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冒険 薬草収集 地味な仕事

新暦1623年、法(4)の月、31日、第四週、七の曜日、八の刻 午前






その日、酒場『白シャツ亭』(度々常連からセンスのなさを指摘されている)は騒がしかった。


金の髪をツインテールにした一〇代中頃の冒険初心者と、その相棒の蟹が、

酒場の常連、エイナ・レンテユールからインタビューを受けていたからである。


エイナは二〇代中頃、中肉中背、緑髪の記者兼冒険者であり、

(胡散臭いということで)有名な「迷宮日報」という瓦版の記者であった。


自然、その彼女が、新たにこの酒場を拠点と定めた奇妙な「蟹」に興味を抱くのは当然の流れで。


ルナーレ・ジュールが初めてこの酒場に訪れた折には、

エイナはめくるめく記事執筆の世界へと没頭していたため、

この一匹と一人、奇妙なコンビの存在を正式に認知したのは、ルナーレとペンタが初めて酒場を訪れた日の三日後、

再び二人が、この酒場に訪れた時であった。


記者らしい、騒がしい逞しさを(おそらく生来のものであろう)発揮し、二人を見て、

目を輝かせ、口辺を三日月の形へと変貌させ、隙を一切見せずにじり寄ってきた姿は、


余りにもおぞましく、流石の蟹をして、一歩、後ずらせたほどの異様であった。



 蟹と少女、そして海月(少女の使役魔獣ということで説明してある)

は、その時はまだ、市中の探索、身体の基礎訓練としての走り込みの途中であったため、

喋る巨大蟹に目を輝かせた記者エイナのインタビューを丁寧に辞した。

(余りにもしつこく食い下がられたので、しぶしぶ蟹が後日インタビューを受けることを了解したことを、丁寧に辞したと言えるのならば、だが)



蟹をして、一歩引かせる、生来の好事魔、好奇心の鬼。


それがエイナ・レンテユールであった。




狭い店内、少ないテーブル。


テーブルの上には水。


それを口に含み、事態を黙視する少女ルナーレ。


ことばを雨嵐と浴びせかける記者エイナ。


それに辟易する大蟹ペンタ。



店内に他客は一人。

大和島の出身らしい、和装の男シチスケのみ。


店主はいつものように、使われていないグラスを磨きに磨く作業に集中している。


小さな酒場の昼下がりなど所詮この程度、どことなく寂しい客足も何時ものことだ。


「それで、お二人はどうして冒険者を志したのですか!?」


「どうでもいいだろう……」


蟹はお手上げというように鋏を挙げている。


心なしか目が濁っており、水揚げされた北洋蟹が思い起こされた。


「どうでもいいことなんてありませんよ!! 

これは知的好奇心、そして人類の永劫的発展に繋がる非常にインポータントな質問なんです!!」


「蟹と村娘の志望動機が?」


「ええ!!」


――臆面もなく言い切るとは……


――すごいわね、この人……



目をますます輝かせて、疲れているだろう蟹をものともせずに質問を繰り出す記者。


欲望の、生物の生々しさ溢れるこの記者が、しかし蟹は嫌いではなかった。

その欲望が、自分に向けられさえしなければではあるが。



ともあれ、早朝の質問攻めは、今暫く続くようであった。


蟹は己の頭を掻いて、少女も同じように、その澄んだ金の髪を掻く。


まるで親子のようにそっくりな動作を、知らず知らず取る二人を見て、

カウンターでグラス磨きに精を出す、店主エルガーは思わず吹き出した。



まあ、これも一つの平和なのだろう。











初めての迷宮探索、新たな仲間の加入から一週間が経過していた。



あれから、少女と蟹は、都市の細かい地理やら冒険者に必要な道具を売る店やらを店主に聞き、


また必要な家具やら生活用品を買える店を大家から聞いて、市内へと繰り出した。



少女は日に一定時間の走り込みと素振りを行い、

そして『海月』クチャータトの下で、【力】を扱うための基礎の基礎の基礎を教わった。


(『海月』クチャータトは儀式大家にも至っておらず、当然神秘大家も使えることはないが、、

儀式小家に関しては、地軍随一の精通を見せる存在である。

その器の大きさ、そして操作の繊細さ、変換の精度と速度。そして器の‘数’(広さではなく)

その全てにおいて、この無色の『海月』に並ぶ者は、地軍において無い)


