エミダリ南部における治安は良好と言えた。


 それに対して、エミダリ東方部、エミダリを中心としたエミダリア地方の大部分を占めるその地域は余りにも広域である。

 

 エミダリア北方/グローリアー地方から、山を越えて交易をする者たちの峠道があるかと思えば、

南方では、幾つかの港街、漁村・漁港、交易港が並ぶ地域から歩みを進める者もいる。

 

 そして当然のことながら山でもなく、海でもない、幾つかの山、あるいは川、そしてエミダリアの大部分を構成するエミダリア平原を進む道もある。

 

 そのような広範囲をカバーするのは、物理的には不可能としかいいようがない。

 勿論、悪質な盗賊の集団、慮外者の群れによる被害にエミダリ行政局も手をこまねいている訳ではない、

いわゆるエミダリの対外軍の任務に、こうした集団への対策も含まれている。

 そも、商業利益とは人々の安全な往来からより高まることを、エミダリの都市政府は当然のことながら了解しており、

そのために努力が払われるのは当然のことであった。

 

 しかし、人的上限というものは確かに存在し、そして川や谷、山や丘、森に洞窟を含めた広範な地域に潜む全ての悪意を駆逐することなど、

なんども言うが、当然のこととして不可能である。


 そのために、そこで需要が生まれる。

 つまり今回、蟹と少女が請け負った任務のような需要が。

 

 今回の依頼は、ある中堅商家からの依頼であった。

 ある品を、ウィンダムに滞在する顧客に渡して欲しいというものだ。

 

 大抵の場合、商業従事者は商業組合に依頼を行い、商業組合が雇う冒険者か、商業組合からさらに冒険者組合へと依頼されることとなる。

 しかし、そうした悠長な手間を嫌ってか、あるいは急ぎの用件である場合は冒険者組合に依頼することも多い。


 昨日、冒険者組合中央局の窓口で正式に依頼されたこの仕事は、翌日の早朝には白シャツ亭へと廻された。

 

 冒険者組合ではなく各酒場に直接依頼をすることもできるが、その方法を依頼人が取らなかったのは、

おそらく懇意である酒場がなかったからであろう。

 市井にまで名前の知れ渡っているような酒場は当然のことながら依頼が多い。

 それでは依頼が埋もれてしまう可能性もあり、また直接交渉して優先的に依頼を遂行してもらう場合は足下を見られて高料金となる場合もある。

 

 ならば、何処かそのへんの酒場に足を運び、依頼をしようにも、

今度はその酒場の冒険者の質、あるいは評判が分からないという問題が生じる。

 

 もちろん、同業者や、商業組合、情報屋などから必要な情報は購入できるだろう。

 だがそれでは時間が掛かるうえ、その情報の信頼性を吟味しなければならない。

 そうした手間を考えれば、多少金額が上乗せされようともその料金が一定名な冒険者組合ギルドに依頼した方が手早く、なおかつ安心だった。

 

 冒険者ギルドはその依頼を吟味し、すぐさま取りかかれそうな適当な酒場を調べ、それを斡旋する。

 斡旋された店主は、その仕事の規模、そして期限を見て、受け入れるかどうか決める。

 

 受け入れたのなら、今度は優先的にそれを冒険者に割り振る、

ギルド公認の箔がついた仕事には、ギルドの威信が懸かり、そして受ける冒険者側にも他の依頼よりも大きい給金と信頼を勝ち取る任務となる。


 こうしたメカニズムの下、蟹たちは仕事を受けた。

 

 期限は明後日まで、不確定性が商業組合や各酒場への直接依頼を避けたとはいえ、

期限的には他の手段でも間に合ったかもしれない長さであった。

 おそらく大事を取って、冒険者組合、つまり迷宮管理組合へと依頼しただろう点に、依頼者の慎重さが窺える。

 

 依頼の期限を考えれば、今日中に出発しなければならないことは自明であった。

 道行きにおおよそ十二刻かかる。

 蟹たちが出発したのは正午近く、

途中で夜営を取っても、遅くとも明日の正午頃には到着するだろう。

 行き当たりばったりの感があったが、そう悪い出発時間でもなかった。

 

 ようやく少し落ち着いたらしい少女を見ながら、蟹はそのように依頼を思い返していた。

 

 蟹の今日の気分は横歩きだったので、顔を森に向け、動かす脚を少女たちに向けるようにして地面を進む。

 まるで海中、海の底や河の底を進むような軽快さであった。

 愛嬌と迫力の入り交じったその顔は街道沿いの木々に向けて、

春の麗らかな日射し、ほのかに香る青い若葉の匂い、大地を包む土の匂い、木の葉の近くを舞う黄色い蝶などを楽しんでいた。

(勿論、周囲の警戒を怠ることはない)

 

 そこまで重くない荷物、木箱に収められた何かの素材は、蟹の背の上にある。

蟹がいることの利点の一つとして、荷運びにおいて馬や驢馬の類を借りなくてもよいという点があるだろう。

 少なくとも蟹の広く頑丈な背に、ちんまりと木箱が据えられている姿は、妙に様になっていて、ルナーレなどは内心、可愛らしく思う。

 あるいは仏頂面した元令嬢でさえも、あら、中々キュートじゃないかしら、と思うほどの愉快な蟹の姿であった。


 エミダリの北東に位置するウィンダムは、途中そう高くもない山(しかし最低限の山らしさを備えた険しい)道を通ることになる。

 その周辺には森が鬱蒼と薄暗く広がっており、傾斜と起伏、そして殺風景な視界、都市周辺とは違ったより濃い植生が、

薄暗く不気味な印象を与え、急に数mほどの崖が罠のように現れたりするこの旅路随一の難所であった。


 とはいえ、現在の蟹たちはまだ、エミダリの周辺の小平野部から適度に進んで、緩衝森林帯となっている丘陵部を進んでいるに過ぎない。

 視界不良やらなんやらの危険に思いを馳せることが必要な地点へと辿り着くのはまだまだ先のことである。

 こうして蟹が暇つぶしがてら、そういったことに考えを巡らせる暇があるのもそのためだ。

 

 その蟹にすればむしろ今からでも気を付けるべきものは、小規模な山賊団。あるいは亜人の群れである。

 

 下位の魔獣とは一味も二味も違った相手。戦略を練り、知性をもって罠を張る相手。

武芸に、魔導を使い、戦術を駆使する相手(冒険者崩れなので、そう大した連中とも思えないが)。

 

 その上、彼らを相手取ることは、昆虫系などの非人間形の魔獣を相手することと違った注意点があった。

 それは相棒の少女に対しての心配とも重なる。

 つまりは一時間前まで、蟹が贈ったばかりの剣を振り回し、その振り心地を確かめていたらしい少女にとって、

そうした連中との戦いは、知能と感情を持った人型存在との初めての戦闘になるだろうということ。

 

 言葉を発し、笑い、泣くような、明確に自らと同じような存在、近しく似ているような相手、

田舎の、それも平和な田舎で相撲を取って、野山を駆け巡っていた少女にとって、

そこには一つの試練があるように、蟹には思えた。


 蟹にとって他者の命を奪うという行為は、生命活動において取るべき時に取ることもある無数の手段の一つに過ぎなかった。

だが、おそらく人間の少女、それもこの前まで平凡な山村で安穏と暮らしていた少女にとって、それは容易なことではないかもしれない。

 気遣いの出来る蟹、を自称する大蟹にはそれぐらいのことを考える余裕と優しさがあった。

 

