表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/37

相談、思い出話、師匠!うん……うん? 

なんか全然進展ないですね、待たせた割にこの程度ですいません。

とりあえずキリがよいので、ここで一度切ります。まあ普通に続きますけどね








それはまだエーミッタの左腕が存在した頃のことだったか。


あるいは『異空』の象は暢気に水を飲んでおり、『神官』は地獄に落ちず、なお在り。


『竜公』が空を駆って、『小鬼』は機械いじりに余念無く、


『大蟷螂』は日がな一日、己の刃を磨いていたときのことだったか。



あの戦争のための仲間は、既に全員結集し終えて


戦争のための準備も進み、日々連携や作戦が練られ、


地上に墜ちた堕神や、旧神に与する地上の魔獣や魔人、魔族に人間との前哨戦も既に終わり。


多くの者が、半年後にまで迫った天界、即ち第七天への侵攻への覚悟を決めつつある頃だったか。



それとも未だ勇者が魔族への敵愾心を捨てきれず、それでも大分馴染んできた頃であったか。


勇者が未だに綺麗に切り揃えた髪と、音楽やボードゲーム、ダーツやビリヤードなど不良の遊び。

酒は厳禁と言い募り、常に礼儀正しく姿勢を伸ばし、丁寧語で喋っていた頃の話であったか。

(その全てを捨てて、勇者は後に、遊び人へと転職する運命になるのだが、

そのことを誰もが予想していなかった頃と言い換えてもよい)



あるいはその全てが当てはまる頃だっただろうか。



ともあれ、そんな時候のある一日。



仲間内で最もからかわれる頻度の高い『騎士』エーミッタが、蟹の背に乗って、目を瞑っていた。


蟹と騎士は、温暖な日射しの庇護下、なんとなしに『大亀』の背の上の大森林を散歩していた。



柔らかな陽光、青い空、透けるように透明な空。


雲は塵のようにかすかに空にかかっているに過ぎず、


見渡す限りの浄天清麗を邪魔する者は誰もいない。



蟹はのっそと、しかし巧に脚を動かして進む。


「で、『吸血鬼』の仕上がりはどうなのだ?」


「……ん? ああ、良い、と言い切れる程度には」


言いながら朱い髮を揺らす元職業軍人。


姫への心酔が過ぎて、大鬼と喚き合っている時の騒がしさは、今ここにはない。

落ち着いた物腰で、しかし軍人ゆえの無骨な態度で、空を睥睨している。


「大家と小家に優れていても、他の者を越える程ではない一番の穴ではあったが、

問題なく仕上がったと、私は自負してるよデンザロス」


「ほぉそれほどか」


「まあ後は実戦あるのみだがな、熱意があるし、なによりも才能がある。

これからの永き生を経て、リーリアが何処に至るのか、恐ろしくもあり楽しみでもあるよ」


そう笑う『騎士』。


蟹は『吸血鬼』の見た目にそぐわぬ落ち着きのなさ、騒がしさを思い出しながら、

嬉しそうに笑う。


「そうか、あの跳ね返りが、それほどに……」


「ふん、当然のことだと私には思えるがな。

ガルニゼスから法具を、

その上、師匠にデルバイアー、シュテッツェにタンドラン、マーネンハイト。

この私、そしてなによりガル、あのガルがいるのだぞ?

