表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/37

お風呂!お風呂! 美人、 謝りすぎるのもよくないことで

昨日投稿すると言っておきながら大分時間がずれ込んでしまいました申し訳ない。

思いのほか、書く容量が多かったことが誤算でした。

面目の次第もございません。











風呂、浴場。


お湯の張られた一定の空間。そこに身を浸すこと、人、それを入浴と呼ぶ。



「風呂にでも入って、一日の疲れを流そうではないか」


と蟹の提案があったのだ。






詳しく説明するために、話を少し遡れば、



時は夕暮れ、あれから中央区画の幾つかの商店街や、路地市を周り、


そして田舎者の少女が、村に居たとき旅の商人から噂だけは聞いた百貨店なるものにも行った二人。



時に家具、時に薬、時に指南本。時に雑貨、時に時計、時に食料品。


少女は己の養父母が己に文字教育を施してくれたことに感謝しつつ、


噂の新型活版印刷機により刷られたらしい、安価な装丁本が山と積まれた、書店なる店を見て胸をときめかせて、満面の笑みを作ったりなどもした。

(少女はこの時、生まれて初めて書物の専門店というものの存在を知ったのだ)



悔しさ、己のどうにかしたいという気持ちは未だある。


とはいえ蟹に度々気遣われ、

そして夕暮れの現れる時刻までに、

幾つもの店に市、人の活気、多くの初めて見るものに眼を輝かせていたお陰で、

その気持ちも大分紛れた。


もちろん、心底では鬼火のようにそれは燻っている。


しかし蟹の言うとおり、それは、これからどうにかしていけばいいことでもあるのだ。


とはいえ、

未だにこうして、自分に言い聞かせている辺り、まだまだ未熟で、完全に割り切れてもいないのだ。


そんなことを考えながら、少女は、夕陽に照らされつつある大通りを、蟹と歩く。


金の髪に朱が絡む、村娘とは思えない、線の通った、明眸の面立ちは、

春の一日の終わりを、味わうように目を瞑って、首を振って、風を感じているらしい。


「ねぇ」


「うむ? なんだ」


少女の歩く隣、既に少女が見慣れた蟹が、


いつものように、のっそりと、その巨体を滑らせている。


何処か楽しげで、あるいは何かを懐かしむように。鮮烈な沈む朱を見ていた蟹、


それに言葉を続けた少女の声音に険はなく。


「今日はありがとう、護ってくれて」


「ふむ、気にするな」


蟹は、鋏を振る。


少女は、この蟹らしい、落ち着いたそれでいてこちらを見守るような静かな所作を見つめる。


そして、それに顔を綻ばせ、一瞬柔らかく微笑んだ後に、引き締めて、

人を殺す瞬間の少年兵のような極限の真面目さで、

少女は、蟹の円らな黒目玉に、己の双眸を合わせた。


大きく息を吸って、舌の上で十分に言葉を溜めた上で、


少女はことばを口にする。


「……あたしは、強くなる」


陽は二人を照らし、道を歩く人々を、街を、歴史を、照らす。


「絶対に」


強く言い切る少女の明眸は、誓うように強く光り輝き、

老いた歴戦の蟹をも賞嘆させた。


「楽しみにしておこう、少女ルナーレ」


「楽しみにしなさいペンタ」


そして蟹は笑う。


青い肌は紅と混じり、それを見た少女は一瞬その輝きに幻惑された。


「では、風呂にでも入って一日の疲れを流そうではないか」


蟹は笑い、少女もつられて笑った。


これは真実、誓いであったのかもしれない。

少女の人生を決めるような非常に大きく、これから少女の人生さえも左右するような甚大な。


そんな瞬間であったのかもしれない。


それでも蟹と少女は、何事もなかったように、笑い合って、、



公共浴場を探すことにしたのだった。









風呂とは、極楽。


風呂とは、人生の至極。


浴場は至天の頂。


天にも似た湯気のヴェールが、温かな湯の匂いを鼻孔へと運んでいく。



湯の音。喧噪の音。


砂漠の民は、庭園を極楽に見立てる文化を持ったように、


あるいは、この世界の住民にとって最も近い極楽とは浴場であったのかもしれない。



蟹は男湯に、少女は女湯に。


少女は今、都市中央の最も古く由緒正しいらしき、

石造の公共浴場でその純白の肌を休ませていた。


(不思議な事に都市で最も歴史の古い公共浴場と名乗る、

公共浴場は15以上に上り、

そしてそのどれも行政の経営管理者が違うのだが、まあ些末なことである)