 あれから早速、己の魂を『海月』の【力】で触られ刺激された少女は、その助けにより己の器を発見した。


 少女をしてその簡単さに呆気を取られたが、

そもそも素質があれば、数日、平均しても1~2週間もあれば発見できるようなものである。


内臓の感覚とは日頃意識されないが、触られれば反応するように、あるいは感覚が感じ取れるように、

あるいは己の肉体、己の存在の奧にある意識――魂、その内にある器も、そのようなものであるのだ。


一度感じとることが出来れば、一度身体が覚えた二輪車の走り方を身体が忘れないように、

己の意識が器を忘れることはない。


例えば頭部に眼鏡を載せたまま「眼鏡、メガネ」とめがねを探している人間を仮定して、

その人間は、すぐそこにある、気付かなければ可笑しいようなメガネの在処に気付かないという事実があるように。

そしてそれは指摘されれば、すぐさまに発見できるようなものでもあり、

また、指摘されなくとも、しばらくすれば自ずと発見に至るようなものである。

しかし大抵の場合、探している間は、毛頭も己の頭部に探し物があるなどとは考えていないのだ。


より簡単に言えば、灯台下暗し、ともあれ、至極簡単に、少女は己の器を認識したのだった。



その少女は今、基礎の基礎。


瞑想の段階へと移行していた。


これはペンタ曰く

「瞑想は基礎、これこそ絶やしてはならぬ魔導の基本、素振りと走り込みを合わせたようなものだ」

とのことで、少女は、疑うこともなくこれに従っていた。


事実、魂の器とは、瞑想により拡大する。


己の器を感じ、撫でるように想う、そして拡張する。


一時、一日、幾日、幾週、目に見えてその容量が大きくなることはない。


それでも一月、欠かさず瞑想を行えば確実に容量は増える。


器の容量は、【力】の回数、そして規模へとそのまま直結する。


些細な時間、成果の見えにくい、地味な作業。

されどその積み重ねは如実に表れる。


それ故に基礎の基礎。


それが瞑想であった。



 少女ルナーレは、それを教わった。

だからこそ彼女は一日最低1時間から2時間以上の瞑想を欠かさず、

かつ魔導の基礎たる導力の訓練を行っている最中なのだ。


次の行程である導力、【力】を引き出し操作するという段階も、

これだって己の肉体と魂、器と【力】に馴染んでいなければ、到底扱えるモノではない。


なるほど、日々行うべきことは絶えない。


蟹の悪戯と稚気、それに乗る軽妙な『海月』、少女の頼もしい味方の侍女、傍観する鴉。


少女の生活に笑いは絶えず、奇妙な同居人はいつのまにか沢山だ。


それでも全ての物事は着実に前進していて、少女の未来は明るかった。










「……というわけなんですよ!? 分かってますかペンタさん!!!!」


蟹はお手上げ、というように鋏を上げる。


この目前、緑髪、ショートボブの記者は彼の旧友にも居ないタイプであった。

嫌な押しの強さ、ぐいぐいと迫ってくるような存在感。


ともすれば珍妙で、しかし最低限の引き際を心得ている奇妙な人間。

簡単に言って蟹はこの記者が、少し苦手であった。


「うむ、わからん」 と蟹が繰り返し、目を濁らせているのもそのためだ。


少女は欠伸をする。


安物の木製テーブルに肘を付き、窓の外――酒場を囲むようにある幾つかの商店、個人住宅を見ている。


見て、そして鮮やかな花、日光、飛ぶ蝶、その横の蝶人間と、蝶型の妖精へと視線を次々と動かしていく。


「……流石エミダリ、都会は違うわね」


――個性のレベルが。


蟹の個性はそのエミダリにおいても抜きんでているのだが、少女は少し感覚が麻痺しつつあった。



「もうっ、全然わからない人ですねっペンタさんは!」


ぷくっと頬が膨らむエイナ。


蟹も応じるように立ち上がり、鋏を振り回す。


「頬を膨らませるのをやめた方がいい記者殿、何歳だ」


――歳のことを言うなんて最低な蟹ですねっ!


――俺は最高の蟹だぞっ!? 


――わけがわからない問答は止めなさいよ……基準がわからないのだけれど?


少女は溜息。


紛糾したインタビューは、かれこれ30分この調子で、


既に興奮した記者と興奮した蟹。


二人の患者の詰り合いという様相を呈し始めていた。



蟹が憤激し、青い甲羅、黒い瞳を燦めかせ。


記者が激高し、緑と白のブラウスとポンチョの奇妙な格好を震わせ、机を叩く。


端的に言って――場は混迷していた。




まるで求道者のようにグラスを黙々と磨く店主。


我関せずとカウンターで弱い酒を煽る和装の男。


春はますます進み、長閑で和やかな空気が、酒場には充満していた。


少女はなんともなしに目前の乱痴気騒ぎを眺めている。


いよいよ蟹が記者の顔面に泡を吹き(黒い墨を魔導で練り込む手の込みようだ)


記者が机を叩いて「あることないこと書きますよ!?この蟹野郎!!」と大声を上げ、


それを機に酒場の外で、鳩が飛び立ち、巨漢白シャツの店主が一人と一匹をじろりと睨む。


騒がしく、しかし平和だ。


少女が、欠伸混じりにそんなことを思った時、

少女の背にもたれかかった肩を、ポンと叩く存在が現れた。


背後へと振り向く少女の視界に映るのは、巨大な海月。


ふよふよと浮かびながら、触手をなんともなしに少女の肩においている大きな海月。


蟹が少女に教えた名前は「クチャータト」


少女にとっては腹立たしいことだが、彼女の師匠である。


 見れば、ふよふよと浮いたその透明な触手と、澄んだ傘を震わせながら。

全く表情の伺えない(そもそも顔がないので当然であろうが)その海月は、

どこか少女を哀れむような調子を込めて、未だ若さ溢れる少女の肩を叩いていた。


「……なによ」


ふるふると、触手を揺らしている。


そして数本束ねた触手を器用に動かし、振って、何かを伝えようとしている。


 発声器官をもたない海月は当然、ことばを作れない。

とはいえ、己の意志を特定の音へと変換することなど実は海月にとっては造作のないことでもある。

それでも彼、あるいは彼女がことばを作らないのは面倒という理由と、

必要以上に目立たないためという理由のためである。


そのことを当然知らない金髪の少女は、苦慮しながら、海月の意志を読み取ろうと努力する。


「えと、……ごめんなさい、もう少し詳しくお願い」


海月は全身を震わせて、ちょいちょいと幾つかの触手でジェスチャーを作る。


「こっちにこい」とでも言うように、座っている少女の頭近くに迫るその巨躯をさらに震わせる海月。


一瞬、少女は、蟹と記者が騒がしい音を作る空間へと視点を戻す。


「はぁ?! 馬鹿といった方が馬鹿なのです、この蟹野郎! 所詮、蟹味噌では人間の言っていることは理解できませんか!?」

「事実を言ったまでではないか! 常識知らずも大概にするのだな人類よ!

守るべき生活の規範を守るのが、お前達、矮小な生命の法理ではなかったのか? 慮外者めっ!

蟹でさえも知っていることを守れないとは、貴様は人間失格の人草だな、腐ったあしめ!」


はぁ、と少女は溜息を吐き。

そしてそそくさと席を立った。


満面の笑みを浮かべ、少女ルナーレは海月を見下ろして頷いた。


一体どうやって頷いたことをを海月が察知したのかは、少女には判断が出来なかった。


 しかし海月は、持ち上げていた触手を下ろし、

窓から入る陽光を反射し透過させて、己の結晶のようなゼラチン質の身体を輝かせながら、

浮き上がり、少女を連れて行きたいらしい地点へと案内し始めた。


ご丁寧に「早く来い」とでも言いたげに、


一本だけ触手持ち上げて、それを人間がやるようにくいっくいっと動かしている。


少女はその海月の姿に、奇妙な愛らしさを感じながら、またもや苦笑しその後について行く。



穏やかな気温、後背の喧噪、屋外の賑やかさ、晴れやかな日射し。


狭く、古めかしいが、どこか温もりのある店内を、少し歩き、


やがて少女と海月は部屋の片側にある掲示板の前で止まった。



「……ここ?」


頷くように、海月がさらに浮き上がり、そして沈む。


掲示板には張り紙。

海月の清明な触手が、その内の一枚を指し示した。


「……えと、なにかしらね」


小首を傾げながら少女が、その掲示へと近づく。


それを真似するように、隣で海月は全体を傾かせて、同じくその掲示へと近づく。


その姿を横目で見ていた店主は、頬を微かに緩めて、少し和んでいるが、

そのことに気付いた者はこの酒場には誰もいなかった。


『任務依頼、薬草収集。詳しくは当診療所にて、K・マックガネン』


「任務依頼……?」


と、それに呼応するように、カウンターの向こうから、店主の野太い声が飛んできた。


顔は、これ見よがしに、顰めっ面である。

(この店主は、酒場の店主たるもの顰め面を普段の顔つきとしなければならない。

という珍妙なポリシーを持っていた)


