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準備、前置き、話の進まない話


蟹は、ぼうとしている。

自らの住処の惨状を見て、溜息を吐くしかない。(但し出てくるものは泡である)


あるのは瓦礫、瓦礫、土埃。

目にとまるのはランタンと、砕けて煌めいている宝石の欠片か。


 ともあれどうしようかと、蟹は考える。

起きてしまった、侵入されてしまった。

このままではまた面倒なことになるだろう。


 そうはわかっていても、しかし何処か億劫だ。

1000年近くの冬眠。つまり引きこもりの弊害であった。


 鋏は錆び付き、身体の各部はギシギシと重い。

関節は余りにも動かしていなかったせいで、痛いを通り越して、笑えてくる。

ブクブクと軽く泡を吹く程の痛みだ。


 さて、ここはどこか。

かつて自らが寝床と選んだ王墓である。

ではこんな地底に侵入したあの戦士はなにものか。

しかも恐ろしく腕の立つ者だった。


 そのうえ盗掘なのに上からではなく、横からきた。

もしや恐ろしい高さの活断層でもできて、この王墓へと容易にしかも横から侵入できるようになったのか。


 蟹は眠り過ぎていた。

彼はダンジョンについても何も知らないし。

また少人数の連携により多くの魔物を狩ってきた冒険者という職業を知らなかった。

 

 彼が眠りに入る前、人類の平均的な戦闘能力はそう高いものではなかった。

一部の戦士たち、大家たちがあったのみだ。

 

 しかし、今の人類は、600年の迷宮攻略を経て、

冒険者という者に限り、多くの蓄積と闘争の果てにかつての戦士など比べものにならない程の実力を付けていた。


 

 それさえも知らず、この暢気なところのある蟹は、ぼうとしていた。

――さて、さて、どうしようか、ここで眠るのは勘弁したいものだな。




 蟹は穴を見る。


 ――穴。

穴とは何か、というのは実のところ一つの美学考察の題材たり得る命題ではあるが、

しかし別に蟹はここでそんな考察を始めたりはしない。


「外か」


 外に出てみようか、いや出てみたい。

そう考える。

この蟹はつまるところ退屈なのだ。



ブクブク、ブクブク。


ただ彼が一つの事実に気づくのに、そう時間はかからなかった。


人一人程度の高さの穴に、4mの巨体が入る、わけがないという事実に



ブクブク、ブクブク。








 魔惨迷宮では、またもや衝撃の情報が駆け巡っていた。

かの最高位冒険者『黄金剣』ロード・エーサーベインの敗北である。


 10年前、迷宮軍が40階の中継基地に仕掛けてきた一大反抗。

その折り、敵方の総大将であり、最高位の怪物モンスターであり、

多くの冒険者の命を容易く奪ってきた迷宮騎士ロード・エクサリオスをその神盾『イージス』ごと貫き

撃退した、この迷宮における紛う事なき英雄である。


 冒険者としての評判こそ、その性格のためか決して高くはないものの。

実力、それも単純な戦闘力に関して言えば、そのシンプルで力強い戦闘法と合わせ間違いなく、

冒険者の最高位に相応しいものであった。


 そのエーサーベインが敗北した。それも北方の名工の鍛えた銀の魔導剣(量産型)という決して安くない導器をも犠牲にし、

自らの器に収めていた「力」の大半を消費して、40階に現れたという。


 まるで命からがら逃げ帰った、それこそ脱兎の如く。

そんな風体であった。

 

 先のバル・ファルケン=ノースの未帰還に続いての最高位冒険者の敗退である。

早くも高位、中位冒険者を中心として、各所の盛り場で不安が囁かれている。



 魔惨迷宮、迷宮管理組合、組合長ハンナ=ウルフは溜息を窓に向かって吐く。

黒壇の厳めしい机も、重圧を感じさせる膨大な量の書も。

バチバチ、と音を立てる、暖炉の火も。

今は、空虚に見えるし、聞こえる。

沈黙。痛い程の。

空気が風船の膨らみすぎた瞬間のように、痛みを恐れる沈痛に包まれる。


 「……それで」


 齢32歳で組合長に地位に就き、以降10年、何事もなく、むしろ確実に探索は前進していると確信していたこのハンナにとって

今回の二つの事件は、胃が痛くなり過ぎる類のものであった。

 

