長い講釈、進まない話、夜散歩
1
食器を洗う音、昼の内に溜めた水を使い、侍女姿の麗人が台所で後片付けをする音が響く。
薄明かりの下、食事を終えたばかりの少女は、
艶めいた金の髪を震わせながら寝具の上に座ってそれを見て。
鴉はその侍女の肩に留まり、目を瞑る。
蟹は少女の隣で、その少女の食休みする様を、なんともなしに眺めている。
一日の疲れを想うように、少女は茫洋として、暖炉の暖かさを揺られるように感じていた。
初めての酒場、初めての迷宮、初めての冒険、初めての買い物、初めて感じる不甲斐なさ。
公共浴場で出会った、煌めく婉美を持つ女性リリーの姿が脳裏に思い起こされる。
感じる不快、そして納得、
あのとき感じた敵愾心が、しかし彼女をこのまま眠りに就かせることをしない。
自らの力不足を嘆くのなら、悔やむのなら、それを打破するために行動すればいい。
少なくとも少女の人生哲学はそれであった。
だからこそ少女は、
予め鍋を借りて東方の郷土料理を仕立てていたケントゥムの夕餉を腹に収めた後、
こうして、自らに想いを巡らせ、今日一日の自分を思い返して、奮起の意を固めるのだった。
暖炉から流れる弾けるような音。
暖炉の上に飾られる、今日の冒険の戦利品の斧(迷宮探索記念という蟹のアイデア)
数時間前に、少女が激戦の末に購入したばかりの食器を侍女ケントゥムが洗う音。
鴉の欠伸。蟹の欠伸。少女の欠伸の三重奏。
やがて、少女が風呂で得た火照りの名残さえも完全に消え去る段階に至って、
少女は寝具から腰を上げて、丸くなっている蟹を見下ろす。
「それじゃあ、やるわよ」
蟹は、少女を見上げる。どこか気怠げに、蟹らしからぬ面倒くささで、
それでも、蟹は少女を無下に扱うことはしない。
「本当にやるのか?」
「もちろん、本当にやるわよ」
やれやれと内心を零しつつも、蟹は少女のその姿を慈しむように、期待するように眺める。
「……うむ、そうだな、では始めるか」
夜は始まったばかりである、蝋燭の薄明かりと、暖炉の灯火に照らされた部屋
蟹と少女の授業は、こうして始まった。
「で、なにからすればいいの?」
少女が、寝間着姿で、首を傾げて蟹に聞く、
蟹は鋏を一回鳴らして、少女へ答える。
「ふむ……決まっているだろう?」
「決まってる、って何が」
「ルナーレ嬢、ルナ嬢よ、決まっているだろう? ……基礎だ」
と蟹が立ち上がり、また鋏を鳴らす、答えるように鴉のクァーというような鳴き音が届く。
少女は基礎を教わると言われたことに目をパチパチと瞬かせている。
「少女ルナーレよ基礎とはな、技術における万事の根。
剣術においては体力、学問においては暗記、数系においては四則演算。
無論、魔導魔法においてもそれは変わらんよ」
少女は、少し考え、そして寝具に座ったまま、大きく頷いた。
「……まあ、分かるわね、うん。体力とか知識とかがないと、とてもじゃないけど複雑な段階には辿り着けないものね」
「うむ、では、その魔導においての、いや【力】を操る技術学問全般においての、と言ったほうがよいか……
そうだな、そういった【力】全般についての基礎を、早速、今晩から教えようと思う」
蟹は立ち上がり、少女の隣から、丁度対面上に移動する。
鴉がそれに合わせ、蟹の背甲へと飛び移る。
侍女ケントゥムは、洗い終わった食器類の水分を布で拭き取っている。
少女は、初めこそ面を喰らっていたのか、疑問を顔に浮かべていたが、
既に理解したのか、納得の色で顔を染めている。
「言うなれば鉄は熱い内に打て、蟹は獲ったらすぐ茹でろ、と言ったところか」
「その例えは、あんた的には大丈夫なの……?」
2
「初めに簡単な講釈をしておきたいと思う」
蟹がそう言って、どことなく老教授めいた威厳を漂わせて声を張り上げる。
少女は寝具から、部屋に備え付けの小さな椅子に移り、
椅子の横にある小テーブルの上に置かれた、ケントゥム謹製のコーヒーに手を付け、事態の進行を見守っている。
「講釈ねぇ」
「……余り長いと寝てしまうかルナ?」
「馬鹿にしないでちょうだい、あたしは座学も得意よ」
少女が、笑みを浮かべ、
蟹が吹き出すように鼻で笑った。
少女の訝しげな視線。
――てっきり脳味噌が筋肉で出来ていると思っていてな
―― ……あんた、茹でられたいの!?
