朝。さあ練習、練習!! 蟹は頼りになる蟹
1
朝の清々しい日射しが部屋に入り込む。
今日も変わらぬ陽光が、少女と蟹の暮らす一室の、広く澄んだ窓に燦めく。
文字通りの輝かしい自己主張が、部屋を照らしていた。
「うむ、どうだ絶好の修行日和ではないか」
蟹は甲羅を揺すってうんうんと頷き、人が首を振る動作を真似ている。
日射しは甲羅に反射して、蟹は今日も、元気に青い。
煌めく蟹の甲羅は奇妙に弾んでいた。
「…………あんたは、いつも、元気ねぇ」
質の割に恐ろしく安い、お買い得賃貸物件の、気怠い朝。
良い匂いが漂っている。
コーヒーの滴る音もする。
少女が都市に暮らして初めて味わった珈琲も、今では少女の朝に無くてはならないものだ。
(蟹は興味津々といった様子でストローを使いそれを啜ったが、
今イチ口に合わなかったようで、「このような泥水の何が旨いのか」とぶつぶつ文句を零していたが、
所詮、甲殻類の戯言と少女は華麗に切り捨てた)
少女の朝の習慣と化した、一杯の珈琲を煎れるのは侍女ケントゥム。
いつも変わらぬ鉄面の無表情のまま、淡々と少女が飲む珈琲を拵えている。
味の程は中々、鉄面皮にも愛嬌が滲むのは気のせいか。
柔らかな暖炉の弾ける音。
寒い朝には火が欠かせない、壁材が、それに応えるように木々の香りを漂わせる。
鴉は一週間前の家財購入週間の際に、蟹が購入した止まり木兼コート掛けの天頂に座り、
何処か眠たげに、室内を睥睨していた。
海月の姿は見えない。
しかし何時ものことであるのか、それを疑問に思っている者はこの部屋にはいないようだ。
既に習慣となっている海月の都市散歩。とでも言えばよいか。
ともあれいつもどおり、何事もなく平穏な日常の、
その穏やかな朝の一幕。揺籃を思わせる淡く気怠い空気の中。
少女ルナーレは純白の毛布を被り、寝具で丸まっていた。
呻きながら、蟹の元気な声には生返事を返し。
それに対して蟹は、急かすように、煽るようにジョキン、ジョキンと鋏を鳴らした。
黒い眼を輝かせて、侍女の冷たい視線もなんのその、煩い位に鋏を掻き鳴らし、甲羅を揺すっている蟹。
ジョキンの連打には、奇妙な愛嬌が漂っているが、厳然とした安眠妨害である。
が、しかしルナーレはくぐもった呻きを挙げるだけで、
繭のように白いシーツの海を揺蕩っているままだ。
無精だ。しかし責めるのも酷である。
昨日の少女と蟹と海月の初依頼はどうにか達成されたが、
その為に慣れぬ姿勢を継続的に取り、絶えず神経を働かせるということをする羽目になったのだから。
そして日頃せぬことをするというのは、人間にとり思いの外、疲れるもの。
肉体的な疲労だけではない、そしてまた精神的な疲労。
それが少女を苦しめたのだ。
少し昨日のことを回想させてもらえるのならば。
蟹と少女。海月と医師マックガネンは、二手に分かれて後。
それぞれゆっくりと、しかし着実に仕事を進めていた。
そして少女が、蟹の背負う籠の半分を、目的の薬草群で埋めた頃合いに、
彼らはもう一度集合し、仕事の進捗を確かめた。
少女が籠を差し出して
(隣には己の鋏が、植物から滲んだ緑液に染まっていることに意気消沈している蟹が居る。
黑い円らな瞳は、何処か淀んで見えたが、少女は華麗に気にしない)
「どう、これでいいの?」と、依頼人に聞けば、
陰鬱な隈が特徴の医師マックガネンは、まるで石を精査するかのような無造作無感情の瞳で、
籠の中を睥睨し、差し出された物を精査した。
数瞬の後、医師は首を振り、これ見よがしに溜息を吐いた。
籠に手を入れ、幾つかの草を取りだす医師マックガネン。
そして当然のことを注意する保育士の調子で「これは燈命草ではありません」。
そう言われ、苛立ちを隠せず、金の髪を震わせる少女の顔は険しい。
形の良い顔が、心外と言いたげにに歪めらている。
「……は、はぁ!? どうみても同じじゃないの!!」
「……これは偽燈命草。よく見てください、先のヒダが燈命草の方は二重ですが、この偽燈命草は一重です」
少女は鬼のように目をこらす。まるで我が子の仇を見るかのようだ。
そして、反論することなく、顔を苦めてやや首を落とした。
「……たしかに」
「それと、こちらも違います」
「はぁ?」
「これは燈命草モドキ、よく見てください根の部分が螺旋型です。
本物は二股の形です」
少女は無表情である。
蟹はその隣で、うぅと呻きにも似た鳴き声を上げている。
口の泡を鋏に吐きかけて、懸命に鋏を洗浄をしているのだ。
海月はふよふよと漂う。
近くのトンボがその透明な傘の天頂に座っているさまは自然と和やかだ。
そして和やかならぬは少女。
己よりも背の高い白衣の痩身医師を睨むように見上げている。
しかし構わず、医師は言葉を続けた。まるで幽鬼のような剛毅さだ。
「それとこちらは偽燈命草モドキ、こちらは茶命草、こちらは燈命草モドキモドキ、そして……」
子供の使いも出来ないのか、と哀れむような優しさが感じられる声音で、
医師は、籠の中にあった大半の草を取りだしていく。
少女の顔はなぜか平坦で感情が窺えなかった。
「ねぇ」と問いかける
「……ん、なんですか?」と医師が聞き返した。
「…………帰っていいかしら」
蟹が、満足そうに甲羅を揺すって頷いて、己の鋏を眺めている。
鋭い刃、ノコギリのような刃から視線を離さず蟹がいかにも適当そうに答えた。
「どうしたルナ嬢、ギブアップか?」
「っ、違うわよ!?
