前編:仕事と仕事、お花屋さん、ある種の邂逅
後編は近日中に、なんとか。
投稿する度に一話の長さが膨れあがるのはどうればよいのか
1
夢とは奇妙なものである。
あるように感じられるのに、しかし、ない。
それは郷愁と懐古の煮詰まったスープを飲むことに他ならず、
そしてそのスープはもやのように白濁としている。
蟹が見るのもそのような夢。
一瞬の内に、遙か過去へと旅立つ意識が見せる一瞬の幻像。
蟹の巨体が未だ健在だった頃の幻影。
――その館の如き青銅色の巨体が、日に照らされ、偉容とともに鈍く輝いていた頃の夢。
まるで天日干しされているかのように、その巨体を畳み、大きくクリクリとした黒い眼だけを輝かせる巨蟹デンザロス。
彼が見るのは、眼の前で繰り広げられる、ささやかな大騒ぎ。
武具と武具、肉体と肉体のぶつかり合い。
幾多の緑に囲まれた『大亀』の甲羅上。幾つもの館と工匠。図書館の並ぶ本拠地前の広場。
そこで繰り広げられる試合。
いや正しくは、
既に間近に迫った来る戦いに備え、技を磨き、その緊張感を絶やすことないようにと勘案された試合形式の訓練。
しかし蟹はその訓練に参加することはない。ウェイトが違い過ぎるのだ。
それを不満に思いながらも、くりくりとした黒い巨眼によってその訓練を、いっそにこやかに見守る。
己のハサミ程度の大きさしかない、しかし侮ることのできない同志たちの、武の饗宴。
それこそ菓子をつまみながら、剣闘士の死合うさまを興奮の面持ちで見やる貴族令嬢の如き優雅な心持ちで、
同志たちの奮闘を見る。
それは参加できないためがこその暇つぶしでもある。
蟹の巨体の上に己を植えた『艶華』が目下の乱痴気騒ぎを観劇するのも同じ理由からだろう。
妖艶な魅力を湛え、風を感じながら何処か退屈そうに、しかし気持ちよさそうに目を細めている色香。
いっそ忌々しいほどににこやかな太陽の光。
まるで絵画のように作り物めいた白い雲と青い空。
茹だるような熱気、夏の暑気、館の空調(マッフ機巧による、世界初の全館自動空調!)を頼りに多くの仲間が、
部屋に籠もってこの熱気をやり過ごそうとするのもしょうがないことに思えた。
外に出ている者たちは、しかし熱気など眼にも入らぬというように、試合形式の訓練に集中している。
「猫はどうした、小鬼は、」
「部屋で休んでいるんじゃないのかな~」
「……ふむ、気持ちはわかるがな、あやつらめ、このような日和にも外に出てこないとは……全く、腐っているな」
「……ねぇデンザロス~、あなたね、そんなさも「心頭滅却すれば火もまた涼し、籠もっているやつは根性が足りん!」
みたいな顔してるけどぉ、自分の身体が館に入らないからって、やっかんでるだけじゃないの?」
「…………むぅ、……そ、そのようなことはないぞ?」
「ねぇ~、そんなに大きな身体してたらねぇー、その身を優しく包んでくれる木陰だってないもんね!」
「くっ、他人事だと思って、これだから植物系は……っ!!」
――光合成、サイコー ……羨ましい~?
――ふむ、俺の甲羅から即刻、降りてほしくなったぞ?
二人のやりとりもなんのその、そんな麗らかなやりとりの合間も眼下では、
何人もの仲間たちが、広場を囲むように円を作り、その円の真ん中では、二人の仲間が常に鎬を削っていた。
純粋な肉体のみを使った技稽古、近接戦闘を嗜む多くの地軍の面子が参加している。
既に数ヶ月のちに迫った大儀式に備えての、必死と懸命の努力。
「でもぉ、いつもどおり姫は来てないねぇ」
「……まぁ、姫だからな、こういった土臭いのは好みでないのだろうよ」
赤とも桃色とも言えぬ植物質の髪を陽に輝かせ、
頬に手を当てた状態で目を細める『艶華』クワイネリー。
豊満な肉体を覆うのは僅かな草の葉、そして花の芽、足の先は緑に覆われ、さらにその先は根となり蟹の甲羅に根付いている。
太陽を睨み付ける蟹は、目前で轟音とともに吹き飛ばされた『勇者』シェンペルを見る。
シェンペル――凄まじい勢い、加速、空中で高速錐揉み回転。
そのまま太い幹の木々立ち並ぶ区域へと吹き飛ばされてゆく――『勇者』
そして響く轟音。圧壊音、木々のひしゃげる音。
……
…………
「ガンジットには容赦がない」
「え~、 ……あれ、死んだんじゃない ぴくりともしないよぉ?」
「……まさか!」
と言いつつ、蟹は『勇者』からそっと視線を外した。
集った『鴉』や救護隊でもある『智慧』キュリエルが何事かを叫んでいる気がしたが、気のせいだろう。
担架とともに運ばれていく『勇者』の姿を見送る数人の仲間たちの冷や汗が見えたような気もしたが、気のせいだろう。
そして僅かに静まり返る広場。
……が、数秒の後、時間が惜しいとでも言うようにすぐさま次の訓練者が円の中央に立ち現れた。
勝者は残り、敗者は円に戻るという形式。既に訓練は六時間目に突入していた。
「『公爵』5、『竜人』『闘士』『勇者』3か、オッズどおりだな、うむ」
「えぇ! ガンジットちゃん~、もう少しがんばって~!」
「だが、大番狂わせもある」
「……ん、リーリアちゃん可愛いねぇ~。 4勝なんてぇ、初めてじゃない?」
「うむ、ここに来て中々大したものだ『騎士』殿『白焔』『老師』『首なし』を降すとはな、ふむ」
言われ『艶華』は、
黄金に輝く髪を風に靡かせ、柔らかく滑らかな白い肌に玉のような汗を浮かべる少女を見る。
蟹も満足そうに、少女――眼の前で起こっている戦いの全てを、驚嘆すべき集中力で見つめる『吸血鬼』――を見て、その甲羅を頷くように揺らめかす。
「ここに来て化けたのかもしれんな?」
「いいじゃない、焦って焦って悩むリーリアちゃんもねぇ、可愛いけどさ!
ああやって努力の報われた彼女だって綺麗よぉ~」
「ふむ……いつになく優しい言葉をかける」
いつも浮かべる、どこか陶然とした妖しい微笑みとは違う。
まるで我が子を見守るような、慈悲深い、からっとした微笑みを見せる『艶華』。
彼女が何かを言おうと口を開いた直後、
『竜人』ガンジットが『黒陽』シュテッツェに降されたらしく、興奮の声が上がる。
白い長髪をお下げに括って、歳に似合わぬその体躯を震わせ、いつもは好々爺めいた笑みを浮かべている『老師』さえも唸り声を上げていた。
およそ身長2mと半ばほどの巨躯を持った黒鎧のリザードマン、『黒陽』の妙技が冴え渡ったのだろう。
いかにも悔しげに、忌々しいという様子で、その刺々しくも荘厳な印象を与える棘飾りを震わせ、
蜥蜴にも似た口から気息を吐き出すガンジット。赤い舌が興奮でちろちろと揺れて、瞳が弓のように鋭く引き絞られていた。
黒鎧に身を覆った『黒陽』の誇らしげな様子。尻尾がぶんぶんと揺れていた。
「楽しそうねぇ!」
「戦士というものは、闘争を求める本能を持つ……らしいからな」
蟹の言葉にどこか誇らしげな様子が滲む、そしてまた僅かな悔しさも。
黒々としたミニチュアめいた眼にはじりじりとした熱が浮かんでいるように見えた。
「デンザロスぅ、参加したいの~?」
「…………うむ」
――正直な蟹ねぇ
――これではな、正直なところ生殺しだ。こんなにも面白そうなものを見せられてじっとしているなど。
朝、暁光の出るが早く、夜、黄昏の入るが長い。
遠く蝉と鳥の鳴き声が聞こえ、眼下の喧噪はなお高まるばかりであった。
夏の日射しに照らされて、蟹の青々とした甲羅は青銅のような輝きを放っていた。
しかし夢は、そこで、唐突に醒める。
奇妙な楽しさを胸に思い起こしつつも、醒めていく意識。
韜晦は許されぬというように、記憶の映写機が止まる。
この後に予定されている。
ガル老とリーリア嬢の戦いを再び見られぬことを僅かに悔やみつつも、
蟹の君は楽しい現実へと帰っていくのだ。
2
大都市エミダリには貴族の館が多い。
そもそも世界の中心であった永い歴史。
現在も世界各地にある組織の本拠地が集まり、国々の外交官が駐在する晴れやかなる都。
大いなる悪意を大地の底に潜ませていても、この都市の栄華に変わりなく、
世界の中心にある立地もまた交易を盛んにさせる。
そのためか、広大な都市空間、多くの路地、多くの区画に、古い荘厳な屋敷。
100を越える建築様式――東洋風、古代風、未来風、南海式、新古典式――の館が立っているのだ。
エミダリ中央区、南東。
東区に程近く、また南区画との境界でもあるエミダリ大川にも近い立地。
古い建築物の立ち並ぶ区画。
数多くの冒険者や商人が歩みを交わすエミダリに似つかわぬ静けさに囲まれた区域。
その区域に立ち並ぶ無数の館の一つ
――およそ築500年は経っているだろう由緒正しい貴族館。
年代を感じさせながらもどこか高貴な佇まいのその屋敷。
その前に一人の少女と、一人の老人が立ち竦んでいた。
「とうとうこの時が、来てしまいましたわね」
黄金に輝く髮を掻き上げ、そして何処か楽しそうに、また、何処か嬉しそうに少女が笑う。
「ええ、お嬢様」
白い髭を蓄えた壮年と老年の境にいるようなタキシードの男が追従する。
気品に満ちた佇まい、行動的ながらも質の良い生地。
素材学の権威A・ペルトレイン工房の新作であることが窺われるドレス風ジャケット。
黒い布地のキャンパスに、丹念に手入れが施されたであろう白髮が、鮮やかなコントラストを作る。
その執事に傅かれた、いかにも貴族というような少女は、狼のような印象を与える強い瞳に
喜色だけでなく困惑をも滲ませていることが窺えた。
「……で、どうすればいいのかしら、これから」
背筋をぴんと伸ばし、穏やかな白い髭を撫でて、誠実そのものと言える態度の老執事。
「これからのために、不肖この私めがお嬢様に技をお伝えしたのですぞ」
「ふんっ、……いいえ、違うわ爺、生き方は既に決まっている。
……だからそのことではないの。
…………もっと実際的な問題があるのではないこと?」
今更気付いたことを悔やむように、僅かに陰のある表情で、少女は執事に手を向ける。
「……と、いいますと?」それに執事は首を傾げて応える。白い髭がとぼけたように揺れた。
睨み付けるように、気の強そうな表情のまま少女が嘆息する。
「……わたくしを試しているの、爺?
