迷宮を歩こう、実存的な嘔吐
これだけ? と思いのあなた、次話は6000字くらい書き途中、
モチベーションは順調に回復しつつあるので、多分明日にもう一話。
それと後書きは、まだ何を書けばいいのか浮かんでいないので、先に上げておきます、これから夜勤なので本篇だけでも。明日の更新のついでにこれの後書きも更新するかも知れません。
1
憎々しい程に明るい、青い空の下、蟹は自らの甲羅を光で反射する。
煌めく甲殻類の存在はいやに目立つが、蟹はそれを気にする素振りなど毛頭見せない。
ただ、少女に豪語する。不動の存在感のみが健在だ。
「で、俺たちはこうして迷宮の前にいるわけだが」
「ほ、ほんとに行くの?」
と慌てる少女と、
何時ものように悠然と地を這う蟹は、
迷宮の入り口の前。そこにある広場に立っていた。
訝しげに蟹と少女を見詰めるのは、多種多様の種族。周囲の冒険者たち。
幾人もの冒険者のグループや、あるいは腕に実力のあるらしい単独の冒険者だ。
広場とは、
彼らが迷宮へと潜り込もうとする為の最後の準備の場。
そこは鉄柵で囲まれており、周囲を軍の人員が取り囲んでいた。
広場の入り口には、迷宮管理所が存在し、そこで冒険者は出発するための印を貰わなければならない。
管理の窓口は盛況だ。が、流れ作業なので余り時間はかからない。
これは深く広い迷宮へ入る冒険者たちを管理するためのものであり、
この時、名前とランク、連絡先を記名して、迷宮へ入ることが出来る。
これにより帰還と未帰還を判断することもある。
広場に入ると、幾つかの屋台、そして小屋。
小屋にはポーターと呼ばれる儀式大家が数人――何れも熟練の手並み――が座っている。
おそらく儀式法まで使うことの出来る者もいるだろう。
ポーターは二人一組で、転移という魔法を使い、冒険者を迷宮の所定の階層に送ることの出来る存在だ。
この一見便利な技術も、
儀式大家を習熟可能人数、なによりも転移という術に至ることのできる素質をもった人の数を考えれば、
それを行使できる者が非常に少ないという答えは、至極当然に導き出されるものだ。
付け加えると、一回の転移に数十分という時間を要する、即応が難しい技術であり、
どんなに熟練した儀式大家であっても再発動に数時間を要する技法でもある。
この世界最大の中央迷宮においても、その他の都市の迷宮入り口に数組のみが置かれているポーター。
とはいえ他の小さな迷宮であったら、一組も置かれていないこともあり、置かれていても平均して2~3組だろう、ポーターとは上でも述べたとおり、希少な存在であるのだから。
以上のことから、ポーターの利用には厳密な申請が必要であることが分かる。
そのため、通常、多くの冒険者は迷宮の入り口から迷宮に入り、
第一階層から、己の足で確実に深層に潜っていくしかないのである。
普通の冒険者とって迷宮を進むというのは、基本的には何日も掛ける旅のようなものである。
食料、灯り、様々な道具を持って、しかし重くなりすぎないように身を整えて、
栄誉や名誉、富や財、あるいは報酬を胸に、帰ってきて何を求めるか、そういった欲望を胸に抱えて
攻略に、あるいは素材の回収や探索に赴く旅。
迷宮には五層ごとに詰め所が、一〇層ごとに基地がある。
軍兵が詰めて、基本的な物資の貯蓄、販売が行われているそれらの場。
基地や詰め所への物資の補給は、
二〇人近い大部隊を構成した軍兵が、荷を運びながら、各基地に貯蓄する方式を取っている。
事実、現在も蟹と少女の横を、鋼が際立つ甲冑姿の兵士が隊列を組んで通り過ぎていた。
現在の最前線は38層、ここには最も大きな基地、橋頭堡が存在し、軍人と冒険者が寝泊まりしながら、
同じ階や、より深い階に潜っている。
冒険者たちの最侵入階は47層。
とはいえ、38層を未だ掌握しきれていないために起こる、迷宮側の大規模な組織的戦闘への備えから、