余程の阿呆でなければ、それなりのレベルにはなるだろう。

さらにあの熱意……私がかつて率いてた騎士団の新人にも珍しい」


とはいえ教官は天才型ばかりでな、不器用な実戦形式の教授ばかりになって

『吸血鬼』には迷惑を掛けているような気もするが、と付け加える『騎士』。


その顔に険はない、己の弟子にして仲間である姦しい少女のことを素直に思っている顔だ。


蟹の巨体は、器用に植林を躱して大地を這い、進む。


「……もうすぐか」


言った、『騎士』の顔から数瞬前の明るさが脱けきって、異常と思えるほどの陰を帯びた。


「ほお? 鬼の女騎士さまも、流石に怖じ気付くものか?」


蟹は茶化して、あるいは努めて明るい声で、身体を動かしている。


羽ばたく鳥、青い甲羅が陽を反射している。巨大な対の八脚が木々を上手く避けていた。


「……当然、だろう? 神と、……神と、戦うのだぞ?」



そして、エーミッタは震えを隠すように己の身体を抱きしめる。


らしくない静けさで、心の底からの震えを見せるその姿。


恐ろしい武神、あるいは女騎士の姿は其処には影も形もない。



蟹にとって神とは、天に座す、気にくわない存在に過ぎなかった。


今も昔も、変わらずに、天から地を眺める支配者気取りの存在。


『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシアが神を意識したその瞬間から、

神は彼にとって気にくわない存在だった。


しかし人草や亜人、精霊種にとっては違うのだろう。


少なくともそれを理解できる程度には蟹の心は広かった。

その身体に負けずとも劣らずに。



神。


それは恐ろしく、それは理不尽でもある。


しかしまた同時に秩序でもあり、紛う事なき超越者であったのだから。


『無貌』にすれば神を語る偽神なのだろうが、しかし人にとっては事実、神といえたのだ。


幼き頃から根付いた信仰心を、一体どのように克服しているのか。


悪逆の神とて神は神だ。


『神官』や『勇者』に至っては一度とはいえ、反逆まで行って、あの姫と戦ってさえもいる。



蟹に騎士の気持ちは汲み尽くせない、その心の全てを掴むことは難しい。


余りにもその気質と人生観が違いすぎるから。


むしろそれは他者というものと相対する以上当然のことかもしれなかった。


分からないということこそが、万物の関係の根底とも言えるのだろうな、蟹はそんな思考を一拍抱く。



この気丈な『騎士』さえも、恐れる戦いがもうすぐ始まるのだ。


「うむ、エーミッタ」


騎士は僅かに震えを抑えて、蟹の呼びかけに応えた。


そこにあるのはどんな感情か。蟹には分からないが、しかし。


「なんだ……デンザロス」


蟹からは背にある『騎士』は見えない。


今、俯いているのか、あるいは天を見上げているのか分からない。


気配を察知して推測することしかできはしない。


だが、それでも蟹は平然と、全く気張らず。

それこそ周知の事実を述べるかのような気軽さで『騎士』に声を掛ける。


「……戦いが終わったら蟹でも食べに行こう」と


動く蟹の背、揺れる、しかし揺れすぎないようにと蟹の些細な配慮。


ぽかんとした顔で、面を食らったと騎士は如実に表情で語る。


「……おまえ、蟹が蟹を食べようと誘うのか?」


「なあに、蟹が蟹を食べて悪い道理もないだろう?」


呆れめいた声音の『騎士』。


愉快、愉快といつもの蟹。


「それでもやりにくいようなことに違いあるまい」


騎士の問い、訝しげなものだ。


蟹はカッカと笑い、揺らされた巨躯が林を揺らして、鳴く鳥が飛び逃げる。



「騎士、お前が神を殺す気持ちは多分、俺が蟹を食べる気持ちに近いのだろうと思ってな。

どうだ、天で痛みを得るならば、俺も痛みを得よう。そしてついてだ。

お前や他の連中も集めて、大規模な宴を行おう。

なにもかも忘れてな、新たなる世紀を祝した宴をな」


騎士は唖然とする。しかし、やがて笑みを作る、


そして声を出して小さく笑い、最後に腹の底から笑い出す。


しばしの間、笑って、笑って。


そしてデンザロスに言葉を向けた。


「変な慰めだな、同士デンザロス。

蟹が蟹を食べるのはともあれ、それが本当に私が神を殺す感情に比するとは思えないがな。

母殺しと同族殺しは同列には語れまいよ。

だがな貴様のその、己の経験にない感情を少しでも理解しようというその心持ちは好ましいよ。

そしてな、心優しき蟹よ、その気遣いには心底から感謝しよう」


俯きを既にやめ、呆れを含んだ優しげな表情が、鋼鉄の『騎士』の顔に浮かんでいる。


綻んだ表情、微かに柔らかになったその感情を、蟹は察知した。


「別に礼など構わんよ」蟹はその大きな鋏を振る。


これで『騎士』の不安が解消しきれたなどとは蟹も思っていない。


それでも仲間と認めた存在を少しも配慮しない、想像しないまま放っておくことは蟹にはありえないことだった。


少しでも、蟹なりの、蟹の想像力を用いて、共感に近づこうとする。


それが蟹で、


そしてそう考える蟹は、間違いなく紳士であった。


「……全く」


苦笑、しかし陰の薄らいだ『騎士』は朱い髮を揺らし、笑う。


その顔は上げられて、そして眩い光輪を細めた目で見つめている。


「それよりももう戻ろう。ヅュチャの昼飯が出来た頃だろう?」


蟹は、何事もなかったように、己の巨体を帰路へと動かす。


振動、しかし全くバランスが崩れない『騎士』。


高さ5、6mにも及ぶ高い視界に直立している『騎士』は、今日の昼飯の献立を想いながら、

蟹の青い肌、そして少し飛び出た、黒真珠のまなこを見やる。


「そうだな、帰ろうか。大分、気持ちが晴れたよ改めて……有り難うデンザロス」


そうして、蟹と騎士はのっそのっそと、皆がいるだろう広場へと帰って行く。



戦いは近い、しかしどうにかなるだろう。


蟹はそう考えている。


頼りになる仲間は多い。


そも楽天的な蟹は心配などもたないのは。

種族も、年齢も、価値観も、なにもかもが違うが、

それでも、頼りになる仲間がここにあるからだろう。




騎士としりとりをしながら、帰路に付き、


蟹は、なんとなしに、そう考えた。












ふと、懐かしい時のことを思い出したと、蟹は自嘲する。


ちなみに戦いが終わった後、蟹は蟹を食べた。

残念なことに最高に旨かった。

人が蟹を捕らえる理不尽も分かる気がした蟹であったが、

それは今この場となんの関わりもないことである。


対面上、立ったままの騎士。


その背後には侍女。


机の前に立つ騎士、その隣に蟹。



先ほど、久方ぶり(かれこれ1200年ぶりだろうか)

に出会った旧友二人は、挨拶もそこそこに、用件へと入った。


預けられた書簡を受け取り、目を通し、顎を撫でる騎士。


その顔には渋面。


時折、内容について蟹に聞いている。


(騎士は隠密の行動を行っており、鴉を傍に持たない為、

こうして原始的な連絡の手段を取ることととなったのだ)