……いいでしょう、簡単な話ですわよ。
私がこれから何処に住み、何処に寝室を求めればよいのか、
わたくしが言いたいのはつまり、そういうことです」
長い金髪を後ろでまとめ、幾つかを縦ロールとして横に流している少女。
誇らしげに、胸を張り、懸命に、自らがこれまでの人生で暮らしてきた屋敷を見ている。
悔しさと晴れやかさが表れた顔色には、しかし僅かな悩みの色も浮かんでいた。
隣にいる爺と呼ばれた執事は、長年使えてきた貴族家の没落、それがここに決定的になったにも関わらず、
日頃からの堂々たる態度を一切崩さない主を誇らしげに見つめていた。
そこに漂う微妙な空気。
「……これはうっかりしておりました。
この爺としたことが、……ええ、修行に精一杯でまさかそのようなことを忘れているとは」
「どうだか……貴方のことだもの、これもわざとかもしれないわね。これも試練ってね。
……ともあれ、まずは仕事を探しましょう。
酒場に向かいますわよ、いいかしら爺?」
「お嬢様のお言葉に従うまでです」
そうして、数百年続いた貴族家が、その没落をここに決定的なものとした。
――不況。懇意にしていた迷宮軍の一派が没落したこと。姻族による汚職の発覚。
やぶれかぶれの先物取引の失敗。そして蒸発した両親。
自らを一人守り、育てた爺。
健やかにして、上品な物腰を持った一人の少女は、腰に吊った細剣を撫でながら、
振り返ることなく目的地へと向かうのだった。
3
新暦1623年、知恵(5)の月、八日、第二週、一の曜日
その日、日課のランニングと、幾つかの修行を終えた蟹と少女は、市街を歩いていた。
今日も今日とて依頼を探すために、そろそろ馴染みつつある白シャツ亭へと足を運ぶ。
背中の荷袋には、水筒と、侍女ケントゥムお手製サンドイッチ。
硝子細工のような無機質な瞳が、少女をじつと認め、いってらっしゃいと告げる。
これがここ最近の、蟹と少女の日常風景であった。
ちなみに海月はいない。
修行が終わると同時に、散歩が趣味の彼は、
今日も今日とてふよふよと、そのクリスタルめいた身体で市内へと消えていった。
いかにも自由気ままというような風情であった。
清々しい表情で石畳を歩く少女。
蟹は隣で陽気に、鼻歌なんぞを歌っている。
シャキン、シャキンシャキン、と鋏でハイテンポのリズムを刻む。
くるくる回る蟹の姿は、ここ最近の下町名物になりつつある。(珍景ともいえるが)
少女は、蟹から贈られた、無骨なごわごわとした外套の暖かみを感じながら、
――今日はどんな依頼かしらね と心に思った。
少女のここ最近は、鍛錬漬けであった。
が、勿論それだけで時を浪費していたというわけではない。
同時平行的に、幾つかの依頼を受け、冒険者としての仕事をこなしていた。
――例えば、数日前には僅かな運賃での市内の荷物運び。
そも、荷物を運ぶということには、信頼が必要である。
ちょろまかされることのない運び手であるという証左はどこにあるのか?
これもまた冒険者としての位階、としか言い様がない。
多くの冒険者の信頼を得、そして幾つもの依頼者や商店からも信頼されなければ、
その位階を上げることなど叶わない。
逆説的にいえば、位階とは信頼の度合いである。
払う金に余裕があるのならば、多くの市民は、Eランク、つまりは下級冒険者以上の冒険者にそれを依頼する。
時には遠方の地へ、時には他国へ、依頼料とともに荷物を運ぶのも、
冒険者がよく依頼される仕事なのだ。
旅には危険が付きもの、魔物、怪物、魔獣、夜盗盗賊の類など、その危険はかくも多様である。
キャラバンに移送して貰うこともできるが、割高である反面、
冒険者などは実力と速度に優れる。そのためによく利用されていた。
荷運びだけでその名声を高めた最高位冒険者『運び手』ブロッケンハウスなどもその例に漏れまい。
少女が受けた依頼もまた、そのようなものであった。
とはいえ初心者冒険者に過ぎぬ少女。
最底辺の位階では基本的に低い依頼料で、主に市内での運送を行うことが多い。
頼れる白シャツ亭の筋肉店主の紹介により、
日銭に余裕のなさそうな主婦のティーカップを、北地区北東隅に住む母親へと運んで欲しい、とのことであった。
市内とはいえ、ここはエミダリ、隅から隅への移動に何時間もかかるような大都市においては、
その移動を金で買いたい者にも事欠くことはない。
初心者冒険者として、受けられる仕事を選んでいる暇はない。
ということで、早速ルナーレはそのティーカップの入った箱を蟹の背に括り付ける。
「いい? 絶対に揺らさないでね、変な風に踊らないでね! 絶対、絶対だからねっ!」
「む、むぅ、そう言われると脚と鋏がむずむずしてしょうがないぞルナーレ!」
少女は顔を顰めた。蟹は冗談だと言って、悪びれずに鋏で出発を促す。
とにもかくにも、そうして人々の喧噪を踏み分け、人混みの中、新たに赴く地区・区画に目を輝かせる少女。
落ち着き無く鋏をカシャンと言わせつつ、塗りたくったような黒い瞳で、微笑ましそうに少女を見つめる蟹。
大きな甲羅、青く広々としたスベスベとトゲトゲの混ざり合った甲殻に荷物を載せて、蟹と少女は進む。
初心者冒険者にとっては市内運送のような、子供でも出来る仕事にもそれなりの意味がある。
それは些細なところから信頼を勝ち取る、というような意味でもあるが、
なによりもエミダリという広大な都市のその地理、その空気により詳しくなれることが大きいだろう。
日頃、機会がなければ人は中々遠くまで行かぬもの、一度住み着いてしまえば同じ市内とはいっても訪れる機会の少ない地区とは生まれるものだ。
探検気分で、人混みを押し分けて、多様な人種と種族を横目に、少女と蟹がどことなく楽しげなのもそれが理由であった。
例えばこんな、
「む? こんなところに隠れ屋台があるぞルナーレ!」
横ばいに進む蟹が、路地裏にある店を発見する。
といった出会いにも事欠かないのだから。
「……あっ、本当」
村娘らしからぬ、さらりと流れる金髪を揺らして蟹に相槌を打つルナーレ。
目が心なしか輝いて見える。
「ふぅむ、羊の串焼きか?」
「羊肉かぁ、おいしそうね」
「値段は?」
「……銅貨4、結構安いわね」
悩む少女に向かって、蟹は悩むな悩むなというように鋏を交互に振りながら、少女の尻を叩く。
少女は溜息を吐いて、結局串焼きを購入する。
近くを通りかかっていた何か魔族らしき角の生えた親娘が、
「あァ~、見てママ~、かにさんが何か食べてる~」
「あらァ、何か食べてるね」
ここで蟹がこれみよがしに、鋏に挾んでいた串焼きを天に掲げてから、さも美味そうに口に運ぶ。
うまい! うまいぞルナーレ! と騒がしい。
大きな顎に、串ごと羊肉が放り込まれ、蟹はうまうまと頷いた。
……そして魔族の少女をちらっと見つめる。
「!! ねぇ! あれ! わたしも食べたい!」と幼女は反応し、
「えぇ、どうしようかしらね~」
「たーべーたーいー!」とその青みがかった肌をスカートから覗かせて、地団駄を踏む。
困ったように笑いながら、母親は頬に手を当てて、少し考える素振りを見せながらも、結局は
「う~ん、もう、しょうがないなぁ」
などと言い、娘を連れて屋台へと向かった。
そして店主に向かって鋏を軽く振る蟹、瞳にはどうだ! と言わんばかりの光。
無骨そうな店主は、腕を上げてサムズアップした。
苦笑と呆れの入り交じった表情のルナーレは、なにこれ? という表情で事態を見つめていた。
そして最後に、「串は吐き出しなさいよ……」と呟いた。
と、まぁ、こうした人間的交流が街のあちらこちらで味わえるのだ、
依頼料と信頼以上の価値がそこにはあり、なによりも楽しみがあった。
そして、少女は特に何事もなく荷物を運び終え、
そのまま鍛錬も兼ねて、裏通りを蟹と一緒にランニングにしながら帰宅したのだった。
こうした些末な依頼は絶えることがない。
またある日には、代書をした。
村長の義娘であった、ルナーレは歳の割には平均より高い教育を受けており、
大陸中央方言の簡易な代書が可能であった。
文字を読めない、あるいは書けない人物は多い。
教育を受けられる、受けられない立場、あるいは階級というものは厳然と存在する。
有力な冒険者であっても、あるいは高名な冒険者でも字を読めない者はいる。
そうしてルナーレは、広場の片隅にあった掲示板で、19歳の若手冒険者の【手紙の代筆を頼みたい】という依頼を受けた。
5歳ほど年下の少女に字の代筆を頼むことに、まだ若い黒髪の冒険者は、少し恥ずかしそうな、はにかんだ照れ笑いを浮かべていた。
聖典読経や、塵拾い、市内における荷運びの手伝いなど、雑用めいた仕事は無数にあり、
少女は、それらの下積み仕事をどうにかこなしているのだ。
閑話休題。