38層の各区画を攻略し、完全に掌握するために探索をする冒険者が大半である。
幾人かの冒険者たちが、39層や、40層へと進んで斥候的に冒険を行い。
さらに少数の希有な実力者たちがより深層に進み、命を代価に名誉と宝物を夢見る。
(とはいえそこは完全に敵の領地、あらゆる危険の可能性は尋常ではない勢いで膨れあがるのだ。
通常、迷宮の最深層と距離が広がるにつれて、
敵の魔導生命や上位の兵士が転移する可能性が低くなり、
また、送られてくるその敵の質・量ともに大きく下がり、迷宮に棲む、亜人や下級魔族、人造生物や魔獣の種類も弱くなる。
それはつまり、その逆もまた然り、ということで、
深く進めば深く進む程それらは強くなり、量も増える。
また敵も軍組織を編成して、最前線へと隊列を組んで戦線を構築する。
何度も言ったかもしれないが、迷宮とは都市であり、世界への反逆者が住む大きな軍組織である。
1500年の時を経て、堕神さえ討ち滅ぼせるようになった人間でさえ、そこを進むには大きな危険が伴うのだ)
ともあれ、
それこそが、この都市における冒険。
そして冒険者のありかたである。
がしかし、蟹と少女は、そこまで深く、あるいは本格的に潜るつもりは、まだない。
今日は様子見だ。
一歩目から全力で踏み込むのではなく様子を見るようにゆったりと踏み込む。
一階層を軽く舐めるように歩き、
迷宮という雰囲気に少女と蟹が慣れるように。
そして低級な魔獣や亜人。いわゆる迷宮に生み出される生命――魔物。
そういった存在を案山子として、蟹は己の肉体の具合、そして少女の能力を見るつもりである。
それくらいの簡単な意図で、蟹はここにいた。
が、そうとは知っても、カチンコチンに固まっている新兵が蟹の隣に立っており。
ぶるぶる震えるその動作は、初陣を乗り越えられなさそうな若武者の雰囲気を醸し出していた。
少女は、全く関係ない周囲を歩く冒険者からも、あれは大丈夫なのか?と心配されているほどだ。
「落ち着けルナ」と蟹は諫め。
「お、おお落ち着いてるわよ?」と少女は足を震るわせる。
深呼吸をして、どうにか己を鎮めようとしている少女は、
自らの腰に帯びた剣を、縋るようにぎゅっと握り込んでいた。
いや本当に大丈夫か?という蟹の円らな黒い瞳。
「……い、いいわよ、うん」
ガタガタと震えながらも、どうにかそれを収めようと努力する少女は蟹を見ながら、
精一杯の微笑み。
はぁ、と蟹は溜息。泡が少し口に滲む。
周囲を通り過ぎる冒険者のグループの心配そうな視線。
それらの他にも、広場には亜人、魔族、人族、精霊種。多種多様な存在がひしめいている。
広間にある出店で、最後に足りない道具を補充している者もいれば。
今日の計画の確認をする者。連携の合図の最終確認をする者。
予め報酬の分配について打ち合わせする者。
己の武器に最後に油を差す者。その姿は様々だ。
ただ共通するのは、誰もが皆、冒険者であるということだけ。
「ま、習うより慣れろ、だな……行くぞルナ!」
「うぇ!? あ、ちょ、ちょっとまって」
ずるずると蟹に引っ張られる少女。
周囲の訝しげな視線もなんのその。
蟹と少女は迷宮へと潜り込んでいく。
「あ、ちょ、うう、神様、『闘争』タンドランさま、どうかあたしをお守りください」
「むっつりすけべに祈りなど捧げている暇があったら覚悟を決めた方がいいと思うがなぁ!」
少女の呻きのような、未練がましい声。
意気軒昂の蟹。
二人は迷宮の入り口へと向かい。
闇を湛えるその穴に、他の冒険者と一緒に入って行く。
なだめる蟹の声と、わめく少女の声。
さて、冒険の始まりだ。
2
迷宮第一階層。
広く整備された通路。
まるで石造りの神殿の中にいるような雰囲気。
――暗いと思っていたけれど
「案外、明るいわね……」
と、少女が辺りをキョロキョロと見渡す。