「まあそれならそれでよい、うむ、座学が得意、うむ! 結構ではないか!」
「というかあんた、あたしが教会の知識や冒険の知識、文字が読めるって知っててそれ言ってるのよね」
「ハハハッ」
蟹の笑い声に、
少女のこめかみがピクピクと動くが、蟹は気にず、冗談冗談と鋏を振る。
蟹なりに、少女の気を気遣ってのことだろうか、少女の気持ちもほぐれたのか、素直に感情を表していた。目論見どおりだとしたら大した蟹である。
「ま、まあいいわ、……それで? どんなことを講釈してくれるの?」
「ふむ、まあまずは基礎の基礎の基礎の基礎、【力】と物質の性質についてだな」
「……そりゃまた迂遠で回りくどそうな話ね」
「舐めてはいかんぞ、ルナーレ。
一般に【力】を簡単に使う者や、そもそも使わない民衆ならばともかく、
一定の段階を越えて【力】を使うつもりがあるものは、神や【力】、魂についての根本的な知識について知らねばならぬ。
意識されないが、この世界を動かしている大きなメカニズムを知ればよいとでもいうのか……
まあ、飽きがこない程度に、眠気が来ない程度に適度にな、知っていて欲しい、という訳だ」
そこで、少女の傍に立っていたケントゥムがキッチンへと向かい、
鴉と蟹が、ケントゥムの持ってきた荷物の方へと移動する。
……
…………
「それではこれから講釈したいと思う、が」
椅子に腰掛ける少女、髪は後ろでひとまとめに、馬の尾のような形。
公共浴場で浴びた、湯の洗礼。その火照りはとうに冷めたはずだが、
しかし未だに、少女の白い肌はかすかに朱を持っていた。
「が、なによ」
どこかから持ってきたか、
蟹が甲羅に学府の教授が被るような学帽を、ちょこんと、己の背上に載せており、
遠くキッチンではケントゥムが何かを行っていた。
迷宮での疲れ、生涯の初めての実戦は、少女の精神肉体問わず多大な疲労を蓄積させた。
それでも彼女は真摯に、気を強く持ち、己の未来、己の冒険者としての生き様に役に立つだろう知識の学習に余念がない。
疑問もなく、誠実な心構えが、その態度には滲み出ている。
蟹に対して、修錬をせがみ、基礎と返ってきても、嫌な顔一つしない、講釈に対しても貪欲な態度だ。
――そも実力が足りていなかったことも、本来、知っていたことである。
変えられぬ未来はない、現実、己が弱くとも、それを絶望し諦観に浸るだけでは何も生まれない。
己を見詰めて、そして己に力を付ける。それを怠るようなことはしてはならない。
前を向くのだ。少女は己にそう言い聞かせ、それを素直に認める挫けぬ矜持を持っていた。
何度も言うが、それこそが少女の美点であり、気質であるのだろう。
「そも、この世界についてお前はどれほど知っている? ルナーレ」
それは問い、常識を問う蟹の声、その声音は真面目、一切の嘲笑もない。
「それは地理とか歴史のこと? それとも神学的な意味での【力】についてのこと?」
「後者だルナーレ」
「多分、普通に人が知っていることは知っていると思うけど」
「それはつまり、流出的な【力】 世界に満たされている【力】と世界の生成についての基礎、ということだな」
「えっ、と……ええ、そうね、多分それでいいみたい?」
「ルナお前に魔導を教える前に、この世界についての成り立ち、この世界がどう回り、何に依って立っているか、それを厳密に理解して欲しい。
およそあらゆるこの世界の現象、生活、歴史、技術とは、即ちこの世界を巡る、そして絶対神を巡る、流出と【力】の神学、哲学の上に立っているのだから。
もちろん、簡単なこと、特に教会の知識が豊富なお前のことだ、知っていることもあるだろう。
……それでも、そうだな掻い摘んでではあるが一通り説明しておこう、と思う
俺も学び、俺の友が唱えたこの世界の理だ。
魔導と魔法、そして薬学も、存在と魂に関する学も、闘法も、魔具についても、世界についての素材の学も、これを知らねば、その真の偉容は発揮できぬのだから
それ故に、この講釈は基礎の基礎の基礎の基礎なのだ」
蟹は語る。長きに渡り人が、学者が、人外が、積み重ねてきた知識を。
暗き世界に差し込んだ、東方からの紅き黎明の如きその知性を煌めかせて、
ことばを口に作るその姿は、どこか神々しく、少女には感じられた。
「世界というものを比喩的に語るならば、それは滝だ。
が、これは厳密には正しくない。
想像するのは天に浮かぶ無量莫大な水。
そこから水は溢れ出て、一筋流れて落ちる。
遙かなる位階、偉大にして無始にして無終、無限にして有限の、「ある」が「ない」。
即ち遍く創造主にして、万物の愛。秘奥の内奥。
それは真理の真理
そこから充満し、溢れて零れた水の流れは、その下にある一つの板に受け止められる。
この板は即ち、有限のものである。
それは天の始まりの、無にして有なる神とは比べものにならない程に狭い一つの板でしかない。
この板にもやがて水は満ちる、そしてその板からも水は零れる。
愛が溢れて、自然に流れるように、水の高きが低きへと至るように。
玄の玄が形を、道を作るように、水はまたもや一点から下へと零れる。
そしてその水の下にも板がある。その板はさらに狭い。
そしてそれも溢れる。
これが繰り返される。受け止め、零れ、受け止め、零れ、受け止め、零れる。
そうして八枚目の板が現れる。
さらにそこから零れて流れ落ちる。
これは自然だ。それは機械のように、自然世界に花実が咲き、太陽が我らの世界の周りを回るような、久遠の運動だ。
この水は、だが、何時までも神の下に在った時のように清くない、幾つかの板を経て、数回に渡り、決定的な劣化を帯びる。
それらが俺たちの生きるこの世界の成立に関わる」
と、唄うように、永きを生きた一匹の蟹が諭すように少女に教える語る。
蟹が目線でここまではよいか? と訊ね、
少女は、はっ、と我に返ったかのよう目を開いて、頷いた。