「……ふむ、だいたいの所は理解したと思う」


騎士は呟き、書簡を畳む。



その顔には怒り、あるいは憤り。


それらが鉄のように確固として、冷たく渦巻いている。


「で、どうだ」と蟹が呼びかけ、


「当然、……許せるものではないな」と騎士は返す。


騎士の腰に帯びた剣の鞘は、非常にシンプルな作りで、飾りのない金属光を見せている。

彼女の愛剣だ。

無銘ではあるがガルニゼスの最高傑作と聞く。


「『吸血鬼』に、『図書館』か……去年のベストセラーである『神話・迷宮録』だかなんだったか。

……エンゲルス・バッキオスの騙りにしては詳しすぎる内容だったが、やはり当人だったか」


そうしてまた渋面、その鋼鉄の美貌を歪める騎士。

まるで士官学校を出たばかりの若さ滲む顔立ちと肉体には、しかし隠しきれない歴戦の凄みが滲んでいた。


「それとエーミッタ」


蟹が鋏で、ちょんちょんと騎士の赤褐色の外套をつまむ。



「?」


とぼけた蟹の声は、遙か昔にしりとりをした昼下がりから全く変わらない。


「『吸血鬼』のことなんだが、報告しておきたいことがある」


騎士は首を傾げる、綺麗に揃った朱い髮も釣られて傾く。


蟹も釣られて、己の身体――甲殻を傾ける。


「おそらくだが、この都市にいるだろう」


驚愕。騎士は、思わず柄に手を掛けた。


「まさか!」

「本当……だと思う」


己の現在の相棒のような存在が、『吸血鬼』らしき人物に夕方頃会ったことを話す。


蟹のことを知っていたらしき素振り、口ぶり。


怪しげな、むしろ隠す気のなさ過ぎる、挑戦的なリリーの名。



続けざまの渋面、やり場のない憤り、蟹に対して言葉を作る朱髮の麗人は、

首元で切り揃えられたなめらかなその髮を揺らして、苦み走った表情。


傍の緑髪の侍女は、会話の邪魔にならな位置に侍り、事態を静止している。


幾つもの蝋燭、そして灯器に照らされた、埃臭い緋絨毯の一室の空気は硬い。


「……可能性はあるか。

…………デンザロスは知らないだろうがな、昨晩に吸精事件が起こっている。

都市の冒険者が【力】と精気を吸われていたらしい」


蟹は鋏を開き、


「符合する、ということか?」


カチンと閉じる。


エーミッタの整った顔立ちは歪にゆがみ、

遠く獲物を吟味する猟師のように鋭く虚空を見つめている。


顎を、右腕、生の腕で撫でながら、蟹もそれを真似するように己の顎を撫でる。


「偶然にしては出来すぎていると、私は思う。その少女の周りにはいま?」


「人形と鴉が」


蟹は、神器とマッフ機巧の粋が尽くされた人形と、

膨大な分裂を果たした同胞を脳裏に浮かべる。


「『吸血鬼』が本当に敵の手に落ちたのか、操られたのか、洗脳されたのか、

それは分からないが、人形ごときでは太刀打ちも出来ない相手だ、気を付けろ」

「忠言は有り難く受け取っておこう」口ぶりとは裏腹に、蟹は言われるまでもないと鋏を揺らした。


部屋を照らす幾つもの燭台が揺らめく、己の腰よりも下の、座っている蟹に対して、

騎士は滔々とことばを語る。その深刻さと真面目さの入り交じった表情は微塵も緩まない。


さすがの蟹も、その声に巫山戯たものはない。


「『吸血鬼』。 私が最後に会ったのは500年も前だがな。

その時は全く変わりなく、何処か稚児じみた騒がしさを保ったままではあった。

が、話に聞く限り、その麗人が『吸血鬼』なら大層な変わり様だ」


照らされた赤い髪。それを僅かに揺らす騎士。


「いやさ、本当に淑女になったのだな、と俺は思ったよ」と蟹。

「三つ子の魂百までではないが、私はあの騒がしさは天性のものだと思っていた」

と騎士、蟹は違いないと頷く。

(『吸血鬼』の騒がしさは、地軍の変わらぬ共通認識であり、

かの『黒』たる大悪魔ガガーレンの山羊頭をしても

「『吸血鬼』 ……ああ、あの騒がしい娘」と言わしめたのは伊達ではない)



場には一瞬の奇妙な沈黙。


首を傾げる自動人形。


ゴホンと咳込み、騎士は机上の地図に視線を送る。


「ともあれ気を付けなければな、『吸血鬼』は怖い」

「うむ、怖いな」


蟹と騎士が意見を一致させる。





その後、いくらかの会談の後。

『吸血鬼』と『図書館』の情報が整理され、『騎士』への事務連絡が伝えられる。

エミダリでの吸精事件と『吸血鬼』?の目撃談もついでにまとめられた。


この一連の会話の内容を。館の自動侍女が最寄りの鴉に伝え、

幾つかの事実をまとめて賢者の下に送ることで、話はとりあえずの段だがまとまった。



二人は一息付く、蟹は脚を降ろし。


騎士も呼応するようにふかふか質感の上質な椅子へと腰を下ろす。



――最近、歳のせいか腰が痛くてな。


――騎士殿の肉体の年齢は停止している筈ではなかったか?