でも、ちょっと言いたくなるのもしょうがないと思わない!?
うだうだちまちまと、何この仕事!? 何なの!?
一体なんの修錬な訳!? 苦行!?」
金髪を振り回して激昂する少女。
「言い得て妙ですね」
爽やかな声音で頷く医師。
認めるのっ!? と言いたげに少女が医師を凝視する。
遙か年下の少女を宥めるように、年甲斐の無い蟹がいかにも真面目そうにツンとお澄まししている。
「むう、気持ちは分からないでもないがな。
しかしな、うむ。そうは言ってもルナ嬢。
糧を得るのに何よりも必要なのは忍耐、そして集中力ではないかと思うぞ。
俺も昔、河の蟹で在った時に行った狩りは毎度このような地味で面倒なモノであった。
蟹でも知ってる簡単な事実だ、と言うわけで大人しくした方がよいのではないかな、うん。
それとな苦行を上手く捌くコツはな、ルナ嬢、心を殺すことだぞ!!」
「げっ、限度があるのよ! 限度がっ!!
しかもそのアドバイス、役に立ってないし!!
にこやかな声音で言うほどじゃないからねっ!?」
顔を先ほどまでの白さから一転、猿のように赤くして喚く少女。
蟹は綺麗になった鋏をジャギンと試しに鳴らしながらも、
その黑い眼を少女に向けている。
ともあれ、そういった次第が続き、
だがそれでも、やらなければならないことを見失わないという美徳を持った少女は、
歯を食いしばって仕事に挑み、どうにかこうにか仕事をこなしていく。
(先ほどの感情の発露は若さゆえだろうか。
齢十四の少女だ、分かっていても言いたいことが生まれるのもしょうがないだろう)
そしてようやく、仕事は終わり、陽が落ちる直前に丘を発つ。
暗闇に支配された自然には多くの脅威が潜み、
無数の魔獣が活発に獲物を吟味し始める時分であり、
ただでさえ疲れに満ちた身体を、警戒で軋ませて、少女は歩く羽目になった。
軋む神経、踊る蟹の恨めしい陽気さ、澄ました態度の医師への怒りにも似た感情。
可愛い海月は、少女の頭に帽子のように乗っかり、少女が坂を下ると触手が揺れて、とても苛立たしい。
優しさは、果たして何処にいってしまったのだろうか。
陽が完全に落ち、少女一行が都市の南大門に着いた時、少女の疲れは頂点に達していた。
(とはいえ蟹が己の背中に乗ることを一度聞いたのに対して、
それを断った辺りは、流石に少女の意地なのだろう。
相変わらずの少女の矜持に苦笑にも似た音が、蟹の顎から漏れ出た)
その場で医師から、
とても安い賃金を貰い、疲れ切った身体にむち打って、家に着けば寝具に直行。
そして少女は洗うモノも洗わず、速やかに寝間着に着替え、そのまま深い眠りへと就いたのだった。
そういう一日が昨日であり、
それを踏まえれば、この少女の倦怠感に満ちた朝の態度も納得がいくのではないだろうか。
蟹は、やはり元村娘ゆえに、しょうがない甘さであるのだろうな、
と溜息を吐く代わりに、泡を口から吐き出しながらも、
少女の造り出した、妙に緩やかに時の進む朝の一幕を、
苦笑を持って眺めるのだった。
2
そういう経緯からか、不可避的に身体から倦怠感を漂わせている少女は、
蟹の必死(という名の愉快)な鋏の交響曲と無駄に低い声音の目覚まし歌唱を一時間耐え忍んだが。
結局は蟹の信頼に(あるいは稚気に)満ちたモーニングコールに敗北し、
いかにも頭に血が巡っていないという呆けた顔色と、
虚空をさまよう瞳を揺らしてテーブルに座っていた。
寝間着でもある白いシャツが、節々の痛む身体、
そして手入れを怠ったために少しくすんだ金髪とともに揺れていた。
椅子に座って、如何にも頭の悪そうな顔で目前の珈琲を見つめ、
ついで足をぶらぶらと揺らしている少女ルナーレ。
真白いエプロンと白磁めいた美貌の侍女は、
大急ぎで、一切の無表情のまま、ルナーレの背後に立って金髪を梳いていた。
「……ふぁぁぁぁ、……ん」
欠伸。
蟹は溜息。
「いい加減、目を覚ましたらどうだ? ルナ嬢よ、……うむ、珈琲が冷めてしまうぞ?