「よろしい、……この八枚目の板が即ち我らの世界だ。
その水は【力】であり、これが我らの世界を形作った万象の元である」
蟹が声を張り上げる。
遠くを見上げた聖者のような厳かさを醸し出しながら説明を続ける。
……
…………
………………
……………………
3
「と、まあ、以上のようにして、世界とは成立し、【力】と物質は存在しているのだ」
どうだ理解出来たか? と蟹が学帽を載せたまま、少女を見て、その有様を確認する。
少女は、うつらうつらとしてはいない、が。
莫大な情報の奔流に翻弄されたのか、どこか目の焦点が惚けていた。
ケントゥムが、その隣に置いた、夜食のサンドイッチとコーヒーの匂いと
蟹の「ルナ、ルナーレ、ルナーレ!」という呼びかけで、ようやく少女は目を覚ました。
学舎で、寝ぼけ眼の生徒が、教師に問題を当てられた時に生じるような、突然の意識の覚醒。
「……え、あ。 う……えっ?」
「大丈夫ですかルナーレさま?」
侍女の起伏の無い冷たい声、心配したのだろうか。
鴉もそれに続く、ルナーレの頭上に飛び移り、足でその頭を掴み揺さぶる。
蟹は、少女を見ながら続ける。
「大まかに言ってしまったが、これでこの世界において【力】が現実に顕現する法も、
物質の属性についても、また無機物や低位の存在が意識を持つ理由も全て説明できるだろう。
【力】の行使についてもだ。
ふむ、そうだな、要約すれば、この世の万物は劣化した【力】ということだ。
そこの机も、この空気も、俺も、お前もだルナーレ。
これが、物質の属性につながる、元々はなにもかも持っていた【力】は、
しかし母なる神から離れるに従って、段々と劣化し、限定した属性しかもたなくなった。
そしてその【力】が物質へと変化した時に、物質はかつての残滓とも言える属性を持つようになった。
俺は水の属性、そして人であったら無色、あるいは全ての属性を満遍なく持ち合わせている。
その辺りはしかし血統的な個人差も強い。
そして物質は、その内に【種】 あるいは欠片とも、可能性とも、残滓とも呼ばれるものを持っている。
これがある程度、集まり、一定の組み合わせ、条件、あるいは運、構造を得ることにより、【魂】となる」
蟹は語り、意識が醒めた少女は、質問を行う。
その顔には、似つかわしくない苦渋の皺、理解の為の努力の後が伺える
「えと、じゃあこの机にも魂はあるの?」 指を指し、問う
「ない、その机は物質だ、そしてその内に【種】を持っている。
しかしそれが【魂】にまで変化していない、が
それがこれからの長い時間の中で、魂を持つ可能性はあるし、机に【魂】を持たせる術式や、
最初から【魂】を持った机として作ることはありえる」
蟹は、学帽を揺らして語り、
少女は質問しておきながら、
ケントゥムが出したコーヒーを、その苦さに驚きながらも啜り、そしてサンドイッチを口に運ぶ。
運ぶ少女を眺めながら蟹は、語りを続ける。
「【魂】とは意識なのだ、【魂】があるから意識が可能となる。
俺にもあれば、ルナーレにもある。
そこらの子供にもあれば、動物にもある。亜人にあれば、旧神にもある。
そしてまた【魂】があるからこそ、肉体の多大な変化があっても存在は存在を維持し続けることができるのだ」
その言葉に少女が、口にサンドイッチを詰めながら首を傾げた。
「……ふむ、例えば、大きな変化をする存在がいるとしよう。
吸血鬼などは、元の肉体から、狼、霧、その他の様々な存在へと変貌する。
明らかに存在の質量、密度、範囲が違うのに、彼は己の意識を保ち続けることができるうえ、
その思考、記憶に欠けるところは一切ない、それはなぜか?
――答えは物質の内にある【魂】が同一だからだ。
付け加えれば、物質の死とともに、【魂】は死ぬ。
【魂】は、あくまでもこの現実に置ける肉体の背後にあるものだからだ。
生物の場合は、正しくは脳という物質の結合。
強いてはその裏の【種】の結合様式が、合致し、【魂】が生まれていると言えるかも知れない
逆に言えば、自然の霧であっても奇跡的な確率で【魂】は生まれ得るという訳だ。
そこの机、そこらの石、最小なるモノ(アトム)の組み合わせは、即ち【種】の組み合わせでもある。
脳の変わりに最小の物質 最小の物質にも【種】はあり、
その最小の物質の組み合わせである石も、脳のように意識を発生させえる。
ここまで、理解すれば簡単だ、【魂】は器でもある。
そこには【力】が物質へと劣化することもなく、無色のまま存在している。
我々は、自らの【魂】を、意識して瞑想して、その上で、その内側にある【力】へと触れる。
そしてこれを導力――操作して、【魂】を通過して、肉体を通過して、外界へと発現する。
――――これこそが魔導だ」
少女はサンドイッチを食べ終え、悦に入っている蟹を眺めながら、情報を整理している。
ケントゥムは予め用意していたらしい、ココアを少女の隣に置く。
「あまり根を詰めてもお体に差し障りますので、ご注意を」
「カー!!」
少女は微かに笑みを浮かべて礼を言う。
蟹は頷き、少女は改めて、学帽を被って(載っけて)いる蟹を見据える。
ココアの口へと入れ、そしてまた問いかける。
「まあ、なんとか理解出来た……と思う」
「うむ結構、流石座学が得意なだけあるなルナーレ」
あんたねぇ、と少女が呻きかけるが、しかし気を取り直す。
「で、それだけで魔導は使えるの?」
「うむ、と言いたいところだがな、それだけでは駄目だ。
それではただ己の操作できる【力】が外界にあるに過ぎん。
ここで構築がある。想像とも言うが、まあ好きに呼べばいい。
【力】の属性を決めて、どういった概念を持ち、どういって範囲、どういった効果、どういった発現の仕方をするのか、
そういったものを考えなければならない」
例えば、と蟹が鋏を頭上に掲げる。