騎士は、己の左腕、銀ともあるいは銀ではありえないような金属の義腕で己の髮を触っている。


先ほどまでの緊張は少し薄れ、蟹を見つめる顔にも皺はなく、

作られる言葉はどれもなにげなく、なんとなしに聞くという風情の物ばかりである。


「しかし『吸血鬼』か、負けるとは言いたくないが……」

「鬼の騎士団長殿も、しばらく見ないうちに落ち着いたようで」

蟹の揶揄するような声。少しむっとした調子になる騎士。


「……冗談ではないからな。

せめて外を出歩くときは武装を忘れないようにするよ、私は。

それよりもデンザロス、貴様も気を付けろよ。私はいいが、お前の変わり様では」


蟹は、途端に顔をぱぁっと輝かせ、陽気な声で、おもむろに立ち上がる。


「おお……どうだ! この新しい身体は」


と蟹が鋏を見せつけ、その場で回り始める。


「別に回り始めなくてもよいだろう……」


言って、騎士も椅子に、より深く座り込む。


女性にしては高い身長、およそ160cmの後半というところであろうか。


形のよい顔は、さらに緩められている。


敵のこと、『吸血鬼』のこと、『図書館』のこと。

考えなければならないことは多い。が、それは今すぐに、という話でもない。

こうしている間にも頼りになる仲間が尽力しているだろう。


前衛型の二人は差し迫った危機をのみ、後でじっくりと考えればよい。


長きに渡り、隔たっていた友情が、再び出会えば、咲くのは会話の華。


それが相場と決まっている。猫と蟹が出会った時のように。


「ふむ、どうだ?」

「いや、見違えたぞ、私は最初にお前の姿を見たときは、

あのデンザロスに子供でも出来たのかと思ったがな」


素知らぬ顔で、顎を撫でている騎士。


蟹は鋏を振る。心なしか、呆れた声音。


「誰と作るのだ、誰と……」

「侍女とか……仲が良かったのではないかな?」


騎士は笑う、蟹は己の頭を掻く。


――どんな怪獣が生まれるか分かったものではないな


――違いない


そしてまた、騎士は微かに笑う。


「しかし、変わったな騎士、前よりも綺麗になった」


「はっ! 余裕の賜物だろうな、私の心も広くなったのだろうよ。

そして貴様は、相変わらず恥ずかしい言葉を忌憚なく吐く。

……私に比べての変わり様なら、お前には負けるよデンザロス」


「うむ、我ながら、俺の身体の縮小具合は中々の変わり様だとは思う、

が、それにしても騎士よ。以前は冗談など滅多に口にしなかったではないか」


座った騎士の、対面に同じく座っている蟹。

流石に椅子ではなく、カーペットの上ではあるが。


騎士は脳裏の記憶を探る、魂の奥深くに収めた記憶を想起しているようだった。


「私と貴様が最後に会ったのは。赤竜討伐以来か」


蟹も頷く。


それは永い眠りから起きたばかりの蟹にとっては数年前のように感じる一つの任務。


「ゲオルフリースか……強敵だった」

「……貴様のえげつない嵌め技で、華麗に地に沈んだように記憶してるのだが」

「……お前だって腕や尻尾を。生きたまま、事も無げに寸断していたではないか」


そうだったか? と騎士は嘯き、蟹はそうだったと笑う。


笑い声とともに蟹の泡が溢れる。騎士は言い訳めいた言説。

「あ、あれはあの蜥蜴人リザードマンが一番ハッスルしていただろう!?」

「うむ、……そうだな、そういうことにしておこう」

――そういうことではなく、そうなのだ

――負けず嫌いの騎士め


騎士は、蝋燭の明かりと灯器の灯りで、必要以上に明るい部屋を眩しそうに見る。


「そういえば騎士エーミッタ」

「なんだ?」

「猫から聞いたぞ? 10年ほど『艶華』のところから出てこれなかったそうじゃないか」


言われびくりとした『騎士』は、顔を真っ赤に染めて、デンザロスを睨む。


「それは言うなっ……うぅ、く、クワイネリーさまは……」

「さま?」

「……クワイネリーは碌でもない奴だ、本当に……あれ以来、花を見ただけで吐きそうになる」

「『艶華』との賭には乗らなかったと聞いたが」


真っ赤な顔、まるでトマトのような騎士は、僅かに腰を上げて、凄い剣幕で蟹に弁明する。


「嵌められたのだ! あの腐れ花め!! 

私が、あいつが復活したと聞いて森に行ったら、勝負を持ちかけてきた後に……うううぅ」

「よくもまあ出てこれたモノだな」

「思い出させるなデンザロス。10年経ってたまたまガルが来てな、それでどうにか……」


身体を妙にもじもじさせている騎士は、さらに朱く、林檎よりも朱くなっている。


思い出すのも恐ろしいのか、あるいはその逆なのか、奇妙に動揺している『騎士』を前に、

仏心を出した蟹は、それには触れず、話題を変える。


何度も言うが、彼は(自称)紳士な蟹であるのだから。

(嗜虐心から、何があったか突っ込んで聞いてみたい気持ちに駆られたが、

『騎士』と全力の喧嘩に陥りそうだったので、どうにか押さえ込んだとも言える)