「なんだい嬢ちゃん、依頼に興味あんのか?」

「依頼って……」

「察しの通りだ。冒険者向け、所謂クエストって奴だな」


クエスト――市井や公的機関、私人公人、そして企業、組合を問わず行われる、

      冒険者への仕事の斡旋、あるいは依頼。


その仕事は、都市郊外での活動から、護衛、警備や、市内巡回、あるいは運搬。


素材の収集や、紋章の実験、特定の魔獣の討伐、果ては雑用まで多岐に渡る。



冒険者としての重大な仕事の一つであり、

この報酬を当てにして暮らしている冒険者も多数。


また、実行した依頼の数、あるいはその重要度は、冒険者位階の昇格における審査基準でもあり、


そして昇格試験の受験基準にある推薦人を集めるための大切な機会でもある。


以上の事から導き出される自然の帰結として、


この都市エミダリの多くの冒険者は、日夜クエストを受け、その解決に精を出していることが導ける。


「……よね、たしか」

「うぃ、百点だな嬢ちゃん、付け加えくわえるならアレだ」


あれ? と少女が首を傾げる。


地味だが質の良い素材と、堅実な色合いの外套が揺れる。


(蟹が「似合うのではないか?」と言い、買ってきた冒険用の外套である。

少女の密かなお気に入りの外套であることは言うまでもない)