遠く、男湯から、


「うおっ!、か、蟹!?」 

「おいおいこれいいのかよ!」

「おおい番頭」

「ちょ、風呂が磯臭くなんねぇか!?」

「俺は河蟹だ!! 何の問題もない!!」

「そういう問題じゃねぇよ!?」

と雑音が聞こえてくるが、少女はそれを鮮やかに無視する。



極楽の湯に、世俗の問題は、持ち込まない。


風呂場とは日常のハレである。

それは少女のモットーであった。


日頃の雑事、一日の疲れ、数週間の疲れを想い、まどろむ、


天使の羽に包まれたかのよう場。ケを禊ぐ清らかな湯のたまりは、


少女にとって常に、悦楽の極みだ。



村の風呂は、古い古い石造りのそれが村の隅にあるのみ。


小さく、また燃料の手間から、週に三度のみの楽しみであったが、

湯が入れられたばかりのその風呂で、思う存分に手足を伸ばす楽しみは、

少女の些細な娯楽であった。



そして、この浴場、綺麗なお湯、袋の入った薬草、香草の詰め合わせが身を包む、

この癒しの空間。

なんということだろう、一日の精神と、魂と、肉体の穢れが、疲れが、

たちどころに消えてゆくではないか!


ああ、ビバノンノ。


風呂はいい。いい風呂だ


……


少女が、大浴場の隅で、そんなことを思っていると、


隣に誰かが座ったようであった。



ここは女湯で、

である以上、隣に座っているのも女性である。


ルナーレは視線を気怠げにそちらへと向けた。


なんとなしの動作。

あるいはこの広い大浴場で、

何故よりによって自分の隣を選んだのか? という疑問があったのかもしれない。




「……わぁ」




ルナーレは思わず声を漏らしていた。


そこに居た女性が余りにも、美しく清楚であったから。



お湯に揺れるのは長い長い金の髪。


それは黄金を越えて婀娜あだっぽく湯気を纏っている。



黄金の織り糸に護られた、その顔は切れ長で、めのはしは形よい途切れを見せて、

さらには瞳孔は輝き、瞳は真紅に際立って、魅入るような美を見せていた。



そしてその眼はルナーレを慈しむように見ている。


物語に出てきそうな程の、栄え耀かがやく肌。


胸も、腕の肉も、腹も、首も、鎖骨も、僅かに湯に除ける太股も、

端正で、均整が取れている。均衡の極みだ。


物腰は何処までも、落ち着いたもの。

王侯貴族のような楚々とした寂然とした身体の動きで。


それは、存在としてとしての違いを錯覚するほどに、何もかもが純粋に綺麗な形で。


それは、まるで物語に出てくる


『誰もが憧れるような美しく静かなお姫様』


そのものであった。



故に、少女が思わず感歎の呻きを漏らすのはしょうがないことだ。


なにしろ、今この湯殿においては、


いかなる上流階級も、腕利きの冒険者も、落ち着いた聖職者も、


学問に邁進する研究者も、商いを本地とする町娘も、一夜の恋人たる歴戦の街娼も、


少女の隣に座ったその女性に見とれていたのだから。



立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、屈めば柳に、笑えば鬼灯。


とでも言えばいいのか、その香しく匂い立つ美貌と、


それに比例するような、清麗かつ澄み切った優雅な艶姿。



その金の髪を持った姫君の微笑みは、


先ほどからぶれることなく、継続的に少女ルナーレへと向けられている。



微笑まれるルナーレに同性から嫉妬が飛ぶ程の圧倒的な存在感に、

ルナーレは見惚れ、呻き、目を離せない。


その熟れた果実の如き、鮮烈な唇が、


彫刻のようにきめこまやかな頬を歪ませる。



「こんにちは」


鳥の鳴き声を甘くしたような声。


ああ! 甘く蕩けてしまいそうな音。心地よさが溶かし込まれた甘い毒のような声。


人の出す音であるのか、これは、人にあり得る声音なのか!?