「はは、全くそんなに慌てて友を詰るなんて、『法と平等』の名が廃るのではないか?」


変えた話題は、

どこか面白げに、試すような挑発するような調子で、それでいて惚けた調子で蟹から投げかけられた。

蟹の黒い瞳には、部屋の光が入り込んでいるが、それを越えて人をおちょくるような悪戯げな光が同居していた。


明らかな、からかい。


神とされてしまったことをこの真面目な騎士がどう思っているか完全に予想した上ので行動だ



「デンザロス!!」


今度は恥ずかしさとは全く違った勢い、と剣幕で、騎士は蟹へとがなり立てる。


「ハハハ、そんなに感情を出していいのかエーミッタ。 お前は「神様」なんだろう?」


「貴様ぁ!」


人間の顔があれば、どれほどに嫌らしい笑みを浮かべているのか想像が付くような言葉の調子の蟹と


一度築いた関係性は中々拭えないのだなぁと思考の隅で思いながら、

真っ赤な剣幕で、蟹と蟹に飛びかかった騎士のじゃれあいは、数分続いた。













騒がしい場はようやく落ち着いた。


自分はなぜ旧知の仲間に会えば必ず同じような目に会うのか。

と疑問に思いつつ、まるで感情を表に出したことを恥じるように、

騎士は済ました顔で、椅子に座っていた。


目前の蟹は、クックと笑い。

騎士は、うぜぇなこの蟹と、じと目で睨む。


空気が暖まったところを見計らってか、稚気を収めた厳粛な声音で、

蟹は騎士に言葉を投げかける。平然と。


「さて……なあ、先ほどの『吸血鬼』の話にも関わるのだがな」


どこか納得の行っていな調子で、騎士は頷く。


「……ああ、なんだ」ぶっきらぼうに。


蟹は構わず続けた。


「誰かいないか?」


主語を抜かすなよ、と『騎士』は訝しげな表情を見せる。


蟹は、そう急くなと騎士を一瞥して、付け加える。


「俺の友人でもある少女の警護と、師匠用に誰かだ」


「なぜそれを省いて通じると思ったのだ貴様は……鴉では駄目なのか?」



彼は、細やかな、未だ魂の自覚に至っていない者の魂を、

細心の注意をもって、刺激出来る者が欲しいと説明する。


「……親ばかめ、それでは修行にならないのではないか?」

「むう、そうか?」

「貴様の考えがあるのだろうから、特に押しつけはしないが」

「まあ、警護のついでとしてだ」

「近郊の暇な儀式小家を……か」

「うむ、まあそういうことだな」

「それは、金を払って、学府やら、あるいはそういう位階の儀式小家を雇うのでは駄目なのか?」



蟹は、両鋏を、大きく広げて上げる。



お手上げ、と言うように。



「全く、考えていなかった!」


「……」


一瞬『騎士』エーミッタ・ファーレイは、蟹のジェスチャーと口ぶりにイラッとしたが、

それを完全に隠して、蟹に笑みを浮かべる。


「……まあ、いない訳ではないが」



蟹は立ち上がり、『騎士』の眼の前へと移動する、正しくは足の前に。


そして『騎士』の純銀のブーツを己の背の上に載せる。



蟹が変なことをするのは、何時ものこと、と無視して、『騎士』は話を続ける。


「地元の住民に、湖の精霊と呼ばれる奴が居てな」


蟹は、両腕の鋏を、大きく振り上げ、円らな瞳を燦めかせる。


「湖の精霊!?」


「……突っ込まんぞ、曰く、その肌は透き通るように美しく、白く澄んだ、人外の守護者」


「ほぉ、大した称号だ……」


騎士は腕を組んで、足をぐりぐりと蟹の背に押しつける。


おおう、という蟹の声。


「まあ、クチャータトのことなんだがな……」


「嘘はついていない形容だが……詐欺ではないか、それ?」


「だがまあぴったりだろう?貴様の頼みには」


「うむ、……それはまあ確かに」


蟹も頷き、そして騎士に踵を押しつけられながらも話を続け。

騎士は、引き締まった両脚、それを強調するような下半身の衣装を交互に動かして、

蟹の甲羅を、足で触る。


「で、どこにいるのだ?」

「私が案内しよう」

「大丈夫なのか? 夜明け前には帰りたいのだが」

「なに、デンザロス。貴様の全速なら、往復で一時間もかからんよ、その湖は」

「ふむ……では頼めるか? それと」


騎士は立ち上がる。そして装備と、身だしなみを整え始めた。

そして蟹を一瞥する。


「それと?」


蟹は、その円らな、模型のような瞳で、騎士を見上げ、


その鋏で、騎士の外套を摘んでいる。


「たまにでいいが、家の少女に稽古をつけてくれないか?