蟹は、少女の傍を離れない。
既に少女は剣の柄を握り、何が出てもいいように備えている(つもりである本人は)
「ふむ、基本的に階段から階段の間は常に灯器や松明が灯されているらしい」
よく使う通路だからな。と蟹が鋏を振り回す。
少女のびくびくとした足取りも、次第に落ち着いていく。
「もっとこう、ど直球に、じめじめして、如何にも、な感じだと思ってたけど」
「……案外に新しく、整理されている、か?」
そう言って、周囲を警戒、辺りに気を配る少女。
蟹は苦笑を漏らす。
「ルナ嬢よ、余り気を張りすぎるな、糸を常に張り詰めておく必要もないし、それは危険だ」
「……そう?」
「うむ、そうだ」
「そこまで言うなら」
「うむ、それでよい、経験者と年寄りの言を拝聴する度量は善きモノだ」
――あんた、だから何歳なのよ。
――見ろ、ルナーレ嬢、分かれ道だ。
これでこの蟹は話題を逸らせたと思っているのだろうか。と少女は悩み、
シャキンと鋏を鳴らした蟹を呆れた目で見る。
ともあれ、その後で、言われた通り眼の前に現れた分かれ道を見た。
先に二人が入手した情報によると、第一階層の広さは約5km四方。
灯りが点されているのは、その内でも正解の通路のみ。
それ以外の区画、通路には灯りもない。
既に数百年も前に一切を調べ尽くされた階層。
一切を調べ尽くされ、強欲な冒険者たちが、その上でさらに隠し通路を何回も何十回も探した階層。
目新しい発見もなく、滅多に誰も行くことのない階層の暗部。
分かれ道の先はそれだ。
稀に冒険者の特訓や試練に使われる程度の、その方向にしかし初心者冒険者二人組は足を進める。
迷宮とは言え、第一階層は通り道のようなもの。
おいしい狩りを行えるような魔獣も住んでいない。素材を落とすものもいない。
言い換えれば皆、同じ道を歩き、次の階層を目指している。
少女の傍を、先をそれなりの密度で冒険者たちが歩いている。
その人の流れは、それぞれの実力に在った狩り場へと進むまでは基本的には滞らない。
多くの場合、一〇~十九階層、通称『植物界』までは、意外なほどに多く、
他の冒険者が傍にいるという状況が続く。
この街の主産業が迷宮探索である以上。
そして数多くの冒険者が居る以上。
迷宮という物の中で歩くの望ましい通路が既にある以上。
こういった冒険者密度が高まるというのは当然のことであろう。
しかし、その人の流れも、浅い階層であったとしても、
既に打ち捨てられた通路、区画へと足を運べば、
当然のように途切れる。
つまりは蟹と少女が向かった区画、分かれ道の片一方の先には同業者も居らず、
そこは無音で、そこは無明であるのだ。
「ルナ」
ん、と少女が、外套の下に潜ませていた松明を取り出す。
火種はない。
「しばし待て」
蟹が足を止める。
少女は松明を片手に、あてどもなく蟹を眺めている。
数秒の後。火が灯る。
宙に火が生まれ。暗がりは照らされる。
蟹が己の魂。己の精神の内にある膨大な【力】を引き出して、それを火へと変換したのだ。
――俺の肉体属性ではないうえ、俺の精神にとっても火は鬼門だがな、ただ火を生む位なら。
少女が、火はどうするの?と蟹に聞いた時に、そのように述べたが、しかし半信半疑だった少女が、
本当に使えたわよ、この蟹、火。蟹の癖に! という素直な驚きの顔を見せていた。
蟹はふふん、と言いたげにその黒い瞳で少女を見る。
少女は顔を逸らしている。
「どうだ? ルナ嬢、惚れるか?」
「惚れないわよっ……というか本当に魔導、使えるのね……アンタ」
何処か僻んだような、どこか憧れるような声。
「当然だ……ん? ……なに焦ることはないさルナ嬢! お前もすぐに使えるようになるだろうよ」
――こんなもの児戯だ
――その論法じゃあ児戯も窘めないあたしってなに?ってことになるんじゃ……
――……まあ細かいこたぁいいんだよ!