 生まれついての魔獣であったデンザロスことペンタが、今の大きさに至るまでに多くの闘争を経験し、生死のかかった死線を潜り抜けてきたように。

 暴力を行使し、命の危険を感じるような、相手を選ばない闘争の経験を積むことは、

少女がこの先、冒険者として生きていくのならば、避けては通れぬ道であるだろう。

 

 作り物のような黑くて円らな瞳に、憂いの色を浮かべながら蟹はレセと肩を並べて歩く少女を、ちらりと見つめる。

 

 

 ――『あらゆる暴力によって獲得されたモノは、悪臭を伴う』

 

 そう蟹に呟いたのは、おそらく今もまだ、ゴルシュナメルク島に居るであろう有角人であった。

 出会ったばかりのデンザロスが、何故、大多数の人間種が生存競争において他者を殺める時に、一種の特別な感傷を抱くのか。

 

 自らが生きる上で、闘争とは自己の命を賭けることになる、出来うる限り避けうるべき手段であることは蟹にも理解出来る。

 死の危険性があれば、避けるのが吉。あるいは必要のない無駄な恨みを買い、やたらと敵を作ることも危険なことである。

 

 しかし死というものが、全生命にとって必然のことであり、また生存競争において闘争が不可避であると考える蟹にとって、

人間種、あるいは群れを作るような種族が、闘争を避けるべき時ではないときにも闘争を避けることがある。

あるいは避けようとして、また躊躇うこともあることが、つまりは殺人忌避の風習が当初は奇妙に映ったものだった。


 そのくせ、時として大量に殺し合う、蟹にとっては些細なくだらぬ理由から命を奪うという矛盾。

 蟹にとって社会やら国家というものを営む種族の活動は、

遙か巨大な河の底から時折見つめる、奇怪な習癖の盛り合わせとしか思えなかったのだ。


 その蟹に向かって、独自の美学から暴力を忌避すること教えたのが有角人『賢者』フィネルゥであった。

 

 そしてまた地軍とともに過ごし、初めて共同生活を、そして友情なるものを体験したことが蟹を変えたとも言える。

 仲間も持ったことのない一匹の高位魔獣は、仲間という存在を得る過程において、

そうした共感の感情を学び、そして人間全般の平和主義を推測できるようになった。

 

 ――『デンザロス……、タノシイ、トイウコトガ、ウシナワレルノハ、カナシイコトデス、ヨ?』

 とは『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシア、終生の友たる『侍女』ジュチャ・エヴァングの言葉であったか。

 共に非人型の高位魔獣として比較的身近な存在であったジュチャのその言葉は、それまで群れを作ったこともなく、

対等な強者を知らずして地軍に入った蟹に一つの大きな示唆を与えたように思う。

 

 即ち、共感と感情移入、仲間意識、そして醜悪を避ける美的本能にこそ、非暴力という感性の鍵があるのではないか。

 

 もちろんこれは蟹の考えに過ぎない、蟹はこれが全てだとは思っていないが、

蟹という種族、そして蟹の生まれた環境からは、この推測が蟹にとっての一つの限界、理解の限界でもあったのだ。

 

 兎にも角にも、いまも、じっと少女を横目で確認する蟹の、少女を心配する考えとはそうしたところから来るものだった。


 ――どうやら、人間とはみだりに人を殺さないらしい。というもの。

 

 例え覚悟をしていても、自分の形に近い者と戦うことが、この少女にできるのか、

 

 わっしゃ、わっしゃと脚を動かしながら、蟹はそんなことを心配する。

  

 心配の対象となっている少女は、長閑のどかに過ぎゆく日に、神の思し召しを思っているのか何か呟きながら周囲に気を配り、

荷物を背に負い鼻歌を歌い歩く蟹を時折気にする素振りを見せながらも、どことなく楽しそうに足を進めていたが。

 

 蟹は苦笑を作りつつ、このまま彼女の膝裏をプッシュしたい衝動に駆られたが、どうにかそれを押し込める。

 そして己の鋏を見る。多くの命を奪ってきた鋭い刃。青い鋼と形容できる鋭い光を放つ蟹の鋏。

 蟹は意を決したように、苦笑を引っ込めて、口から泡を吐いたあと、少女に声を掛けようとした。

 

 ところがその瞬間、歩みは止まり、奇妙な緊張が辺りを包んだ。

 

 ――蟹はも歩みを止め、同時に先頭を歩く執事(相変わらず黒々とした高級そうな燕尾服であった)も停止した。

 

 手の平を後方三者に向ける執事。白い髭は流れるように揺れて、その顔つきは厳めしい。

 

 その背後、蟹から見れば前方に、ルナーレと隣合うように位置するレセは顔を強ばらせた。

 革で出来ているであろう軽鎧を、白色の長袖、先ほどまでの優雅で丁寧なしつらえの服とは違った野暮ったい服の上に身に付け、

厚手の茶こけた下履きから覗く足に、頑丈かつ軽そうな素材で作られた無骨な黒靴を履いた元令嬢レセ。


 緊張は伝播でんぱする。


 ルナーレは一瞬、何が起きたか理解出来なかった。

 だが、すぐさま空気に含まれた緊張感に気がついて、剣の柄に手を添える。

 身体の奥底から自然に湧いて出た緊張により喉が鳴り、その身体は震えていた。


 「右方に一匹」と執事の声。


 「左方に、四匹か」と蟹が呟く。

 

 ――そして警戒をものともせず

 

 ――地上より数M上の木々の繁茂

 

 ――枝葉しよう乱れ絡む緑濃き暗幕の内側から

 

 ――奇怪な顔の猿たちが飛び出してきた。

 

 

 

 







 人食い小猿、グリーンモンキー、緑猿と一般に呼ばれている魔物の襲撃であった。

 小さな顔には、子泣き爺のような醜い渋面。邪悪な笑みのようにも見える表情もまた醜い。

 

 木々を伝い、樹上で生活をする、全長60cmほどの小猿だが、尻尾は4m近の長さを持ち、伸縮性がある。

 長い手足には刃のようなかぎ爪を備え。

 また、果実から樹皮、家畜の肉、そして人間の骨までをかみ砕く強靭な歯と顎も備えている。


 数匹から数十匹の群れで暮らし、集団で狩りを行い、人的被害も少なくはない凶暴な魔獣種族だ。

 

 街道、その右方の木々から、尻尾を木に巻き付け、奇襲のつもりだろうか/飛びかかる猿の爪を、レセは細剣を横に受け流した。

 

 はっ、と小さく呼氣が口元から滲み、修錬によって身についたらしき回避運動は、

咄嗟の反応としては洗練された、自動的な動作にも見えた。

 そして元令嬢は半ば無意識的に、敵を横に避けた体勢から連続するように鋭い蹴り、そのつま先を猿の胴に叩き込んでいた。

 

 同じように、レセの背を守るように左方を剥いていたルナーレは、陽光の下、黑く滑らかな剣を向かってきた小猿に振り下ろしていた。

 極度の緊張と、しかし日頃から積み重ねた鍛錬がほどよく合わさった動作。

 無表情な、強さを求める少女の精一杯の反応。

 