 出来ることなら今回のエーサーベインの件。徹底した情報統制を敷き、表に出したくはなかった。

迷宮からの収奪物と、冒険者の準備費が、都市の主要産業である。

 

 つまり、高位、中位冒険者という、いわゆるメイン冒険者層が、

冒険に不安を覚え、その探索に二の足を踏むこの事態は決して望ましいものではなかった。

その不安は市民や、下位、最下位、初心者ルーキーにも波及し、また不安は治安の悪化を生む。

娼館では早くも、緊張により暴力を振るう客の増加を招いているらしい。


 バル・ファルケン=ノースを失ったのが未だに信じられないというのに。

未だにあの髭男が、ひょっこり帰ってくると、そう心の何処かで信じている内に、

ハンナは目前の気障男の敗北の報を聞くことになったのだ。


 ハンナは溜息を吐き、窓を見るのをやめ、振り向く。

黒壇の机の上には、灯器。

それなりの光量で揺らめいている。

その先にある顔、見るからに消耗を隠せない悄然とした顔は、噂の男、ロード・エーサーベインに違いなかった。


 「それだけだ雌狐」


 そうなの、それだけなの……ふざけんなよ? とでも言いたげな苛立たしげな顔。

それを隠そうともせずに、ハンナは顔を歪める、

齢42ではあるものの10は若く見える赤毛の女傑は溜息を吐く。


 「その蟹はアンタの黄金剣の最大出力さえも、全くモノともせず、アンタの最高の剣撃でもちょっと深い切り傷を与える程度、だったと」

 「ああ、一切違わん、俺はおめおめと逃げ帰ってきた負け犬だ」

 「馬鹿言わないで、せめて生きててよかったわよ、……ぞっとしない話ね」


 ハンナはエーサーベインのここまで粛然とした態度など、エーサーベインが迷宮都市に来てからの15年で始めて見た。

らしくない態度だ。しかし天才貴族の始めての敗北。

しかも話を聞く限り、圧倒的な大差での敗北。

――……こうもなるか


「で」


勝てるの?と声には出さずハンナは尋ねる。


「……勝てる」

「へぇ、どれぐらいで?」

「勝つには、しかし戦力が問題だ、そして策戦の問題でもあり、装備の問題でもあり、儀式の問題でもある」

「それがあれば絶対に勝てるの?」

「勝負に絶対などない。くだらん皮肉はやめてもらおうか雌狐」


 エーサーベインは冷静に見えて冷静ではない。

その心には屈辱と、憤怒、恐怖の念がこびり付いている。

ハンナ=ウルフは長い経験から知っていた。

実力者が命を落とすのはこういった精神状態のときである、と。


「至高神に誓って、あるいは正義神に誓って、私の目を見て勝てるというのなら、いいわ、戦力は融通しましょう

軍に掛け合ってもいい、よそから戦力も借りましょう。但しそれは、貴方の情報が、判断が真実で、あるいは相手の戦力がそれ以上増えない時に限るのではないかしら?」


 っぐ と息を飲む音。

それは錯覚ではない。

エーサーベインも最高位冒険者である。

心の隅に冷静さを忘れていない。

そうでなければ、最前線でこれほど長く探索を続けることなどできなかったであろうから。


 しばしの沈黙。

顔を歪め、憎しみと恐れの入り交じった複雑な表情を、隠そうともせず。

しかし、しばらくして感情は抑えられる。

飲み込むように、考え直すように、そうしてエーサーベインは溜息を吐いて、

ポツン、と呟く。


「正直なところ、わからん」


暖炉の暖かさは、しかし何処か寒い。

エーサーベインは、息を落ち着け。

そして続けた。


「攻撃は利いてはいた。本当に些細だがな」

自嘲。そして顔を挙げハンナの燃えるような美貌の上にある、冷たくも慈愛を感じさせる瞳に、自らの心を素直に合わせる。