ルナーレと言うんだ。ひいき目ではないが可愛いぞ!」


「やっぱり親ばかじゃないか貴様!?」



そうして友人ふたりは、湖へと向かったのだった。
















「起きろ、ルナーレ!」


朝、予め、点火された暖炉の暖かさが部屋に満ちている。


「ん、んん…」


「ルナさま、朝です」


今度は、侍女ケントゥムの手が、少女を揺する。


優しく、親が子を撫でるかのような手つき。

陶器めいたその艶腕でケントゥムは、少女ルナーレの首筋、肩、脇、腹、頭を揺する。


一心不乱に、少女を触り揺するケントゥムの表情は、無表情ながら、

なぜかどことなく鬼気迫って見え、ゆらゆらと一定の間隔でそれは続けられる。


何か異様な感じを覚えたのか、鴉はケントゥムの肩から蟹の背へと飛び移り、

蟹もその光景を黙ってみているのみ。


「ルナさま、ルナさま」


「…うぅ」


暖炉の温かさに満ちた部屋は、

布団から出ても、身体の冷えることなど有り得ない心地よさに包まれていた。


春の朝はまだまだ冷たい、そのことを思った自律人形の心遣いであろう。


だが、春先の布団でのまどろみは、それら全てを上回る圧倒的な温もりを所持するもので、

結局、自律人形の心遣いにも関わらず少女が起きるのは、それからさらに10分以上後のことであった。





「全く、ルナーレはだめだめだなぁ」


蟹は少女の脚を小突いている。


少女は頬を膨らませながら鬱陶しげだ。


「さっきからうるさい、だから悪かったって言ってるじゃないの!」


水で顔を洗い、眠気を完全に追いやったらしい少女。


昨日の初めての冒険、多くの経験と講義、そして出会いは、想像以上に彼女を疲れさせていたのだろう。


蟹もそれはもちろん知っていた。

それだからこそ、蟹ことペンタはこの朝の終わりかけた時刻まで少女を寝かせていたのだから。


鴉は、蟹の上に座っている。


広い部屋の真ん中にある小さな机に座って少女ルナーレは、

今日もケントゥムの作った朝食で食欲を満たしていた。


カリカリのベーコン。

薄味だが、雑ではない芋のスープ。

比較的柔らかい黒パン。


それらを口に運ぶルナーレの対面には、

今朝もじつとその様子を、微動だにせず見つめている磁器のような神秘美の侍女。


「どうでしょうか?ルナさま、このような粗末な食事ですが……」


ルナーレは言われ、きょとんとした。何を言われているのか分からないと。

蟹との言い合いをやめて、嫌に丁寧な侍女の顔を見る。


「……えと、この朝食のこと?」


ケントゥムは頷き、どこか憂いを帯びている。


「ええ、こちらで用意しましたが、お口に合わなければ」

「馬鹿なこと言わないでよ!」

「……」

「あ、ごめん……えと、全然おいしいわよ、これ。

というかむしろ作って貰ってるのよ?あたしはこんなおいしい朝食を、

感謝こそすれ文句なんて言わないわよ……」



そう言われても、侍女は表情を微動だにさせない。

僅かに顔を傾け「そうですか」と言ったきり、


変わらず、少女の顔を見つめているままだ。


少女は、なんとなく調子を狂わされているようで、

どことなくぶっきらぼうにスープを飲み続ける。


その光景を見ていた蟹のみが気付いたのかもしれない。


僅か、ほんの僅かばかり、侍女が作り物めいたその美貌の端を綻ばせたことに。







食事は終わった。


今日は休日、正しく昨晩教わったばかりの【力】と【魂】に関する実践、

基礎特訓を少女が行う日とも言える。その為にとったゆとりある一日。


思えば、少女が蟹とともに村から出て、幾日が経っただろうか?


村、山、丘、森、港、船、大都市、冒険。


休む事なき前進は、人の身体を壊す。

澱のように溜まった精神の、脳の、【魂】の疲れを癒すためにこそ、

骨身を休める日々が必要なのだ。



部屋には広い窓二つ。そこから覗ける世界は青く騒がしい。


空は雲一つ無い。


眩い日射しがよく磨かれた硝子に差し込み、部屋を照らし出している。



どことなく温かい空気。春の匂い。

市井の喧噪。人々の賑わいが建物の外から聞こえてくる。


ケントゥムは溜まった洗濯物をベランダに干していた。


その後ろ姿は堂に入っており、その無駄のない臀部が部屋、蟹の視界にちらついている。


少女が旅で使い果たした衣類。

その汚れ、汗、血、涙、土、埃。


最初のところ、もちろん少女は己の手で、洗濯をすると主張したが、

侍女ケントゥムが譲らなかったので、少女は折れて、こうして蟹と隣合って、侍女の仕事姿を眺めている。


「平和ね」


「うむ、平和であるな」


少女は欠伸をする。

――ソファが欲しいわねぇ 


と少女が思った矢先。


蟹がおもむろに立ち上がった。


「そうだ、忘れていた!」


急に立ち上がったためか、鴉がその勢いに押されて飛び立つ。


ガァー! と文句を言うような鳴き声。



少女はとても胡散臭げに、蟹を見据えている。


蟹は円らな瞳で少女を見つめ返す。


ついでになぜか己の身体をふるふると揺らす。



――なんで揺れるの?


――なんとなく、可愛いだろう?


――カー!