意識――【魂】=体内――儀式小家:想像法(構築法)――導力――構築・展開想定・変換――発現
――[蟹の鋏の先から火柱が上がる]
「と、これは俺が己の【力】を特定の形、
この場合は火だな、それを想像し、それを意志によって実際に火として変換して、外界で解き放った」
それが、この鋏の先の小さな灯火だ。と蟹は言う。
灯火は蟹の黒い円らな瞳を照らし出し、少女は、その眩しさに目を細めた。
「マッチ要らずですね、便利と考えられます」
「ガァ!」
ケントゥムと鴉の野次を切欠として、蟹は火の発現を取りやめる。
少女は、心なしか目を輝かせている。
昼間の迷宮でも見たような小さな火であるが、しかしそれは少女にとっての希望の灯火でもある。
つまりは、わかりやすい目標ということだ。
「へぇ、……結構簡単そうね」
顔を綻ばせた少女を、蟹は鋏をブンブン振り回すことで諫める。
背の上に載った玩具のような学帽も合わせて揺れる。
「少女ルナーレ、初学者ゆえの陥穽に捕らわれることのないようにな
これは内から引き出した【力】を、完全に魂、いや意識の上で、望む形に過不足なく想像しなければならない。
そしてなによりも、想像したその形へと、己の意志を使って変換しなければならない。
瞑想、導力、想像、構築、変換、そして発現。
これは言う程に簡単ではない、特に初学者において、想像と構築と変換を行うというのは至難の技だ。
どうして? と問いたげだな、少女ルナーレ。
火を知るには、火の形を、火の性質を、火の属性を知らねばならない。
あいまいな火しか知らないののでは、火を造ることは有り得ない。
そして火というものの性質と己の魂の性質が食い違っていても、火を扱うことは難しい
最後に、俺たちは生物だ、身体という物質から離れることは出来ない。
結局のところ、肉体の属性を越えて、新たなる属性は生み出せない」
蟹は、言い切って、鋏を降ろし、己の背の上(それは頭の上ということでもある)にある、
ミニチュアのような学帽を、ちょこんと定位値へと直す。
少女は、顔をさらに顰め、考える。
考えるというのはいいことだ。それは理性の初動であり、思索の道の第一歩とも言えるから。
「つまり、えと、自己の経験、自己の人生経験がそのまま、想像法と関わるってこと?」
――マーヴェラス! 蟹は鋏を掻き鳴らす。
隣、無表情の侍女も、その形の良い、手を合わせ、パチパチと賛辞の拍手。
鴉もそれを真似るように、翼をはためかせている。
少女は己の額を掻きながら、馬鹿にされているのかしら?と一寸思うが、気を取り直す。
「魔術を使う上では、二つの門がある、つまりは魂――意識の門。そして肉体の門だ。
前者は、火という性質を知らねばならないこと。
完全な火というものを知ることは不可能だが、火というものをよく知らねば、
あるいは己の肉体、あるいは肉体強化のメカニズムを知らねば、あるいは石の性質を知らねば、
それらに関する術は使えないのだ。
火を表すには、火を、己の肉体を強化する、あるいは肉体を再生するために【力】を使うなら、
あるいは石を創造する、もしくは石に働きかけるのなら、それらを脳裏に過不足なく思い浮かべられなければならない。
言葉にすれば、簡単だが、ルナ、火を脳裏に思い浮かべて見ろ、
それはどことなく曖昧だろう?
色褪せたイメージでは駄目なのだ。
さらにな、火の性質と魂の性質の問題がある。
ルナーレ嬢は、気性を考えれば、多分に火というモノを扱うことは出来るだろう。
あるいは苛烈に世界を生きてきた者。あるいは熱情の人の、情熱的な愛に生きた人。
破壊に徹した人、怒りの人。こういった性質の人格――意識――【魂】を持つ者は、火を使うのも容易いだろう」
「つまり、大人しい人とか、穏やかな人、つまりそれまでの人生で火とは無縁の者は、火を生み出し難いってことよね?」
「ふむ、それでよい、ただまあ、人は、火に強い親和を持つからな、余程ふぬけた生き方をしていなければ、人間生物、誰もが皆一本芯の入った、心の奥深くで燃える火を持っているだろうがな。
そして肉体の門。これは簡単だ、物質の属性、例えば木人は、火を使えないだろう。
肉体がそれを許容しない、想像したとしても、導力したとしても発現が阻まれるだろうな。
人間は無色的な、あるいは混沌的な存在だから比較的にどの性質も自由に使えるが、
蜥蜴人や長耳族なら、それだけで使えないような魔導がある、という訳だ」
「…………うん、分かった、と思う」
少女は、真面目な顔で、己の頭を掻く。
蟹は、鋏を振り回し、学帽を揺らして、軟らかく笑いかける。
「なに、心配することはないぞ、習うよりも慣れろ、と言うではないか」
その隣、微動だにしない侍女も言葉を作る。
「ルナ様は大変努力していると私は判断します。
蟹の君、ペンタさまは、些か詰め込み教育に偏重しているようですが、
その洪水のような情報量によくついて行っている、と」
今度は、蟹が頭を掻く。
「……むう、なにぶん人に物を教える立場になかったのでな、教えが分かりづらいのであれば言ってくれルナ」
「いいわよ、ペンタがわざわざ教えてくれてるのよ?
感謝こそすれ、文句なんて言うつもりはないわよ」
「いつになく素直だな、……おおこわいこわい」
「あんた、それどういう意味よ!?」
鴉が窓際で、微動だにしない。そしてまたケントゥムは台所へと向かう。
「とりあえず、これが魔導、つまりは儀式小家の基本だな、
長々と説明したが、変換と想像、己の無色な【力】を形として整えるのはとても難しいことだ。
多くの儀式小家は、つまり魔導を使える者の内で想像法まで辿り着けるものは少ない。
瞑想、導力は努力すれば大抵の者に出来る。が、想像法より上は、センスが大事だ。
とはいえ悲観することはないがな、正直なところ導力さえ出来れば十分でもある」
「紋章法ね」
「うむ、あれは俺の意識が生じた瞬間からあったが、超技術だぞ?