「……前衛を厳選し、壁を構築し、それこそ儀式大家による防護を掛けて。

前衛も皆、儀式小家を使い、導器と法器、神器をもって。属性ではだめだ、斬撃も阻まれる。あれは衝撃だな。

後衛には、儀式大家や神秘大家を配置する。機巧があればなおいいな。

装備に関しては、魔法書や魔導書、神鉄防具を揃えておきたい」


一息つく、そしてまた息を飲み、もう一度言葉をつくる。


「それだけあれば、負けはしない、と思う。ただ貴様の言うとおり、これ以上の隠し球がなければの話だ」


そうして語ることにより、安定を得たのか、少し落ち着いた様子で、ハンナを見るエーサーベイン。


「……厄介ね」

「ああ」

「とりあえずあんたは休んでいいわよ。私は最高会議に向かうから」

「都市会議か?」

「ええ、神殿のデブ親父やら、都市長の禿、軍団長に、学府頭、商業連盟のお偉方。そいつらを前に、あんたの語った情報をもう一度語って、

頭の固い、あのお馬鹿さんたちの質問に答える糞みたいな作業ね」

「楽しそうじゃないか」

「ええ最低に楽しいわよ」


 ハンナは机に着き、書類をまとめ始める。

エーサーベインは、踵を返し、扉に手を掛ける。


「……雌狐」

「なに」

「すまなかった」

「……はっ、らしくないわよ」



ロード・エーサーベインは齢17でこの都市にやってきた。

高い実力を誇るが、高慢で、その上、冒険者について全くの無知だった青年。

そんなエーサーベインの実力を買い、彼を助け、多くのことを教え、そして仲間に加えたグループがかつてあった。

『命知らずの赤狐』

ハンナ=ウルフと、バル・ファルケン=ノースもかつてそこに居て。

エーサーベインもかつてにそこにいた、これは、それだけのことだった。





3




「つまるところ、魔導と魔法は3つずつの基本の行使法があります」


 禿頭の教師が講義をしている。

研究者や冒険者に知識を授け、技術を習得させ、その修養を勧める、教育研究機関『学府』

当然のことだが魔惨迷宮にもそれはある。


 一人の少女が真剣な顔でそれを聞いている。

冒険者見習いとでも言うべき冒険者ルーキーのメイニー=ランチェットである。


その隣、

『知恵』の神に祈りを捧げるような体勢で、うつらうつらとしている青年を訝しげに見ながら

この若い才能は、真摯に講壇の向こうにいる、教授の話を聞いている。


「まず儀式小家……誰か!」


後方、一人の少年が手を挙げる。


「一に紋章、二に詠唱もしくは想像、三に儀式、これらの法が存在します」


教授は大きく大きく頷き、説明を始める。


「紋章とは、物質に特定の紋様を刻む技術だ。これは三法の内最も簡略である」


息を切り、歩く。


「なぜなら、既に力をどう動かし、発現させ、どのような効果を起こすか、全て決まっているからだ。

詠唱法のように、自ら考え、脳に克明に想像を構築する必要などないからな」


そして黒板に、文字を書く、物体=武具、機巧、手足、その他万物


「必要ななのは力を引き出し、力を紋様へと合わせることだけだ。次に」


メイニーは手を挙げる。


「では説明を頼む」

「はい」


大きく笑顔を浮かべ、席を立つ。


「詠唱法は、力を引き出した後、それを自由に想像し、望むままの形に変え、外に発現する法です。

想像力の訓練、適性に左右されるため大変に難しいです。

次に、儀式法は、紋章で幾つかの手順を簡略化しつつ、想像と詠唱を身振りなどの記号を合わせ、莫大な量の「力」をそれらに流し込むことによって発現します、その効果は大きく、威力も強大なものです。