少女のじと目を受け流す蟹。 弱く鋏を鳴らしている。
既に何時も通りの二人のやりとり。
あるいはそれは少女の気を紛らわせるための蟹の気遣いだったのか。
ともあれ、少女と蟹は、光を手に、闇を掻き分けていく。
3
賑やかな大通路から分かれて歩く少女と蟹。
既に歩いて五分程になるか、冒険者たちの雑踏、喧噪、それも遠く稜線の山の如し。
「……ちょっと不気味ね」
「そうか? おれは中々にワクワクしてきたがなっ!!」
石畳、閉塞感さえ感じる空気。
――聞いた話だと迷宮を潜ると、沼、森、山、多種多様な空間が姿を見せるらしいが……
早く見てみたいものだぁ、と蟹は心に思う。
歩く二人。
コツコツという少女の足音。 ザッというような蟹の足の引っ掻くような擦り音。
揺らめく松明の灯火。
ふと聞こえる、かすかな音。
「ルナ!」
あらかじめの打ち合わせ通り。
少女はペンタによって叫ばれた音に反応して、剣を握り込み、蟹を盾にするように位置を移動する。
松明を傍の壁に立てかける。
ざっ、と蟹が地を滑る。
周囲の風景は変わらない。
しかし変わって見えるのは如何様な理由によるものか。
少なくとも少女にとってその理由は緊張によるものだろう。
ゴクリと喉を鳴らすルナーレ。
金の髪が逆立って見えるような緊張感。
少女の実戦。初陣。その相手は――
「……大蟻か」
それは魔獣。大蟻と呼ばれる種。
さして珍しくもない魔獣であり、大陸のどこにでもいる類の魔獣だった。
大きさは人間、それも純粋な人族の頭部ほど。
基本的に数匹を単位として行動し、獲物を襲い巣へと運ぶ。
巣は基本的に小さく、群れの数も通常の蟻に比べてその数が著しく少ない。
一つの巣には基本的に数個のチーム。
予備役、留守役、王女がおり、人間、大型の魔獣、あるいは動物を襲い、それを栄養とする生態だ。
蟹と少女の眼の前に現れたのはそんな魔獣。
油断さえしなければ、子供でも倒せるであろうそれ。
ただし一体一であるのならば、だ。
チームで行動する彼らの本体は、そのチームワークにある。
多により大を狩る魔獣。
人の集落の傍にこそはいないが、山などに入れば警戒しなければならないのはその為だ。
とはいえ成熟した男性がこちらもまたチームを組めば、まず敗北することのない程度の脅威ではあるが。
ルナーレは剣を構える。
その身体に不釣り合いな大きめの長剣。
両親の餞別を握りしめ、見るからに我流、といった構えを取り、足と腰に力を溜める。
「ルナ嬢、油断はするなよ」
「わ、わかってるわよ!!」
魔獣と対峙するのはこれが初めてであろう。
相手はたった六匹の蟻。
少女が蟹との出会いの時に襲われていた亜人に比べれば小さいとは言え、その不安は如何ほどか。
「骨は拾ってやるぞ」
「え、縁起でもないこと言わないでよね!? というかそんなになるまでに助けなさいよ!」
「分かっている、冗談だ、というよりも一人ではあれはどう見ても無理だろう……」
と、二人は言い合い、それを最後に言葉を止める。
蟻は、人間の走る速度で、至近に居た少女へと突進する。
人間の肉を餌とするための強靱な顎。
彼らの吐く毒液には人の身体を麻痺させる力もある。
時に異種族の雌を苗床として、女王の下に持ち帰るために生け捕りをするための武器。
駆けてくる六匹の蟻。
キチキチと顎を鳴らす音。