俺の友人の学者は、「世界の技術方向を決定的にした技術」と言っていたがな。
なんせ、特定の物質、素材、に刻まれた紋章、配列に【力】を流し込めば、
先ほど述べた面倒なプロセスを経ずに魔導が発現するのだからな!
――正しくは代行すると言えばいいか、バリエーションも豊富だしな、それで十分でもある。
精緻な紋章は、賢者の空想に勝るということわざもあるぐらいでな」
と、そこで、何か言いたげな少女に、蟹が気付く。
「ああ! ……うむ、紋章法は便利だがな、使うには刻まれた紋章が必要なのだ。
当然のことかも知れないがな、
それが不利となる、一つの物質や肉体にも刻める限界があろう、持ち運べる限界もあろう。
その上、威力や、範囲においても融通は利かないことが多い。
余程精密な紋章が複合されていればその限りではないがな。
想像法は手間と時間がかかるが、慣れれば早く、範囲も威力も自由だし、なによりも紋章が必要ではない。
熟達した儀式小家は戦場に合わせて己の想像を具現するという。
とはいえ熟達なぞ、遠い話だ。
お嬢に先にこれを教えるのは、これがいざという時の為になると信じているからだ、
なにより想像法が使えるのなら、紋章法など息をするように使うのも容易いことであるしな」
少女も理解の意を得たと、頷く。
ケントゥムがココアを机に置く。ありがとう、と笑いかけ、少女はそれを手に取る。
「ルナ、ルナ」
「なによ、まだあるの?」
「いや、そうではなく、飲み過ぎではないか?
というよりもケントゥムも出し過ぎではないか?」
「そのようなことはないと判断します。ココアとコーヒーの健康に対する影響は、おおむね……」
「いや、まあいいのだがな」
実に旨そうに、ココアを口へと運ぶ、少女の姿を見れば、何事も些事であると言いたげに、
蟹は問いかけるのをやめた。
案外、ケントゥムというこの自律人形も、少女のその顔を気に入っているのかもしれなかった。
「ともあれ、長い授業によく付き合ってくれた。
最後に付け加えるのなら、【力】をは無限の可能性でもある。
薬学、闘法、改造学、魔導・魔法、素材学、機巧学は全てその子だ」
ケントゥムが補足をする。
「その6つの知識体系、学問を指して、いま巷間では、迷宮六学、六武学ともよばれております」
蟹の知らない現代の知識の補足に、蟹は鋏を振ることで感謝の意を示す。
「薬学は、かつて【力】であった生物の肉体属性や性質への干渉の理論。
闘法は、魂秘める己の肉体を極限まで使う技法。
改造学は、あらゆる生物や物質の肉体と魂の関係、肉体と【種】の関係を研究する学問。
人造の生命、人造の意識、魔法と魔導と魂の関係を追求する学問だ。
あらゆる生物が魂を孕みえることを利用する、そしてまた魂自体の改造さえも行う学問。
魔導と魔法は言うまでもない、前者は己の【力】を、後者は劣化することなく未だに世界に漂う【力】を
素材学は物質の可能性、属性、概念を追求し、防具や、紋章、改造学の為の知識の蓄積を
機巧学は物質の加工、マッフ機構[神の武器]【神器】や 機械や紋章の複合、法器や導器を作り出す学問だ。
これらの学問は、この世界で生きる上で知っておくべきだろうモノだろうな。
……さて、長い長い話になったが、これぐらいで終わろうか、次に実践と行こう、
なんども言うが、習うよりも、慣れろ、だからな」
その宣言に、少女の身体が崩れ落ちそうになる。
集中からの開放。安堵。
未知を知るというのは楽しいことだが、しかしまた大変なことでもある。
なにはともあれ、講釈の授業は終わりを告げたのだった。
4
少女が、寝具の上で胡座をかいている。
およそ淑女から遠いその姿は、郷里の義母、義父が見れば叱りつけるだろう粗雑なもの。
が、この場には、同性のメイド、得体の知れない鴉、愉快だが頼りなる蟹しかいないのだ。
何も問題はないという意識の現れなのだろう。
薄い生地のワンピースは清潔な状態で、少女の未だ幼いが、均整の取れた身体を包んでいる。
むぅ、やら、うう、やら、様々なうなり声、牛に似たそれから、蛙に似たそれまで。
少女の悩んでいることが、一目に見てとれる。
侍女がそれに近づき、言う。
「余り根を詰めても作業の能率は下がると判断できます。
――これを」
どうせココアなんだろう?と蟹は考え。
ドウセココアナンダロウ?と鴉も考える。
そして実際にそれはココアである。
ケントゥムがココアを持ってきて、少女に手渡す。
それを飲んでいるところを横目に、蟹は話を続ける。
「瞑想は基本の基本の基本だ、それを行い、魂を見つめ、魂を知り、それに触れることで、
存在の魂の器は、大きく拡がる、そしてそれは無制限と言っても良い。
絶えざる瞑想は、戦士の、魔導士の基本だ。
永き生を得た人外が魔導に強いのも、その為だ。
が、瞑想、導力をするためには、自らの魂を知らなければならない。
器を知らねば、【力】を引き出すことも、器を広げることも、当然不可能だからな」
少女は、胡座のまま、渡されたココアを啜っている。
先ほどから、蟹に言い渡された基本の基本の基本、魂の発見。
つまり、自らの魂を、意識できるように、触ることが出来るようになるための努力を続けていた。
かれこれ講釈の終了から2時間。しかし未だに
「何度も言わなくても、分かってるってば」 ズズッとココアを啜る
あ、このココアおいしい! と少女。
特別製になりますので、その反応は当然かと、とメイド。
「……しかしこの自らの魂の観想、自己の魂の器の発見は中々に難しくてな。
自分の知らない自分、体内に存在しているとある日言われた、一本の小指に神経を通すようなモノだ。
その神経がどこにあるのか。どうやってそれを意識するのか。
さらに意識の上で思い浮かべるのか、難点は尽きないぞ?」
うう、と少女が軽く呻く、時間さえかければ大抵の者は、魂を発見できるが、
しかし最後まで発見できない者もいるぞ!