少女は呻いて、その言葉の意味、時間を掛けて掛けて咀嚼する。


圧倒的な存在を前にした感覚と思考の麻痺。そしえ停止。


それでも少女は、時間こそかかったが、その意味を咀嚼して、



「…………あ、え、こ、こんにちわ」


ようやくの反応を返した。


その顔は朱く恥ずかしそうに染まっている。


同性であるはずなのに、照れが無条件に先立つ異常。


それを見て、おかしそうに麗人は小気味よく笑う。



「ふふっ、緊張しなくてもいいのよ?」


「ええ、ええっと、その、あ、はいこんにちわ」



面白い子、と、また笑う麗人。


少女はカチコチに身体を硬くしていた。


場の主導権はこの美貌の存在の掌の上である。



「何度も言うけれど、……緊張することなんてないのよ?」


底知れない瞳の色。


少女は恍惚に溺れかけながら、


しかしどうにかそれに抗い、真摯に黄金の麗人を見据える。


「……あ、えっと、それで、な、なんのようでしょう?」


どもりながらの懸命な姿。それを見て微笑む麗人の背丈は、少女の頭一つ分高い。


「そうねぇ、聞きたいことがあるの」

「? ……なんでしょう」

「……あのカニさんのお友達なの? あなた」


ルナーレは答えに窮した。


ペンタのことを聞いているのだろう。ルナーレはそう判断したし、あれだけ目立つのだ、

興味をもった人物がいても、全くおかしい事ではない。


ただ、ただ、


少女ルナーレは、なにか嫌な気持ちを、嫌な響きを、嫌な違和感を、


その瞬間に感じた。


まるで、私の方があの蟹を知っているのだぞ。

俺はあいつの親友なんだけど、あ、お前も友達なの?


と言われたかのような、些細な反感が、少女の胸の内に何故か湧いた。


何故か。何故なのか。


少女は自らを不思議に思いながらも、先ほどよりも冷静に言葉を作る。


「……友達というよりは、仲間、よ、多分あたしの……相棒かもしれない。

それが、貴方に一体なんの関係があるの?」


ルナーレは自分で思ったよりも格段に言葉が辛くなってしまったことに驚いた。



しかし目前の麗人は、笑顔を微動だにせず、麗らかに微笑み、少女を見ている。


動かぬ微笑みのまま、少女を見据える黄金の君。


少女ははたと気付く、この目前の美しき容貌が、極端に何を考えているのか読めないという事実に。



少女の内心に少しづつ高まる反感と警戒に、気付いているのか気付いていないのか、



「いやね、別に取って食べるつもりなんてないわよ?」


その美女はそう言って笑った。



「……あんた、あたしになんのようなの?」


「あら、そんなにキツイ言い方しなくてもいいじゃないの。

……私たちは初対面よ?」


「…………前に何処かでお会いしませんでしたっけ」


「初対面よ?」


今イチ納得のいっていない様子で、少女が少し首を傾げる。


美女はニコリと形容するのが相応しい、微笑みのまま、会話を進めた。


「私の名前は、そうね、……リリー、リリーよ」

「リリー、さん。あたしはルナーレ、ルナーレ・ジュール、それで……」

「そう急くことないじゃない、短兵急ねぇ」


ルナーレは既に、リリーと名乗った黄金の美女の、魅惑的な美から一歩引いていた。


その性質は、こうして一歩醒めた状態で見れば、何処か異常だと分かる。


「……はいはい、話しますよ、こんなにもお湯が気持ちよいのだし、

湯気は包み込むように苦しく暖かなのに、

少しは落ち着いて人の話を聞いてくれてもいいじゃないの」


「こんなにも、温かく、気持ちの良いお湯だからこそ、

あたしはあんたに眼の前から消えて欲しい」


ここに至り、完全に、丁寧語を捨てて、ルナーレは、リリーに吐き捨てるように言った。

この美女は胡散臭い、と、

正気に戻ったとも言えるルナーレは、加速度的に不信感を募らせはじめた。


「ねえ、ルナーレ、可愛いルナーレ、未熟であの蟹さんの足を引っ張るルナーレ」



少女の傷を露骨に抉るようなことば、

開けっぴろげすぎて、既にそれは皮肉でさえない。


少女は歯を食いしばって、明眸の麗人を睨み付ける。


「強くなりたくないかしら?」

「お断りよ」

「……あら、つれない、……でもいいの?