地面を動く蟻の這う音。
昆虫特有のなめらかとも言えるその移動の滑らかさ。
蟻が近づいたとき、
少女は腰に溜めた剣を、両手でしっかり握り込み、それを振り下ろした。
ガチンと音が鳴り響き、少女の刃は蟻に触れる。
しかし蟻に向けた刃は、蟻の顎に阻まれている。
顎を刃に当て、まるで鍔迫り合いの様相である。
残りの五匹の蟻が、少女の足下へ迫る。
「――させんよ!」
瞬間移動かと見紛うほどの超高速機動。
蟹は少女の足下に瞬時に現れ、蟻の顎から少女の足を守る。
周囲三方を蟻に囲まれては不利。
とはいえ全蟹が倒しては少女の糧にはならない。
そのためか。蟹の行動は最低限のものだった。
ただ防ぐ、少女への攻撃を阻むためだけの機動と行動。
蟻は群がり、蟹に食いつく、
が、蟻の顎は、蟹の甲羅に食い込みさえしない。
「無駄だ」
蟹の鋏が、蟹を避け回り込んで少女の足に噛み付こうとした蟻に伸ばされる。
右方の鋏で、右方の蟻。
左方の鋏で、左方の蟻。
それぞれ頭部と胸部の間に、鋏が巧みに差し込まれ。
ぶつと千切れるような音とともに、その首は転がり、昆虫の体液が撒き散らされた。
そして、それと同時に、巨大な水袋を潰したような音が鳴り響き。
少女が最初の一匹との鍔迫り合いに勝ったことが知れる。
そも体躯と体重、威力の違いは歴然としていた以上、これは遅すぎる程だろう。
蟻の残りは三匹。
少女の足下で蟹への攻撃を行っていた三匹は、
己では蟹を仕留めることが不可能と判断したか、少女へと狙いを変えた。
頭を持ち上げ、顎の間に飾りのように存在する口から緑色の液体。
少女に放たれた最初の毒液斉射は、だが、少女の外套がそれを守り、
続く、第二斉射の前に蟹が少女の前に立ちはだかる。
蟹とは平べったいものだ。地に対して己の甲羅を平行にしているものだ。
だが常に平べったいわけではない。地に這うような形に終始しない。
彼らは己の身体を、己の足を使って、持ち上げることができるのだ。
蟹とは立つ者。蟹は己の身体を持ち上げられる者。
そうして蟹は持ち上げた身体で、少女を庇う盾となる。
甲羅を蟻顎の側に、服甲を少女の側に。
少女は屈み、少女が二人乗れる程の広さの蟹甲羅の後ろに隠れる。
放たれる毒液はついぞ少女の身体に届くことなく、外套と蟹の甲羅に阻まれる。
蟻の毒液は、幾度かの発射後、溜めが必要なのか、
あるいは発射のための体液の内蔵貯蓄が尽きたのかその発射が止まる。
その毒液は蟹の外殻を浸透することもなく、ただ蟹の背とその荷袋の一部を汚しただけであった。
少女はすかさずその合間を突くように、蟹盾から躍り出て、両手に握った剣を蟻の一匹に叩き付ける。
刃の重み振り回される少女の姿は、お世辞にも洗練されているとは言い難い。
だが、彼女は間違いなく今、この瞬間に一匹の魔獣の命を奪ったのだ。
パチッと松明が揺らめき、微かな光源が揺れ、それに合わせて朱い光影も揺らめく。
残る二匹の蟻はしかし、既に蟹の鋏でその頭部を叩き潰されていた。
4
あっけない戦闘の終わり。
これが蟹と少女の初戦闘。
はぁはぁ、と緊張が途絶え、その重みを今更に再確認したように喘ぐルナーレ。
蟹はその隣で、少女の脱ぎ捨てた外套で己の鋏を拭っている。
「ふむ、まあこんなものか」
「……た、たいしたことなかったわね!」