ともあれ、こうして日々を過ごす蟹と少女は、派手さはないものの充実した毎日を送っていた、と言えるだろう。
が、しかし、
青くなめされた甲殻に陽光を反射させた蟹がおもむろに項垂れた、こともまた責めることが出来ないだろう。
少女は蟹の急激な変化に目を白黒させている。
蟹に覇気が、なんというかこう、覇気としかいいようのない何かがないのである。
「どうしたの、あんた?」
と如何にも適当なルナーレの声(蟹に何度も騙されたおかげか、ここのところ対応は大分おざなりになって久しい)
応答を返すように、蟹はシャキン!! と必殺の鋏を高らかに鳴り響かせる。
「……暇だ」
「は?」と少女が蟹を見る。
「依頼が、だ」蟹は、鋏を振りながら、まるで人間が指を振るかのように、少女を挑発した。
「そりゃまぁ、そうかもしんないけどさ……」
蟹は歩く少女の前に一瞬の内に移動して、
くりくりとした印象を与える瞳に光を湛えて少女を見上げる。
「いやな、堅実な日々の積み重ね、そして忍耐こそが我らの歩くべき道というのはわかってはいるのだがな。
うむ、なんというのかな、ルナーレ」
「何よ」
「……暇、なのだ、いや、勿論、出会い、新たな生活。
俺の経験したことのない生活、発見の連続ではある」
「なら、いいじゃないのよ」とルナーレは首を傾げた。
「うむ、そうなのだがな。
暇……と言えば語弊があるかもしれん。
こう言うなれば」
蟹は、出てきそうで出てこないニュアンスを探して、ああでもないこうでもないと鈍い青色鋏を振り回し、
少女は胡散臭げにそれを眺めていた。
「言うなれば、なによ?」
「……こう、上手いことには上手いが、毎日同じ系統の料理を出されれば飽きが来る、とでも言えばよいのか。
なんというか毎食シチューだと、具が違っても、結局シチューじゃないかっ! ということになるというか。
つまりは、うん…………そういうことだ」
蟹がどこか恥ずかしげに、甲羅の上を鋏で掻き回していた。
少女は、少し考え込んで、そして、蟹を見据える。
「……まぁ考えて見れば、
あたしには大変でもアンタには刺激が足りないってこともあるわよね」
「うむ、そうだ、それだ、そういうことが言いたかったのだ、うむ」
ほんとかよ、とルナーレは思った。
蟹が少女の心を読んだようにおもむろに停止した。
急に立ち止まった二人に対して後続の歩行者が恨みがましい視線を送っている。
そうして蟹は、鋏を掲げ、開いた状態で少女に見せつける。
この行為に一体なんの意味があるのか? と少女は疑問に駆られたが、
とりあえず鋏を見る。
……
…………
ノコギリのような刃と、鋭く研がれた名刀のような刃が合わさった危険な鋏であった。
「あんたの鋏って、こうやって見ると……なんというかこう、怖いわね」
「ふふん、そんなに褒めるな」
「褒めてないけどね?」
「まあ、些細なことだ、そしてなルナ」
「何よ」
「今日辺りは、何か起こりそうな気がするぞ?」
そしてそのまま蟹は前に向き直り、
中央区に幾つかある小広場の一つに着いたことを知った。
鋏は何の為に見せつけたのだろうか、この甲殻類は、と思いながら少女は聞いた。
「何が起こるってのよ」
「スパイスの利いた料理が…………食べられそうな予感がするのだよ」
突拍子もないことを言い合いながら、一匹と一人は歩みを進め、
気がつけば東方小広場、中央区民には大噴水と呼ばれている、小広場へと到着していた。
噴水、その荘厳な水の賑やかさ、その溢れる水細工の中央には、
壮麗かつ繊細な至高神ネーベンハウス像がある。
蟹は、その像の豊満な身体、黄金比率そのものともいえる腰のくびれや太股と脚の均整。
どこの女神かと思われるほどの慈悲深い顔つき、大人びた天使の美貌を見る度に、
(……だれだ? この……なんというか、……だれ?)という念に駆られてしまう。
そして噴水を囲むように大小の市が立ち、屋台が立ち並ぶ。
(基本的に市や屋台とは店ごとに場所と時間が決まっており、当局から発行される認可証が必要である。
朝昼の東方噴水小広場における屋台は激戦である、交代や資金などがものを言う面もあれば、
完全公平性の市場もある、が、少女ルナーレと愉快な甲殻類は詳しくは知らない)
「あ、あれって」
広場に入った少女と蟹は、何かを見つけたのか、一点を驚愕と戦慄の念で見つめていた。
「う、うむ、俺だけにしか見えていないのならば、
見間違いかとも思ったのだがな……むう」
見れば視界の先、花を売っている屋台の軒先に、
全身に花を突き刺して、ふよふよと浮かび、回転し、上昇下降を繰り返す、得体の知れない実験的彫刻が存在した。
その一種異様な活動オブジェは、一際道行く人々の目を引き、
隣の屋台で野菜汁を飲んでいた若い女性など、見かけた瞬間に鼻から汁を吹きだしていた。
空を滑空するように飛んでいた有翼人の冒険者らしき男は、それに気を取られて危うく建物にぶつかりそうになっている。
賑やかな喧噪、騒がしい足音と呼吸の山、その群衆の中の異樣。
汝、その名は――
「クチャータト……!」蟹が呟く。
広場の丁度反対側にいる、その巨大海月を蟹は奇妙な眼差しで見つめるのだった。
呆れたような顔で、目を点にしていた少女ルナーレは、蟹の甲羅を軽く叩いて言う。
「あんたの友人ってのは、あんたみたいな奴しかいないのね」
「うむ、ん?…………んん?
それは、どういう意味かな? 少女ルナーレ」
少女は猫のような笑みを軽く浮かべて、それに応えず歩き出した。
蟹と少女が海月の下へ辿り着くと、それに気付いたのか海月もその動きを停止させた。
くるりとでんでん太鼓のように触手をしならせて、
花が刺さった身体と、触手に巻き付けてある色とりどりの花を太陽の方に振り振り、
そして反対の方向に振り振り、最後にくるっとターン。
そして少女ルナーレに花が差し出される。
「……なに、これ」
「うむ、おそらく求愛のダンス……」
「えっ……あ、え?」
少女は僅かに顔を赤くした。波打つ金髪に赤がよく映える。
今日のルナーレは珍しく髮を結んでいない。
生のままの髮が流れるように陽に当たる。
「冗談だ」蟹の瞳にからかいの色が浮かぶ。
「あんたホントに……」
「ふふん」
「ま、いいや……で、ええと、……プレゼント?」
ふよふよと浮かぶクチャータトが、触手を振り上げてそして振り下ろす、恐らく首を縦に振るジェスチャー。
「あ、ありがと」
少女がそうして腑に落ちない顔で首を傾げていると、
屋台の主らしい女性が現れた。
「あ、あの」か細く、しかしふわふわとした温かな声が放たれた。
「……え? へ、あ、これ貰っちゃていい、の?」ルナーレは手に持った赤い花を見る。
出てきた女性は頭巾の内側にその表情を隠すように、僅かに俯いているせいか妙に声が小さかった。
「海月さんの知り合いです、よね?」
しかし、その言葉に応えるのは少女ではない。
「うむ、そうだな俺の友だ」
まったく予期しない声の発生。
「……っへ?」
その何処からか聞こえてきた声に首をきょろきょろと振り回す女性。
女性――歳の頃は、恐らく20歳前後。
ひらひら、ふわふわと、まるで妖精のような儚さを感じさせる佳容。
茶色い髪は形よく整えられ、その頭に被っている頭巾がそれに映える。
子馬の卷き毛のようにいい匂いを振りまく花顔の美女だった。
とはいえその顔は、一目見てわかるほどに気の弱さが刻み込まれていて、
歳を一回り若く感じさせる小動物めいたところがあった。
何か、おどおどしたところが目立つ美女。
首をきょろきょろ、瞳をわたわた、まるでリスのようだ。とルナーレは思った。
そのまま混乱している女性を、
見るに見かねたのか、花でごてごてと身を飾った海月が、その肩を触手でポンと叩き、
頭をかっちりと掴んで、鋏を掲げている甲殻類へと向き合わせた。
「へ? 海月さん、……え? な、なにっ?」
海月が指し示した方向に巨大な蟹がいることに気付いた女性は、
驚きと困惑と、そして不安の表情を浮かべた。
少女ルナーレが何かを口から出す前に、蟹が言葉を作っていた。
「お初にお目にかかる、俺の名はペンタ。
蟹のペンタだ。クチャータトが世話になったようで」
「っえ? え? …………え?」
女性は突然のことに目を白黒とさせていた。
「ふむ? ……どうかしたのか?」
「……か、蟹が喋ってる、喋ってるよ!?」
「むぅ、そうか、そこからか」蟹が少し悄然とする。
「ま、当たり前でしょ、冷静になってみれば、巨大な蟹が突然しゃべり出すんだからさ」
「そういうものだったな」
蟹は小憎らしげな笑い声を口から吐き出し、
ニヤニヤというような色合いの感情を瞳に浮かべて、上目遣いに少女を見つめる。
――その割にはお前は初めて逢ったとき、そこまで驚かなかったような気もするが。
――状況が状況だったんだから、しょうがないでしょ!