 猿の機敏な動き/素早い手足四本から繰り出されるかぎ爪の攻撃は、しかし蟹や海月の鋏、あるいは触手よりも速度において遙かに劣っていた。

 ここ数週間の反復的運動/修錬は、既に条件反射として少女に回避運動を染みつかせていた。

 

 鋭い爪のひっかきを、身体を引いては巧に躱し、

伸びきった尻尾が縮み、バンジージャンプの要領で木々の方向へ退避していく緑毛の小猿に向かって、少女は黒光りする刃を容赦なく振り下ろす。

 

 ほどよい力の入れよう――様々な姿勢から蟹への攻撃を行った鬼ごっこの産物か。

 そして故郷の相撲大会において優勝したことからも窺える奇妙な筋力があわさり、少女の袈裟一刀は、小猿を見事に絶命させた。

 何が起こったのか理解出来ていない表情で、猿は喘ぐ間もなく息絶えた。


 一連の流れは日頃の修錬の賜物。少女にしては十分に見事な動きだと言えるだろう。

 しかしその条件反射的、無意識的な動きは同時に危険をも招いた。

 

 靡く金髪の煌めきを目印とするような、後続のましらからの攻撃だ。

 

 残りの三匹の小猿からの攻撃を思慮の外に置いた少女の切り込みが、

時間差を置いて訪れた、十二のかぎ爪からの鋭い刃に身を晒させる危険を生じさせる。

 

 大地に向けて刃を下ろし、小猿から飛び出た血流を顔と外套に飛び散らせ、

袈裟斬りの形で無防備に身体を晒している少女を守るため、蟹が目にも映らぬ速度で、少女の前に滑り込んだ。

 

 運ぶ荷物が心配になる程の急制動。

 

 ――背中には荷物。

 

 と考えた蟹は、背ではなく腹甲を敵たちに向けて、甲羅を持ち上げていた。

 

 シオマネキが威嚇するように、腹を相手に向けて、鋏を大きく広げ、

抱擁を求めるようにも見える体勢で、相手の攻撃を迎え撃つ蟹の腹に、小猿の爪が次々とぶつかっていった。


 ――片腹いたいなぁ! と蟹は歯牙にもかけぬ。

 

 きんっ、というような金属を金属で叩いたような音。

勢いをもった猿の刃は、しかし蟹にとって比較的薄い部位たる腹甲にさえ、何の痛手も与えなかった。

 

 醜い顔に動揺を隠せず、慌てて尻尾の伸縮に従い、逃げ戻る小猿に向けて、左右から抱きしめるように鋏が振るわれた。


 シャン、と鋏が閉じる音。鋭い蟹の鋏は、滑らかな光沢を中空に残像のように残した。

 

 そしてシャンパンからコルクが飛び抜けるように、鮮血をはとばしらせ、小猿の醜い頭が、二つ飛び上がった。


 血糊が鋏に着いたことの嫌悪を胸裏の片隅に抱きながら、蟹は残る一匹に向けて顎を向ける。



 意識――体内:口膣――儀式小家:想像法――導力――想像・属性性質操作・構築――発現



 儀式小家:想像法『蟹鉄砲レーザーブレス


 体内、魂の奥深くより練り上げられた【力】が口内を基点に、実体を得て噴き出した。

 堅い水、という異樣な性質を持った水が、さらに圧縮され、口内より猿の額へと一本の線として貫通した。

 

 何の躊躇もない、洗練された一連の行動は僅か数秒以内の出来事であった。

 

 少女が、慌てて体勢を整えれば、目前には大きな蟹の背甲、そしてそこに結わえられている木製の荷箱。

そして背甲越しに僅かに覗ける血飛沫の乱舞。


 ルナーレは流石の蟹の実力に、安堵と僅かばかりの悔しさを抱く、と同時に背後から響く小猿の絶叫を聞いた。

 

 振り返れば、地面を背に、刺剣によって標本のように、胴を貫かれた小猿の姿が見えた。

 

 未だ絶命に至っていない小猿に止めを刺すためか、ルナーレが見据える中、元令嬢レセは、

その無駄のない優美な肉体を、独楽を地面に向けて解き放つため動作のようにしならせ、地面から抜き去った刺剣/右腕を溜めた。


 そして刹那、溜められた力とともに、

 ――レセの上半身と右腕が地面に向けて叩きつけられる。


 しなやかな身体から爆発した刺突が、小猿の額を貫いて、僅かに白っぽい脳味噌を細剣にこびり付かせる。

 

 少女ルナーレは、訓練の賜物であろうレセのその無駄のない突きに一瞬、見惚れていた。

 

 ……

 

 …………

 

 「ふむ、見事ですな」と蟹の成果を見て、低く穏やかな声で老執事が言った。

 

 その音の響きが、木漏れ日が落ちる淡緑の空間で突如として巻き起こった戦闘、その終了の合図となった。

 

 咄嗟の戦闘、時間にすれば数秒のことだろう。

 踏みならされた街道――とはいえ馬車が一台通るのが精一杯というような幅の道――に、

未だピクピクと身体を震わせている小猿の死骸が五体。胴と分かたれた頭部が二体。

そして脳天を貫かれた形の屍体が二。、肩から斜めに切り裂かれたむくろが一体。

 バリエーションに富んだ屍から溢れ出る血が地面を赤く染めていた。

 

 「あなたの蟹、凄いですわね……」

 

 とルナーレたちの状況を確認したレセが、冷や汗を流して呟いていた。

 

 蟹は、口から噴き出す泡によって、己の鋏を洗浄している最中であり、

蟹に向かって、あ、ありがとう、と言葉を掛けていた少女が、その呟きに反応した。


 「……ふふっ、でしょー」と柄にもない、素直な返事を返したあとで、それに気付いて、

顔を真っ赤にした少女が「っ、ええと、そ、そうでもないわよ!? か、蟹だしっ!!」と訳の分からない取り繕いをした。


 布で、己の細剣を拭っていた令嬢は、顔をそらして、小声で、ついでに付け加えるように、

 「ま、貴方も少しはやるようですわね」と言う。

 

 「え? そ、そう? ……って別に嬉しくなんかないわよ!?」と少女が、さらに顔を真っ赤にする。


 蟹と老執事が、瞳にニヤニヤとした感情を浮かべた。

 

 レセは激しい動きにより乱れた髪を直して、少女の顔を見つめて言う。

 

 「ま、これぐらいできないと、お話にもなりませんわね」高慢な響きを持ったいつもの声音であった。

 

 「っ、っあ、あんた一々挑発的ねぇ」

 未だ少し、ルナーレは顔に赤みを残しながら険の籠もった返事を返した。

 

 「お取り込み中のところ悪いがな、ルナ」蟹が声を掛けたところで、少女は、改めて蟹に向き合った。


 「あ、ホントにありがとね?」

 

 「うむ、礼などいらん、……が、それよりも注意したいのだが」

 

 「……?」

 

 今回の出番のなかった老執事ウォルトンは、他三人(匹は省略)の挙動を見渡せる位置において、

次の動きに備えていたので、蟹の言いたいことが理解できた。

 もし、蟹が少女の助けに入らなければ、老執事が、少女のそれを助けていただろうから。


 「咄嗟に反応して切りつけたあれだが……」

 

 「え、ええと、もしかして?」

 

 「……うむ、ああいった場合は、まず全体を見た後に、回避すべきであった、と俺は思う」

 

 「ルナーレ嬢、私めもそう思います」とウォルトンも口を挟んだ。

 