そんなに汗を滴らせてよく言うよ、と蟹は思うが言わない。
彼は空気の読める蟹であるから。
「初陣にしては及第点以上だ、むしろ咄嗟の判断が上出来すぎる。
……ルナ嬢は、本当に初陣なのだな?」
「ええ、そうよ、魔獣なんて初めて戦ったわよ。
……そんなにあたし、よかった?」
どこか嬉しそうに顔を緩める少女。
蟹はやれやれと鋏を擦り合わせる。
「気を抜くな、初心者が、……まあちょっと才能のある初心者だと判明しても、
初心者であることに違いはないのだからな」
少女に釘を刺し、蟹は次の行動を促す。
魔獣を倒したのなら次にすることは、
「解体だ」
うげっ、と嫌な顔をする少女を後目に、
蟹は淡々と、無事な蟻の顎と、外皮の特に固い一部分を解体し始める。
少女は、二の足を踏むが、
覚悟を決めたのか、小型のナイフを、腰から取り出して、蟹と同じように解体し、部品を回収する。
それでも少女は文句ひとつ言わずに解体を進め、
蟹も、その大きな鋏を、恐ろしく巧みに操り、蟻の骸を、商品価値のある部位に切り分ける。
「こんなものか」
「……あたしに聞かれても分からないわよ」
「それもそうか、ま、行こう」
蟹と少女の探索はまだ続く。
少女は自信を取り戻したか、あるいは得たのか、先ほどよりは幾分和らいだ顔で、
しかし緊張感は維持したまま。解体した蟻の部位を、蟹に括り付けておいた荷袋に入れている。
蟹が言ったとおりに、敵からの少女への攻撃を全て防いだでくれたことから生れた安心感が、
あるいは蟻を二匹、確かに己の手で仕留められたということが、
積み重なっていた己の内の忸怩、それの解消につながったのか。
なにはともあれ、光を片手に迷宮を進み始めた少女の顔は朗らかに優しく。
何処か緊張の中に自信と軽笑が見え隠する、所謂、心地よい緊張と呼ばれる色に包まれていた。
蟹は、それを横目で確認して、頷く。
さて、意気は未だに挫けることはなく、
戦利品を収める荷袋も満杯にはまだ遠い。
部位の収められた、その荷袋は蟹の甲羅に括られている。
先ほどの毒液噴射で多少の汚れが生まれたが、中身にまで浸透していない。
少女は、壁側に立てかけてあった松明を再び手に取っている。
「では、行くか」
少女は嬉しそうに綻ばせた顔でそれに応え、
そして蟹と少女は闇へと進む。
5
あれから少女と蟹は、蝙蝠の魔獣、蜘蛛の魔獣と戦っていた。
蝙蝠の魔獣は一匹。
蟻以下の魔獣である。どうにかこうにか少女の刃が、宙を漂っていや蝙蝠にぶつけられる。
蜘蛛の魔獣は中型の一匹、蟹と同じ程の大きさであろうか。
これは蟹が相手をした。
己の身体能力だけで、蟹は意図も容易く蜘蛛を薙ぎ払い、それを見た少女が己の未熟に項垂れるという場面もあったが、
どうにかこうにか、二人はこの第一階層を進んでいる。
道を戻れば容易く人の喧噪、人の流れがあるだろう、仮初めの闇の中。
文字通り初歩的な魔獣、
それこそ凶暴な野犬、野性の熊の方が何倍も危険な、弱い魔獣しか生息していない上に、
宝もなく、修錬には経験値の低すぎる、手間を掛けるには意味がない。
そんな第一階層をピクニック気分で歩く蟹。
そして(ようやく大分抜けたが)緊張して歩く金髪の元田舎娘。
二人は、太古の遺跡のような迷宮の雰囲気に酔い、冒険者気分を満喫していた。