そうして蟹と少女がやりとりを作っている間にも、
店員は驚愕とともにわたわたと、その茶色い髪を揺らしていた。
がっしりとした重みに厚みを持った蟹は鋏をシャキンと掻き鳴らし、同時に少女は溜息を吐いた。
「え、えと蟹さん」と店員。
「ペンタでいい」
「えと、ペンタさんは、この海月さんのお友達なん、ですよね?
あ、あと私はプチャルと申します」
俯き加減の顔は赤く、そして震えるような声とともに、恥じらいが伝わってきた。
「うむ、まあそうともいえるな」
「……なんで其処だけ曖昧なのよ、わざわざ。
…………っと、ルナーレよ。よろしく」
気弱しげで、儚さと陰を併せ持ったプチャルは、
いかにも話すのが苦手といった様子で、懸命な形で言葉を作る。
慣れぬ接客なのだろうか、蟹と少女に対してのその店員の態度にも
クチャータトは何処吹く風、店頭で花を見せつけ、くるくると回っていた。
回転する傘、無数の触手、そして花々の色合いが奇妙に混じり合って、立体型万華鏡、あるいは走馬燈のように見えた。
そしてそれは目立つ、当然のことだろう、珍妙なオブジェには、一目見たのなら、忘れることの出来ない奇妙なインパクトがあった。
自然、足を止める客も現れる、
そして客がくるとすかさず海月は、停止とともに、無数の触手を使いどこからか何枚かの硬貨を取り出す。
意を汲める者もいれば、意の汲めぬものもいるが、おおむね、その見せつけられた硬貨を料金だと了解して、
海月の空いている触手に硬貨を握り込ませる。
というサイクルの余りの自然さに、少女は呆れ混じりに言う、
「どうでもいいけど、すごい手慣れてるわね、あれ」
「うむ、凄いな」
「え、えと、そうなんです。凄い助かってるんです!
私、喋るのと、人前に出るのが苦手で」
「ほう! それでよく客商売をする気になる、俺にはわからんが、色々と難しいのだろう?」
フランクな感じの蟹の質問にも、落ち着かない様子の店員プチャル。
「え、えと花は好きだったんです。
だから貧乏だった時から、あ、えと今も貧乏ですけど。
と、とに、かく、花のお店を出そうって。
……その、話すのは苦手で、人も苦手、です、けど」
「……ふむ、それでか、あの海月。
ここ数日、何処で何をしてるのかと思えば」
少女と蟹は白シャツ亭には、違う道を使って行くのが常であり、海月のこの姿を見ることがなかった。
海月は秘密主義者のように、何をしているのかも言わず(そもそも喋れない)
いつのまにか街へと姿を消していたのだ。
「え、と……1週間前、から。
この辺りを、ふよふよ、と浮かんでる海月さんの、姿が目に入るようになったん、です。
なんと、なく、可愛いなって思っていたから、近くを通ったときに、花を上げたんです。
……そしたら次の日、なぜか、私の店の前に」
「で、手伝ってもらった、と」
「はい、えと、最初は宣伝だけで、そのお給料の代わりに花を渡して。
でも、海月さん、だんだんなんでも出来ることに気付いて」
どこか朗らかな、僅かに明るい顔で、海月が手伝ってくれたことを喜ぶ女性。
人恋しい性質なのか、それとも海月フェチなのか、と蟹は思った。
こいつ、また何か失礼なこと考えてるわね、とルナーレは思った。
「ふむ、それで、今では人見知りの店主のなくてはならない従業員、と」
「だからって、いくら何でも接客とか売買のやりとりまで任せちゃうってのは……」
また一人、新たな来客に如才なく花を売り、その料金を受け取っている海月を眺めながら、少女ルナーレが、呆れた声で呟いた。
びくん、と身を竦ませて、プチャルがおどおどした態度のまま胸に手を当て、何かを呟いている。
「そうですよね、どうせ私なんて、いや、私も分かってるんです。
海月さんがいい海月でも、それにばかり頼ってたらいけないって
そうです分かってはいるんですよ、分かっては……」
「あ、別に悪いって言ってる訳じゃなくて」ルナーレが慌ててフォローする。
「……いいんです、別に、私なんて」
うわ、この人面倒くさい、とルナーレは思った。
蟹は何処か愉快そうな顔をして、鋏で地面を叩いていた。
「ふむ、プチャル……と言ったか、そこまで気に揉むこともあるまい」
「え? あ、はい、
……有り難うございます?」
「ふむ、あれも、中々ああ見えて面倒見のよいやつだ」
「……まあ、それはわかるけど」
蟹の言葉に何処か実感を込めて、ルナーレが言葉を返す。
クチャータトは一応彼女の師匠であり、
果たして意志があるのかさえも、初見ではわからないような海月に見えるが、
その実、それなりに義理人情を解する心が存在することはルナーレにも分かっていた。
厳めしい顎と磨き上げられた甲羅を持つ蟹は、何処か面白そうにカッカと笑う。
「うむ、結構。
結構なことではないか、なぁ! アイツなりに生き方を考えて、
酔狂かもしれないが、こうして人と関わる」
「はぁ」と困惑に、頭巾から覗く亜麻色の髮を揺らして、プチャルが首を傾げる。
「妙に嬉しそうねペンタ」というのはルナーレの言。
蟹と、少女と、店員は、そして店頭で花を売捌き、その身を張って華麗に花の宣伝をする海月を見やった。
「海月は、妙にお前のことを気に入っているようだ、プチャル」
「え、はい? あ、そうですか、えへへ」
そうしてプチャルは、顔を心持ち上げて、童女のような笑みを形の良い口辺に浮かべた。
蟹も頷くように鋏をぶんぶんと振り回し、そして何処とない優しい声で、海月を見つめていた。
「……うむ、なにはともあれ、これからもよろしく頼むぞ」
そうして立ち上がれば店員の腰近くにまで迫る大きさの蟹が、
ずさりずさり、這いずるように素早く、通りへと消えていった。
「何か邪魔した形なっっちゃてごめんなさい、それじゃあねプチャルさん。
今度、花が必要になったら買いに来るわ」
とルナーレも慌てて、プチャルに会釈をして、そのまま蟹を追いかける。
後に残された、プチャルは、その背に向かって、小さな、余りにも小さな、楽しげな響きを持った声を掛ける。
「………あっ、そ、そのときはぜひ、お願いします……」
そうして、力無く手を振る、頭巾の女性。
蟹と少女は、振り向かず、新たな出会いに別れを告げた。
そして蟹と少女の姿が、広場の角に消えたの見送ってから、
プチャルは海月に近づいて、そのひんやりとしたぶよぶよの頭を撫でる。
燦めく結晶の如き軟体生物を撫でる心地が、プチャルには気持ちよかった。
「いつも、ありがとうございます、ええと、クチャータトさん、で良いんですよね」
海月が頷くように、傘を震わせた。
「でも、名前があるなら早く言ってくれれば、………そうですよ言ってくださいよ」
海月は、触手で、ひの字を作った。
人間が肩を竦めるようなジェスチャーだった。
細かいことは気にするな! の意だろう。
人間相手には、決して見せることのないような素直な表情で、
店員は、海月の触手を見て、頬を膨らませて、そしてその後、笑った。
広場はなおも喧噪に包まれている。
雑踏の音、四方を囲む石造の建築群が、壁のようにその音を反響させていた。
そして信頼の籠もった手つきで、プチャルは、海月を撫でるのだった。
4
誇らしげに鋏を突き上げ、黒い瞳と、三対の脚、一対の鋏で急速なビートとテンポを刻む。
地面に向けて、その鋭い脚を針の連射といった形で、砂埃と残光が高く巻き上がるような高速ステップを刻んでいた。
そして最後に、くるっとその場で一回転、淀みのない動きで鋏を突き上げた。
しーん、と静まり返った酒場の真ん中。
机が、脇にどかされ、狭いながらも僅かにスペースが生まれ、
そこで蟹が謎の踊りをお披露目していた。
「これこそが、蟹タンゴ」
「タンゴ?」
「ああ、俺の昔の友人が団子を食いながら考案した独自のダンスだ」
「どおりで聞いたことないと思った」
「で、どうだ?」
「……なんか、怖い」
「こっ!? 怖いとは、ルナ嬢、傷つくではないか」
白シャツ亭エルガーは、そんな問答を傍から見ていた。
事の発端は、暇だというエルガーに、迷宮日報記者エイナ・レンテユールが、暇ならば新しい目玉でも考えたのならどうです?