と蟹に脅されたためだ。
ココアを飲んで、殻のコップを侍女に渡し、少女は改めて、瞑想を続けた。
……
…………
「うう、ううう゛~」
「少女、少女ルナーレ、少女にあるまじき声が出ているぞ?」
少女の顔はまるで狼のように歪み、
そこらのチンピラ以上の鋭い眼差しで世界を恨むような表情になっている。
かれこれ一時間。しかし発見の機片はなく。
ただただ、無言で唸り、
少女へ蟹の慰め、鴉の鳴き声、ケントゥムのココアの差し出しが続くばかりであった。
無為に過ぎる時、進まない事態、焦燥。
このまま魔導が使えなければどうしようか?という想い。
襲いかかる眠気。
「ルナ様、今日はこれぐらいにしておかれたほうが」
「ううう? でも、だって……」
「ルナーレ、そう焦るな、何日も何十日もかけてようやく魂に触れることの出来るものも珍しくない」
少女は、しかし不満と不安を織り交ぜた返事を返す。
「でも、もし、もしもよ? あたしがそれを使えなかったとしたら……!」
蟹はやれやれ、と鋏を振る。口辺に泡が滲む。
「なに最終手段がないわけでもない……ケントゥム!」
「はいペンタさま」
言われ、ケントゥムが取り出しのは、デンザロスの背負ってた荷袋の中。
『智慧』キュリエルが入れておいてくれた、役に立つ道具。
魔導の器具。魔具。いわゆる【道】と呼ばれる杖であった。
見事な彫刻、長さは30cm程であろうか。
黄金に輝くそれは、おそらく旧金貨にして一〇枚は下らない高級の芸術品。
明らかな装飾過多に、『智慧』の趣味の悪さの一片を伺えるような気もしないでもないが。
蟹はそれを思考の片隅に沈め、あの長耳族の数少ない楽しみなのだろうと好意的に解釈しておく。
(ちなみに、貝殻やら、鴉の羽やら、人形やら、石やらその他の友人の好意によって入れられたであろう、なんの役にも立たない物品の数々は部屋の片隅に飾られている。
それもなるべく蟹の視界に入らない場所に、なぜならそれらが蟹の視界に入り込む度に、
好意ではなく悪意、あるいは嫌がらせだろう!?という強い想いに駆られかねない為である、蟹が)
杖とは、人間の【力】と【力】を繋げ、器と器を繋げる導器である。
その用途は、一人の人間が【力】を、この杖を橋として、もう一人の人間に受け渡すこと。
そして、貯蓄型の導器、器を持つが魂を持たない導器の燃料の補充に使われる。
杖は素材と内部が、特別の回路になっており、それを助けとして、
杖の片側から、杖のもう片側へと導力を行う。
多くの場合は受け手が、
その【力】を受け止めて、それを自らの器へと導くことによって【力】は補充される。
高度な儀式小家は、他者の魂の器へと直接【力】を補充する者。
さらに導力に長けた天才は、杖さえもなしで、【力】の受け渡しを果たすと言われている。
「とまあ、そういう道具な訳だこれは」
「で、それがどうしたのよ?」
「ふふっ、ルナーレ嬢よ、魂というのは、本人が意識できなくとも、厳然として存在する。
これで、俺が、嬢の器に向かって【力】を流し込む、いや、俺の【力】でお前の魂を触る」
「た、魂を触るの?」
「うむ、俺が【力】を、それでお前の魂を刺激して、そして魂を意識しやすくさせる……」
顔を真っ赤にして、少女は唸る。
「な、なんか卑猥じゃないかしら」
「ふむ、よくわからないぞ? ルナーレ」
「……あんたって時々本当に天然よね、ペンタ」
まあ、いいわ、と赤みを帯びた顔で少女は嘆息し、蟹は早速杖の端を加え、
少女はもう片方の側を握り込む。
……
…………
「いや、すまん、ちょっと細やかな操作が苦手でな」
む~、とむくれる少女。
期待させるだけ期待させておいて結局、魂を自覚することが出来なかったからである。
蟹が一度に操作する【力】が莫大に過ぎたからであり(元々の大きさが大きさの為)
また、蟹が魂だけ撫でるなどという繊細な真似が出来なかったためでもあり、
そもそも間違って少女の未熟な魂の器に、規格外の量の【力】が流し込まれれば、少女はタダでは済まないというのもある。
「結局の所、思いつきのままの先走り結果ですね、ペンタ様」
「ううむ、そう言われると反発したくなるが、うん」
――いやぁ思いついた時はいけると思ったのだがな!