…………ぬ? ふむ、やるではないか」
言いながら蟹はここ一週間の間に入手した将棋盤を、
鴉の前に置いて、めくるめく頭脳遊技に思いを馳せていた。
「……うん」
と力無く零す少女、既に一週間もこの部屋に住んでいれば、身体が家だと認識するのか。
当初あった緊張感は微塵も無く、
それどころか侍女や鴉がいる生活にもすっかり慣れきってしまったようだ。
「……お疲れならば身体を休める、それは無駄なことではありません」
冷たい、よく通る声で、背後に立った侍女ケントゥムが少女に囁く。
無表情で、エプロンドレスを揺らしながら、宝石にも似た瞳に微動だにさせずに
髮を梳く侍女の絵図は端的に言って、奇怪だった。
「ありがと、ふわぁ」
「……そろそろ食べて頂かなければ、冷めてしまいます、ルナお嬢様」
「うん」
蟹の巨大な鋏が、苛立たしげにカチンと鳴らされた。
この蟹が、将棋盤において鴉に負けそうなことと無関係ではあるまい。
鴉は黒い眼をいかにも愉快そうに、光らせてカァと啼いた。
「ぐ、むぅ、ま、待て、この俺が鳥類風情に負けるなどと……ッ!」
「あんたも甲殻類じゃないの……あ、このサラダおいしい」
蟹は少女が二人も座れそうな、青い大甲殻を揺らしている。
焦燥によってか、しかし鴉は平然と、いかにも挑発的に己の翼を毛繕いした。
ブラシと、酢、そして石鹸と水を使い、簡易ながらも丁寧に、
ともすれば無表情ながらも楽しんでいるのではないかという熱心さで、
侍女ケントゥムは少女の髮の手入れをしている。
この光景もすっかりこの一週間でお馴染みのモノとなった。
最初は渋った少女も、侍女の奇妙な熱意、無表情ながら滲む凄みと、
その丁寧で、何よりもきめ細かいケアに己の命たる髮を預けたのだった。
「サラダは新鮮なモノ、青葉菊、あるいは大王キャベツが安く手に入ったので、ルナ様のお口に合えば幸いです」
「本当に、なんでも出来るわよね、ケントゥムは」
「光栄です」
ドアの有る側とは逆側の壁にある、二枚のガラスから入り込む朝日は眩しい。
鮮烈な、その白い靄は、少女の眠たげな瞳をちらちらと焼いて、
その覚醒を促していく。
「……今日も、良い天気ね」
「ええ」
台所の傍にあるベランダへと続く窓は開いている。
心地よい春の朝、風が身体を撫でて、これもまた少女の身体を揺り動かした。
「っ、く、ま、待った!!」
「ガァァァアァ!!」
少女が視線を、テーブル上のサラダ、珈琲、そしてトーストから動かして、
床に座っている巨大なキチン質の怪異と、黒羽に身を包んだ鳥類へと移した。
鴉は翼を器用に、嘴の前で交差し、「待ったなし」と。
蟹は、ノコギリ状の部分と、鉄さえも容易く切り開く強靭さを併せ持った鋏を、
甲羅の上に置いて、
まるで人間が頭を掻くようなジェスチャーを己の甲羅で行っている。
円らな黒い、少し飛び出た眼には焦りが滲んでいるように見え、
言葉を変換する紋章が刻まれた口内からは、青みがかった泡を吐いていた。
「むう、油断、そう油断したのだ!」
「カァー」ほんとかよ? と言いたげに頭をちょこんと傾げる鴉。
「当然だろう、ふ、ふふ、次は、俺の本当の力を見せてやることが出来るだろう。
ふむ、肩慣らしには丁度よかった、さぁ、もう一度だ!!」
――やだ、あの蟹カッコワルイ。と少女は内心笑う。
――というか良く、鋏と嘴で、そんな小さい駒を動かせるわね。って、魔導か。
なんて無駄遣い、と思いながら。
そこで少女は、今日の予定を思い出した。
今日のこの後の予定は鍛錬。
日々行っている、基礎訓練、体術と魔導に関するそれだ。
「ふぅ、ごちそうさまケントゥム、食器は洗って……」
「結構でございます、ルナ様はどうぞお座りください」
「……でも」
と、零す段階では、侍女は既に流し台へ足を運んでいる。
少女は本物の黄金のように艶やかに陽光を抱き留める髮を触りながら、苦笑した。
融通の利かない同居人。
ともあれ久方ぶりの穏やかな、本当に穏やかな朝であった。
3
「鍛錬とは継続、大きな力とは日々の小さな努力より、だ」
蟹の声が屋上に響いた。
古代から綿々と続く大都市エミダリは、世界の他の地方と比べても非常に高い建物が多い。
地震の滅多に起きない、なおかつ厳重に地盤を儀式大家により固定された土地柄がそうさせるのか。
古くから連綿と続いた石造建築様式は安定と革新を重ね、その堅実さを象徴するように、
エミダリの中央区を中心にまるで墓塔のように、
白や黒、茶色の石造建築が建ち並んでいた。
この五階建ての住宅もその一つで、背後には北地区と中央区を分断する城壁があり、
その城壁よりも数Mほど高い位置に屋上は存在した。
鬱蒼と立ち並ぶ膨大な建築群が、この高さからだと容易に窺え、
青く清々しい空に燦然と輝く太陽の暖かな陽光を浴びるこのマンションの屋上からは、
周囲に三階建て以上の建物が少ないこともあって、
地表の住民が何をしているのか、どういう営みを行なっているのかが一目瞭然であった。
「はいはい、わかってますよ」
と嘯くルナーレはその屋上、それなりの広さ、それこそ道場に匹敵する広さの屋上の中心で、
座る蟹の上に胡座を掻いて座っていた。
目を瞑り集中する。