 元々は執事、とはいえ冒険者としてパーティーを組めば、その流儀に従うことはウォルトンにとっても当然のこと。

 即ち、初心者冒険者へのアドバイス、そしてチームとしての連携を保つことも、ウォルトンは大切な仕事だと心得ていた。

 

 「……っう、そ、そんなに駄目だった?」

 

 「駄目とは言わぬよ。

 うむ、全くの無反応よりはよいさ、

それに俺がああいった行動をすると読んだ上での無防備ならば何も文句はない、……だがなルナーレ」


 そして蟹は鋏を、ちっちっと、

人間ならば、指先を立てて振るような行動を取りながら言葉を続けた。

 

 森の木々が風になびき、音が聞こえる。

 土と花々の醸し出す森の中、そこに生臭い血の匂いがブレンドされた状態で、

少女は真摯に蟹と執事に向き合っている。風の涼しさに動じず日天は変わらず空にあった。


 (眩しさを覚える日射しの中でレセが、懐から小ぶりなナイフを取り出して、緑猿の尻尾を切り取っている。

 非常に軽く、特別な骨と皮から出来ている緑猿の尾は、それなりの素材として、高く売れるのだ)

 

 気が散るからやめろ、と蟹は思うが、思うに留めて、未だ髮に、血の残った少女を見る。

 

 緑猿の肩や臓腑から飛び散ったどす黒く濁った血が、汚らしく少女自慢の髮にこびり付いていた。

 

 「意識せずに、攻撃を加えたのならば、それは気を付けたほうがよい。

 もし、俺が間に合わなければ? もし、俺や執事が他に気を取られていたのなら?

 あるいは一人で行動せねばならない時に接敵したのならば?」

 

 そうして蟹は、黒目を真剣に輝かせて、少女の瞳を見つめていた。

 

 「今回ならば、俺が間に合わなくとも、おそらく、ふむ……」

 

 そして蟹は、身体を僅かに動かして、執事を見た。

 

 そして執事が言葉を引き継ぐ。

 

 「私めが助けに入ったことは確かでございます」

 

 そして執事は、蓄えた髭を白手袋で軽く撫でて、ウインクを蟹に送った。

 

 「……だが、まあ俺と執事殿がいない時もある。

 あるいは居るならば居るでな、ふむ、自らの行動を意識し、

 全体を気に掛けながら行動するべき……と言いたいわけだ、うむ」

 

 そして蟹は最後に口から水を吹き出した。

 濡れすぎない、すぐに乾くような絶妙な量が少女の髮と顔に当たる。

 

 突然のことに執事と、元令嬢も動きを止めた。

 

 「ひゃぁっ!? あ、あんた、ちょっといきなり何すんの!?」

 

 「ハハッ! とまあ、色々言ったが、そういうことにもを気を付けろ、ということだけだ。

 まあ、胸の片隅にでも仕舞っておけ、無理して実践しなくてもいい」

 

 「っ、どういうことよ!」少女が、びしゃびしゃになった水を手で髮から搾りながら、蟹を恨みがましい目で見る。

そこまで言っておきながら、どういうつもりか? と少女は言いたげだった。


 「うむ初心者が付け焼き刃でどうこう、なんてのは危ないことだ。

 俺の昔の友人にも、新しいことを教わってすぐさま実践で試しに試して大怪我なんて奴もいた。

 言う機会があったから言ったまでで、無意識の片隅にでもおいておけばいい。という訳だ」

 

 「この私めに、お嬢様、そしてペンタ様が居るのです、気を張らないでよろしいということですよ」

 

 蟹の言葉に、僅かに微笑んだ老執事が付け加えた。

 老執事自身、かつてレセが幼かった頃――シュウォウプ家が幾人もの侍女やら下女を雇っていた時分には、

多くの若い、侍女仕事に就いたことのない新人を教育したこともある。

 それだけ予算に困っていた末期の主家を助けるために、熱心に教育したときに体得したことだが、

まずは、数をこなし、実戦をこなしていく、余裕がある時にこそ、徐々に深く広く物を見るように教えるのが、

一番上手くいくということを理解していた。

 (あるいは幾つもの失敗をしてこそ、身体に染みつくこともある、とも)


 少女ルナーレは、二人の言葉に目をばちくりとさせながら、濡れた髪を掻きむしり、

後ろにまとめた馬の尻尾のような髮を揺らしていた。


 「何よそれ」

 

 「まあそういうこともある、というだけの話だ、うむ」


 未だ釈然としないながらも、しかし納得を得たのか、少女はとりあえず頷いて、濡れた髪を叩いていた。


 「終わったのかしら?」元令嬢は済ました表情ながらも、何処かホクホクとした印象を与える顔をしていた。

 

 「うむ」「ええ、お嬢さま」蟹と執事。

 

 「ッ…………そうね、悪いわね待たせて」

 

 いつのまにか汚れの消えた、黄金色の自慢の金髪を波打たせた少女の言葉に応えずレセは言った。

 

 「では行きましょう、立ち往生している暇はないわよ?」

 

 皮肉屋とも言えるレセだが、初心者の傷口に塩を塗るような行為はしなかった。

 

 蟹と執事、少女と元令嬢は、任務の遂行のため、街道を進んで行く。

 

 去り際の少女が、ちらりと猿の死骸を振り返り、己が蟻や蜘蛛よりも身近な形の命を

摘み取ったことを実感してか、僅かに瞑目し、己の手をちらりと見たことに、

 蟹だけが気付いていた。

 

 

 












 森林地帯は長い、木々の合間から抜ける残照を眩しく鋏を頭上に掲げる蟹。

 それに習うように手で太陽を覆いながら話す、少女と元令嬢の声が、ぽつりぽつりと響いていた。


 風の音。鳥の羽の音。何処かで木の実の落ちる音。

 間抜けな顔にも見える樹皮、それを覆う目の醒めるように鮮やかな緑陽の下、

汗を鬱陶しそうにルナーレは拭っている。

 

 日輪から漏れ出る日光は、忌々しいほどの活力に満ちていた。

 

 ルナーレは眩しさから目を細め、10cmほど長身のレセの顔を見るために、目線を上げた。

 

 「さっきの猿のことだけど」

 

 「……あら? 何か聞きたいことがありまして?」と冷たい印象を与える面立ちを崩すことなくレセが答える。

 高い鼻、彫りの深い顔つきに反して、繊細に整った目尻や眉尻、そして顎の造りが、美しい。

 

 釣り目がちながらも、感情をすぐさま表に出して、どことなく賑やかな印象のルナーレとは対照的である。

 

 そのレセの態度に、激しやすく冷めやすい性質のルナーレは、僅かにイラッ、としながらも言葉を続けた。

 

 「っ、……冷静に考えれば、数の上じゃこっちとあっちは大して違わないのにあの猿、どうして襲ってきたのか、って聞きたかっただけよ」

 

 「……そんなこと?」とレセの冷めた返事。

 

 「そんなことですよ!」結局我慢しきれなかったのか、少女の声が大きくなる。

 

 ちらっと蟹が、横を向きながらルナーレを見下ろすかたちのレセを見る。

 つんと澄ましたようにも見えるその顔が、皮肉気に、あるいは余り大きく感情を出さずに少女を見据えていた。

 ふと蟹はレセを見ながら思った。

 

 ――むぅ、……あれは、もしかして悪気があるわけではないのか?