と提案したところから始まった。(焚きつけたとも言う)
日頃の手入れの賜物か、最近では表通りを歩いていると見事に光を反射するようになった頭頂部をこわごわと撫でながら。
白シャツの店主エルガーは目玉ぁ?と零した。
緑色の髮を頭の後ろで団子状に留めたエイナが、何かを手帳に書き込みながら、
その薄茶けた衣服からチラシを取り出し、
《グリフォンの雄叫び亭:ダンスホール新装》
「どうですか? これ」と言った。
「どうですかって、何がいいたいエイナ」
「いやぁ! 常々思っていたのですよ私は!!
この店には色が足りない! つまり艶が、お客を呼び寄せる目玉商品こそが!
そう目玉商品こそが、この店には何よりも必要なのだとッ!!」
「……大きなお世話だ」
小柄ながらも意外と豊満な胸部を誇示するように、エイナがやや興奮気味にそう言った。
が、エルガーは至極どうでもよいと言いたげな様子だ。
むしろ隅にあるテーブルで、もそもそとサンドイッチを食べる元村娘ルナーレ。
その足下で、幾らか暇そうに己の鋏を凝視していた蟹が反応した。
「ふん、……ほう、……むぅ、ぬ?」と一人で、詰め将棋の問題に頭を捻っていた蟹。
その蟹が「ぬぅ、ぐぬぬ…………この糞問題めっ!」と唸りを上げた直後のことだった。
「っと、エイナ!それは良い案かもしれないな!」
などとストレスを発散するかのように言葉を作ったのだ。
「でしょう?」エイナは誇らしげだ。
「うむ、俺もな、先だってはこの店には花がない、常々そう思っていたところだ」
――嘘くせぇ、とエルガーは思う。
ルナーレは面倒なので聞こえなかったことにして、窓の外見ていた。
――あ、またあの蝶人間……この辺りに住んでいるのかしら。
――虹色に光る羽に、飛び散る鱗粉、そして触覚の生えた頭に、薄緑の長髪、プリズム状の眼球、もふもふのマフがついた赤色のロングコート。
――流石、都会。
――派手ねぇ。
「そうです、わかりますか! そうなんです!!
同志ペンタ! この店には花がない!
そう! 目玉がない!! だから滅多に客が来ない!!
その上、来たら来たで常連にならないっ!」
「ふむ、この数週間、見たところ常連客と言えるのは俺たちを含めて10に満たないことは十分承知した。
立地が悪いのもあるかもしれないがな、……うむ、おそらくむさ苦しい店主のせいもあるだろうな」
「そうです! そうですよ!! わかってますね、わかってますよペンタ!
いいですね流石です! 我が同志!!!!」
「ふふん、そんなに褒めるな」蟹は……照れたように鋏で己の甲殻を掻く。
エルガーはぷるぷると震えて、こめかみをぴくぴくと言わせている。
エイナは満面の笑み、そしてサムズアップするように蟹もエイナに鋏をスッと掲げ合った。
埃が窓から射し込むかのようなぽかぽかとした春の日射し。
午前の光は麗しく、午後の光は神々しい。
店内には六つほどのテーブルが並び、カウンターの億には磨かれたグラス。
恐らく導器らしき箱状のものは冷蔵庫だろう。
貯蓄型の導器に何人かの人間が余剰の魔力を注ぎ込んで、紋章が冷気を放つのだ。
「さて、それでは早速新しい目玉を考えてみました!!
……どうです? タップダンスなどは!」
エイナのテンションは留まることをしらなかった。
何故、タップダンス? というルナーレの疑問はなんのその、
蟹は笑いながら、甲殻を持ち上げて、そして下ろすことによって同意を示した。
「タップダンスとな! うむ、我の得意分野よ」
シャキーンと高らかに、鋏の鋭音を響き渡った。
……
…………
というのが直前のこと。
店主エルガーは頭を抱えて、こめかみをぐにぐにと揉みほぐしてから言葉を作った。
「気は、済んだか?」
いいですよ! ペンタさん! これで後は、私があなたの背甲の上でコサックダンスを踊れば完璧ですよ!
などと言い募っていたエイナの徹夜明けのハイテンションを、我慢することのエルガーの忍耐強さに、
ルナーレは拍手を送りたい気分であった。
(ちなみにコサックとはウラジミール・コサック公爵が新暦832年に考案した新兵訓練用のステップ。
継続的動作による忍耐涵養と俊敏かつ敏捷性に富んだ動作への適応を目論んで、833年に導入された。
コサックは大陸北限ローツェンダールの軍人::バーリモントフ『大陸北方史』より)
(転じて、コサックをダンスに取り入れた芸術運動によりコサックダンスが出現。
腰を下ろし、小刻みに脚を交互に上げるローツェンダール名物::ニコサクア社『新暦世界百科事典』より)
「うむ、俺の気は済んだ」
「ええ!? まだ、まだこれからですよ!! ペンタさん、ねぇペンタさん!!」
「さっさと寝ろ」
「はい!」
などと意味のわからないやりとりを尻目に、ルナーレは椅子から腰を上げて、
エルガーの下へ。
紅茶を注文し、いそいそとエルガーがお湯を沸かすの見ながら、今日の本題に入る。
「それで、……仕事ある?」
「……」店主エルガーは、その恰幅の良い巨体に似合わぬ手先の器用さで、ティーカップを用意していた。
カウンター席に座る、未だ幼さ残る少女。しかし確かに数年後に大輪咲くであろう美麗を窺わせる少女。
もぞもぞと落ち着かないというように、コートを脱いで、しなやかな若さ溢れるその身体を、
白のシャツと灰色のジャケットで覆った少女。
じっと己を見つめる少女をちらっと見た後、エルガーは嘆息した。
「壁によぉ、チラシが貼ってあるだろう、なぁ? 嬢ちゃん」
「マックガネンの仕事くらいしか私に出来そうな仕事がないのだけれど……」
「その歳で、その位階で仕事の選り好っちゃあ、なんとも剛毅なことだよ。
いいじゃねぇかよ、医者もこの前褒めてたぜ、お前のこと」
「えっ! ……なんて?」
「思ったより使えた。ってな」
「……褒めてないじゃないっ!」
そして軽く苦笑したあと、エルガーは少女の前のカウンターに紅茶を置いた。
「ほれ」
「あ、ありがと」
「それとついでにこれもだ」
「え?」
そういって差し出されたいかにも上質そうな白い紙。
少女が訝しげにそれを覗き込むと、その表情はすぐに驚きへと変化した。
赤色で綴られた文字、練り込まれた魔導紋章、そしてギルド公印。
中央区にあるギルド本部の責任者印とギルド印であった。
「各酒場の独自依頼じゃねぇ奴だよ。
ギルドに直接依頼して、なおかつギルドがそれを一度受けて、各酒場に回すんだよ」
そういって照れたような顔で、エルガーは頬を染めた。
「へぇ」
「まあいいたくねぇがな、酒場ってのは知名度、立地、あとは雰囲気とかな。
そういうのが関わってくる。一度有名になっちまえばあとは楽だが、
ちんけな酒場、人材の大したことない酒場にゃ、やっぱり依頼はこねぇ。
馴染みやら貧乏人やら、後ろめたいのやらってな。
で、時々こうしてギルドが斡旋してくれんのさ、どうにかその酒場の常連でこなせそうなのを見繕ってな」
それを聞いているルナーレの顔がみるみると輝いていった。
いつのまにか、隣には足下には蟹が侍り、
「いい話ではないか」とさも偉そうにふんぞり返っていた。
「まっ、ここんとこ頑張ってるしな。
それにそこまで難しい依頼でもねぇ。ちょっとここから東にあるウィンダムっていう宿場街まで荷物を運ぶだけだ」
「……ほお? それだけか」蟹の率直な疑問。
「ああ、んで、荷物はギルドから預かってるよ、これだ」
「ふむ、用意がいいのだな」と蟹がカウンター席、少女ルナーレの下から言葉を作った。
「……なんでも依頼の時にギルドが先に預かったらしい」
蟹がぱくぱくと、その顎を左右に開閉させながら、上目遣いに少女の様子を窺っている。
少女ルナーレはうんうん、と頷き、そして蟹を見る。
「いいじゃない、ねぇペンタ」
「まぁ、そうだな……スパイスは利いている、かもしれん」
蟹と少女が微笑み合っているのを確認してから、店主は言葉を続けた。
「ギルドが斡旋する仕事っても、これはそんなに大したことないほうだ。
ギルド任務っつう厄介なのもあるけどな、それはスピネルに頼んだ。
お前ら二人なら、まぁどうにかなんだろ、嬢ちゃんだけだったら決して行かせなかったがな」
蟹がその言葉に潜むニュアンスを汲み取った。
少女が、どこか不満気に頬を膨らませていた。
「ふむ……、ということは危険はあるのか?」
「それなりに、な。
……ウィンダムまでは途中で小さな峠を越えるんだがな、
そこに山賊が多い、あと野生化した亜人の類も多くてな。
ま、エミダリの西と東にゃぁ森と山が多くてな、そこが結構と危険なんだよ」