手に明かりを持ち、角や、時々現れる分かれ道に通路、それらに胸を躍らせ、敵の気配を探り、
時に無意味に忍び足をして、時に蟹が斥候と称して少女を置いて通路の先に突進して、
意味もなく少女を不安がらせたりするが、それさえも楽しい。(少女はガチ切れだが、蟹は楽しい)
松明の明かりが途切れる心配も忘れ、初心者冒険者の一人と一匹は、通路を進んでいた。
時に現れる敵も、少女が一人で対峙することが可能な低位の魔獣、魔物のみ。
恐るべき火属性の蜥蜴は存在せず、英雄譚によく出る小竜の類が現れるはずもなく。
狡猾な戦法を行使する亜人連中は影形も存在しない。
時に少女の手に負えない魔物が現れても、蟹がそれを一蹴する。
ありていに言えば彼らの初迷宮体験は、なにごともなく、順調に進んでいた。
「ねえペンタ」
「ん? どうした」
そろそろ戻らない? と松明の明かりを見て少女は言う。
少女はマメに、壁に徴を付けて進んでいた。
(彼女が読んだ冒険譚の本にあったやり方)
そのお陰で、戻るのは容易い。
また、幾分、緊張も和らいだのか、朗らかな笑みと共に、少女は高揚を示す。
無理もない、かつて望み、しかし終ぞ果たせぬと諦めかけていた夢が、
とんとん拍子で、己の手元に転がり込んできたのだ。
見ず知らずの人間に、新しい街、不親切な新しい知人たち。
その上で初めての冒険。そして自分が入ることが出来るとは思ってもいなかった迷宮。
感情の転変は怒濤。それが今ようやく少女の胸中に湧いて溢れる。
都市が見えたとき、都市に入ったとき、冒険者管理組合に入ったとき、
住居を決めたとき、酒場に入ったとき、どれもそれなりの感動を少女に味合わせた。
ただそれは余りにもあっさりと、あるいは余りにも出来すぎているように、少女には感じられた。
上手く行きすぎている、少女には実感が今イチ湧きにくい、どこか別の自分によく似た少女の旅路を眺めている気分であった。
ただ、事ここに至り、己の手で、魔獣を倒し、カビくさく土臭い、陰気な迷宮の匂いを嗅いで、
迷宮の暗く陰鬱な景観を己の視界に収め、実際にそこで歩き、胸を躍らせている、この瞬間。
少女は初めて、己が村を出て、冒険者になったということの実感を得たのだ。
ようやく訪れた深い感慨は、感動となって少女に流れ込み、次第に少女を緊張から解きはなった。
少女の心はそういった情動の渦に包まれ、少女の顔には笑みが、しぜん生まれる。
蟹はそれを眩しいモノ見るように、慈しんで眺めている。
とはいえ少女も初めての冒険に疲れを感じたのか。
しぶしぶといった感じで、先述のように、冒険の終了を蟹に促す。
そして、このまま迷宮の入り口に戻る、そういった流れになるはずだった。
その瞬間。
蟹は緊張を身に宿した。
少女は気付いていない。
その暴力の気配に。
それは彼女の背に生まれた。
「ねえ――」
と少女が、もう一度、蟹に呼びかけたその瞬間、
蟹は既に行動に移っていた。
音を立てて、地面を疾駆する蟹の身体。それは突進である。
先ほどの蟻を、蜘蛛を越えて滑らかに地面を流動する蟹の機動の先は、少女の後背。
少女が蟹に吹き飛ばされる。
少女が身体を壁に打ち付けたの同時に。
その斧は空を切る。
間一髪で、少女ルナーレはその命の散らせずにすんだのだ。
全身の痛みに耐えながら少女が蟹の方を向いて薄く目を開ければそこにあるのは、