 蟹がそんな馬鹿な、と言いたげに二人を見ていると、

少女と元令嬢の奧に見える老執事が、こちらに振り向いて、蟹と同じように二人の様子を見ていたことに気付いた。

 

 そして、蟹と執事の目が合う。

 

 ……

 

 …………

 

 その通りでございます、というように老執事が髭に塗れた口元に笑みを浮かべた。

 

 ぬう、難儀な性格の娘だな! というように蟹が鷹揚に甲羅を頷かせていた。

 

 蟹と執事の、奇妙な意志の疎通。

 木々に留まる鳥だけが見守るその何処か馬鹿らしい空気を余所に、その合間にも、少女二人はやりとりを続けていた。

 

 「……まあおそらく」

 レセは言葉を切って高貴さを漂わせる顰め面を作る。

 それなりに真摯に喋る内容を考えている証なのだろうが、なれないルナにはいきなり機嫌が悪くなったようにしか思えなかった。

 「そうね……あの群れは食料に困っていたのではないかしら」

 

 「……なんでそんなことわかるのよ」と少女は何処か訝しげだ。

 

 「群れの数を見れば分かりますわよ。

 最大で数十匹にもなる緑猿の群れにしては少ない数でしたわ。

 おそらく頼りない群れのリーダーに愛想を尽かし、群れから抜けた猿。

 あるいは他の群れとの争いで敗れたかしたのでしょう」

 

 「へぇ」と、元令嬢レセの思いもせぬ詳しい回答に、少女が目を丸くして、ぱちりぱちりとまなこを瞬かせていた。

 

 「ご存知でして?

 緑猿は盛んに共食いをして、群れ同士は基本的に敵対関係にありますの。

 雌を奪い合う習性もあることですし、群れに群れた緑猿の凶暴さは、上位冒険者でも手を焼きましてよ」

 

 少女は急に恐ろしさを感じたのか、周囲の森を見渡した。

 木々の木漏れ日と紫色の花、虹色の羽を持ったさほど大きくない鳥が、

まるまると大きくなった朱い木の実を啄む姿が目に入る。


 そのきょろきょろした姿を見て、元令嬢は、はっ、と鼻で笑う。

 それにむっ、とした少女が、慌てて元令嬢に視線を戻した。

 

 「危険じゃないわけ?」


 「大きな群れを作った緑猿は目立ちますからね、悪食な連中の通り跡、そして盛った鳴き声。

 すぐに討伐対象として駆逐されます。

 恒常的組合任務クエストに設定されていますから

ちょっとでも群れが大きくなったら、組合や政府から市内中に連絡状が張り出されることになっていますの」


 「へぇ」とエミダリ初心者のルナーレは、素直に驚きの表情で、

意外と付き合いの良いレセの講釈を聞いていた。

 そして田舎者らしい純朴さで頷いている。

 

 「でも意外ね」

 

 「何が?」寸前まで、どこか誇らしげに堂に入った講釈をしていたレセは素に戻ったかのような低いテンションで答えた。

 

 「……魔獣について、ってことよ、詳しいのね、あんた」

 

 「ええ、……まあ、私、学府では魔獣生態学と動物生態学を学んでいましたの」誇るでもなく、淡々とレセは言う。

 蟹もレセのその講釈を聞いていたが、人は見かけによらないとは本当のことだ、と感じ入っていた。

 

 「学んでいた? もう学んでいないの?」

 少女が人生経験の少なさから来る、愚かなほどに率直な問いを投げかけた。

 

 「……先日、自主退学しましたわ。

 授業料が払えなかったので」

 

 蟹が人間だったのならアチャー、という表情を作ったであろう。

 その代わりに二本の鋏を、黒目と黒目の間、人間で言うと額らしき鋭角の部分にのせていた。

 

 良くも悪くも感情が表に出やすい少女は、露骨にアチャーという表情を隠すことなく。

 

 じろり、という効果音が聞こえてきそうなほどに目を細めた令嬢の顔を見て、

己の素直さ気付いた少女が、慌てて表情を取り繕うも後の祭りであった。


 「あなた……」と言いかけて、レセは言葉を切った。

 

 何かを言い募ろうとレセが言葉を口内で吟味すると同時に、


――雰囲気が変わる。


 

 「っ……!?」

 

 執事が停止したことに気付いたのだろう。

 

 レセはすぐさま身を低く屈めたと同時に、細剣を抜き放ち、

腰を低く下げた姿勢で、右に握った刺剣を、胸の前で寝かせるようにして敵に向けていた。

 

 空気の変化を感じ取ったルナーレも慌てて前を向き、剣を鞘より抜くとともに、身体正面――正眼に構えた。

 

 緊迫した空気とともに戦闘態勢へ移行。

 

 執事が何も言わないところ見ると敵は前方にいるのだろう。

 蟹がそのことを裏付けるように、補足した。

 

 「……前だっ!」


 そして執事が横に退いて、敵の姿が後方の三名に把握できた。

 

 羽ばたき音と鏡の如く燦めく粉が舞っていた。

 

 それは蝶。

 巨大な蝶であった。

 

 白斑に黒縁が入り交じった両翼を合わせれば、横に2m近くはあるだろう。

 

 光の加減だろうか、形のよい、おそらく蝶の縮尺がもっと小さければ、素直に美しいと認めることが出来たであろう羽は、

降り注ぐ太陽光の加減か、鱗粉とともに虹色に光っていた。


 羽と同じように巨大になった頭は、しかしその縮尺を除けば、普通の蝶と変わらないだろう。同じように胴体部分も変わった様子はなく、

ふさふさと、こちらも虹色に光って見える体毛も変わらず備わっていた。


 体長の他、唯一違う部分はおそらく、そのストロー状の口部器官。

 しゅるしゅると肉色のそれが蠢き、てかてかと体液に濡れ光っていた。

 少女が一見して禍々しさを覚えた、鋭い先端の口舌だ。

 

 「バーシウム・アマートー!!」接吻を愛する蝶バーシウム・アマートー・パーピリオー

 と叫ぶのはレセ、射殺すような気勢を瞳に漲らせ、全身に力を充満させていた。

 

 構えた四者の合間を、じりじりと焼けるような緊張に満ちた静寂が包んでいた。

 

 「気を付けてくださいね、ルナさま、この蝶はッ……!」執事の言葉が途中で途切れる。

 

 その段に至って、蝶の艶めかしく蠢く肉器官/口吻が発射された。

 

 蛇のそれを思わせるような波状の形で、

先端が鋭く尖った脈打つ器官は、まさに発射と呼ぶのがふさわしい速度で空中を矢のよう進んで行く。

 決して常人には認識できない速度。

 

 どこかアリクイの舌を思わせるそれが、

一秒にも満たぬ内に、ルナーレの頭部に迫っていた。

 

 迫る肉色の矢、うねりくる攻撃を、

少女は本能の反射によって、僅かに首を傾げることにより回避する。

 

 しかし奇妙にうねり、伸縮と操作が自在かつ容易らしいそれは、少女の回避に動ずることなく、

そのままルナーレの頭部における柔らかな部分――口や耳、目から脳へと入り込もうと企んだ。

  

 前方、蝶と少女の間にはべる、老執事が、その飛び出た口舌を横合いから殴りつけていなければその企みは実現していたかも知れない。

 

 蝶の射出と同時に、老執事は反応した。

 