数日前から見られるようになった、半ば日常的になりかけている行為。
少女の鍛錬の為に、蟹が近場の運動場を管理人の老婆に聞いたところ、
蛇のようないやらしい笑みを浮かべた後で、老婆は鍵を差し出し、
「へっへ、屋上がね、あるんだよ」と目をひそめ、囁いた。
蟹は首、ではなくて甲羅を傾げて、奇怪な老婆の、無我に怪しい言動を訝しく思いながらも、
その好意をありがたく頂戴し、
こうして少女との様々な鍛錬へと利用することにしたのだった。
「いいかルナーレ、自らの器、【魂】の奧にある【器】を探れ。
ふむ……そうだ、集中しろ、息を吸え、吐け、深呼吸だ、そして確かにある、己の内蔵、
あるいは第六の指とでもいうべきそれに意識で触れろ。
意識とは【魂】に付随する操作機のようなものだ、うむ」
朝はやくからのランニングの後、時間があればこうして屋上に出て、少女は瞑想する。
時間がなければそれこそ、部屋の中で。
日々の瞑想は、効果の程がすぐに現れるようなモノではないけれど、
しかし確実に、それこそ無制限に広がるモノ。
そう教わり、そして少女は厭うことなく、【海月】に器を撫でられた日から、
己の身体の内に潜む、暖かな、雄大な、広大な、光り輝く可能性を意識できた日から、
毎日欠かさず瞑想を行う。
指の一つ、腕の細胞、耳の先、足の小指の裏、まつげの根本、内臓の蠢き、
舌の鼓動、たゆたう流れを追い、隅から隅まで丹念に、
ひどく小さな模型を作るように、
あるいは極々小さな針の穴に糸を通すように、
細密に、細緻に、努めて細心に、
【魂】に意識を巡らせ、【魂】という観念、形而上的な精神物質。
しかし確かに心の奥深くに存在する【力】の塊を触る。
触り、感じ、撫でて、意識で撫でて、意識を指として、
その可能性の塊を薄く、徐々に、伸ばしていく、弾力を押しのけて、広げていく。
息を大きく吸い、そして吐く、
鼻から入った気息は、身体を巡り、腹で渦を描く、
どんどんと冷静に、なにより覚醒していく意識の下、
瞑想は二時間も続いた。
……
…………
「ふむ、これぐらいにしておくか」
「……そうね」
太陽が頂点に達する寸前、
遠くから変わらず聞こえてくる喧噪、賑やかな声、あるいは怒声、
屋上の垓下から聞こえてくる足音に、ルナーレが気を取られたことを切欠に、
深い沈黙の時間は終了した。
沈黙の終了とともに丁度、
屋上に突き出た階段を囲んだ小屋の扉をスレンダーな侍女が、長い銀髪をなびかせて姿を表した。
太陽を弾くように、まるで本物の銀が使われているのではないかというくらいに輝いた頭髪を揺らし、手にバスケットを持ち、近づいていくる。
「お疲れ様です」
「うむ」
「……あ、ありがとう ……ケントゥム」
侍女は静かに礼をして、柔らかなしかし無駄のない物腰で歩く。
甲羅を垂直に、蟹は立ち上がり、まるで人間のように伸びをして、
少女もそれに習うように、凝り固まった全身の筋肉をほぐす。
侍女は水を少女に差し出し、
少女は差し出された水袋に礼を言って、それに口を付けながら、
少女は目をすぼめて遙かな地平線を窺う。
遠く南地区、東地区、西地区、北地区、
そこに並ぶ建物、小さな点のようになっているが窺える人々の脈動。
遠くあれは下馬上人か、あちらのあれは馬頭人、下半身だけが蛇の女性、
翼の生えた人間、巨大な蟻の荷馬車、空飛ぶ巨大な蠅は、空挺馬の一種か。
エミダリを象徴するような多様な生命、職種の賛歌が、見ているだけで伝わってくるような、
この屋上からの眺めが、少女ルナーレは嫌いではなかった。
「こちら、昼食にサンドイッチでございます」
「わぁ、いいわねぇ!」
「……うむ、ケントゥムよ、訊ねたいのだが? 俺には水はないのか」
「具材はルナ様の好物と記憶しております、銀鱗の川魚、それとレンダル豚のハムなどなどを卵と一緒に挾んでおります、新鮮で瑞々しいレタスと一緒にどうぞ、
あ、あとペンタ様、水はご自分でお出しになればよろしいのではないでしょうか? ええ」
「むう、最近露骨に扱いが変わってきたような……」
悔しげに蟹は鋏を振るわせる。
まるで歯ぎしりするかのような音が奏でられた。
しかし少女も侍女も気にせず昼食を開始したのだった。
……
…………
「ふぅ、と、次はなにするの?
腹筋? スクワット? 腕立て?」
少女はくりくりとしたツリ目を、首と一緒に傾げ、地面に敷かれたシーツの上で欠伸をした。
「むう、今日はだな、少し魔導について課程を進めようかと考えていてな、ふむ……」
思いもよらぬ言葉に少女はテンションを上げる。
「へぇ! いいじゃないペンタ、いい話よ、それ」
にこやかな笑みは、村娘のような素朴な喜びに溢れていて、
しかし村娘らしからぬ明眸と、白い歯が、嬉しさに光った。
「で、何をするの?」
「基礎の基礎の基礎が瞑想とするなら、次は基礎の基礎――導力だ!!」
蟹は立ち上がり、くるりと周り、鋏の先から水を出す。
水鉄砲のような勢いで、水が少女の顔にかかる。
「……何してくれちゃってるの?」
「ハハハ、 ジョークだジョーク、というかそれくらい避けないと、冒険者としてやっていけないぞ?」
「むう、反省の色がなさ過ぎて、なんだか素晴らしく残念な気持ちになったんだけど?