貴方は気付いているのでしょ? あの強くて格好いい蟹の足を引っ張っているということに、

あの頼もしくて、大らかな蟹の度量に甘えているだけの己がいることに」

「……」

「だんまり? あら、そんなに睨まないでよ、私はね、貴方を手伝いたいの。

……私もね、弱かったから、私もね理想を追いかけてきたから。

だからね私は理想を追いかける可憐な少女を見つけたらね、その手伝いをするようにしてるの」

「胡散臭い、断る」

「……ねぇ、本当に考えているの?」

「考えてないわけ、ないでしょう?」

「 ……単刀直入に言いましょう、ルナーレ

私が力を、カニさんの足を引っ張らなくても済むような力を与えて上げましょう」


「何度でも言うわ……お断りよ! 

あたしの弱さは全てあたしだけの物よ。

これを誰かと分けるなんてそれこそ考えられない、おぞましい。


あたしはね、あたしは強くなりたいの、それはね、あたしが自分で、掴もうとしなければ、

意味がないのよ、強さってのはそういうものじゃないの!?


誰かに与えられただけの力なんてもらったら、あたしは溺れてしまう、覚悟を忘れてしまう

そんなのはいやなのよ、意味がないの」


まるで自分に言い聞かせるように、語った非力な村娘の言葉。


「じゃあ貴方から代償をもらうわ? これならいいでしょう?」


「それは最終手段よ、私が私として出来ることを全てしたうえで、

あたしがあたし自身の意志で、それを最後の手段として選ぶような、

……どっちにしてもあんたから貰うつもりは毛頭もないから、全く関係のない話だけれどね」


それを、困ったように頭を掻きながら聞くリリー。


しばしの逡巡、そして玉容の女は頷いた。


「…………そう、分かったわ、うん分かった、貴方はつまりそういう人なのね」


言ってリリーと名乗った麗容の女性は、一歩離れ頷き、目を見開いた。



ルナーレは、言葉を失った。


その瞳がおかしかったからだ。




そこには隠しきれない狂気が滲み、


そして隠しきれない無の淀みが揺れていた。



何も考えない、何も求めない、ただ追うのは妄念。


そういった狂気が渦を巻いていた。


正気ではない。



少女は喉を鳴らし、思わず顔を逸らした。


その挙動に首を傾げなから、絶世の淑女は、立ち上がった。



「貴方おいしそうね、……でも今は、食べないであげる、ふふ」



童女のようにあどけなく、まるで赤子のように笑って、

印象的な狂気の輝くその瞳は、湯気に紛れ、そして少女から離れていった。


少女はいつのまにか止めていた息を吸うという行為を再開し、


そして己が思わず、失禁していたことを悟った。

















帰り道、少女と蟹は既に夜の帳の降りきった大通りを歩いていた。


警邏の巡回者たちが周囲を通り過ぎる。



蟹は、後一歩で茹だる寸前というように、とてもおいしそうな湯気を上げていた。


まだ、甲殻はさいわい、完全に赤くなってはいない。


「……あんた」


「なんだ?」


――それ大丈夫なの?


――最高の湯加減だったな!!