これをさして小家儀式、儀式小家という名が魔導にはついています」


禿頭教師は満面の笑みを浮かべる。


「完璧だ」


えへん! と胸を張る少女。


「では、魔法の説明は出来るかね?」


もちろんです!といいたげに少女は口を再び開く。


「魔法の三種は、刻印、信仰=想像、儀式の三法です。

外にある力、源たる絶対神の力を見て、理解して、掴むことはとても難しいことです。

なので、魔法を使える人間は本当に少ないです」


言葉を切る。息を吐き、教師を見る。

教師は頷く。メイニーは続ける。


「刻印は、物質か肉体に記して、外の大いなる力、雲の如きそれを掴むことの難易度を簡略にしてくれます。

予め、その「力」が何処にあり、どんな形で、どんな方向で、どうやって見て、借りればいいのか、それらが圧縮して記されているおかげで

半分くらい自動で外の力を集めて、すっごい効果を発現することができます! 外の無色にして有色の力を、切り分け、好きな色、つまり概念に変えて、魔導では不可能なこともすっごい簡単にできると聞きました」


「他は?」


教師は穏やかに先を促す。


「詠唱想像はとっても難しいらしいです、一から、世界にある力に立ち向かい、概念付けて、動かすからです。

効果の発現も、細かく自分で決めて考えて、定めないといけないて聞きました。

例えるなら、道なき道に、道を作って、そこに馬車まで走らせるようなもの、だそうです」


「法師ネッケルトの『基礎魔学概論』の一説だ。よく勉強してるな……よし! 最後まで行ってみようか」


「はい! ……ええと、魔法最後の法は、儀式法、でもこれは小家の儀式とは比べものになりません。

無数の刻印でショーットカットと道を作って作って、紋章と儀式小家も合わせて描き込んで魔方陣を作って、

そしてその上で、この上なく純粋で、この上なく不純に、多くの外の力を掴み、自らの持てる内の「力」も注いで、

その上、何かの対価、物体を供物として捧げて、ようやく成功させることのできる術法、これこそが儀式大家。そう書かれていました」


「供物という媒体がなければならない、その高密度を力として捧げることにより、ようやく成功できる超術。

うん、あらかたいいね、まあこの辺りは、この先の授業で体験したり、肌で感じたりしながら、細かくやるから今日はこの程度でいいかな」


 メイニーは席に着く。

教室の雰囲気が弛緩する。

勉強に慣れていない存在も多いのだ。


と、メイニーの隣の眠り男も目を覚ます。

メイニーは頬を膨ませながら、眼を覚ました男に文句を言う


「ロッドさん……またねてましたね」


じと目、どこか可愛らしいが、こうなるとしつこいんす、と目を覚ましたばかりのロッドが苦笑する。


「さて、今日の単元は終わりましたが、まだ終えるには少し早い時間ですね」


禿頭は教室を見渡し、ロッドに目をとめる。

目が合う。



「ではロッド。魔具の基本を要点だけまとめて説明してくれ?」


 にこりとした、笑み。

うげぇ、と顔を露骨にしかめるロッド。

とはいえ此処で拒否をすると、隣のお姫様がさらにうるさい、と諦めたように説明を始める。


「んと……えーと、たしかぁ、そう……んっ、ん……魔具は二つに分けられるんすよ、

そいで、……ええと一つは導器。魔導器、魔導、儀式小家の補助道具っす。


刻印型。これは刻印された肉体以外の物質っすね。内力を流し込むだけで発動できる便利なもんす。

結構な数の人が、内力の想像は無理でも、それを引き出して、肉体の近くに放出するくらいはできますからね。


俺ら冒険者の基本アイテムッスよ。後は貯蓄型。これは人間の魂に力が蓄えられるように、物質に器を作ってそこに力を溜められるんすよね。

たしかぁ……つくるには、儀式大家で物質の構成を弄るんでしたっけ。


そいで後は『道』俺ら冒険者の必須アイテム2ッスね。杖なんすよ大概。貯蓄型に力を流し込んだり、貯蓄型から力を吸い取ったり。

人と人が力を移動させたり、貯蓄型と貯蓄型の力を移動したりするすよね」


 もういいかな、という顔で教授を伺うロッド。


しかしそこにあるのは険しい笑顔という矛盾存在。



「ええっと、もう一つは法器っす。魔法器、魔法、儀式大家の補助道具っすね。

えっと一つは「補助」まあまんまっすね、刻印の小さい版、心得、想像のプロセスが頭の中に浮かぶ紋章とか書いてあったりして、

他にも、これから想像しようとする力の概念とかに関係する物品のアクセサリーとかっすね。大抵耳飾りとか、首とか腕とか指の飾りっす。

次は……えと『刻印』っすね外の力の情報をまとめてある物品だったり、外の力を理解しやすくなる紋様だったり、それそのものが特定のプロセスを行うように定めてあって外の力と反応するようになってものっすね。杖とか。あと魔法書とか、こういうのが一杯書いてあるんすよね。