……あんたいい加減にしなさいよ?」
蟹が両手を振り上げて、どうどう、とジェスチャーを作る。
「あたしは馬かッ!!
「ふふん」
「……ったく、で何をすればいいの?」
「簡単なことだ」
そして蟹は少女に、己の甲羅に座るように鋏でくいくいとジェスチャーする。
人外らしい顎から吹き出た泡が風に煽られ飛んでいく。
侍女は、一連の流れを横目で確認しながら、濡れた少女の髮をハンカチで拭いていた。
見ればいつのまにか鴉が屋上の縁に止まっているのが見えた。
「己の【器】を見つけ出し、その【器】を何度も何度も刺激して、
徐々に拡張できたのなら話は早い。
【器】を触ることが出来るのなら、己の【器】に満ちる【力】を触ることも容易い。
意識と【力】をシンクロさせる。
【力】を強く……そうだな、うむ」
簡素な、綿製のジャケットに、淡い色合いの下履きを風になびかせて、少女は蟹の講釈に聞き入る。
「例えるなら、なんだ、ふむ……己の意識と【力】を同調させる、接続する。
人形劇の人形のように【力】と意識は結ばれる、それを操るような」
「ペンタさま、説明に明瞭さが欠けてるような」
「カァー!!」
蟹は鋏を振って、どうすればいいのか考え込む。
「ま、いいわ、とりあえずやってみるわよ」
「うむ、そうだな、うん習うよりは慣れろ、
釣りをするなら講釈を垂れる前に実際に釣りをすればいい。そういうことだ。
ちなみに俺が昔、ただの河蟹だったころ、ザリガニ釣り用の餌に間違って引っかかって九死に一生を得るという……」
「ちょっと集中が乱れること言わないでくれる!?」
ハハハと、無機物的でありながら可愛らしい黒目に喜悦を滲ませるペンタ。
少女が目を瞑ったのを確認して、蟹も目を瞑った。
……
…………
「……全然できない」
「ふむ、全くだめだめだなぁルナーレ嬢は」
人であったなら満面の笑みを浮かべてたであろう声音で、
蟹が鋏で頭上にいるルナーレの足をぽんぽんと叩いた。
「あたし……」
「が、まあそんなに簡単にできることでないのは、分かっていたがな!!」
「へ?」
「自転車の乗り方を講釈だけで会得できるわけがなかろう?
うむ、まあ俺は身体の構造上、自転車には乗りたくても乗れないのだがな!!」
妙に偉そうに、しかし意味のないことを言う蟹に、
少女は驚きながら僅かに呆れた。
「……で、何が言いたいの?」
「ケントゥム!」
言われ、一切の感情を思わせない無表情の侍女が、何かの棒を取り出す。
「ここに」
蟹はその巨大な、少女の太股など簡単に鋏み、ねじ切れてしまうだろう棒、
正しくは【道】の杖。歴とした魔導具を鋏の先でちょんと摘んで、空へと掲げた。
もし、巨人が居て、この光景を見ていたのならば、
水槽の中の小さな蟹が、落ちていた爪楊枝を拾って、なんとなく挾み、それ掲げて振り回した瞬間を目撃したかのような、ほっこりした気分を味わうことは間違いないだろう。
その挙動には触れず、少女は先を促す。
「それは……杖?」
「これは魔具だ、ルナーレ、【道】と呼ばれる道具だよ」
流し目で、その魔具をぶんぶんと振り回すペンタ。
「【道】って聞いた事はあるけど」
「これは【器】と【器】を繋げる橋の役割を果たす道具なのだ。
この物質は穴の空いた【器】を内包していてな、端と端を伝って【力】を移動できる。
貯蓄型の魔導具や、他人の【器】に【力】を注ぎ、非常時には大変役立つ冒険の必需品だ、うむ」
といって蟹は頷く。
少女は目を丸くして、首を傾げた。
「で、それがどうしたの?」
「ふむよくぞ聞いてくれた……」
蟹の鋏――【道】――を握っていない方がシャキン!! と高らかに鳴った。
「……そういう小芝居は結構だと思われます」冷然とした侍女の声を無視して蟹は言葉を続ける。
「これをお前の器へと接続する、【力】を辿ってな、それでお前の中にある【魂】を触る、
お前は【魂】につながれたこの遺物を意識する。
そしてその【魂】の【器】につながれたこの道に向かってお前が【力】を移動させる努力をする。
一点に集中すればいいから意識がしやすく、なにより、お前に接続していないほうの端を此方で持って、その道を辿って【力】を引き出し、操作する援助だって出来るぞ!!」
蟹は一気呵成にメリットを述べた。
少女は、うっすらと曇っていた表情を、途端に輝かせる。
「へぇ!! 【力】には詳しくないけどそんなことができるの?