――思いつきだけで、物事が成功すれば、世の中はどれほど楽かと愚考します。
違いない、と蟹が呟いて笑う。
少女は笑い事じゃないわよ、と恨みがましい。
「ははは、まあ気を落とすなルナ嬢、俺が責任を持ってなんとかしておこう」
「……なんかもうどうでもいいわ」
そうして、疲れを押してがんばっていただろう少女は、緊張の糸が切れるのと同時に、
目を瞑り、一日の疲れが一挙に押し掛かって来たというように、圧倒的な速やかさで、眠りの世界へと飛んでいく。
「おやすみだ、ルナ」
「よい眠りを、ルナさま」
「……や、すみ」
ともあれ、修行の第一日はこうして幕を下ろした。
少女は眠る、一日を想い。
不甲斐なさも、悔しさも、明日への希望も、不安も。
なにもかも今は、捨て置いて、安らかに眠る。
明日には明日の風が吹く、少女には可能性がある。
思えば長い一日であった、色々なことがあった。
それでも今は、一時の休らいを、熟睡を、この美しき少女に、
与えても罪にはなるまい。
鴉は鳴く、侍女は寝顔を見つめる。
蟹もなんとなく欠伸を行い、一日のこと、これからのことを整理する。
やることは多い、やれることも多い。
足場は固まりつつある、出会いは無数に生まれた。
さて、明日はなにをしようか。
5
夜の帳は落ちきって長い。
既に日は跨がれただろう。
繁華街からの賑やかな喧噪、喧嘩の音、遠くからは悲鳴。
暗躍する者は多く、一日の疲れを癒すように遊びに惚ける者も多い。
繁華街から離れた通りにある、幾多の大衆酒場は灯火をいよいよ強め。
夜の時分に迷宮へと潜る冒険者が、酒場へと入り、各所の迷宮入り口へと向かう、あるいはその準備を行う。
人気のない場所には酔っ払い、ごろつき、私娼の類が跋扈し、てぐすねを引いて待ち構えている。
春の夜の寒さに負けない熱気は、さすが世界最大の都市というところか。
その喧噪、明るさ、賑やかさを、掻くように進む、一匹の魔獣がいる。
傍を通り過ぎる治安維持の軍兵が、一斉に通り過ぎた彼に振り向き、
治安維持補助の任務に就いているらしい冒険者もぎょっと振り向く。
昨晩起きた、吸精の事件に対しての軍兵の増員の為か、角を曲がる度に軍兵を見かけるという有様である。
その窮屈さに辟易している市民を尻目に件の魔獣――蟹は、治安維持の工夫に感歎していた。
但し、五回ほど呼び止められ、冒険者証の提示と誰何されるという一連の流れを受けていなければ、より素直に、それを賞賛していたであろうが。
元々大らかな蟹をして、辟易させる警邏の密度。
今日の喧噪、夜の雰囲気も、中々に騒がしく心地よいが、本来ならもっと騒がしいのだろうと蟹は予想する。
予想よりも少しばかり少女への授業が長引いたが、蟹は予定通りに借家から出て、
かねてより決めていた目的の場所への訪問を行うこととした。
話すことは多い、報告することも多い。
人形――ケントゥムから
「では行ってらっしゃいませ、ペンタ様、朝が明けるより前にはお帰りになられることを望みます」
と言われ、鴉の鳴き声とともに見送られ、かれこれ二〇分ほどだろうか。
広い町並み、同じ中央区に目的の位置があると書かれているが、その通路や街路の複雑さ、
建物の密集が、迷宮のように蟹を惑わしている。
五回の職務質問
(蟹に対して職務質問! 人に食われるという仕事以外に従事している蟹が、人間にはとても珍しいらしい、と蟹は皮肉気に笑う)
テンションを落としながらも、
蟹はのそのそと、少女のこれからと、かれから会う人物との話題を考えながら歩き続ける。
先ほどの長い説法は、蟹にとっても疲れるものだった。気疲れだ。
酔っ払っているらしい女性娼婦が時折、近づいて来て、
「わぁ、おおきいかにさんだぁ、ねぇご飯食べるご飯!」
だとか
「撫でて良い? 撫でて良い? というか撫でちゃう!!」
と言ってくる事態があったり(紳士である蟹はその両方を有り難く受け取った)
しばしの間、付いてきたその女性娼婦を背中に乗せて、簡易タクシーを行って、いたく喜ばれたり、
教会の神父らしき者がこちらを睨んでいたので蟹なりに睨み返したり、
酔っ払いが無理矢理背中に乗ってこようとしたので、振り落として、その顔面に泡を吹きかけたり、
昨日も会った、軍兵の小隊長らしき男を見つけて、蟹が手を振ったり、
ともあれ、蟹の夜の散歩は、おおむね何事もなく進んだ。
(大通りから裏路地に入ると、男性数名が女性を囲み暴行を行おうとしていたので、
通るついでにそれを颯爽と蹴散らしたりもしたが、おおむね何事もない)
通りから、入った通路の先、急に開け、そこからまた四方を建物に囲まれた、長方形の通りが現れる。
その先、行き止まりまで進んだ後、その横にある、狭く薄暗い通路へと向かい、
狭く暗い通路の先で、赤茶けた扉に影が掛かっているのが見える。
蟹の背中から松明のように火が飛び出ていて。
(蟹の肉体は永き生による変質で火の属性をも帯ている。
大がかりなものはともかく、このように火を越す程度ならばなんの問題もない)
言うなれば、俺は火を使う蟹。火を克服した蟹だ! というのは蟹の持論でもあるが、それはここでは特に関係ないことで。
赤茶けた扉に近づいた蟹は、己の鋏で、その扉を叩く。
意味もなくリズミカルに、嫌がらせかと思うような速度で。
扉の上部にある、覗き穴に掛かったプレートが開いた。
「なんでしょうか」
「俺だ」