なんというかヒント集と解答集と、取説が一緒になってるみたいな。

んで最後に『鍵』 結構デカイやつっすね。刻めるだけの情報が、刻印が、つまり上の刻印の効果が一杯書いてあるんす。そのうえ儀式に必要なそれようの紋様とか情報も書いてあって、大抵、儀式大家の時に使うものっすね。これ恐ろしく高いんすよね」


そこまでいって、阿呆そうな顔を、緩ませたまま「えと、もういいすか」と言うロッド。


禿頭教授は頭を掻いて、よしっ、と呟き。


「さて来週は『神の金属』『マッフ機巧』『神器理論』の三本立てです、ぜひ予習しておくように

では、終了!」


 生徒達は席を立ち始める。

あるものは酒場に、ある者は家に、ある者は迷宮に、ある者は研究室に。

混沌とした場には奇妙な活気があった。


ロッドはほっと息を吐いて、横にいるメイニーを見る。


ロッドさん、すごいです! と言いたげな顔でこちらを見ている。きらきらした瞳が眩しい。

「ロッドさん、すごいです!」

「期待通りっすね、まあ基本ッスよ、俺は腐っても中位冒険者っすからね、

これくらい知ってないと危険なんすよ」


 どこかとぼけた口調で、短く切り取られた短髪を揺らすロッド。

右の耳飾りは、一応魔具で、そうと分からぬようロッドの耳を揺らしている。


「ほえー、ロッドさんもやっぱり冒険者なんですねぇ」

「やっぱりってなんすか。もう」


えへへ、と笑うメイニーに、毒気を抜かれたロッドは、

しょうがないなぁ、と頭を掻いて、席を立つ。


「さて飯でも食いたいっすね」

「いいですね! 私、味来亭にいきたいです」

「ああ、B定食いいっすね」


冒険者の日常は続く。











下水道には猫が住む。

それは全ての迷宮都市に伝わる、奇妙な逸話である。


曰く、猫が居る。


曰く、猫が住む。


曰く、その猫は耳が二つであり、その癖、愛らしい


曰く、猫は姿を隠している。猫は嫌らしく嗤って、人の子にプレゼントを渡す。


曰く、猫に深入りしてはならない。


曰く、猫の住む下水道は定期的に変わる。




 魔惨迷宮にもその噂は伝わっている。

しかし豚人のロレントォはそれが噂ではない、と知っている。

相棒の鬼族の戦士と、翼人の神官を置いて、彼は、仲間にも秘密にしているこの下水道のある地点に居る。


 迷宮の如き複雑怪奇の下水世界。

縦に横に、斜めに後ろに、下水は通じる。どこにでも通じている。

いやそれは錯覚に過ぎない。

複雑を極めていようとも、下水の先にはゴールがある。

終わりがある。


 貧民街スラムの住人の中でも最底辺の者たちは下水に逃げる。

そこは臭く、暗いが、温かく自由で、しょくりょうも豊富であるからだ。

札付きの悪。面を歩けない者たちの秘密の道、裏世界の者たちの会合。


 下水にはもう一つの世界がある。

それは臭く、暗く、そびえたつ糞のような世界である。


そこに光は届かない。


そこに清浄はありえない。


秘密の娼館。窃盗団やら暴力団の秘密のアジト。


常に女性の悲鳴が、喘ぎが、絶望の匂いを纏わせて、陰鬱に響く、都市の裏世界。


それこそが下水。


 真っ当な人間は近づいてはいけない。

最貧民は壁なのだ。その先にあるのは、暗く恐ろしい闇だけだ。


 真っ当とは言えないが、決して悪の世界の住人ではない豚人オークのロレントォ。

高位に位置する冒険者の彼は、ここに用があるのだ。


 それは天国の如き至天の娼館ではない、便所の如き至獄の娼館でもない。

彼がここに来るのは、知る人ぞ知る、ある店に用があるのだ。



下水世界。

地下三階、第三東北域、E17区画。


一切の下水が流れ込まず、一切の下水がどこにも行かない。

建築工事の段階でどことも繋がらないことが決定された。

複雑な下水区画。


 地下を降り、降り、そして動いて、目印を探し、曲がり、登って、歩いて、撒いて、曲がって、

そして降りて歩いた先の行き止まり。


 そこで顔を上げるがよい。

そこにあるのはマンホール。

 