店主は磨いていたグラスを置き、そして腕を組む、その禿頭が輝かしい。


「位階の低い冒険者ほど、信頼できない存在、怪しい存在っていう前提があるからなぁ。

つまり、嬢ちゃんみたいな初心者冒険者でも出来る仕事ってのはよ、

依頼する側もそんなに金を持ってない、切羽詰まった連中ばっかてことだ。

まるで靴磨きの小僧に渡す駄賃のような値段で、結構面倒な仕事しかなかったりな」


「……なんか聞いてるだけで、やる気が萎えてくるわね、それ」


「まあしょうがないことだぜ嬢ちゃん。

初心者冒険者なんて、未だに正式な市民証明を得てないっつうことだしな。

真っ当な市民としちゃ胡散臭いもんなんだよ。

それに素行や、仕事への信頼度はよぉ、まあ当然のことだけど、ランクと比例するところがあるからな」


「……我慢して下積み仕事をこなしていけってことね」


正解、と店主は、シニカルな笑みを浮かべて、再びグラスを磨き出す。


「まあ言ってもよ、そのチラシ、マックガネンの依頼だろう?」

「知ってるわけ?」

「当然、常連だよ、うだつの上がらない貧乏医者だ、よく依頼してくる」


グラスを磨く店主の方に身体を向け、少女は続け様に疑問をぶつける。


 左方、蟹と記者の居る辺りから、

テーブルとグラスと椅子がぶつかる音がシンフォニーを奏でているが気にしない。


シャー! という蟹のものらしい奇声が聞こえてきた気もするが、少女は気にしない。


少女は店主に頷き、その端整な表情を僅かに歪めて、店主を見る。


「で、どんな仕事なのよ」


「んー、まあ言っちゃ何だが、別に冒険者じゃなくても出来るような簡単な仕事ばっかだな、

大抵は都市近郊の丘で薬草やら野草やらの採取だ」


うげっ、と少女は露骨に顔を顰めた。


薬草採取、まるで村娘の行う仕事ではないか。


それを見て笑う店主エルガー。


声には暖かみ。初心者を見守る経験者の声音。


「つってもだ、最初は誰もがそんなもんだよ、特にコネがあるわけでもない連中はよ。

大体、そうやって使える薬草やらの知識を手に入れたりよ、

知り合いを作っておくのも悪いことじゃあないもんだぜ?」


「……そんなもの、よね」


しぶしぶといった様子だが、納得の意を示した少女。


根は素直で、そして彼女はやるべきことを見失わない程度には聡明であった。


海月も安心したように、あるいはそれでいいというように、少女の身体へと絡み付き、

肩をポンと叩いた。


事態の進展を全く察知していないのは、一匹の蟹。



ともあれ、こうして少女は、クエストを受けることになったのだった。














路を歩く、石畳ではなく、土の路、とはいえ踏み固められているせいか、表面は堅くなめらかな地面だ。


都市、橋向こうとも言われる、少女と蟹が最初に都市に入って通った南区画を、


少女と蟹、そして海月という、傍目から見て明らかに異様な三人組は歩いていた。



昆虫系の亜人、長耳族、人間。


冒険者や一般市民、軍人が、彼女たちの傍を通る度に、視線を向け、あるいは露骨に立ち止まる。


あるのは驚きの視線、もしくは好奇の視線。


しかし、既にその眼差しに慣れきった蟹と少女と海月は、それをモノともせずに進んでいた。



 春の日射しは頂点に達し、ギラギラと、射殺すように遙か下方、都市の住人を焼いている。


賑やかな喧噪、歩く者たちの笑い声、聞こえてくる怒鳴り声。


売り言葉に買い言葉、誰何すいかの言葉。押し問答に、漫才のような掛け合い。


警邏の者の声。神ネーベンハウスへの祈りの詠唱。聖職者らしき男達。


 蟹がその8本の脚で地を這い、その背にへばりついた海月は、まるで樹にこびり付いたキクラゲのようで、そして少女は、その蟹の隣を、蟹と同じように粛々と進んでいた。


 少女が都市に来て、既に一週間以上、彼女の故郷と比べれば雲泥の差であるこの賑やかさ、

無数の商品と、人間の醸し出す華やかさにも、少女は既に大分慣れつつあった。


蟹に至っては、人間の騒がしさを楽しいと思えるような剛毅な性質。


 海月もそれに通じるような気質なのか、あるいはそもそも外界に興味をもっていないのか、

都市の喧噪に飲まれることなく、我が道を歩くのだと言い切るように都市を進んでいた。


「ふむ、相変わらず、生命の逞しいことよ」


「いやに他人事みたいに言うわね、あんた」


「うむ少女ルナーレよ、覚えておけ。老人、いや老いた蟹にとっては全ては遠いことなのだ」

「……年齢不詳の蟹が言うわね、というかそんな醒めた態度を気取るつもりなら、

日頃の奇行とか、突飛な行動はやめたら?」

「ハハハ! 俺はまだまだ若い蟹だぞ? ほら見ろ口から出す泡もこんなに塩味」

「確かめようがないじゃないのっ!?」


俺の足取りもこんなに軽やか! と続けざま、


唐突に加速しだした蟹が踊るように、リズムよく、


跳ねて、回って、鋏を掻き鳴らす。



南方の出身であろう、ソンブレロを被った幾人かの男達が、親指をたてて、いやに良い笑顔でこっちを見ていた。



あんたねぇ、と少女が顔を歪めるのは、既に見慣れた光景か。


「……はぁ、もう何でもいいわよ」


「うん、そうか?」


と言いながら蟹は足を緩める。



少女は、己が、およそ一週間前に、

この路を、感動に包まれた夢心地の中で歩いたことを思い出す。


あのときも蟹は隣にあり、そして今も蟹は隣にあった。


幾つかの成長、僅か一週間とは言えない程の濃密な日々と時間の訪れ方。


少女は、既に多くのモノを得た、そしてこれからも得ていくのであろう。


そしてその隣には変わらず蟹がいるのだろうと、少女は思考の片隅で思った。


「でルナーレ、目的地はこの辺りでいいのか?」

「……ん、そうね」


言いながら、少女は、腕を上げ、近くにある一本の横道を指差した。


目的地は安い住宅やアパートの並ぶ住居区の小さな診療所と聞いた。


今はそこに向かっている最中である。



――酒場での店主との会話の後、少女は結局、この依頼を受けることにした。


蟹(赤くなりそうなほどに興奮していた蟹)とも相談して決めたことだ。


蟹の持つそれなりの資産にも限りはある。


そして、少女はその金を宛てにして、寄生するように生活することを好まない性質でもあった。



 生活の価値は、自らの流した汗、あるいは尽力と等価である。とまで極端ことは言わないが。


借りを作りっぱなしで、そして何もせずに、自分の力でもないのに何もせずに諾々と暮らすことが少女には出来なかった。



 そしてなんだかんだ人の良い店主との会話で思ったこともある。


 冒険者としての生活、これからの生活において、依頼は必要不可欠であり、

結局、いつか受けることになるのなら、それは早いほうがよい。ということ。


 少女は、それらの考えから、こうして依頼を受けることにして。


 故に蟹と彼女と海月は、こうして南区の大通りを曲がり、

薄暗い、様々な規格と様式の建造物が並ぶ、小通りを進んでいるのである。



 ふと、少女がとなりの蟹を見れば、小躍り。


 鋏を掲げて、振り。

それに合わせるように海月も触手を天に掲げ、ふりふりと振っていた。


青い甲殻に陽が入り、青銅のような鈍い光を放つ。


「その挙動の意味は……あ、やっぱいいわ」

 と少女が、無表情に零すが、


 蟹はあたかも前半の言葉しか聞いていなかったかのように、

平然と答えを返す。


「ふむ、どうだルナ嬢! 蟹と海月のコンビだ、可愛いだろう? 

二人揃って二倍の可愛さではないか?」

「確かに……って、可愛さを追求する理由が知りたいのだけれど?」

「うむ! 細かいことは気にするな」


そして蟹は自由に、


まるでなにも己を縛るモノはないというように軽やかに歩き、


鋏を少女に見せつけるように振る。



蟹の行動は、少女にとっては既に日常茶飯事になりつつある。


 どうせ、近所の子供か、あるいは道行く人間で遊ぶためか、からかうためか、そんなところ為に練習しているのだろう。

あるいは、傍を歩く少女をなんとも言えない気分にさせるためか、

なんにしろ、その程度の、まるで子供の気まぐれのような、簡単な理由なのだろう。


少女は、そう考えて、蟹の行動を一々気にしてもしょうがないと、諦め気味に小さく溜息を吐いた。


少女にとっては師であり、相棒であり、仮初めの保護者のようなこの青い人外は、


どうしようもなく稚気を忘れない志の持ち主なのだから。



 あるいはこれこそが、


「ペンタらしさなのかしらね」


言って、少女は苦笑した。


 ツインテールが風に靡き、陽光に絡んで光る。


眩く、無駄なく、形よいその顔は、苦笑の形をとってもその美を全く減じていなかった。




「っと、そろそろ見えてくる建物、……確か、屋根が三段構造の」

「三段構造ねぇ、ルナよ、そんな建物が……」


区画の角に、三段構造と言うしかない形の、トワロキア様式の四階建て相当の建造物。


「あるわね」

「あるな……うむ、俺の見たことのない建築様式だな」

「蟹の癖に、建築様式に興味なんてあるの?」

「ふむ、別に蟹が建築物に興味をもっても悪くはあるまい?」


――まあ、それもそうね


――うむ、まあ、俺の友人に詳しい奴が居たってだけの話だがな


どこか納得した様子だった少女は、蟹を睨み付ける。


しかし蟹は何処吹く風と言うように、明後日の方向を向いている。


海月がまるで溶けた粘状生物スライムのように蟹の背にある。


この海月も中々侮れない存在であると少女は思っていた。


己の師匠(何度も言うが不本意ながらだ)として実際に、器を発見させた手並み。


そして神出鬼没というように、いつの間にか部屋から消えて、そしていつの間にか現れるという習癖。


どこでなにをしているのか、全く分からない海月。


この前は、第四広場で、顔立ちのよい小柄な売店の少女から餌付けされているのを見たことがある。


雲を掴むような、変幻自在の、不定にして、無骨の海月。


(まあ、この蟹の友人らしいと言えば、……らしいのよねぇ)