いいじゃない、流石ペンタね!」
少女の蟹に対する信頼の由縁は、こういった手厚さに由来するのかも知れない。
「クチャータトがなっ!!」
少女の蟹に対する拭いきれない呆れは、こうしたふざけた言動に由来するのかも知れない。
「うむ、というわけで早速、後でクチャータトに教わっておくように。
俺はそんな器用な真似は出来ん。
間違って俺の【器】の中から【力】がお前の【器】に流れていってしまったらどうするつもりだ?
まるで茹でられた蟹のようにお前は真っ赤になって、破裂してしまうぞルナ」
――怖いんですけど!?
――裏技にはな、リスクが付きものなのだ。
またもや偉そうに、ふんふんと頷く蟹は、【道】を放り出して
少女の目に己の黒目を合わせる。
少女にとっては、無機質に、しかし頼もしく感じられる瞳。
「なあに、クチャータトなら心配はいらん。
大船に、もとい大蟹に乗ったつもりでどんと構えていろ!」
そうして蟹はにやりと言いたげに、
またもや鋏を掻き鳴らす。
ガキンッ、と、高らかに。
4
蟹が【力】の操作、導力についての秘策を明らかにした後、
しかし肝心の海月がいなかったので、自然、鍛錬は肉体の段階へと移行していった。
「ふんっ!」
柔より硬へ、少女は身体を動かす。
かつて神の直下にあり、
今はそこから流れ出でてしまった末に、度重なる劣化を経てこの世界を形作った【力】。
しかれども【力】であることには変わりなく、
生物は己の肉体を意識、隅々まで心を配り、訓練を積み重ねることにより、
ある種、超越的な機動を可能とする。
これこそが、まさに闘法。
六武学の一にして、人、亜人、精霊、魔族、その全てが使うことの出来る戦闘技術。
無数の身体の動かし方、構え方、呼吸法、鍛錬法、心身の調律法。
それらは数千年に渡り、磨かれ、鋭さを増し、積み重ねられていく。
無数の流派が現れ、統合される。
生物種の積み重ね、歴史の重みを持った技術である。
鋼から水へ、少女は決まった通りに身体を動かす。
数日前から始まったこの一連の身体の動かし方を、組み手の前に行うという蟹の、教え。
少女が理由を問い、
蟹、答えて曰く、
――俺の昔の友人にな、とても身体の動かし方が巧い奴が居た。
――人間よりは大きいが、されども飛び抜けてという訳でもない。
――いつもは小人のように小さくてな、奇妙な奴だったよ、毛むくじゃらでな。
――凄まじい筋力を誇っていたが。俺を打ち倒すほどではない、
――だが、誰よりも巧い、身体の動かし方、戦い方が巧い奴だった。
――そいつには俺の仲間の誰もが、弟子入りを志願したよ。
――いや、ただしくは二足歩行の人間型で、接近戦をする者の誰もが、だな。
――で、俺は蟹だから見てるだけだったがなぁ、うむ、中々みてて楽しかった。
――それで、そいつが必ず訓練の前に、全身を優しく、ゆっくりと、ある種、見とれるほどに綺麗にな、
――身体を動かしていることに気付いてな。
――聞けば、それはそいつが長い経験の上でいつのまにか身に付けていたと言うじゃないか。
――そいつは言葉も話せなかったが、魔導も魔法も使うことはできなかったが。
――それでも本当に見事でな、俺の仲間曰く「柔より出でて、硬へと還る」
――そして「鋼より出でて、しかし和らぎ、柔弱極まり水となる、うむ効果的だね」
――身体が温まって、運動に身体が馴染みやすくなるとのことでな。
――というわけで、俺はその時、ひたすらに見ていた経験から、お前にそれをやらせる訳だ!
とのことである。
ちなみにそれを横で聞いていたケントゥムは
――それは付け焼き刃というか、見よう見まねに過ぎないのでは?
と零したが、蟹は笑いながら屋上の外へと視界をそらした。
ともあれ少女は身体を動かす、節々を意識して、ともすれば瞑想するように、
腱から筋、神経から血管、その巡りを意識し、指、手、腕、肩、背骨。
足先、足、踝、脛、膝、太股、肛門、背骨。
腹、性器、肺、喉、脳、背骨。
隅から隅まで、細心を巡らし、意識を逸らさず、丁寧に身体を温めていく。
蟹は少し離れたところで少女の全身を見る。
硬くなっているところ、あるいは意識されていないところ、動きの乱れがないかを見る。
こうして身体が温まった後に、 少女は軽く全身を動かす。
それはダッシュであり、あるいは反復横跳び、ステップ、あるいは回転運動。
金の髪を中空に流し、回り、あるいは瑞々しい汗を、燦めかせて笑顔で身体を動かす。
少女、身体を動かすのが好きだった。
そも、元来の性質として活発。
まるで血が要求するかのように、全身が、肉体が、隅々まで使われることに歓喜する。
元村娘はそれが終わると、蟹と共に市で買った、質の良い木刀。
両親から受け取ったが故に使っている、身体に合わない大剣でなく、
細身の、少女の筋力ならば、まるで枝のように振れる大きさの木刀を振った。
基本をないがしろにしてはいけない。