少女は沈痛な表情で己の額を抑えた。


蟹は気にせず、廊下へと移動する。


少女のどうしたの?という疑問の表情。


「人……ではないな、友人を待たせていてな!」




……


…………




「いままでずっと!?」


ハハハ、そうなるかなと、続ける蟹。

身体を揺らして、惚けた調子で扉へと向かう。



なんで忘れられるのよ…… と少女は溜息を吐いて、それを見守る。



「友人ねぇ、それってもしかして」


「うむ、ルナ嬢。お前の師匠役と警護役にとな」



少女は複雑な感謝の念を抱いた。


ここまで蟹におんぶにだっこになっている己の不甲斐なさと、

蟹の気遣い紳士ぶりへの感謝が合わさったからだ。


どことなく変人、いや変な蟹だが、蟹がこの弱き己の気に掛けていることを、

改めて実感させられる瞬間。


「そう……ありがと」

と、ともすればぶっきらぼうに口から言葉を吐き出したのはその為だろう。


蟹は苦笑する。


「礼など要らん!」


それに合わせて鋏のジョキィン、と良く響く音を部屋に掻き鳴らす。


蟹の音のレパートリーは豊富だ。



扉を開け、蟹は、そこに要るらしい誰かに、もう入ってもよいぞ、と声を掛ける。


少女は立って、その客人を出迎える。礼を失しては大変だ。


「……うむ、そうか」


蟹が、扉の向こうに頷く。


そして巨体は振り向き、少女に目を合わせる。


「ふむ、それでは紹介しよう、ルナ嬢の師匠役も担当する、頼れる俺の友人であり、

地元の湖では、湖の精霊、透き通るような白い肌をもった妖精とも言われている奴――クチャータトだ!」




扉が開け放たれる。



……


…………



そしてそこに、扉を開け放った先には、彼が居た。


白みがかった肌。


透き通ったなめらかな肌。


ふよふよと浮いたその全長は一mほどだろうか。


無数の脚がキラキラと陽光を帯びている、彼が。



「…こ、……これが、あ、あたしの師匠?」



ふよふよと浮かんで、その手を束ねて持ち上げ、少女に挨拶するクチャータト。





蟹は頷く。






「頼りになるぞ!!」


「こいつ、海月くらげじゃないのっ!!」




……


なにを言っているのだ?お前は、と蟹とそのふよふよ浮いている海月が身体を傾げている。


「……いや、いやいや、ねえおかしいでしょう? ちょ、顔を背けるな!

というかこの海月デカッ!!」


「いやあ、頼りになるぞ、うん」


「せめてこっち見て言って欲しいんだけど!?」


シャキン。クァー。ふよふよ。


ガラガラと窓が開いて、侍女が部屋に戻ってくる音がする。


「ちょ、ちょっとケントゥム聞いて、って、きゃ」


金の髪を揺らして動揺を隠せない少女に向かって、少女の腹ほどの高さの海月が絡みついた。


百本は超えるだろう、触手、文字通り透き通った肌を持つ、

巨大な海月が、少女の頭、首、胸に絡みついてる。


「や、やだ、ちょ、ちょっとやめて、って何処触ってるのコイツ!?」


蟹は、そそくさと、部屋の隅に移動している。


「ハハ、クチャータトもお前のことが気に入ったらしいぞ?」


「あんた、後で覚えてなさいよぉ!? って、やめ、ひゃん」



賑やかな空気。


いやに感触のよい、巨大海月が、少女の頭に帽子のように載っている姿は異様だ。


それを見るのは無表情な侍女。


笑い続けている蟹。


羽を広げている鴉。


「ふむ、些事多し、春の朝方、なべてよは、こともなさげに、こと多し、いかにも平和ではないか!」


「……ペンタ様、クチャータト様を引きはがしてもよろしいですか」


少女の騒がしい声、絡みついて離れないのは巨大な陸海月、デフォルメされた海月とでも言える生物。

ケントゥムがおもむろにそれに近づく。


蟹はそれをやはり見ているだけだ。


窓の外。衣服は揺れる。



平和である。



こうして少女の新しい生活は本格的に始動することとなる。


蟹と少女は、これから多くのものを見て、多くの人と出会い、多くの関係を結ぶのだろう。


今日はその記念すべき始まりの朝、雑事も済んだ、始めるために必要なものは大体揃っている。


憂いは多いが、望みもまた多い。


これから先、一体なにが二人を待ち受けているのか、


歩き始めたばかりの平野に道はない。


道は歩くことで形作られるのだ。


暗き光を払って進む、少女と蟹の道の先に幸多からんことを!
