と溜息を吐く。


少女にとっては遺憾のことだが、蟹は頼りになる。


侍女も良き同居人だ。


鴉はよくわからないが、素直でよい鳥だ。


海月は得体の知れないところもあるが、己にとって良い師である、と思う。


そんな風に己の生活、特に最近の生活と、

その生活を彩る同居人たちのことを思う少女の前に、件の診療所が見えてきた。


「あれではないか、ルナ」

「……えっ? あ、そ、そうね」

「考え事をして歩くのはいいがな、ルナ、最低限の注意力まで雲散霧消しないほうがいいのではないか?」

「言われなくても分かってるわよ!」


やれやれ、と言いたげな蟹の鋏の動き。


腹が経ったので、その甲殻を軽く殴りたい気分に襲われたが、少女はそれをどうにか抑えた。


目的の診療所は小さな一軒家。


辛うじて、あばら屋ではないというような暗い雰囲気。


余り裕福ではない家々が並ぶらしいこの住居区でも、極めつけに不安を煽るような、

一階建ての小さな建物だ。


これは、

「正直ボロいな!!」


「あんたねぇ、もう少し手心を」


「ハハハ、正直が俺の美徳なのでな、うむ。どうだ見れば見る程、見る物の不安を煽るではないか!」


「……まあ確かにね」少女も、同意の表情を示した。


「少なくとも見た目の時点で、碌でもない診療所の予感がぷんぷんしてくるなぁ、

――うむ、なんだか俺はワクワクしてきたぞルナ」


言って、蟹は鋏をわざと大きな音が鳴るように閉じて、

ニヤリというように、少女を見た。


少女は頭を掻いて、

そしてそれに取り合わず、目前の小屋とでも言うべき診療所のドアを叩いた。












 見た目に恥じず、その内側も隙間風の自由貿易地となっていた診療所の待合室らしき空間。


そこに少女と蟹と海月、そして依頼人である診療所の主がいた。


「ああ、君たちが依頼を引き受けてくれる人たちだね」


――よろしく頼むよ、僕の名前はケイン・マックガネン


とやや頬の浮き出た顔を微笑ませる医者らしい男。


 穏やかな物腰、不揃いの黒髪。

穴の空いた白衣、ぼろぼろの灰色セーター。


 目の下には隈。

本来はもっと爽やかな美形の顔立ちであろうが、

その面影がうかがえる程度の形の他は、ともすれば異常な程に暗く、疲れ切っていた。


 蟹と海月を見ても、全く驚きの表情を見せなかった剛の者である。

(生活の疲れが、彼から平常的な取り繕いの一切を奪ったとも推察できるが)


 綿が漏れ出たソファーに座った彼は、静かな声とともに自己紹介を行い、

それに続いて、その対面、同じようにソファーに座った少女と、

その隣、床に脚を下ろした蟹及びその背の海月が自己紹介を行った。


「えと、ルナーレ、ルナーレ・ジュール、ランクF冒険者です」

「同じく、ペンタ、初心者冒険者だ」


医者のマックガネンは、頷く、対面する彼と少女の間の机――いやにほこりだらけ――に置かれた薄い紅茶。


「ああ、ランクF、南方だと第六階位冒険者、あるいは西方だと木色の冒険者、北方なら初心者冒険者。

これからの未來を背負う輝かしいビギナー、ということだね」


言って、紅茶を口に含み、表情を微笑みのまま固定したマックガネンは言葉を作った。


「詳しいのね……っですね」

慌てて、言い直す少女を、優しげだが何処か淀んだ瞳で見るマックガネン。


年齢は幾つだろうか、

二〇代にも見えるし、三〇代にも見える、ともすれば四〇代、五〇代と言われても可笑しくないような雰囲気だ。

などと、蟹が考えている横で、依頼者たる医者は、ことばを作った。


「まあ、元々は世界中を旅してたからね、僕は」


――無駄な知識だけは多いのさ


言ってにこやかに笑うマックガネン。


蟹が鋏を鳴らして、言葉を作り出す。


「うむ、そろそろ出会いの挨拶もいいのではないか?

お見合いでもなし、それで肝心の」

「依頼の内容ですね」言って、マックガネンは、空になったティーカップに茶を注いでいる。


少女は、居住まいを正し、蟹の背の上で溶けたスライムのようになっていた海月は、その少女の頭部へと飛び移る。


ちょ、急になに!?と少女が僅かに零すが、

それを気にせず、少女は、触手の垂れ下がった透明質の帽子を被った形になった。


蟹がクフッと笑いをこらえ、伝染したかのように医者もプフッと笑いを押し留める。


少女は顔を真っ赤にして、二人を睨み付けた。


「ん、場も温まったようですし、それでは依頼の内容をお教えしたいと思います。


 依頼は、簡単なのものです。

この都市エミダリの郊外、西部徒歩一時間の位置に、小高い丘があるのですが、

そこで私の薬草収集を手伝って欲しい」


「手伝うとは?」


「文字通り、採集それ自体を手伝って欲しいのです」


「あたしたちが採集する薬草は?」

「それは後でお教えいたします、情けない事ですが、今は現物が一切手元にないので」

「採集以外の仕事は」

「それも当然、依頼の内です。

道中の護衛――現地にはたまに魔獣、そして盗賊の類が出ますので、ただ己の命の危険を感じる場合は、

私を置いていってもらっても構いません」

「ほー、いいのか?」と蟹は返す。


「まさか私も金で人間の忠誠が買えるなど、そんな夢は見てませんよ。

傭兵とは信頼に値するものではありません。

都市連合諸国の傭兵戦争を見てもそれは明らかでしょう?」


皮肉めいた笑みを浮かべるマックガネン医師。


――まあ、冒険者は以降の仕事の信頼と、昇格試験のこと、酒場の主との関係を考えるのか

  幾分マシですがね。

  

興が乗ると饒舌になるタイプなのか、段々と会話に熱が混じる。


「で、肝心の……」


――鋏で弧を描く蟹。


分かっているというように、頷き、医者マックガネンは金額を提示した。


「銀貨1枚」


――でどうかね?