村の相撲大会で優勝できるほどの奇妙な身体能力が少女に備わっていても、
外の世界は、その程度の力など簡単に踏みつぶすことのできる存在が、それこそ星の数ほど闊歩しているのだから。
スタミナを付けて、付け焼き刃の素振り、剣の構えを直すため。
こうして少女は蟹の前で剣を振っている。
栄えある未来を確かに夢見て、着実に、歩む一歩は力強い。
「98ッ! 99ッ! 1000ッ!」
「よし」
蟹は真剣な眼差しで頷く。
隣では侍女ケントゥムは相変わらずの鉄面皮で、水袋を取り出して、少女の方へと持っていく。
玉のような汗が、軽く火照った少女の顔からこぼれ落ちる。
健康的な美貌、僅かに額に張り付いた金の前髪が艶めかしい。
「……ふぅ、今日はまだ、全然だけど、どうしたのペンタ」
「ふ、今日は実戦を想定した、すぺしゃるな訓練を予定していてな」
「スペシャルぅ?」
途端、訝しげに少女は、地面の上に置いた鋏の上に、鋏を重ねて、まるで腕を組んでいるかのような蟹を見つめる。
――この蟹は、調子良さそうな時が一番胡散臭いのよね
「ふふ、そう見つめるな、俺が幾ら可憐とは言ってもな、見つめられると中々困ってしまうぞ?」
少女は肩を竦めて、蟹の瞳を見つめる――
「ふぅ、でどうすれ、っ!?」
――少女は目前に移動した蟹を捉えることが出来なかった。
「――っえ?」
「これが俺の全速だ」
どこか誇らしげに、しかしその瞳に宿る色は真剣そのもので。
巨大な青い甲羅を持った蟹は、鋏を少女の顔の前に突き出す。
「……ええぇ!?」
ぱらぱらと数本、少女の長い金の髪が地面に落ちた。
少女は愕然としている。
侍女ケントゥムは変わらず。
長らく微動だにしていなかった鴉は、楽しそうに一啼きした。
「ふふん! どうだ! ルナ、スピードキングの名は譲ったがな、瞬間的な瞬発力においてはな、
うむ、中々な大したモノだぞ? 俺は!」
蟹はその場で高速一回転をして、そしてまた少女の前に鋏を突き出す。
「ルールは簡単、屋上を疾走する10分の1の速度の俺を、追いかけて、あるいは見切って、
木刀でたたければ勝ち」
蟹はふふんと顎を上げ、ま、どれぐらいかかるか分からないがな! と言いたげに少女を見る。
「蟹は早い、海老などよりもだッ!
イカ? タコ? なるほどフィッシュ?
水生生物は多々あれど、俺が蟹である限り、蟹という種が海において最速であることは変わらぬ!!
俺の肩には、全ての蟹の期待が掛かっているのだっ!!」
「な、なにを言ってるのか全然わからない……」
ある種の戦慄を胸に抱きながら、少女はかぶりを振った。
しかし、少女を気にすることもなく、とても楽しそうな雰囲気で、蟹は少女を見やった。
「臆したか? ジュール・ルナーレ」
負けず嫌いの少女には、これで十分だと言うように、蟹は鋏を突き出した。
「っ……いいわよ、やったろうじゃないっ!
人間を舐めないでよね?」
案の上、少女は木刀の先を、蟹の鋏、その先端に合わせたのだった。
「……ふん? ふむ、いいだろう、
それではこれから、第一回チキチキ!
キャンサーキャノンボールのスタートだッ!!」
――蟹の姿が消えた。
……
…………
そうして始まったルナーレの新形式の訓練。
実戦における敵の速度、そして回避や追撃、攻撃を行うために蟹が考案した訓練は、
うなぎ登りで上昇していく蟹のテンションに苛立たされながらも、
必死に追いかけた少女が
百三十回目の空振りをした直後、待ち人クチャータトの到着とともにようやく終了したのだった。
5
太陽は幾分、頂点からずれて、少女は大の字に倒れて、青空を眺めていた。
傍には正座で座っている侍女、少女に水筒を手渡している。
さらにその傍には澄んだ透明な、まるで水が空中に浮かんでいるようなゼリーフィッシュ。
つまりは海月が、ふよふよと、
触手をあげたり、おろしたり、ふりまわしたり、まとめたり、
ある種の奇怪な、まるで何者かと交信するかのように、揺らめかせて、屋上を浮かんでいた。
【力】を揚力として、噴射し続けている海月は、太陽の光をゼリーめいたその身体に閉じ込めて、
歩くプリズムのように、目に眩しかった。
さらには蟹が背中に鴉を乗せて、高笑い。
右の鋏を挙げて、左の鋏を挙げて、それを繰り返し、時に何故か回転し、そして泡を吹き出す。
【力】を込めて、まるでシャボン玉のように大量に屋上から外へと吐き出される蟹の泡。
留まることを知らない蟹の奇行、やがて大量の蟹泡が地上へと到着する。
「うおっ!」「なんだこりゃ!?」「ひゃぁ、しゃぼんだまだよー、ままー!」
「ってなんか磯臭いぞこのシャボン玉」
「ひゃっ、しょっぱい」
「ままー、このシャボン玉、何かねばっとする」
「ひぅ、細菌テロだ!!」
「ひぇぇぇ!?」
軽い混乱を巻き起こした後、蟹はいかにも大儀を成し遂げたとでも言うように、うんうんと頷き。
シャキン! と鋏を閉じる。
「ふむ、ダメダメだな、ルナーレ、これでも結構手加減したのだぞ?