あ、この蟹もしかしてあたしのこと馬鹿にしてるかもしれない。 と少女は気付き。


蟹は、鼻歌を歌いながら、そのリズムに合わせて、時折、シャンという鋏の閉じる音を、

合いの手ように挾んでいた。


その姿は奇妙に愛らしく、甲殻類フェチには堪らない程にキュートである。


リズミカルに鋏をふりふり、どこぞの民謡を口ずさんで、

足の動きも合わせて、どこかコミカルだ。


その姿を後ろから見詰めて、少女は溜息を吐いた。


そして、真面目になにかを考えるのも馬鹿らしいと、かすかに笑って、

蟹の背中に飛び乗った。


「っ……むう、蟹に乗るときはせめて一声かけてくれないか? レディ」

「なによっ! あんたまさかあたしが重いって言いたいの?」

「いや、まさかそんな、お嬢様はとても軽やかでございます」

「結構!」


鼻を鳴らして、少女は頷く、そして蟹は荷袋を鳴らしながら、少女も背に載せて進む。


肌は未だふやけて、少し赤がかっている少女の姿は、

微かに湯気が立ち上っており、一目で彼女が風呂上がりであると看破できた。


先の公衆浴場と、蟹と少女の家は、

さほど離れている訳ではなく、湯冷めの心配もない。嬉しいことに。


軽やかに歩く蟹の鼻歌に、少女も鼻歌を被せて、


奇怪な二人は衆目の視線を一手に受けているにも変わらず、夜の道を行く。




……


…………



「ねぇ」


少女が、声を固く、厳かともいえる調子で、放つ。



「……うむ、なんだ?」


「……色々と有り難う、改めて」



もじもじと指を絡ませて、少女は一日の疲れを労うように蟹に感謝する。


顔は俯かせて、迷宮でのこと、気落ちしたらしくない自分に配慮したこと。


それらに対する少女の素直な気持ちであるのだろう。が、

肝心の蟹は。


「ふむ、ルナ嬢が素直であるというのも嫌に気持ちの悪いものだなぁ」


と低く笑い声を返した。少女への紛う事なき挑発だ。


「なっ!? 言うに事欠いてあんたねぇ、気持ち悪いってなによ!?」


「ふっ、……うむ、それぐらいが丁度いいな、やはり? 少なくとも俺の好みだよ」

「あ、あんたの好みがどうだっていうのよ、どうだっていうのよ! 

というかいい加減他人を煙に巻くのを止めなさいよ!!」


――あんたの悪い癖よ?


――うむ、すまんなこれからも苦労を掛ける。


そして、少女は顔を赤くして、

ぽこぽこと、少女は蟹の甲殻軽く叩いている。


蟹はやめろと言うように、鋏を振り上げた。


そして真面目な声を作り背の上の少女の脚を、その滑らかな鋏で撫でた。


「なに、礼には及ばんということだ、それに礼にしても、先ほど湯に入る前にも貰ったではないか」


「……いいから受け取っておきなさい。

これはあたしのけじめなんだから、二回でも、三回でも受け取っておきなさい」


「けじめなあ、っといやなに他意があるわけではないぞ? うん」


「はあ……良いわよ、ともかくこれから強くなるために出来る限りのことをしなくちゃ、と思ってね」


「やる気に溢れるのはいいが、どうするつもりだ? 少女ルナーレ」


「そうねまずは、やっぱり体力とか闘法、身体よね、

そして魔術、儀式小家に、色々な知識。まあ基本から攻めないとね、あたしには出来ることなんて限られているし」


「ふむ、そういうことならなルナ、

俺も出来るだけのことはしてやろう……儀式小家や俺に知っている知識に関してのみだがな、

色々と助けることが出来るだろう」


「……お願いするわ」

「うむ、素直で結構。なに……持ちつ持たれつという奴だ気にするな」


蟹は鋏を振る。少女の顔は蟹には見えない。


気負いやすいのがこの少女の欠点であるのかもしれんなぁ。と蟹はふと思う。


「じゃあさっそく家に帰ったら、基本をお願いできる?」


「はやいなぁ!」


「駄目かしら?」


「まさか。拙速は巧遅に勝る。

時は金なり、短兵急を得るのも悪くはないが……うむ、妙にやる気だなルナ嬢」


「……当たり前よ、なんか負けられない気持ちになってるのよ、いま」


「ほう、悪いことではないが、ううむそりゃまた何故」


「そのことなんだけど、ペンタあなたの知り合いにリリーって人いる?」



少女の問いに、蟹は一瞬立ち止まる。背の少女は蟹の甲羅を撫でている。


そして蟹は少女に答える。蟹にしては珍しく奥歯に遺物の挟まったような声音である。


「……リリー? いない、……と思う、が、誰だ?」


「さっき浴場で会った、貴方の事を知っていそうな人よ」



蟹は驚く。全く少女の居る女湯に違和のある気配を感知していなかった故の動揺だ。



「俺のことをか!? ……どんな奴だ、それは」


「ええと、金の長い髪の凄い綺麗な人で、なんか怪しい雰囲気の怖い人」


「女か?」


――あたしが男湯にいたと?