この瞬間、蟹と少女の間にシンクロシニティが起こった。


淡々と進行していた会話、交渉。


条件が提示されたその瞬間、蟹と少女は、己の不備に同時的に気付いた。



――相場わからないな、面白い程に


――相場が分からないわね、全く 


と。


呆れるように、海月の触手が揺れた。



「? どうしましたか?」


言って、暗い顔色を動かさず、小首を傾げる、依頼人たる医師。



「この条件でよければ、早速今から行きたいところなのですけど」


蟹は、立ち上がり鋏を掻き鳴らす。


「ま、まあ待て、少し話し合いたいことがある」


「なんでしょうか」


「プライベートのことよ!」


言って蟹と、少女が、そそくさと部屋の隅へと移動する。



部屋の隅で、蟹と少女が何かゴソゴソと囁き合っている姿は、異様でもあるが、


二人は気にせず、言葉も喋ることが出来ない海月にその場を任せて、その背を医師に見せている。


「どうするわけ?」 


声を潜めて少女。


「むう、まるで俺だけが悪いような口ぶりではないか同士ルナーレ」


「なんか腹立つわねあんた、まあ確かにあたしのせいでもあるんだけど」



鼻を掻く少女、それを真似するかのように目と目の間を掻くペンタ。


「ねえ、馬鹿にしてるの?」


「ハハ、まさかそんな、滅相もない」


ふーん、と少女が冷たい瞳で蟹を一瞥する。

蟹は、う、うむ、まあ本題に入ろうではないか、と言って場を取り繕った。


「相場か」

「銀貨一枚ってことは、この帝国銅貨で大体20枚くらいよね?」


村娘とはいえ、村長の娘であったことから、こういった交渉に多少の心得があるルナーレが言う。

剛毅な蟹は、人間生活の些事には疎いので、貨幣価値に関しては殆ど無知である。


「とするとどうなる?」

蟹が顎を掻く、青い甲殻が窓から入り込んだ薄い陽に照らされる。


どうでもいいことだが、

立地が悪いのか、建築物の設計が悪いのか、昼前なのにいやに室内は暗かった。


目を細めて、少女は嘆息する。

形の良い唇はへの字に折れ曲がり、

腰を屈めたせいで蟹に向かってその未発達な胸がちらちらと見えている格好だ。


「大体、そうね銅貨3枚で子供のお駄賃位かしらね」

「……ほう、ならば俺たちは子供の使いであると?」


銅貨3枚で串焼き一本、銅貨20枚で銀貨一枚。


つまり銀貨一枚とは、

安い衣服や、食材を少し買うか、そこそこの定食一回で消え去るようなチンケな金で、

そこそこの時間拘束をさせられるということに他ならない。と蟹と少女は理解した。


――これは、


「完全に足下を見られてるわね」


少女が顰めっ面で呟く。

端直な印象を与える面差しは苦々しげだ。


蟹は、少し身体を傾けて聞く。

その円らな瞳、黒い作り物のような瞳に険は一切ない。

「ふむ、では交渉すればいいのではないか?」


頭を振る少女。

「あたしたちが仕事選べるならともかく、多分あっちは一切応じないわよ」

「ほう? 労量に見合わぬ仕事はやめてしまえばいいのではないか?

迷宮にでも潜ったらそれなりの額になるだろう?」

「あんたの言うとおりよペンタ、確かに金のことだけを考えるならそうでしょうね」


蟹は面白げに、鋏を鳴らす。

埃が巻き上がる。後ろから海月に向かって何かを話している医師の声が聞こえてくる。


「つまりどういうことだ? 少女ルナーレ」

「足下を見られてるってことよ、ペンタ。

あたしたちは昇格するのに依頼が必須で、推薦人も必要。

他の仕事を探そうにも、この都市には沢山の酒場と冒険者。

市井の掲示板は競争率が高いみたいだし、基本は酒場の依頼をこなすしかないのだけれど」

「うむ、我らがエルガーの白シャツ亭は、うだつの上がらない度合いに関しては折り紙付きだ!」


少女は、沈痛な面持ち。

「つまり、私はこの仕事、微妙な賃金のこの仕事に応じるしかないってことよ。

昇格の為には」

「うむ、相談して分かったのは、給与に関しては交渉も糞もない、どうしようも無い状態であるという結論だけ、ということだな?」


「どうしようもない結論でも、自分で考えた末に選ぶのなら文句はないわよ」


蟹は今度は鋏と鋏を拍手の要領で打ち鳴らす。


――それでこそルナーレだ!


――はいはい、お褒めにあずかり光栄ね


「……まあ、あれだな早く仕事を選べる身分になりたいものだなルナーレ」


そうして蟹は立ち上がり、踵を返す。


「そうね、まあゆっくり急ぐわよ、やるべきことも多いんでしょ?」


少女もまた、海月と戯れていた医師の下へと戻る。


蟹は「違いない」と、好々爺のようにかっかと笑い、


 そして目に隈の出来た医師が、

ぼろぼろのソファーが置かれた暗い室内の中で、

海月と笑顔で戯れている姿を見ることになる。


少女ルナーレは口を開く。


「その仕事、受けるわよ」


医師は、頷き、紅茶を口に含む。

如何にもそう来ると考えていたと、分かりきった返事が来たと言うような態度だ。


 慇懃な印象が拭えない町医者は、依頼契約用の用紙を取り出す。

紋章が記されており、契約後、紋章を発動することによって、

紙の性質を変質させることが出来る、組合が公式で発行している用紙だ。


「とりあえず、お願いしますよ、お三方」


暗い印象の拭えない小さな笑みを浮かべた医師マックガネン。


少女と蟹の初めてのクエストはこうして始まった。












都市を出て、一時間ほどで、目的地に到着した。




少女と蟹がエミダリに入るときに利用した南の大門を通り、


蟹と少女はかれこれ一週間ぶりに、都市の外へと出た。



入るときに世話になった、髪の薄い中年の小門検問官に鋏を振って、

それに合わせて海月も触手を振り、


通行人とその検問官をぎょっとさせ、


少女のストレスを順調に溜めさせながらも、


とりあえず万事滞りなく、少女及び依頼人たる医師一行は目的地へと辿り着いたのだった。



少女の自慢の健脚。


蟹の陽気さ、それを打ち消すような医師の陰気さ、


なにをするでもなく、道ばたをふよふよひらひらと、宙を浮いている蝶を触手を伸ばして追いかけている大きな海月。



特に物盗りの類も現れず、魔獣も大人数に恐れをなしたのか出てこない道中は平和で、


少女はピクニックにでも来たように錯覚したぐらいだ。


(こんなことなら、何かお弁当でも持ってくればよかったかしらね)