 石を三回、決まった間隔。

そして開くは、秘密の商店。


 

 猫のようで猫ではない、ちょっと猫。

そんな存在が運営する店。



「にゃっ、にゃあ」


この店は、世界でも数少ない、神器製作と修理を専門とする店。


『猫耳亭』


「にゃ、にゃっ、にゃっ」


金を数えるのは、閉じた下水で、金を稼ぐ謎生物。


フード、全身を覆うコート、脚にはスーツ。


顔にはマスク。しかし口元は空いている。


そのほかに外気に晒されているのは、


ぴくぴくっ と動いている猫の耳。


俗称ネコミミ。

それを言うとこのマスクコートネコミミさんは怒り出すので注意が必要だ。


 対面に居て、猫人の商店主が、いま渡したばかりの金を数えるのを、

ただただ眺めるのは、大柄の亜人。


 全長2m程の高さの屈強な肉体。

上半身を覆う軽鎧から溢れるのは見事な体毛。

高位冒険者、豚人のロレントォだ。



 そして豚人は、下水で、謎の猫人と、向かい合って、地面に座っているのだ。

金を数える猫人の後ろには、大きなテント。

奇妙な光景だ。

馬が喋れば人は驚く、それに準じるその光景を、しかし見るものは誰も居ない。


「おーけーですにゃ」

にしし、と嫌らしく嗤う口元

猫人の筈なのに、髭がない。

抜いているのか、体質なのか、しかしロレントォはそのことを聞くつもりには全くなれない。


 はい!交換の品ですにゃ、と言って、テントの手前の鍵付きチェストから浄銀に輝く大剣が取り出される。


「っへへ、あっし、自分で自分を褒める程おちぶれちゃぁいませんが、どうですかにゃ?見事ですにゃ?」

「おう」


 剣を受け取る。

ロレントォが剣を見る、一片の曇りなく剣は、清々しい銀、冬の朝を思わせる清浄を煌めかせている。


 思わず唸る。

相変わらず凄まじい技量だ。

愛刀は、明らかに前よりも自らの手に馴染んでいた。馴染みすぎるほどだ。


手先と柄の境界が消失し、あるのはただ己の魂と、銀に輝く刃のみ。



第1級聖遺物、ふとそんな言葉を思う。



「凄まじいな」


ロレントォは素直に感想を伝える。


皎々とランタンが8つテントの周囲に存在している。


『マッフ機巧』のランタンと冗談めかして言われたが、

強ち冗談ではないのかも知れない。

ロレントォは、この店(とはいっても何も流れていないだけで、ただの下水の一区画なのだが)に来るたび

底知れない恐怖を覚える。ここには長居してはいけない。

ふとそう思う。


「にゃあ! たまにはお茶でもいかがですかにゃ?」


 マスクの下、何を思っているのか。

口元にはニヤリと、嫌らしい笑みが張り付いている。


「遠慮したいところだ」


とはいっても聞いては居ない、既にテーブルは用意され、その上にはティーカップとソーサー、ポット、レース。

クッキーは甘い匂いをまき散らせ、紅茶は香しい。


「全部自分でよういしたにゃ!」


茶会が始まる。





 豚人ロレントォこと『銀鬼』ロレントォはしかし本来ここまで、下手に出るほうではないし、

通常は、なにに対しても自信を持ち、引かず、怖じ気づくことのない、不屈の精神を持っている。


 特定条件下の戦闘能力では、最高位冒険者に匹敵することから、高位冒険者でありながら二つ名として『銀鬼』を呼ばれている。

根っからの武闘派でありながら、リーダーシップにも優れ、迷宮の知識にも長け、戦闘スタイルも巧みだ。

その勇猛果敢も、しかしこのフード上の耳のみをピクピク動かすマスクコートの前では発揮されない。


「へえ、最近はそんにゃのが上で流行ってるんだにゃ」

「ああ、一時期どいつもこいつも、そればっか食ってたな」