            第二部   出立篇 終了



                  第二部  冒険篇へ





















清明な湖、月明かりが差し込む。


恐ろしく美しく清潔な水の集合。


『海月』クチャータトの水質浄化努力のたまものだろう。


一体どうして、彼が湖の精霊と呼ばれるのかが、よく分かる。


一人と二匹は湖畔にたたずみ。

その清麗な水、そしてそこに差し込む光を見ていた。


騎士は外套。その腰には剣、義腕は煌めき、その眼差しは鋭い。


蟹は、パシャパシャと鋏で水を掻き。


海月はその背に絡んで、時折うねうねと全身を震わせている。


猫の身震いを行う、巨大な海月。


傘は透明、湖は透明、その触手も透明、滴る滴も透明。



地軍における愛すべきマスコット。


『海月』クチャータト


『百眼』ブロキアとそのマスコットの座を争った、歴とした魔軍三六将の一員である。




騎士と蟹の別れは近い。


それはしかし以前の別れとは違い一時的なものだ。


どちらも起きて、そして近所に住んでいるのだから。




それでも話を進める騎士の声音は、僅かに堅い。


逆に蟹はテンションが上がったのか、その美しい湖に全身を埋めかけていた。


「気を付けろよ? デンザロス」


「何をだ」溺れる心配か?と蟹。


違う、と苦笑して騎士は続ける。


「教会だ……正しさとは造られるモノだ。正当性とは揺るがない。

宗教組織とは、確立された正義のみ、規範のみを遵守する社会統合組織だ。

神の名は揺るがず、神は一つに収束する。

だが、例の本は」


「余りにも、余りにもこの世界の常識、教会の教え、あるいは正しさに反しているか?」


「そうだ、デンザロス。

心しろ、知多き蟹よ、その異端的書物が、何の滞りもなく、市場を流通し続けていることの意味を」



「……理解した」


蟹は湖より上がった。


やはり久方ぶりの淡水はいい!と思いながら、騎士を見上げる。


「『吸血鬼』についてはこちらから応援を呼んでおく。

……さて、それではな、我が盟友、我が愛すべき同胞はらから、我が心地よき親友よ。

そしてまた、さらばだ、我が同志、我が朋友、我らが愛すべき象徴よ、クチャータト、デンザロス、何時でも訊ねるがよい」




蟹は、頷き、海月も触手を振る。




「さらばだ騎士よ、変わらぬ忠誠を抱く愚直な騎士よ、此度の別れはしかし、そう長くはない。

永遠はあり得ん、しかし別離はいついかなる時にも、あり得るものだ。

心して生きろ、そして再び会おうではないか、我が盟邦、我が愛すべき僚友、我が信頼すべき旧友よ。

生に飽くことなく、貪欲にな、エーミッタ」


二、三の触手を振る海月。 大きく鋏を掻き鳴らし、蟹に絡み付く海月の情景は

まるで蟹が特殊な帽子を被っているかのようだ。


無数の触手は、蟹の甲羅、脚の付け根に絡んでいる。


その姿を微笑ましく見て、騎士は大きく頷いた。



そして騎士は、この場を立ち去る。



蟹はその姿が見えなくなるまで見送っていた。


やがてそれも止み。


夜明けが近づき、

この背に絡んだ古なじみを背負って急いで帰宅しなければならないことを思い出す。



天の黒大海に満ちきる月。


合わせ鏡。


月は湖泳す逆しま満天を。


傾いだ月、二つ。蟹は一瞥。



そして蟹は湖を後にする。


その歩みは早い。蟹は急いでいるように見える。


しかし蟹は急がない。


急いでもしょうがない。


余裕を忘れないのが蟹なのだ。


なにしろ新しい生活は始まったばかりなのだから。


なにごともゆっくりとやっていこう、そう考え、


蟹は己の背にある海月を撫でて、



そして帰路に付いた。







エンゲルス・バッキオス

『神話・迷宮録』――第三巻『地方誌・上』 コラム「隠された歴史Ⅱ」より



赤竜ゲオルフリースは、

大陸北部サン・ノーシー連山の奥地に居を構えた古代竜種である。


その齢は万に届くと言われ、朱と火に関する比類なき儀式大家であり、

底の見えない圧倒的な大容量の魂を持った極めつけの儀式小家であった。


万に届く火源を同時に操り、幾多の国と生命を喰らい燃やした、魔獣の頂点は、

しかし呆気なく新暦四〇五年に滅びを迎えた。


時を戻ること新暦四年。

『賢者』フィネイルゥ・アーサナトスが画策し主導した『地上界治安維持作戦』

地軍においても多くの反対があったこの作戦を、しかしフィネイルゥは強行。

『人形師』『魔王』『智慧』とともに計画は進められた。


その作戦内容は簡潔。


・天上戦争において、地上における旧神の手足となった有力な魔獣の討伐。

・地上へと過去数千年に渡って墜ちてきた堕神や堕天使の内、反抗多く、かつ有力な存在の討伐。

・過去数千年に渡り、旧神に唯々諾々と従い、なんの疑問もなく民草に害を為した存在の討伐。


この三点である。


姫を始め、過ぎたことを気にすること。

あるいは神の死んだこの世界において、自らが手を下したくないと考えた者は多くいたが、

『賢者』は、地上において有力な存在が協力し、堕神に与することの利害を恐れ、断行。


この作戦により地軍人員以外の

最高位魔獣三四体、高位魔獣百二十二体の内。

最高位魔獣二八体、高位魔獣九十九体が討滅されることとなった。


狩られた堕神、邪神の数は十三柱。

堕天使の数は、三十三翼。


歴史の裏へと葬られた、地軍による大虐殺とも言えるだろう。


赤竜ゲオルフリース討伐任務もこの作戦の一部であり。

新暦四〇四年に、

『騎士』エーミッタ・ファーレイ

『大蟹』デンザロス・デンザロス・ペンタレシア

『黒陽』シュテッツェ

により開始された。


如何な大火竜をもってして

革新された技術、巧みな連携、自らに匹敵する程の儀式大家や破壊力を防ぎきることは不可能であり、

前述の通り、新暦四〇五年にゲオルフリースは消滅。


これが前年までに終了した他四件。

『侍女』ヅュチャ・ンヴァング

『海王』ペンデューク、他二名主導の雷竜アンチオーレス討滅

『竜人』ガンジット『勇者』シェンペル他三名主導の冥竜アヌシビア討滅

『黒』ゼバレフ・ガガーレン『首無し』クノップフ他二名主導の第三邪竜討滅

『有角姫』ネーベンハウス

『神官』アジョリナ『四つ耳』リューレアーによる至高竜討滅

に続き、そしてまたこの任務の終了と同時に竜系討滅対象の討滅は完了したと言える。




列伝



『●月』●チ◎ー●。


―――――――――





「がんばってるねぇ! 流石『図書館』だよ! 

どうしても漏らしては行けない情報だけは死守したねぇ」


有角の女は、言いながら、本を置く。

空疎な色合いの石室に置かれた。純白のシーツの掛けられた寝具。、

そこに腰掛け予め入れておいたコーヒーを口に運ぶ。


―――濃いねぇ!


「独り言はやめたらどうかしらね」


向かい、絹で作られているであろう生地に金が彩られた婉美なトーガを纏っている『智慧』の呆れの声。


そんなのは気にならないのだ!と『賢者』は笑う。


「これはこれは手痛いねぇ! うん、で『図書館』の情報は何か」


「貴方それさっきも聞いたわよね、というか分かっててやってるのよね?」


――モチロン!


親指を上に立て、満面の笑みの有角人種。


親指を下にやり、満面の笑みの長耳美人。


「そういえばそろそろ蟹が着いた頃かな!」


「……えぇ、そうね多分」


「何か進展があるといいねぇ」


「……はぁ」


こうしてとある島の地下、なにごともなく夜が過ぎていく。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