と少女が欠伸をしながら考えるのを、一体誰が責められるのだろうか。


 少女の装備は蟹の買ってきた頑丈そうな外套。

そして布で作られた男性用の下履き、外套の下にはベストと味気ない白色のシャツ。


金の髪は頭の後ろで二つの房にまとめられ、


春風にたなびき、陽光を反射して、黄金に輝いている。



春とはいえ、日中の日射しは暑い。

額から流れる汗を拭いながら、少女は太陽を憎々しげに睨んだ後に、

炎天下なのに、いやに元気な蟹をも睨む。


睨まれた蟹は、

辺り一面の草っぱらやら、ところどころにあるすすきにも似た長い雑草やら、

群生する色とりどりの花やらのただ中を、先頭に立って掻き分け、


「ほう」やら「うむ」と言った言葉を零しながら進んでいた。


ちなみに先ほどまで、蟹は自作の『蟹はカッコイイ、嘘を吐かないし蟹はカワイイ』(作詞/作曲ペンタ)

やらなんだかをずっと口ずさんでいたが、もう既に飽きたのかやめたらしい。


蟹の自画自賛っぷりに少女は軽く頭痛を覚えたが大したことではない。


ともあれ、とりあえずそういった形で一同は都市から出て、西の方面を歩いて、


目的地である平凡な丘へと辿り着いたのだった。





近くには鬱蒼と茂る森が侍り、街道からも大分離れたらしいところにある小丘陵に拡がる様々な野草の群れ。


「ほう」「へぇ」

と蟹と少女が漏らすほどに多様な種類の花と草が生えている領域。


陰気な医師の提案もあり、

とりあえず肝心の野草採取は休憩の後となった。


陽が陰る前に帰還したいので、大体採集に掛けられる時間は、二刻ほどになる。


「うむ、平和だな」


混沌として見えるが何処か秩序を感じさせる風景を前に蟹が零す。


その蟹の背に座る少女、その少女の頭に座る海月。


一人、医師が地面に座って、持ってきていたらしい黒パンを口に運んでいる。


「でも変ね」とルナーレ自分のツインテールを弄りながら言う。


「その髪型か? 似合ってるぞ少女ルナーレ!」


「違うわよっ!? ……ん、こんな沢山の種類に植物が、この限られた範囲に群生してるなんて」


医師がその言葉に反応して、パンを口に運ぶのを止め、そして何処か疲れを感じさせる眼差しで少女を見る。


「この場所はその筋では有名なのですよ」


――有名?


と蟹と少女と海月が首を傾げる。


「かつてこの場所にまで都市エミダリが拡がっていた頃。

この地には薬草学の権威がその巨大な館を構えていたことが知られています」


「ふむ、詳しいのだな」


「これでも私は学府、独立総合大学府で薬学を修めた身ですよ?」


ほお、と蟹が適当に相槌を打ったのに対して、

少女は驚愕に目を見開く。


「総合大学府って本当に!?」


「ええ、古い話ですがね」


「なんだルナーレ嬢、そんなに興奮して」


落ち着いて空でも見ればよかろう?と蟹が何時ものように少女をなだめるが、

少女はますます興奮している。


「だってペンタ。独立総合大学府よ?

世界最高峰の知の結集、各地の士官学校、学院、大学府での成績優秀者が集まる最高学府。

あたしの住んでた村みたいな田舎中の田舎にだって名前だけは知られてるくらいなんだからね!」


言って、ルナーレは自分の興奮の度合いが分かったのか、


急に顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにペンタの背に座った。


蟹がフォローを入れるように、


「……ほお、蟹にはわからんがそれは凄いところなのだな?」

と訊ね、同時に訊ねるような眼差しを、疲れた顔の元爽やかだろう医師に向けた。


 医師は何かを考えるような素振りを一瞬見せた後に、しかし首を振って、

何処か自嘲するような笑顔を見せる。


「流石にそれは言い過ぎですね、まあでも確かにそこにいたことを誇りとも思っていますよ私は、

その程度には凄い場所でしたね」


ふむ、と蟹は身体を傾げる。ついでに急に傾げられるから少女もバランスを崩す。

しかし気にせず蟹は問いを続けた。剛胆なのも彼の特色である。


「それがまあなんで、あんなしょっぱ……ん、静かな診療所を」


言葉を選ばない時があるのも彼の特色である。

(その点は彼の相棒たる少女ルナーレも同じだが)


 その質問には少女も興味を見せている。

同じ思いなのだ。

大学府にいるということは紋章や機巧、様々な学智に、生物や魂への造詣の深さを持っているということだ。

 