「ふむ、それを……見込まれたものだな」
「お前さんの実力の詳しいことはわからんがな。
ま、大丈夫だろ? エミダリの近くまで来て、迷宮に潜らずに、木っ端を襲うような連中だ」
「……ふむ」
蟹はまんざらでもなさそうに、鋏を振り上げた。
三対の脚が、抑えきれないといったようにわさわさと揺れていた。
ルナーレが一連の会話を聞いて、微かに不安の色を浮かべたが、
蟹が己の脚をポンと叩いたのを感じて笑みを浮かべた。
その蟹の優しい鋏の感触を、堅く重いそれを信頼するように少女は口を開いた。
「じゃ、じゃあ、私たちが……」
その時、、突然酒場のドアが開かれ、
春風が店内へと吹き込んできた。
「ッッ!」目にゴミが入ったのか、蟹が鋏で、黑い眼を押さえる。
「な、なに!?」
少女は見る、突然の乱入者を、それは女であった。
「む、むぅ?」と蟹の呻きをものともせずに、
快く淀みない足音で勢いよく、一人の女がカウンター、エルガーの前へと現れたのだった。
座ったままのルナーレよりも、当然のように高い位置にある頭。
素人目にもよく手入れされていることが分かる黄金の髪。
ルナーレのそれも負けていないが、
ルナーレよりも長いその髪は、ルナーレよりもよく手入れされているのであろう、艶やかで気品溢れる見事な黄金色を放っていた。
つんと釣り上がった形の目や、見目よく見事に配置された鼻と唇の紅も悩ましい。
明らかにルナーレとは、元村娘とは階級の違いを感じるような気品に満ちあふれてた、女であった。
そしてルナーレの座るカウンター席の前に置かれた依頼書を一瞥し、
ひるむことなく、堂々と、当然のように、言葉を放った。
「その依頼、ちょっと待ってくださる?」
僅かにルナーレに顔を向け、そして鼻で笑うように、ふっと笑みを浮かべた。
ルナーレよりも齢は少し上だろう。
その女の突然の言葉に、ルナーレも険を隠さなかった。
「はぁ?」
「あら、聞こえなかったのかしら? お嬢さん?」
大したことがないというような、令嬢の返答に、
ルナーレの顔が赤く染まって見えた。
こめかみが、先ほどのエルガーのようにぴくぴくと蠢動している。
入りこんできた謎の女。
どことない高貴さが感じられるその佇まい、そして節々の動作を見て、
蟹はこれは面白くなってきたと内心思った。
「お嬢さんって! あんただって似たようなもんでしょ!?」
「あら、私は確かに私の歳は18で、まぁ決して十分な大人とは言えないかもしれませんが。
ふふっ、少なくとも貴方に比べたら、大人であることよ? お嬢さん」
「ッッ! いきなり入ってきてッ!」
見れば堂々と胸を張り、不思議にカールしたその金髮を手櫛で掻き上げている謎の女の傍に、
いつのまにか一人の老人が侍っていた。
黑いスーツ、燕尾服に身を包んだ老紳士は、腕に銀時計を持ち、白いハンカチを胸ポケットから垂らしていた。
「……はぁ」とエルガーの溜息が聞こえた。
蟹の位置からでは、角度的にエルガーの様子を確認できないが、おそらくその顔は疲弊に彩られているだろう。
少女が、今にも歯ぎしりしかねない剣幕で、突然の闖入者に目を剥いていた。
狂犬よろしく飛びかかりそうな雰囲気さえも漂っている。
蟹が密やかに小声で、「どうどう」と馬にするように少女をあやしていると、陽光に映える禿頭の店主が、
改めて珍客二人を見据えた。
「久しぶりだなぁ、お嬢様」
「ええ、そうね久しぶりね、……相変わらず見事な頭」とお嬢は微かに笑みを浮かべた。
その笑みは儚げで、十分な品格が備わっていたが、その言葉が全てを台無しにしていた。
「喧嘩売ってんのかテメェ!?」とエルガーは、しかし既に幾たびも繰り返したやりとりなのか、
言葉の勢いほどには、怒っていなかった。
「冗談よ、それより……」
マイペースそのものの様子で、エルガーがルナーレに見せているギルド依頼書へとさら近づく女。
恐れるものは何もないと言いたげな、堂々とした闊歩だ。
微かに音を立てる薬缶の音、そして窓の外の喧噪。
かつかつ、と言うような品の良いブーツの擦れ音。
ルナーレは自らよりも四歳ほど年長らしい貴族風の女性を正面から見据えた。
蟹はそのルナーレの有様に、それではまるでチンピラだぞ、と内心忠告した。
忠告を内心に留め、結局は事態の成り行きを楽しんでいたのだが。
「この依頼、私に受けさせてもらえないかしら」と貴族女性の美しい声。
それにまず反応するのは当然、田舎より都市に出てきたばかりの若い娘。
「はぁ!? あんた何言ってんの!?」
「あら? おかしいことを言ったかしら」
と、何処か挑発的言う令嬢、恐らくこの態度さえも交渉や強談の手管であろう、
そう判断した蟹は、ルナーレの激昂を鑑み、
「エルガー、知り合いなのか?」蟹が言葉を挟む。
さらには、いつの間にか少女ルナーレの足下から抜け出て、貴族令嬢の執事らしき人物の足下に移動していた。
「……? あら、どなた?」
きょろきょろと頭を巡らせ、不思議と間抜けさを感じない自然な動作で、突然の声の主を捜す貴族令嬢。
会話の中断に業を煮やしたルナーレは顔をさらに赤くさせ、
店主エルガーは、貴族令嬢を意識しながら蟹の座るカウンター入り口近くを見る。
「レセ・ド・シュウォウプ。
エミダリ旧家シュウォウプの直系の娘さんだよ」
「ふむ」
「あら、って蟹…………蟹!?」と高貴さの仮面から年相応の驚きを飛び出させた貴族令嬢。
縦にロール状に巻かれ、側頭部を流れる髪の揺れが、その思わぬ動揺を物語っていた。
「いかにも、いかにも!」
「ちょっと、あたしとの会話の途中でしょ?」とルナーレは蟹が何故、このタイミングで言葉を作ったのかには気付いていない。
「この爺、御年70のみぎりを超えますが、このような奇怪な魔獣は初めてございます」執事の声、
「まあ!まあ!」令嬢レセの声。
「うむ、収拾がつかなくなってきたぞ…………」蟹の声。
「ちょ、ちょっとッ!」少女ルナーレの声。
多声的な混乱が店内を包み込んでいた。
5
「ほぉ、ということはお前もこの店の常連なのか、レセとやら」
「ええ、こちらの店主さんが、父の旧知で」
どうにかこうにか、場の混迷を収め、卓を囲むようにルナーレとレセと呼ばれた女性、そして執事の老人に、巨蟹ペンタは会話を続けていた。
ルナーレは珈琲を飲んで落ち着きを取り戻し(表面上は)
レセも蟹に対する驚きを鎮めた後には、興味やら好奇心を覚えたのか、物怖じせず蟹と言葉を交わしていた。
執事――レセによるとウォルトンという名らしい――は微動だにせず、レセの後背に立ち、
エルガーは清々したというようにグラスを磨いていた。
(場が静かになったことに、この義足の店主は、安心を覚えてさえいた)
「ということはお前も冒険者か」
「そういうことになりますわねカニさん、いやペンタさんと呼ぶべきかしら」
レセは蟹に向かってにこやかに微笑み、
その微笑みは上質な布地で作られているであろう白色の服とともに別天地の美しさであった。
とはいえ甲殻類は色香に迷わない、先ほどよりも落ち着いたルナーレを鋏で差して、
「好きに呼べばよい、で、こちらの少女が、」と紹介する。
「ルナーレ、ルナーレ・ジュールよ」
呼ばれた少女は、頬を僅かに膨らませて、年齢の割には高い背格好を、
目前のさらに高い身長の美女に追いつかせようしてか、必死に胸を張っている少女は答えた。
「そう、ジュールさん」とレセは言った。
「ルナーレでいいわよ、でそろそろ本題に入ってくれるのかしら?」
険の隠しきれない声音だった。
蟹はやれやれと言うように鋏を、人間でいう肩のように竦めた。
ふと蟹が執事の瞳を見れば、そこに浮かぶのは喜色。
直感的に蟹は、この執事の性格の一端を窺い知ったように思った。
「そうね、ずばり言ってしまいますと、その依頼、私に受けさせてもらえませんかしら?
ということになりますわね」
「理由が分からない」
とルナーレは一言で切って捨てる。
が、レセは高貴な微笑みを口元に湛えたまま微動だにせず、
遠回しに先を促しているようにも思えた。
「……何よりも先着はこちらよね」
「まあ、そうね、それは認めますわ」とレセは自然な調子で答える。
「それなのに、どうして横から割り込んできた見知らぬ人に、
…………つまりあんたに、数少ない仕事を渡さなきゃならないのかしら」
「ごもっとも、そうね言うとおり、完全に仰るとおりですわね」
「ならっ……!」
「でもね、それを言うのならば、私だってこの店の常連なのですわよ?