 これはもう定番になりつつある儀式。

取引を終えた後、猫コートこと店主が、ロレントォを引き留め、お茶をする。


 とりとめもない日常の事件から、最近の流行、国際情勢、迷宮の噂、事件についてロレントォが語るというものだ。

ロレントォ自身はこれを取引の一種と考えることによって情報を無料で渡しているわけではない、と誤魔化している。

これも賃料に含めている、と考えることで諦めているとも言える。


「にゃにゃにゃぁ!ばっかだにゃぁ、そいつ」

「おおう、みんなの笑いの者よ」


とはいえ完全にロレントォの無料払いというわけではない。

他の客がもたらしたらしい情報を、店主が喋ってくれるのだ。


店主は時々なんでも知っているように見えることがある。

底知れないのだ。

『マッフ機巧』らしきランタンといい、その物腰。

なによりも、ロレントォの一番の武器である。超直観といってもよい

天性の直観が伝えるのだ。

ここには何かある。あの一番奥の大きなテントの奥、そこには『なにか』がある。

そしてそれは決して、自らの手に入ることはない。

それを知れば危険、それを観るのは危険、それを考えるのは危険。


 ふと。

店主の、マスクに隠れて見えない、その眼差しがこちらを冷徹の観察しているように見えた。

嗤っていない、笑っていない。


「にゃ!他には、にゃにか、ないのかにゃ?」

「っ……そ、そうだな、これはメインというか一番の話題なんだが。

あのバル・ファルケン=ノースが未帰還者になったんだよ」


 この情報には、ロレントォも背筋を凍らせたものだ。

あのバル・ファルケン最高位冒険者の未帰還。


 一体なにがあったのか、なにを見たのか、見えぬ恐怖への想像は尽きない。

なによりも、自分たち亜人種に対しても分け隔てなく接し、時に助け、時に応援してくれた。


気の良い人格者であった彼への哀悼は尽きない。


――惜しい者をなくした。


ロレントォは静かに『死』と『混沌』に祈りを捧げた。


「確かその人って最高位冒険者、だったにゃ?」

「ああ、腕利きで、単独潜行の連続200回成功も達成していた最高に優秀なマッパーでもある」

「惜しい人を亡くしにゃか?」

「……俺はそう思うよ、バル老には俺たち亜人仲間も世話になった。気持ちの良い戦士だったからな」


「そうにゃ、親しい人が死ぬにゃは悲しいことだにゃ」


 ロレントォは驚く

珍しく、店主が、素直な感情を見せたように見えたからだ。

店主にも生はあった、これからもある。

それは当然のことだ。


なのに驚いたのは、この店主が余りにも得体が知れないからだろうか。


「ああ、後もう一つ、ロード・エーサーベインの敗北だな」


話題を変えるように呟く。


「その人もたしか最高位冒険者だにゃ?」


とフードに覆われた頭を傾げる猫店主。


「ああそうだ、いけすかねえ野郎だが実力は本物だよ

こいつの敗走のせえでなぁ、今ちょっとアマちゃん冒険者どもがぐらついてやがるんだよ」


「なにに負けたにゃ?」


「布告によると蟹の化け物らしいな、すんげーでっかいんだと」


「――蟹」


 途端、空気が冷えたように感じる。


ロレントォは、気づく、目前のネコミミフードの放つ気配が豹変していることに。


凍えるような冷厳さ、真冬の大霊峰に身を落としたかのような、戦慄。


「……ぁ、ああ!」


声が震える。


目が、店主の目が、マスクで見えない筈の目が言っている。


――続きを言え、と。



「でっかい蟹で、噂によると『黄金剣』――エーサーベインの神器の一撃だが、それが全く効かなかったらしい。眉唾ものの話だが、あいつの最高の剣撃で小さな刀傷が出来ただけだとかなんとか」