 時に講師として世界中に呼ばれることもあれば、研究者として各地の研究所で様々な技術理論の開発に勤しむ。

もしくは優秀な儀式大家や儀式小家として働いていることもあるだろう。


そんな彼が何故? 当然の疑問だ。


とはいえ蟹も少女も、この質問が不躾であり、まともに答えの返ってくるようなものではないとも知っている。


「まあ色々ですよ、色々」


と言うマックガネン個人の歴史、様々な経緯が彼の診療所に結びついていることは明らかで、

そしてそれは出会ったばかりの乳臭い小娘や、奇怪な蟹、珍妙なな海月に話すことではないのだから。


 医師マックガネンは立ち上がる。


草原を見渡し、次に何処か影のある、年齢不詳な笑みを浮かべて、


「さて、そろそろ休憩も良いでしょう?」仕事の開始を促した。


蟹もそれに応じるように鋏を鳴らした。


「無論!」


そして、マックガネンの傍へと移動して、

立ち入った事を聞いて悪かったと言いたげにポンと尻に鋏を置いた。


「……はぁ」


溜息を吐きながら少女も伸びする。


それを真似するように海月も全身を震わせている。










依頼は簡単だ。


薬草収集。


「で、何を摘めばいいのかしらね」


「これです」


言って、マックガネンが、シダとツクシの合いの子のような植物を見せた。


「今、そこで摘んだモノです。

名は、『エルシッペル』西方では震え抑えとも脳震えとも呼ばれている薬草です」


「ほお、効果は?」


蟹が興味深げな光をその黑い眼に宿して聞いた。


「煎じて、人族を構成する物質と反応させます。

すると痛み止め、心理の強制的高揚が起こります」


「ふむ高揚剤か」


理解したというように蟹が鋏を振った。


が、隣に居たらしい元村娘には理解できなかったようだ。


「高揚剤?」


「うむ、少女ルナは肝が据わっているから関係ないかもしれないがな、

うむ、簡単に説明すればな、そうだな……

……新兵や、あるいは窮地に立たされた戦士が、死への恐怖に飲み込まれようにするための薬」


というところか、と蟹が顎を動かして言う。


ふーん、と少女は納得するように頷いた。


薬で己の身体を動かす、動かせねばならぬ時に身体が逃げぬように方向付ける薬。

少女はどこか納得しきれていない様子を見せながらも、先を促した。


髮が揺れる。春風が、周囲の群生する野草をも揺らしながら通り過ぎたらしい。


「もう一つは、こちら、燈命草ですね」

「これは?」

「鉄や銅と煎じて飲み薬にします。

物質や魂と反応して、特定種族に限ってですが血になります。

また身体における欠損をある程度までですが補います」


 その薬がその効力を発揮するのを詳しく説明するならば、

かつて天上においては物質や属性、概念は、

この世界ほど分裂、劣化していなかったことに関係しているいのだが。


 その複雑な薬のメカニズムを、この場で詳しく説明するつもりは医師マックガネンになく、

掻い摘んだ説明を蟹と少女とついでに海月に行うに留めた。


「ふむ、回復薬、あるいは再生薬とも呼ばれるものだな」


蟹は思い出す。


己の友、賢者フィネイルゥは薬学にも長けており、


同じく薬学と素材学に通じていた『妖精』や『智慧』キュリエルとともに多くの(異常とも思える程に)効く薬を調合していたことを、


そしてまた、その味が最悪のものばかりで、蟹も含めてほぼ全ての蟹の友人がそれを飲むのを嫌がったことを。

(恐ろしいことに「薬は苦くなければいけないね!」と考えた有角人フィネイルゥの無駄に凝った努力によって、美味しくできるのに、あるいは元は美味しい薬なのに、それまで恣意的に苦くされていたことを知ったのは、あの戦争が終わった後の祝宴でのことだった。

前衛として戦った多くの蟹の友人が、温厚な者も含めて、怒りの雄叫びを挙げたのも、今は昔の話懐かしいことである)


――うむ、特に薬を使うことの多かった『鬼王』など実際に殴りかかったのだからなぁ。


凄かったと、蟹が、鋏を振って、郷愁に耽っているのを尻目に、


少女と海月と医師は仕事についての話し合いを進めていた。


少女ルナーレなどは、

いきなり空を見上げ始め、何か鋏を振り回した始めた蟹を、露骨に胡散臭げに一瞥したが、


それを責めることは誰にもできないだろう。


陰気なマックガネンの声。少女の頷き、海月の振る触手。


「と、この二つの種類の薬草を探してもらいたいのです」


「……結構、簡単そうね」


「そう、考えるのは素人の浅知恵と、言わざるをえませんが、

ともあれ、始めてください」



 そして医師は既に、目的の草が生えているらしい場所を知っているのか、


かつての植物園たる、この丘陵の一角の特定の方向へと迷いなく歩き出した。


少女ルナーレは、それ以外の場所を探した方が得策と考え、


隣、未だ意識を何処ぞ彷徨わせている蟹を呼び起こし、


医師の向かったくさむらと反対の方向へと進む。



手元には先ほど医師が採取したばかりの目的の野草二種。


シダの先がツクシの形をしている奇妙なモノと、


燈命草と呼ばれた、所々が燈色で、茎の細い、パセリによく似たモノ。



奇妙に楽しそうな蟹の背には籠が括り付けられており、


採集した野草はそこに入れることになっている。


ちなみに海月は、医師の護衛へと向けられている。

(蟹がそう言うと少女は一瞬不安がったが、

蟹が「あれは俺の友人だぞ?」と言ったのと、

蟹の円らな瞳に一切の迷いがなかったので、

少女は納得した、彼女の蟹への信頼はいよいよ厚い)


蟹は楽しそうに鋏を振るっている。


青い巨大な鋏は、空を切って、そして周囲の雑草を刈り取る。


鋭い切れ味を雑草相手に見せつける蟹を呆れたように見つめるルナーレ。


そして蟹は動作を止めて、身体を持ち上げて、円らな瞳を少女へと合わせた。


「……ふむ、準備は万端、支度も上々、では始めるかルナよ」


「何か村の仕事を思い出すのだけれどね……

まあ一々言ってもしょうがないことよね、うん、始めるわよペンタ」



そうして二人は仕事を始めたのだった。



例え華が無く、地味な仕事であっても、


意味はある。


重要さとは、普段の退屈の積み重ねにより生まれるのだ。


千里の道も一歩から。


それを知っている一人と一匹は、文句こそ言えども、


この野良仕事を心底から疎むことはない。


勿論、英雄譚を望んでいる少女に不満がないとはいえない、


それでも、現実やらなければならないことがあるのなら、


それに立ち向かうことを優先するのが少女の性格であった。


蟹はまるで孫を見るような目で、地味な土仕事に向かいつつある少女を見ている。


嬉しそうに、あるいはそれで良いというように。


……


…………


草に向かい始めた少女が声を発した。


「あ、それとペンタ」


「ん?……なんだ」


蟹は甲羅を傾げる。


「雑草切ったせいだろうけけど、あんたの鋏ばっちぃことになってるわよ」


「うん……うん!?」







ともあれ仕事は始まった。














列伝


『百眼浮遊』ブロキア・ポーネット


ポーネットは百の目を持った。

動植物の混交体である。


流れの儀式大家の仕業とも、生命学や改造学に詳しい存在が手慰みに作ったとも言われるが、その正体は定かではなく。

旧暦においては世界各地をあてどもなく彷徨っている謎の魔獣として有名であった。


全長は2mから10m近くまで伸縮自在。

無数の木の根にも似た触手はどことなく素朴な可愛らしさがあった。


百の魔眼、己を浮遊させながら撃ってくる多様な戦闘法。

その相貌に惹かれた『有角姫』ネーベンハウスにより強引に地軍に勧誘される。


とはいえ地軍加入後は、居心地が良かったのか恐ろしく馴染み、

多くの同僚と遊ぶ姿が目撃された。


同じ触手、浮遊型の『海月』に対しては奇妙な敵愾心を抱いており、

それが元で引き起こされたのかの有名な、『地軍マスコット決定対決』である。


天上戦争においては、多様な技と異能により神二柱を屠った。



新暦においては『神僕』全てを見通す神の目として、一部で祭祀される。

本人は大森林に居ると思われる。


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