――失敬


蟹は考えに沈む。思考の檻の底に沈み、曖昧に記憶を総浚いする。


「……ふむ」


――金髪?

――『白焔』か?いやしかし、それなら天使の羽があるはずだろう。折れているが隠せるものではない

――エーミッタは赤い髪、姫は白。あの金滿妖精は蒼。『公爵』は紫。リューは金だがこの街に居ない。

――『神官』黒だしそもそも地上にいない。長耳族……『智慧』キュリエルは金だが考えにくい。

――フィネイルゥは角が生えているし、こんなところにはいない。『艶華』は赤。ジュチャは鬘……のようなもの。

――下半身が馬のやつは除外しても、爺さんは……

――ううむ、順当にいけば白焔の筈なのだが……うん? いや、まて、リーリア、リーリ


「……なるほど、リリーか」


なぜこんな他愛のない名前をすぐに思いつけなかったのか。



「思い出したの?」


「わからん、だが」


「なによ」


「知り合いかも知れないな」


「……曖昧ねぇ、ま、いいわよ別にその知り合いかもしれない人が、

ともかく燃料の一つになったってだけの話よ」


「なあ、そのリリーやらは、その、……なにか言ってなかったか?」


「何かって何よ? ……別に特になにもなかったわよ、っと。

ただあたしに力が欲しいかって聞いてきただけよ」


そう言って少女は蟹の背から降りて、昨夜から己の住居をなった建物の扉へと向かう。


そうか、と呟いて蟹も、なにごともなく段差を登る。


少女がすかさず木製の扉を開けて、蟹もそれに続いた。


既に集合住宅の、狭い廊下は、昨夜と同じで、深い闇に包まれていた。


明かりは僅かな蝋燭だけ、

その、闇を照らすには余りに余りに心許ない火を頼りとして、階段へと蟹と少女は進む。



会話は一先ず打ち切られた、未だ僅かに風呂上がりのふやけた、暖かな赤味を含んだ肌が

春の夜の空気に当てられひどく冷たく感じられる。



少女は、ともあれこの後の修行のことを思いつつ。

先ほどの女性と蟹の関係を誰何し、そして部屋にいるだろう朝に会ったばかりの珍客を思い出す。



その隣、急勾配な階段を巧みに登る蟹は、件のリリーについて思う。


そして友である『賢者』あの奇人から託された手紙を渡す相手のことを思った。



『騎士』エーミッタ・ファーレイ、清廉潔白、どこか抜けている実直の武人。


懐かしい相手だ。


話すべき事は多い、音信不通のものたち、きな臭い雰囲気。


色々と考えなければならないことはある、しかし、今、それは置いておこう。


大切なのは現実の生活であり、そしてそれは、今蟹の隣を歩く少女の頼みを聞くことなのだから。


リリーのことを考えるのは、『騎士』と会った時でもよい。


何も自分一人で抱え込む必要など、全くありはしないのだ。




そうこうしている内に蟹と少女は三階へ到着した。


いろいろあったが、一日を終え、ともあれ二人は住み家へと帰ってこれた。



長い旅を終えたように心持ちで、


少女ルナーレは、まだ火照っている手を、


『自分の家』の扉の取ってに掛け、


そして扉は開かれる。



少女が、ただいまと言って、


侍女が、おかえりなさいと返し、



そうして、蟹と少女は帰宅したのだった。

















魔軍三六将


列伝


『白焔』ゲダフ・アルバッキオス


天上世界(第七天)の出身


美しき白き羽を持った堕天使。

紛う事なき天上出身の最高位の天使であり、

その知能、そのポテンシャルは下級の天使とは比べものにならない。


天使とはそもそも天上における奴隷階級を指し、

その多くは人造生命であり、主たる旧神に傅くために存在するのである。

意志を持ち、魂も【力】も持つ、表面上は地上の生物と変わらぬ生物でもあり、

言うなれば天上の一般市民と言えるだろう。


『白焔』はその天使の中でも幾人の神が協力して作った高密度の生命であった。

天上においても数少ない大天使であった『白焔』は