「他には」


「い、いやそれだけだよ、ほ、他には知らねえよ、本当だ」


 怯えるように、いやこの瞬間、確かにロレントォは怯えていた。

壮健かつ精強なその肉体を、丸めるように小さく強ばらせ、

目前のマスク。その見えぬ眼から伝わる冷たさを恐れた。

いつもは嫌らしいチェシャ猫笑いかドヤ笑いしか表されていない口元も。

今は、真っ直ぐに、なにもおかしいものはないと言いたげである。


「そうか」


 店主は、そう呟いた後。

考えたいことがある、と言いロレントォに帰宅を促す。

ロレントォにとっても此処に居たい理由は存在せず。

その促しを、これ幸いといった喜色満面の笑みで請け、


「お、おぉ、それじゃ、あんたも元気で、また今度」


と言って、速やかに外の下水へと帰って行った。


それに構わず、猫は沈思に耽る。


「蟹か。……蟹、蟹、蟹」


 囁き、呟き、念じる。

ぼそぼそと、確認するように、考える。


蟹の復活。このご時世に蟹の復活。


猫店主にとって、これは冗談では済まない事態だ。


彼が最後に眠りに着いた時に、迷宮と冒険者を巡る今のような状況はなかった。


蟹は、温厚だ。


 しかし、降りかかる火の粉は払うだろう。

迷宮や冒険者に、多くの被害が出るかも知れない。


 猫店主は今の世界の情勢や状況をそんなに悪いものとは思っていない。

しかし寝起きしたばかりの蟹に細やかな判断を期待するのも酷というもの。


「なんとかしなければ……にゃ」



 下水の奥の奥。そこには秘密の下水区画がある。


一匹の猫が、浅く嗤って貴方をお出迎え。


みんなおいでよ秘密の商店、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ。




そんなある日の下水であった。





・『九烈士』


『有角姫』ネーベンハウスに付き従った、人族と精霊族の勇士9人。

いわゆる『英雄進撃』という『有角姫』の勢力旗揚げから、その伸張~建国の破竹の勢いに関わり、作り出す原動力ともなった、腹臣の将である。

その後、『有角姫』が天上に喧嘩を売った後に『正義』『神官』などと内輪揉めも起こしたりしたが、最後には九烈士全員が『有角姫』に従って旧神と戦うことになる。

天上戦争の後、新暦において、九烈士は皆、神として信仰されている

『正義』『知恵』『混沌』『秩序』『闘争』『平和』『誠実』『物質』『法』

の九神である。神学者によって神の属性の偏りが指摘されるも解決の目処は立っていない。



列伝


『神官』アジョリナ


モレサス神聖神殿直轄領モレサリアの出身

齢8の時に、神との交信に成功した。

史上最年少の大巫女。

神に最も愛されし才能とまで謳われた。旧神信仰界の寵児。

ネーベンハウスの『英雄進撃』に神の意として付き従い。

齢23の時には、モレサス神聖神殿の長として新帝国への神殿領移譲を指揮した。


後にネーベンハウスと敵対するも、彼女を止めること叶わず敗北。

彼女の意識に一体どんな変化があったのか、その史料は一切残っていないが、

旧神から転向。以降『天上戦争』においては最も旧神を殺めることととなる。

その数は9柱。これはたった一人で殺した神の数としては最多である。

神の僕。天使。戦士といった神直属の配下まで含めるとその数は1000を下らないという。


新暦においては『秩序』アジョリナとして信仰される。

本人は地殻の下。地獄にも似た世界の底で。神を殺したことによる呪い、咎の責め苦を受け続けている、とされている。





『無貌』チャルデルラス


出身不明

乞食とも言われる人物。

その経歴は不明だが、絶対神研究の学者兼神官であった説が有力。

またアサンデル王国において『無神論』『汎神論』他17箇条の異端宣告により

刎頸された人物の話が記録されているが、その人物との経歴の類似が指摘される。


神秘主義者であり、神秘理論の大家。また術式としての神秘法に最も精通していたとされる。

偽神である『旧神』への断罪に燃えていたとされ。

一切の多神を否定し、常に神と無。忘我的な瞑想に一意専心していたらしい。


新暦のおいては『混沌』チャルデルラスとして冒険者やならず者に信仰される。

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