 蟹を信頼しながらも、念の為を思ってか、伸びきった蝶の舌を捉えて、左の拳をその肉管に叩きつけた。

 

 蝶が持つ唯一の攻撃手段は、繊細な操作と勢いを急激に失う。

 

 蝶は無表情ながらも、その鏡面的な、紅い結晶のような瞳には痛みの光が覗けた。

 そのまま大きく身震いして、肉管を跳ねさせ悶えている。


 「この蝶の接吻は、脳味噌を啜ります」

 

 蟹と少女に背を向けた形で老執事が、途中で途切れた言葉を、再び低く渋い声で繋いだ。

 

 その老執事の呟きと同時に、老執事のすぐ傍で、レセが大きく地面への踏み込みを放っていた。

 

 大地を踏み殺さんばかりの踏み込みは、下半身より大地に向けて爆発して、

そして得られた反発力、爆発的な勢いは、右腕、伸ばされた手首、慣性とともに進む細剣へと運ばれ、

大地よりポンプの如く送り込まれた力が最終的には刺突の先端に集中した。


 「ハァッ!!」と汲み上げられた力を腹の底より爆発させた、裂帛の掛け声。

 

 武術の基礎たる発気と同時に、レセはさらなる加速を行う。

 加速を生かし切るのは訓練された身体制御の体法。

 

 研鑽を積んだ闘法、その精妙なる技術は蟹をして唸らざるを得ないものであった。

 

 そして刺剣の先で一点に研ぎ澄まされた破壊力は、

レセよりも上方に位置する、バーシウムの脳天を容赦なく破砕した。


 

 ……

 

 …………


 

 「……油断大敵ですわよ?」

 

 そう呟いて、頭部を砕かれ胴体と羽を惨めに地面へと落とした蝶から、ルナーレへと目を移すレセ。

 

 ルナーレは遅れてやってきた死への心地。

 咄嗟に反応しながらも、未熟さから生じさせてしまった己の不備への怒り。

 さらには、救われたことへの安堵の念が奇妙に混合した複雑な顔をしていた。


 「っ、ありがと……」

 本当であったら、悪態や、強がりの一つでも吐きたい心持ち。

 しかし少女ルナーレは、思春期が生むようなそれらの痴態を表すことなく、感謝の念を、

顔を俯かせながらも、曇った声でありながらも、レセに向かって呟いていた。

 

 「…………ふんっ」と鼻で笑ったような、あるいは苛ついたような声を出してから、レセは言葉を繋いだ。

 棘のあるような、洗練された鮮やかなレセの言葉に、しかし険はない。

 

 「……まぁ、この魔獣は結構珍しいのですわ」

  

 不器用な主の言葉を継いで、老執事が言った。

 

 「このパーピリオーは、かつて上位冒険者昇格試験でも取り扱われたことのある危険な魔獣です」

 「ふむ、それなりの実力がなければ対処できないと?」

 

 蟹が少女に言い聞かせるように老執事に問い返した。

 

 未だ若さもあるのだろう、その歳を考えればしょうがないことかもしれない、

少女の精神的なうたれ弱さを知っている蟹の、精一杯の少女へのフォローであった。


 「全身の多くの部位が希少なのですわ、乱獲された今では絶対数の少ない珍しい魔獣ですわよ?

 とはいえ、稀にこうして現れるのですが」

 

 「ふむ、運が悪いのか、良いと言うべきなのか」

 

 蟹が鋏を広げ、いかにも適当な調子で言葉を作る。

 

 少女ルナーレは、案の上、足を引っ張った己の未熟へ精神的な気落ちを見せかけたが、

その色の褪めた顔色を必死に隠すような気丈さで、ぽつぽつと話し合う二人と一匹を見る。


 「……す、少し驚いたけど」

 

 「けど?」蟹が、そうこなくては、と少女を見た。

 

 「ま、まぁ、別に大したことない蝶だったわねっ!」


 強がりと矜持の高さが混じり合った、少女のその言葉は光る森の緑陽の中、強く響いた。

 頑張って取り繕ったことが見え見えの気勢、それに微笑ましさを覚える蟹と執事。

 つまらなさそうな、しかし顰め面の中に僅かな安堵を窺わせる元令嬢。

 

 無理矢理でも、気持ちを強く持つこと、そう在ろうとすることは悪いことではない。

 反省はすれど、心を殺すことなかれ、動揺から完全に逃れたとは言い難いが、その努力と意地は買いたい、蟹はそう考えて頷いた。

 

 「……ま、それならそれで、そろそろ進みませんこと?」と澄ました顔で、汗にへばりついた髮を梳かしながらレセは言う。

 

 「ふむ、そうだなせめて今日中には、山まで進んでおきたい」と蟹が続き。

 

 「……あたしたちは、今どのへんにいるの?」と少女が慌てたように続く。

 

 「まだ、エミダリから二時間ほど……、順調にいけばあと三時間ほどで山に着くことは間違いないですわね」

 

 

 巨大蝶の死骸が転がる中、臨時のパーティーは間に合わせではあるが、ある種の連帯感をもって、

少女を気遣うように、あるいは場の空気を整えるように、なんとなしに言葉を交わし合った。


 そして一同が再び、同じ陣形で場を離れようとした時に、未だ少し気落ちしたような少女が、

己に向かって、死の危険を味合わせた巨大蝶の死骸を見つめた。


 ……

 

 …………

 

 「どうした? ルナ嬢、食べたいのか?」

 

 「そんなわけないでしょ!?」

 

 「あら、凄いのね田舎の人って、私、虫って食べたことありませんの」

 

 「中々美味でございますよ、お嬢様」

 

 「食べないって!!」

 

 「ふむ、冗談はこれぐらいにしてな、どうしたのだルナ」

 

 蟹が下から覗き込むように、僅かに心配そうに顎をわしゃわしゃと開閉している。

 少女は嘆息して、本当に心配性というか、なんというか気遣いをする蟹だ、と内心思いながらも、軽く笑った。

 

 「そんな顔しなくていいわよ、ペンタ。

 そうじゃなく、その……さっき、希少って言ったわよね」

 

 確認するようにレセを見るルナーレ、レセは横に垂らした見事な縦ロールを触りながら訝しげに頷く。

 

 「ええ、言いましたわよ……状態のよいバーシウムなら金貨の一枚二枚ざらですわね」

  

 「……そりゃどうりで乱獲される訳よ。

 っと、つまり言いたいのは、この蝶、このままなの?