仕事を受ける資格はあると思いませんこと? 何も先着順で仕事を決める訳でも無し」
蟹は事の成り行きには口を挟まないつもりなのだろう、黑い瞳にある種の愉悦を浮かべて、
少女ルナーレの新たな試練を楽しんでいるようであった。
「うっ、それもそうだけど、でもそれなら私が受けて悪い筈もないってことよね」
「…………それなのだけど、貴方にはこの仕事、少し荷が重すぎないかしら」
金の縦ロールが、さらに窓からの陽光を吸い込んで、傲慢に輝いて見えた。
釣り目がちなその目を、さらに鋭く釣り上げて、少女ルナーレは、苛立ちを隠さなかった。
「……言うわね、あんた」
「下級冒険者だけれどね、所詮。それでも貴方よりは位階は上の筈よ。
それにこのウォルトン、高位冒険者相当の実力はあるわ」
相当? と蟹は思ったが、少女は特に気にしていないのか、
もぐもぐと形のよい顎を動かして、苦虫を噛んだかのような顔をしている。
「…………確かに、実力はまだ足りてないかもしれない」
「あら? 素直なこと。」そして麗人は微笑んだ。
「…………でもね、誰にだって初心な頃はあるものじゃないの?
あたしだって頑張っているし、こういうチャンスには挑戦したい。
何もせず、不相応だと最初から諦めるなんて、そりゃおかしいことじゃないの!?」
そうして強い光を瞳に宿して、少女ルナーレは、深い深い青色瞳に力を込めた。
光は射貫くように正面に座っているレセの眼に突き刺さった。
「…………なるほど」と僅かに低い声色の返事と共に、レセはルナーレに鋭い面差しを向けた。
「お嬢さま」執事は蓄えた白髭を僅かに揺らして、令嬢を支える。
「ええ、わかってるわ爺。
……あなた、度胸だけは大したものね」含み声には、警戒と些細な称えの色合いが潜んでいた。
そしてレセは髮を掻き上げ、自分の腰に帯びた細剣、刺突を目的としたその武器をちらっと見つめた。
少女ルナーレは勢いに乗ったのか、身を乗り出すようにしてさらに言葉を続けた。
「それに! 相棒というか、パートナーまで含めるならね。
あたしにとってこの蟹は、ペンタはッ!! 世界一の相棒よ!!
高位冒険者? それがどの位の強さなんて、あたしには詳しく分からないけどね
山賊の100人、200人に負ける気はしないわ!! …………多分」
「そこは最後まで言い切ってしまってもよいだろうに、嬢…………」
蟹の呆れた声を後目に、ルナーレはテーブルに両手を突いて、意気を昂揚させた。
そのまま睨み合うような形で、ルナーレとレセは、視線をぶつけ合う。
(蟹はふと、あの騒がしいエイナの姿が見えないことを訝しんで、店内を見回した。
すると遠くのテーブルに突っ伏して、蟹に言われた通り夢の世界を泳ぎ回っているエイナの姿が窺えた。
緑色の髮は、ぼさぼさに跳ねて、どこぞの野蛮人めいて見えた)
「なるほど、ルナーレ、と言ったかしら?
言いたいことはわかりましたわ、それでも私だって引くことは出来ないのですわ!」
「まだ、言うのね……うぎぎ」令嬢のそれまでよりも真剣味の増したことばに、
一歩も引くつもりもない意志を見たのか、少女は、唸り声を上げた。
「ルナ嬢、その呻き声は、妙齢の乙女としては致命的だぞ……」蟹は引いていた。
場面が膠着したかと思える。
その時に至り、余り口の開く機会のなかった老執事が、ここで口を挟んだ。
「率直に言ってしまいましょう、お嬢様」
「……それしかない、と言うのね、爺?」
しぶしぶといった様子で聞き返す令嬢のことばに、
こくりと頷く執事。
少女は僅かに首を横に振り、そして嘆息した。
「どうせ、あとでバレることだから言ってしまいますけどね」
少女は突然の雰囲気の変化に首を傾げ、そして警戒の念を強めた。
「私、この依頼を受けなければ、宿に泊まる賃金もないのですわ」
……
…………
「…………は?」と少女ルナーレ。
それも当然のことだろう。
如何にも貴族然とした、軽装でありながら上質の仕立てに、白色ドレスのようなワンピースのような華美な服装に身を包んだ目前の女性が、
「金がない」と吐き出したのだから、それはこれ以上ないほどに面白くない冗談としか、
少女ルナーレには思えなかった。そしてルナーレが口を開こうとしたその瞬間m、
それまで黙って聞いていたエルガーが口を挟んだ。
「ってこたぁ、お嬢様よぉ、もしかして」
「ええ、当家の屋敷、土地、家財一切、爵位、全てを中央行政局に差し押さえられましたわ」
悲痛さを感じさせない口調で、レセは己の境遇を告げた。
「そうかい、まあ遅かれ早かれとは思っていたが」
「それで私たち、正直に言ってしまいますと、財布に銅貨3枚しか入っていませんの」
少女ルナーレは、驚きを隠さず、唖然としか言い様のない表情を作って、
目前、歳上の元貴族令嬢を見つめていた。
「というわけですの。
年功序列、という言葉も有りますし、ここは私に仕事を渡してくださらない?」
「そ、それとこれと、仕事は別…………」
というルナーレの言葉にも、先ほどまでの怒気と気力が抜け落ちていた。
明らかに破格で良質なマンションの一室を借りて、今朝も侍女ケントゥムの作るハムサンドに舌鼓を打った己を思えば、
ここは目前の女性に温情を与えるべきなのではないか、という念と、
しかし、己の経験のため、そして久方ぶりの都市外での活動への期待の念がぶつかりあっている表情だった。
蟹は事態の思わぬ方向に、笑いを堪えきれず。
富みに優秀な言語変換紋章が、その鋭い顎から鈍い笑音を響かせていた。
沈黙、静かな悩みの空間の中、ガタゴトガタゴトと、蟹が脚を震わせている音だけだ響いていた。
「二組合同でやりゃいいじゃねぇか」とエルガーはぽつりと言った。
その時、衝撃走る。
こいつと? という表情で、お互いがお互いを睨みながら、
蟹と執事はまあ、当然の流れだろう、と頭を(蟹は顎を)頷かせていた。
6
決着は一瞬であった。
二人の妙齢の女が、依頼用紙にサインをして、エルガーが用紙に織り込まれた用紙に【力】を導力し、用紙を変質させ契約を有効にしたのが二〇分前。
エルガーが食料と飲料水のための鞄や水筒を、執事と元貴族令嬢に貸し与え、幾らかの金も融通して、
おそらく一泊はする羽目になるだろうと見越して、食料の買い出しへと向かった。
正午前、11刻前後だろうか。
蟹と少女は腹ごしらえを白シャツ亭で済ませ、その後に買い出しということになった。
(当然のことながら旅装も、旅費も、糧食も自前である)
小腹が空いていた蟹と少女は(少女は先ほどサンドイッチも食べていたはずだが)
少し早いが昼食を摂ることにしたのだ。
むさい白シャツにねじりはちまきを締めた、巨漢筋肉の店主が作る料理は、
鳥と香辛料を焼き炒め、それにキュウリの酢漬けを付けたものだった。
ほろほろ鳥だろうか、安価な割に肉厚で、噛みしめると同時に肉汁が口内で踊り出す、鳥の旨さが十分に生かされた料理だった。
香辛料は辛みと僅かな甘みのコントラストが見事な味を演出。
鳥の歯ごたえ、繊維の噛みしめる度に、舌の上で飽きさせないようにその味をサポートしていた。
濃いめの味付けに少し飽きたのなら、付け合わせのキュウリ。
見事に凸凹し、僅かに折れ曲がった、キュウリの酢漬けを噛みしめ、そのしゃきしゃきとした歯ごたえと、
さっぱりとした酸味が、口の中をリフレッシュし、同時に食欲を回復させた。
「…………おいしい」
「……悔しいが、最高の味だ」
少女と蟹は、どこか呆然と、そう呟いた。
フォークとナイフを止めることなく。
そして蟹は鋏で器用に、地面に置かれたその料理を持ち上げて口に運んでいた。
味覚の発達した甲殻類の昼餐。
蟹と少女の反応に、気をよくすればよいのか、その余りの驚きっぷりに怒ればよいのか、
エルガーは複雑な表情を作っていた。
「失礼な奴らめ」
「あ、ごめんなさい、…………でもこれほんとうにおいしい」
「ああ、美味いな、美味いぞ、うーまーいーぞー!!」いきなり蟹のテンションが上昇したが、
既に慣れきった少女と店主は、一顧だにもしなかった。
蟹は、どことなくしょんぼりと鋏を落として、黑い円らな瞳を俯かせて食事に向かいなおした。
……
…………
「まぁ、料理は昔から得意なんだよ、俺は」
「うむ、それは理解した」
「ちょっと意外だったわね」
そして腹をぽんぽんと叩いて、少女は一心地吐いた。
この後、正午近くに東門で待ち合わせ。
それから東方、目的地であるウィンダムへと出発する予定だった。
蟹がそわそわと、何かを思い出したと言いたげに、エルガーに声をかけた。
「なあ、あれは出来上がっているか?」
「…………あれか」
少女が、何事か? と興味深げに見守る中。
店主はカウンターの中で何かを探していた。