しかし、己の主への反逆を起こしたと伝えられる。


神々はこれを速やかに鎮圧し、その反逆者の右目をくり抜いて地上へと堕とす。

地上とは穢れた世界。

そこに墜ちれば天上の限りない尊さは損なわれ、

厭離穢土の世界で生きなければならないのだ。

それは当時の神々にとって最大級の刑罰であったのだ。


しかし地上に墜ちた『白焔』の苛烈な性格は、

衰えた己の力を前にしても一切朽ちることなく、歪むことなく、

天上の旧神たちに向けられ続けた。

彼女は神が嫌いであり、この上なく憎悪していたのだ。

そのためか『白焔』は地上において、

天上にはありえない美徳があるということを素直に認めることが出来た。

彼女は、地に墜ちても一切諦めることなく、

天に座るあの性根の汚い者どもを殴殺することをを決意したのだ。


自らの羽を自らの手で切り取り、

くり抜かれた右眼に眼帯を施した彼女は、人としてこの世界に潜伏し、

そこで彼女は暗愚な王が収める国を転覆させ、共和主義国家を幾つも打ち建てた。


名を変え、時を経て、幾つもの国を建てて、時に滅ぼし、天の神々の思惑を狂わせることに注力したのだ。


終わるあてのない戦い、それでも彼女は戦いに備えて、常に情報を更新し、

人材と交流した。時に運命の不条理に流された者がいれば、実のところそれは神の仕業であることを説き、

時に、突発的な事故、起こりえるはずのないような事故や誤解で打ちひしがれる者には、その背後に在るものを説いた。


知己を増やし、天の神の存在を暴露し、恨みを溜めて、その攻むるところ提示した。


その行動は2000年にも及んだと今ある資料からは推察できる。


とはいえ彼女の行動にも限界があった。一人では戦争は出来ないのだ。


そんな彼女にある時、転機が訪れた。

『有角姫』ネーベンハウスの出現である。


人間界を統一したその若き皇帝は、

なんともはや、馬鹿としか思えないが神に喧嘩を売ったのだ!

そ統一した己の国を抜けて、彼女たちは諦めることなく魔王領へと乗り込んだ。

それに興味を覚えた『白焔』は、

『有角姫』が『魔王』と意気投合した翌日に『有角姫』の元を訪れ、

会談、そしてその能力、そのカリスマに感服。

彼女は、世界中、あるいは魔王領にいる、自分の知っている限りの神との戦いに役に立ちそうな存在を教え、

旧神たちの情報、詳しい能力、天の地理、そしてなによりそこにどう行けばよいのかを教えた。


ここに『天上戦争』が始まったと言っても過言ではなく、『白焔』の神への憎悪が。大まかに言えば神を殺したと言っても、言い過ぎではなかった。

彼女の情報、そして元よりの数千年の尽力があればこそ、『有角姫』は天に至れたとも言えるのだから。


とはいえ『白焔』は堕天使であるためか、信頼とともに絶えず監視を受けていた存在でもある。


彼女が一体なぜ神を裏切ったのか、詳しいことは伝わっていない。

地軍においても、彼女の立ち位置は複雑であったと伝わる。


その性格は豪放磊落、竹を割ったような女性であり、『有角姫』とは馬があったとも伝わる。

多くの魔将や烈士の信頼と警戒を一心に受けていた存在であり、

元堕神の『嵐』に次ぐ異色の存在でもあった。


天上戦争においては、先鋒として活躍。

ガルニゼスの作った義眼と、リューレアーの神器を使い、

多くの元同胞、意志ある天使も、意志なき天使も区別なく狩った。


天山戦闘において、

高位神であり己の主任制作者でもある『万学』と『腐食』の二柱を討ち滅ぼした。


新暦においては『大天使』

知識と感情の天秤、理性と実践の合間、中庸の守護者として、

教会の一部教派、神学者、各地の精霊信仰の古老たちに崇められている。


本人は世界のどこかで、

旧神の堕天使が、新しい教会の大天使であるという事実を皮肉げに笑っているのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