うむ、久しぶりに動き回ったせいで、少し気分が高揚してしまったきらいはあるがな、うむ」
「少し?」「カァー?」と侍女と鴉がハモった。
海月はふよふよと漂いながら、時々触手をひの字型にして、虚空で振っていた。
肝心の少女は、林檎のように顔を真っ赤にして、大きく呼吸を繰り返している。
蟹は頷き、いやに偉そうに呟く。
「うむ、精進あるのみだな」
「は……ぁ、あ、……んた、いいかげん、に……」
「まあよい、とりあえず復調したら海月と導力についての訓練をすること。
それと日が陰るまで、クチャータトに言い含めておいた
【海月の触手で訓練しよう! プロデュースByPENTA】の一段階を進めておくこと」
――まだ、そんなモノがあるの?
――うむ、あるのだ、今日のていたらくで大型の魔獣と戦うつもりか?
いやいや、ツッコミどころはそこじゃないと言いたげに少女は顔を顰めたが、蟹は華麗に無視。
そして春の風が、屋上を通り過ぎた。
ぽかぽかと温かい日射しは、やや西に傾き、その輝きを惜しみなく与えた。
まるで愛のように。
ケントゥムがハンカチで少女の顔を拭き、
鴉が海月の頭頂部、傘の頂上に乗る。
その鴉を海月が触手で、はしと捕まえる。
「その口ぶりですと、ペンタさま、貴方に用事があるように聞こえますが?」
「うむ、あるのだ」
少女が、怠そうに声を上げる。
「聞いてないわよっ?」
「言ってないからな」
そうして蟹は、鋏をジャキン!と、重く響かせた。
「ニヒルを気取っているつもりですか?」「カァー?」
「ん? 別に気取ってなど居ない。俺はわざわざ気取らずとも、ほら!
滲み出るようなハードボイルドを持った男だからな!」
「蟹の固ゆで、ね、あんまりおいしそうじゃないわね……。
というか、どの口でそんなふざけたことを……」
――ハハハ、ジョークだよ、ジョーク。
そうして蟹は、くるりと回る。
三本の足を、やや白みがかった腹甲を、器用に動かして、横に動いて、そして縦に動く。
「決着を付けなければいけない相手がいてなっ!」
「決着?」
頭を少し持ち上げて、少女は訝しげな眼差しで、小首を掲げた。
「ああ、昨日会った奴だ。
今日のこのテンションはな、なにも無駄な、唐突なテンションの高さ、という訳ではないのだ。
うむ、来るべき決戦、相手のテンションに負けぬようにな、己を奮い立たせたのだよ」
――何を言っているのか全く分からないですね、この甲殻類。
と言いたげに侍女が冷たい視線を送る横で、
少女は思い立つところがあったか、僅かに心配そうな声音になって、問いかけた。
「それって、エイナさん……?」
「ふん、みなまで言うな、ルナ。
このデ……んんっ! ペンタ、あそこまでまくし立てられて、むざむざとそのままにしておける程に、
人間が出来ていないのだ。ふむ、修行不足だな」
「あんた、蟹じゃない」
「ふむ、吉報を待て、俺は奴に勝つ!」
そうして高らかに鋏を掲げた蟹は、鼻歌を歌いながら階段のある小屋へと向かっていった。
が、ドアノブを開けることが出来ないので、仕方なく侍女がそれを開ける。
感謝の言葉を述べて、青い肌をした、少女の師匠にして相棒たる蟹は、小屋の闇へと消えていった。
「そもそも、何を基準にして勝ちなのかしらね、というか何をしにいくのかしら」
「……さあ?」「……カァ?」
何処か呆然と、蟹の向かっていった方向を見据えて、少女と、鴉と、侍女は、力無く呟いた。
彼らの背後では、海月が、全ての触手を太陽の方へと突き出しており、
まるで前衛芸術のオブジェのような姿となって、そこに在る。
ともあれ、少女の鍛錬は続く、
仕事のない日、用事のない日は、こうした鍛錬が少女の日常となり、
これからの日々、多くの機会を得るその日常の
蟹と追いかけっこ、や【海月の触手で訓練!】の記念すべき一日目。
新暦1623年、知恵(5)の月、1日、第一週、一の曜日は、こうして長閑に過ぎていった。
迷宮日報――1623年 知恵の月 第一号
『最高位冒険者G・ラドクリフ氏に隠し子発覚?』
『大陸東方において大規模難民発生、エミダリへの影響は』
『エミダリ軍:治安維持機構主導の夜間警戒実施間近か!?』
『エミダリ軍:第1師団元帥、及びエミダリ軍務省:副総帥 サラ・ヘルテニャスカヤ会見速報』
『エミダリ迷宮:東区画最前線、奪回成功! 冒険者及び、カイエン第一師団特務官の指揮、円熟の域へ』
『中央総合大学府より:夏期短期入学のお知らせ』
『ヘッケル総合商店――倒産、エミダリ貴族の没落より20年、西区商業学府ローレンバーグ氏の分析』
『またもや重版出来!! 謎の著者エンゲルス・バッキオス、迷宮日報特捜班、ついにその正体を掴む!?』
『エミダリ原理主義運動、表面化か?』
『中央区、奇怪なシャボン玉騒動発生!!』
……
…………
『新しいコラムニストのお知らせ』
→編集後記、既に八年の歴史を誇る我が迷宮日報に、新しいコラムニストが増えることになりました。
深い叡智と含畜ある言葉からうかがい知れる知性。記者がとある酒場で出会った燦めく才能を持った逸材。
それに付随して、次回第二号より新コラム『甲殻類の見た世界』より連載開始!
乞うご期待!!