少しの間ごそごそしていると、やがてそれを見つけたのか、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ほらよ」
「ふむ、っと」投げ渡されたそれを、蟹が寸断しないように鋏の先の部分で器用にキャッチした。
たらん、たらーん!と口から奇怪な効果音を泡と吐き出して、長さ1mに僅かに短い程の何かのを包みを、少女の眼前、机の上へと置いた。
「…………ボーレム爺さんも、久しぶりにいい仕事ができたってよ」
「というわけで、開けてみろ、ルナーレ」
ふふん! と鋏を交差させて、人間ならば腕を組んでいる動作に相当するだろうか、
ふんぞり返ったかのような態度とともに、蟹は少女見つめていた。
これからの仕事に備えて、髮を後ろで一つに括り直した少女は、自分への突如訪れたプレゼントに驚きを隠せない。
改めて、蟹を見る。
「何か、ロクでもないものじゃないでしょうね」
「むぅ、少し俺の……信頼が低すぎるのではないか? …ふむ、これが日頃の行い、というやつか」
「……分かってるならやめてよね」
「だが、断る」そして蟹は、ニヒルを気取って、鋏をシャンッ! と鳴らした。
苦笑を隠さず、少女は改めて、棒状の荷包みを見て、それに手を掛けた。
がそごそと開ける音。
己の父と母が、港町へと交易に赴いた帰りには、
必ずといっていいほど、何かを買ってくれたことを、少女は思い出してた。
例えば、絵本、例えば物語集、あるいは人形、あるいはぬいぐるみ。
本の類も、近年とくに流通を増しているが、決して安くはないもの。
それを買ってきてくれた父と母、故郷たる村の姿が、少女の脳裏をかすめた。
「……っ!? え、あ、わぁ!!」
少女の驚き、少女の喜び、少女の戸惑い。
「ふふん、どうだねルナーレ君」
「…………いいの?」
「いいさ、お前の新たな相棒だ」
それは剣だった。
東方、大和島に伝わる刀という形態の刃に僅かに似た、細く鋭い剣。
丈こそは長くないが、鞘に包まれたそれは、とても頑丈そうに見えた。
少女は、柄を握り、そして鞘から剣を抜きはなった。
「っっ…………!」
黑い黒曜石めいた輝きを帯びた、何かの獣や鉱石の混合素材だろう。
決して安くはないだろう、黑い刃の、小刀、あるいは小剣は、鋭さと厚さ。
武器としての異樣を兼ね備えていた。
溜息を隠さず、少女はその刀身を見つめていた。
よく見れば、刃には幾つもの紋様が刻まれていた。
「意外と安価であったが。
とまれ、ルナーレ、お前へのプレゼントだ」
「……え、あ、へっ!? いいのっ!?」
蟹は悪戯が成功した事を喜んでか、黑い瞳に喜色を浮かべていた。
「モチロンだとも、俺の人間の相棒。
お前の父から貰った剣。思い出の品かもしれないが、正直なところ丈に合っていなかった」
「うん、そうね……たしかに」少女は、鞘に収めた剣を大切そうに抱きしめている。
蟹は、ここまで喜ばれるとは、と少し恥ずかしい気持ちになった。
「重く、小回りの利かないような大きい剣などよりも。
軽く、早く、頑丈で、己の背丈にあった武器こそが望ましい」
少女ルナーレは、訓練を思い出した。
思い出してみれば、屋上での素振りも、蟹との追いかけっこも、全てこの黒剣と同じような大きさの剣で行われたのだ。
重みは当然のことながらこちらの方が上だろうが。
とはいえ、前まで使っていたものに比べれば雲泥の差。
こちらのほうが圧倒的軽く、使いやすいだろう。
「勿論、あれはお前の思い出の剣、そして上質な刀身を持っている。
だがな、ルナーレ、武器には段階というものがある。
使うにそぐわぬ刃は、己を傷つけ破滅させるもの」
ルナーレは、受け取った新しい武器を見下ろして、蟹の言葉を噛みしめるように聞いている。
「無論、木刀と同じように、渡したそれを振ろうとしても、それは無理だ。
が、しかしまあ、ルナ嬢よ。
お前のその年齢離れした筋力と、そして日頃から弛まず積んだ修練の成果が、
すぐに慣れさせてくれるだろう。実戦でいきなり使うのも怖いが、ふむ、そうだな、少しでもな慣れるために素振りでもしておけ;;」
そうしてむにゃむにゃと、呟いている蟹。
少女ルナーレは、その蟹を見つめながら、いま、聞いたばかりの話を噛みしめるように思い返していた。
生まれる喜び、感謝、それ以上の嬉しさ、心臓から奔流のように爆発して、
少女の顔に、ふわりと解けた絹糸のように微笑みを作らせていた。
そして、その心地に浸る間に、次から次へと心臓から迸る快い喜びが
少女を、蟹の甲羅に抱きつかせた。
「ぬぅ、のわっ!?
む、むぅ、ルナ嬢よ、何をする」といきなりの飛び掛かりに蟹が慌て、
「ありがとう、ほんとに、あんたって、…………最高よね」と少女が囁く、
「ぬぅ、今更気付いたのか?
俺は最高の蟹だからな!!」と少し照れながらも蟹が、いつものように鋏を誇示する。
そうして、蟹と少女は笑い合い、
店主エルガーまでもが何処か、嬉しそうな笑みを口辺に匂わせ、店内に温かな空気が満ちる。
抱きついてきた少女を、振り落とさないような速度で、蟹が回転を初めて、それに合わせて珍しく素直に少女が、きゃっきゃと、笑う。
少女の初めての都市外任務、その始まりまで、あと一時刻に迫った、白シャツ亭は、
いつになく今日も平和で、そして楽しげに見えた。
同日、同時刻、中央都市エミダリ。
眠たげな瞳をした青年が、古ぼけたアパートの一室で、ぼーっとした様子で窓の外を眺めていた。
対面上に座る、ころころと丸い印象を与える少女は首を傾げている。
「どうしたんですか、ロッドさん? 首でも寝違えたんですか?」
「いやぁ~、そんなことじゃないッスよ、ちょっと考え事っス」
必要最低限の荷物が運び込まれた部屋。
小さなテーブルに、ぼろぼろの椅子。
少女の服が収まった箪笥に、少女の寝台のある部屋へと繋がっている扉。ロッドの寝床代わりのソファーは部屋の片隅を占めていた。
狭い部屋、既にぎゅうぎゅう詰めの部屋において、それでも二人は楽しげに暮らしているようだった。
「ま、そうっスね、あんまりよそ見ばっかしてたら、折角メイニーさんの作った御飯も冷めてしまいそうっスね」
「もう、また口だけ調子がいいんですから!」と言葉を返すメイニーは、しかし心なしか、嬉しそうである。
とはいえ、メイニーも鈍感なところがあるが、愚鈍ではない。
対面に座る、メイニーにはもったいない師匠。
いつもやる気が見えない、眠たげなロッドさんが、
ここのところ、少し元気がないことに、メイニーも気付いていた。
その理由はおそらく、
「それで、ロッドさんはいつになったら、そのお世話になった人に会いにいくんですか?」
このことなのだろう、とメイニーは理解していた。
理解していた故に放たれた、わざと会話を逸らし、安心させてからの、笑顔付きカウンターブロー。鋭い一撃だった。
ロッドは、ぐぅ、と内心呻きながらも、表面上は、へへへ、と力無い笑みを浮かべた。
「そ、それは、あれ、そう、あれっスよ、なんというか機会を窺ってる、というか」
「はぁ、…………そういうロッドさんは、カッコワルイですよ」
そして眉の上で切り揃えられた赤みがかった栗毛を撫でながら、
メイニーは立ち上がった。
「昔、お世話になった人。迷惑を掛けちゃった人に、謝りたいって言ったのは誰でしたっけ?」
「お、おれっスね」
「それでもう、三週間くらい、行く、今日こそ、行く、明日から本気出す、とか行ってるのは!」
「う、うう、お、……おれッス、ね」
「そうです! ロッドさんです!
いい加減にしてください、もう、付き合い切れませんよ?」
ぷんすか、というような形容がぴったりと当てはまるような可愛い怒り方をするメイニーに、
しかしロッドは真剣に頭が上がっていなかった。
天涯孤独の冒険者志望の娘とひょんなことから暮らし始めて、数ヶ月以上、あるいはもっと経つだろうか。
元来、無精者であるロッドは、ロッドよりも一回り近く年下のこの少女の、意外なほどに確かな、家政への精通――家計に通じ、料理に通じ、家事に通じ――には頭が上がらなくなっていた。
胃袋を掴まれ、財布を握られ、その上、甲斐甲斐しく、健気で、押しつけがましくない。
つまるところロッドは尻にしかれていた。
――ああ、エルガーのおっさん、おいらは何処で道を間違えたんスかね。
そそくさと朝食の皿を下げて、アパート共有の台所へとそれらを運ぶメイニーを見ながら、
ロッドは、会いに行く踏ん切りのつかない、かつてのパーティーのリーダーの顔を思い浮かべながら、
哀愁漂う笑みを作ることしかできなかった。
それに合わせるようにロッドの耳にぶらさがったイヤリングも揺れ、そこはかとない哀れを催させる。
そんな一幕。