 何か取れないの?」

 

 ――あんた詳しいんでしょう? と少女が訊ねる。

 

 「……ふむ、言われて見ればな、どうなのだレセ嬢」

 

 先ほど猿の尻尾を切り取っていた元令嬢は、ただでさえ冷たく、冷たさを感じる顔を顰めるように、考え込んだ。

 

 「難しいですわね、落下の衝撃で羽はボロボロ、胴体は重たいですわ」

 

 「ふむ、肉管はどうだ?」

 

 「これが一番重いですわね、……あら? あ! 鱗粉」

 

 どうしてこれを見逃していたのか、そう背中で語りながら、大慌てでレセは屈む。

 そして元令嬢は懐から無地の布を取り出して、既にボロボロに割れた蝶の羽を破片を拭っていく。

 キラキラと光る、虹色の粉が鏡の破片のように、天からの光を跳ね返し七色に燦めいていた。

 

 手慣れた様子で、地面に落ちた蝶の羽にこびり付いている鱗粉を、布に擦りつけていく元令嬢。

 それを眺める少女は、そわそわと落ち着きがない。

 

 「……そんなの、売れるの?」

 

 「ええ、ルナーレさん、お手柄ですわよ。

 言われなければ忘れていたままでした、薬の材料に売れるのです」

 

 そうして布の表面に余すところなく、ガラス片のように光る鱗粉を塗り広げて、

それを何重にも折りたたみ、レセは小さな袋に入れた。

 そして立ち上がり、己の服装を確認して、少女と蟹を見て言った。

 

 「さて、出発しましょうか」

 

 済ました顔は変わらず、しかしまたどこか得意げな、臨時収入に喜びを隠せない顔でレセはそう言った。

 

 

 

 

 6

 

 

 少女たちの歩みは止まらない。

 

 エミダリ近郊、緩衝帯森林、あるいは森の帯とも呼ばれる地帯は、

エミダリアをさらに東に進んだ先にある<大森林>の、おそらく数百分の一にも満たない範囲である。

 大陸の二大大国アサンデルやゼ・ドルゲーに匹敵する程の広さを持つ大森林帯とは比べるべくもないが、

大陸中央の大都市近くであることを考えれば、驚くほどにその緑は濃く、そして広かった。


 少なくともたかる虫に少女がいらつきを隠せず。

 街道、踏みならされた地面に転々と日陰を造り続ける森の路には、時に鹿の糞、猪やら猿、もしくは魔獣の糞などが散らばり、

落ちた木々の小枝、嵐などが運んだであろう小石が、歩く者の脚に疲労を蓄積させた。


 少女ルナーレが、数週間以上も前に、村を出発して、それまでの人生で考えられないほどの、

多くの出会いと経験をしたことが幸いした。

 かつての少女では、歩き慣れていない路に、早々と疲れの限界を感じていただろうが、

今ではもう、するすると、その畳まれたような脚を巧みに動かし進み行く蟹と、同じようにこなれた様子で歩いていた。

 そのことに気付いた蟹は、かすかにほくそ笑む。

 人は自分のことにこそ、一番疎いもの、生憎と少女はその事実に気付いていなかったが、

濃厚な日々の生活が、少女にもたらした多くのものが窺えた。


 ――全く、順調に成長しているではないか! と蟹は顎を意味もなく開閉させてほくそ笑む。


 「ねぇ」

 

 「なんですこと?」

 

 清廉かつ活発な印象を持った金髪の少女/ルナーレが、よく手入れされた流れるように波打つ髮の元令嬢の少女(……少女? ともかく少女としておく)に話しかけた。

 

 歩く上では会話は重要である。

 時間が紛れる上に、相互に肉体と精神の疲れから気を逸らすことができるのだ。

 

 蟹は時折「おぉ見ろ、鳥さんだぞ!!」だの「おおぉ!! 見ろカラスアゲハだ!」だの

あるいは「むむ、木の幹に傷、熊か!」だとか「あの高い木の上にあるのメロンじゃないか!?」などと少女に話しかけてくるものの、

基本的には周囲の警戒に集中していた。

 (木にメロンはならねぇよ? と笑顔でルナーレは答えた)


 老執事もさして口を開くこともなく、自然、少女と元令嬢が話す機会が増える。

 

 「この街道を使う人って私たち以外にもいるのよね」

 

 「……そうですわね。

 多くが、おそらくはもう少し南の街道を使うことを考えても、まぁ……使う人は一定数いますわね」

 

 「その割には人を見かけないし、馬車とかも見かけないけど」

 

 「単純なことですわ、これが道である以上、戦いやら休憩やら足を止めない限りみな進んでいましてよ? だからそうそう出会うことはないのです。

 まぁ今日はまだ向かいから人が来てないので、それはそれで少し珍しいとは思いますけれど」

 

 蟹がぼうとして、飛び交う蜂やら蠅やらの羽虫に目を楽しませている間にも、そうした間話は続く。

 

 「やっぱ危ないから?」

 

 「まぁ、そうでしょうね、危険とは避けるべきものですわ。

 余程の事情がない限り、旅慣れた者ほど避けうる危険を避けましてよ? 

 ならば私たちが思っている以上に、この街路の治安は悪いのかもしれませんわね」

 

 「……大丈夫かしら」と少女が僅かに不安そうに言う、腰に帯びた剣の灰色鞘が、日光を見事に受け流し、

そこに溜まった熱が、少女の手の平に伝わった。

 が、一瞬の後で、少女はすぐさま蟹のことを思い出した。


 「ま、大丈夫よね」

 

 「油断は禁物でしてよ? ……まぁ、そちらのカニさんと私の執事がいることを考えれば、杞憂かもしれませんが」

 

 少女が頷いたあとで、また幾つかの質問をレセにする。

 

 やれ、その刺剣を使う技はなんという闘法か。

 やれ、では何故馬車を見かけないのか、などなど。

 レセの挑発的な、無愛想と冷たさの入り交じった雰囲気にも多少は慣れたのだろう。

時折、苛立ちを覚えながらも、数時間前の出会いの時に比べれば、二人の関係は良好だといえた。




 己の主たるレセは、その気位と育ちから、決して人好きするような性格ではないことを執事ウォルトンは重々承知していた。

 その主にとって同年代、あるいは年下の、さらにいえば自らよりも位階が下にある冒険者の少女と行動をともにすることは決して悪いことではないだろう。

 少なくとも誤解を招きやすい表層の下にあるレセの性格は、実のところそう面倒見の悪いものでもない。

 相互によい影響を与え合うような関係になればよい、とウォルトンは思う。


 ――おそらく、あの蟹の御方も同じように思っているのでしょうね。

 

 そう考えて、執事は、背後にいるだろう蟹を思った。

 

 恐ろしいほどの速さ、そして判断力。

 

 相当の修羅場を潜り抜けてきた魔獣。それがウォルトンの蟹への印象であった。

 

 執事の長い人生において、知能を持った魔獣との出会いは珍しいものでもない。

 それでも、己の人生の終期に出会ったこの蟹は奇怪だ。

 

 ――しかし愉快でもあります。

 

 時折、冗談を交え、やけに高いテンションで「おぉ!」と歓声をあげる素直さに、

世界の情景、自然と生命を老父のように慈しみつつも、とても珍しいものを見たように素直に楽しめる気性。

 何故か執事にむかって、鋏を振ったあとに、その場で高速回転するという奇天烈な行動原理。

 それら全てが合わさって、どこか独特な雰囲気をウォルトンは蟹に感じていた。

 

 長き生、おそらく幾つもの修羅場を越えてきたであろう相手へのそこはかとない共感と、

そしておそらくは己よりもなお長く生きてきたであろう存在への素朴な敬意の念。


 最初はどうなるかと思ったが、得るモノの多い、実り多き仕事になりそうだと、今では思っていた。

 そうしてウォルトンが、半ば自動的に周囲を警戒していると、

ふと視界、視界の先の先、遠く道の消え行く境の地点が、緑から茶や、砂色に切り替わって見えた。


 「皆さん」

 

 「なに?」「なんですの?」

 

 「おおぉ! あれか、あれが蜂の巣か!!」

 

 「森の終わりですよ」

 

 「……っ!」「やっとですのね」

 