プレートが閉じられたので、蟹は慌ててガンガンと扉を叩く。
またプレートが開き、ケントゥムに似た、宝石を加工したかのような瞳が現れる。
「……なんでしょうか」
「おれ、ああ待て待て、『姫の角は世界一』」
答えるように扉の向こうから声がする。
「『姫の肌は』」
蟹は答える。
「『白く輝き』」
声が続けて流れ出す。
「『姫の知性は』」
蟹も答えて、
「『神にも届いて』」
まだ続き、
「『姫に尻尾は』」
最後に返して。
「『ありはしない』」
扉が開く。
内側からのみ開かれる扉が開けられ、その内から、陶器のようになめらかな肌の侍女人形が現れる。
この住居の保全を目的とした侍女だろう。
『人形師』の新しい型式の人形は予想以上にあちらこちらに送り込まれているようだった。
人形は礼をして、そして蟹の目を射貫く。
エメラルドそのものを削り取って造られたであろう輝く緑の頭髪。
完璧すぎる顔の造形。そして『人形師』のポリシーの為か、一切の膨らみを持たない胸部。
長いスカートと、白いエプロンは、背筋のピンと伸びた人形の美をより引き立てている。
「こんばんは、デンザロスさま」
冷たく、冠雪した湖のような声音。
蟹は、手を振り、そして開けられた扉の奥へと入る。
背後で、ドアの閉まる音。
「うむ、ごきげんようだ、侍女……それで、あの合い言葉は誰が考えたのか」
「『騎士』さまですが、それがなにか?」
蟹にもし、人の身体があれば、苦笑を浮かべていたか、もしくは沈痛な納得の表情を浮かべていただろうか。
しばし無言になった蟹の胸裏の念はうかがい知れない。
「いや、まあらしいと言えばらしいのだがな、……ひどいだろう、色々と」
侍女が先導するように、蟹の前を歩き、蟹はのそのそ、どしどしと、それに続く。
こうしてみると蟹と蜘蛛の違いは陸上では、意外と似ているのではないかと考えられる。
「侍女風情には思いも付かないことです、デンザロスさま、ご本人に聞いて頂ければよろしいかと判断します」
「……うん」
そうして、長い廊下、階段を上って、下りる。
いよいよ秘密の豪邸という観の強いこの建物は四階建てだ。
蟹の友人でもあり、人間世界においては謎の金持ちとしてその名を知られている存在の持ち物であり、
(その友人である『妖精』は、このような屋敷を世界各地の都市、別荘地に持っている)
『賢者』フィネイルゥに託された書簡を渡す相手は、ここに逗留している。
部屋と通路をいくらか歩いた後、奇妙に大きいブラウンの扉。
廊下に等間隔に配された蝋燭の明かりに照らされている取っ手を侍女が握り、開いた。
開かれたそこは、広い空間。大きな机。世界の各地の地図と、無数の本。
幾つかの椅子と。そしてそこに座るのは、首もとで切り揃えられた朱い髪の女性。
よく手入れされているのか光を穏やかに吸収して、輝くように顕示された朱い髮。
赤茶色の外套を身に纏い、右手にはティーカップを握り、穏やかな物腰で椅子に深く座っている。
右手にはグローブが、しかし左手は義手であるのか、銀に輝いている。
侍女と蟹が入ってきたことに気付いたのか、その視線を扉の方へと向け、
蟹の姿に気付いて、満面の笑みを浮かべる。
その顔は端正、華こそないが、堅実な美しさがある。
研磨された宝石ではなく、鋼の意志が伺える均整。
鋭さを讃えたその目尻は、しかし、旧友を見て、童女のように綻んでいる。
「久しぶりだな、デンザロス」
「うむ、久しぶりだ、『騎士』殿 息災であったか」
「私には問題は無かったよ、『大蟹』殿は、寝起きに色々とあったようだがな」
鋼鉄の気高さは、しかし緩み、柔らかく優しい口ぶりには信頼が伺える。
この麗人こそが、『騎士』エーミッタ・ファーレイ。
九烈士の一人であり、新暦において『法』を司る神として信仰されるその人である。
列伝
『竜公』グラムナント
トワロキア地底湖 出身
生物の頂点、最高にして最強の種族『竜』
莫大な器を誇り、高き叡智を誇り、堅く厚い肉体を誇る。
強き生命。
その竜種族において最も速き者と呼ばれた一匹の竜が、
『竜公』グラムナントである。
『大蟹』を両腕に抱えられる程の偉容を誇った彼は、
旧暦の初めに世界に生まれたと言われている。
かつては世界を駆けて、最も人口に膾炙したと言われた彼は、
大陸北西のトロワキアの地底湖で己の羽を休めていた。
速さと賢さを兼ね備えた彼は、ある時、一人の半人に出会った。
『有角姫』である。
およそ二〇人近くの仲間を引き連れたその姫と、その一味との戦いは、
トロワキアの地形を変え、およそ一週間、近隣に騒音が鳴り響いたと伝えられる。
その後、その力を認めた、彼は、地軍に参加。
以降、魔将の筆頭として、その知、その【力】、なによりもその速さを生かして
多くの助けをもたらした。
『騎士』を最も可愛がっており、『大蟹』や『大亀』とも仲が良かったと伝わる。
蟹との競争は、地軍において定期的な催しとして、仲間内での盛況を得たとも伝わる。
天上戦争においては、五柱の神を打ち倒し。
機動力を生かして、多大な戦略的価値を発揮した。
天山戦闘の直前。神軍の奇襲を一身で防ぎ、
地に墜ち、果てた。
その死を『騎士』に看取られ、幾つかの言葉を残したと言われる。
新暦においては『神僕』速度を司り、竜の神として一部氏族では崇拝されている。
その骸はいま、天において、地を見守っているのかもしれない。