 「おおおおぉ!? 見ろ! 見ろルナ、梟のつがいが眠って居るぞ!!」

 

 「あんたいい加減にしてくれるっ!?」

 

 冗談だと言うように、蟹は鋏を振った。

 黒目は変わらず、道の外――横歩きゆえに仕方がない。

 ともあれ、相も変わらず泰然自若といった蟹の様子に、少女は嘆息と苦笑を禁じ得ない。


 レセは己よりも少しばかり下にある少女の頭に、同情の念を送った。

 

 「緑の匂い、草の匂い、若葉の香り、土の匂い、全ての腐ったものが還り行く土の香しさもいいが、

 雄大な岩と大地の結晶たる山は、それはそれで素晴らしい」

 

 「山とはいっても大したことのない、丘の延長線上みたいなものですわよ?」

 

 レセの補足に、意気揚々と言葉を口ずさむ蟹は、しかし動ぜず。

 

 「小山はピクニックの舞台としてはちょうどよいからな!」と道の変化を楽しげに受け止めていた。

 

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 道の変化、傾斜の変化は如実に表れる。

 僅かに、崖と、段差のようになっている砂と、乾きの印象を与える岩山が、一種の明確な境となって、

そこより先から急激に緑を減らしていた。


 もちろん木々は茂り、草は生え、ふとみれば高いところや岩の上、石の合間には青く若い緑と色鮮やかな花が居を構えていた。

 

 傾斜、石、砂、土の色の変化、岩、そして森とはいえないが、絶えることのない樹木の群れ、

それらが視界を攪乱して、奇妙な旅愁を歩く者たちに与えているのだ。


 「西エミダリア丘陵」

 

 「山なのに丘陵?」

 

 「丘陵と見紛うほどの山ということですわ、とはいえ丘陵よりは全然高いのですけれど

 まあ、何を考えて古人がこの名前を付けたのか、私には分かりかねますわね」

 

 「……おそらくはくだらない理由だろう。うむ、なべて世は驚くほど単純に物事が決まる」

 

 「知ったような口で、よくもまあそこまで堂々と言えるわね、ペンタ……」

 

 「知っているからな! 事実さまざまなことを」と蟹は意味もなく誇らしげであった。

 

 歩く一同は、しかし今はその歩みを止めていた。

 

 一時の休憩である。

 

 緊密に神経を張り詰め、何が潜んでいるのかわからない森を超えた一同は、

各々用意した食事を口に、歩く最中にもこまめに補給していた水を、少し多くその口に含んで、

初春がかかせた、思わぬ汗の量に対抗していた。


 用意された食事――キュウリの酢漬け。

 蟹と少女が一度自宅に帰ってから事情を聞して、それを受けた侍女ケントゥムが急いで用意した、甘めの香辛料が絡んだ鶏肉のサンドイッチを頬張った。

 急ぎのためだろうか、何故か少女にしかサンドイッチを用意せず、鉄面皮の侍女から蟹が受け取ったのは僅かな干し肉という事実が蟹に釈然としない思いを抱かせていた。


 釈然としないまま口の中で干し肉を噛みしめ、【力】を使いながらそれを栄養素に消化していく蟹は、

偉大な蟹である。

 とはいえ蟹であることに変わりはなく、その食事を幅を広げるためには努力が必要なのだった。

 (努力のかいあって、蟹は、蟹の分際で結構なグルメである。

 肉、野菜、魚介類に、様々な調味料、穀物の類、そして同族である蟹まで、なんでもおいしく頂けるのが蟹の密やかな自慢である)

 

 さて、平和な一同の休憩は、突如として破られることとなった。

 少女がサンドイッチの最後の一片は咀嚼して、肉汁の付いた指までこれ見よがしに舐めて、蟹を悔しがらせたあとに、

執事と蟹が、言葉を止めて、おもむろに立ち上がったのだ。


 執事の穏やかな瞳が、今はつがえられた弓のように細まる。

 そして強い眼光とともに少女たちがこれから登る山の方角、

正しく言えば、山の方角の内、道から外れた方向、木々と岩が入り組んだ地帯へと向けられていた。

 

 それに気付いた少女と令嬢は、慌てたように蟹の後ろや、近くにあった小さな岩の陰に隠れる。

 

 「九、一〇以上は……いや、もっといるなそれと……別に三匹か」と蟹の報告が響く。

 おそらくは気配で察知したであろう、その情報を訂正することなく執事は頷く。

 

 少女はごくりと息を飲み、元令嬢レセはもの問いたげに目線を執事に向けていた。

 

 蟹は少女の外套を引っ張る。

 「伏せろ」

 と言われて少女は蟹の陰で縮こまるように身を伏せた。

 

 岩肌に息を潜ませたレセは、岩の上に仁王立ちをしている執事に向かい我慢出来ずに声を上げた。

 

 「何が来てますの!?」

 

 「……亜人だろう」という蟹の言葉に、「ええ、おそらくは犬人か狼人、それも知能の低そうな……」と執事の答え。

 

 そうして正体が説明されるやいなや、遠くから遠吠えが聞こえてくる。

 

 尖兵としてこちらへと駆けてくる凶暴な動物――黑い毛並みの、涎を垂らした牙持つ大型の犬――が三匹こちらへ向かって走ってきていた。

 

 「むぅ? これは中々……ルナーレ!」と蟹が声を張り上げる。

 慈愛に満ちた、強さと確信に満ちた声。

 庇護者として自負が芽生えた蟹の声。

 

 「俺を頼れ、俺を信じろ、さあ! 戦いだ!!」

 

 少女は当然のことだというように頷いて、蟹の背後から来たる敵を見据えるのだった。

 

 

 







 

 列伝

 

 『黒陽』シュテッツェ

 

 タレンコイア山稜、ティンダロス連邦出身。


 黒みがかった鱗が特徴のリザードマンであり大法器【黒陽剣】を駆る歴戦の傭兵。

 金銭に従う傭兵として多くの国に雇われ、『有角姫』ネーベンハウスの『英雄進撃』において度々衝突した。

 

 卓越した闘法、数多の戦場を越えた経験も特筆に値するが、何よりもおそるべきは【黒陽剣】の破壊力である。

 その瞬間的攻撃力は『有角姫』以下九烈士の心胆を幾たびも寒からしめ、命の危機を作りだした。

 およそ単純な破壊力、一点における瞬間的な攻撃力において儀式大家【黒陽剣】に並ぶものは地軍においてもなく、

 『有角姫』の愛刀【細雪】の解放も、そして『黒』ゼバレフ・ガガーレンの山羊頭の侵食さえも【黒陽剣】には一歩譲らざるをえない。


 数人以上の烈士を駆りだして対策に当たらなければ到底防げぬその威力を『有角姫』が忘れる筈もなく。

 地軍の結成後、シュテッツェはすぐさま雇い入れられた。至上まれに見る賃金であったと噂されるも、詳細は残っていない。

 

 天上戦争においては総合的な高い戦闘能力以上に、戦略的兵器として幾つもの危機的局面を打破し、数々の敵軍を破壊に導いた。

 高位神『虹』エルロを含めた三神を打ち破り、地軍においてなくてはならぬ戦力であった。

 

 現在は幾つかの任務に参加後、どこかの島で余生を過ごしている。

 新暦においては『神の従者』の位階、傭兵と戦争の守護者の一人として一部で密かに信仰される。

 

 

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