蟹と怪物の打ち合う姿。
光源は、手を離れて少女の傍で爛々と通路を微かな明かりで照らしている。
そこでようやくこの未熟な、まだまだ未熟な少女は、己の命を狙った脅威の存在を認識し。
あ、と声を漏らした。
決定的な己の未熟、そして状況の推移の早さが少女に悔やみとも恐れともつかぬ心持ちを抱かせる。
鳥肌が少女を覆う、己の命が下手をしたら失せていたという未来像が汗がを生み、
少女の背を冷やした。
そして、呆然と見やる少女の視界には蟹と襲撃者の戦いの絵。
岩と岩を殴り合わせるような音。
響く轟音とも、圧壊音ともつかぬ音の連鎖は、蟹と件の怪物――突如現れたそれ――が打ち合う音。
件の怪物。その体躯は迷宮の天井に背が届くのではないかという大柄な怪物だ。
4m程の強靱な筋肉の壁。褐色の肉体には紋章が刻まれた鎧と籠手。
そして振るわれる斧。頭部は二段。文字通りの二段。
首の上には牛のような馬のような顔、そして二段目、まるで団子が積み重なっているように、
一つ目の頭部の上に、人間の男の顔、精悍な青い髪の古代人めいた薄い瞼。
それは実際に連結しており、
それぞれの口から、生気を感じさせない、自動的な哄笑が先ほどから漏れ出ている。
背からは羽。それによりこれが天使を模して作られた迷宮側の人工生命であることがわかる。
これこそが、迷宮側が階層を越えて、時に送り込んでくる暴力の化身。魔物。怪物。
初心者冒険者を狩るように、
あるいは隊列から落後した者を狩るように狙い澄ましたように現れる尖兵。
時に、不意を撃って、迷宮の通路を行く冒険者の一段に躍りかかる厄介な相手。
旧神の僕とも、天使とも言われる怪物であった。
その二段頭の巨人は、その巨体の前では流石に小さく見える蟹を破壊せんと斧を振るっている。
意志を持たぬ自動的な生命は、目前の魔獣を狩ることにしか念頭にないようだ。
鉄を鎚で殴りつけるような音が響く。
蟹は大型の斧を幾度も振るわれ、甲羅を殴られていた。
少女を庇った故に生じた隙を突く、衝撃の連打。
その甲羅は巨人の強化された腕力の一撃を振るわれても全く割れる気配も見せないが、
しかし度重なる衝撃の連打は、蟹の意識と脳を揺らしている。
ガッ、と呻き、蟹はなすすべもなく、鋏を、甲羅を、継続的に打ち据えられている。
少女の膝は動かない。急に現れた巨大な脅威には動けない。
それでも手には剣を握り、懸命に蟹と二段頭の天使の闘争からは視線を逃さないように努めている。
しかしそれが精一杯、足は震え、蟹を見守ることしかできはしない。
度重なる連打。連打。連撃、鎚を振り下ろす鍛冶屋の如きリズミカルな打の協奏。
岩を砕くような音。鉄を凹ませるような爆発するような斧の振り下ろし。
蟹は耐え。意識は揺れる。
蟹のストレスゲージが堪る。怒りとも呆れともつかない心持ちに包まれ。
蟹は気を吐いた
内心は熱く、冷たく高まりつつある。
――あまり、調子に乗るなよ。
そしてなにより……
――このままあの少女に、こんなふがいない姿を見せるわけにもな……見くびられても困る。
蟹に人間の顔があるならば、薄く笑っていたであろうか。
連打に慣れたのか、揺らされる意識の合間を縫って、蟹は反撃を試み、
鋏を左右から、巨体の脚に向けて振るった。
虚空に弧を作る、青い蟹の鋏。
それは真っ直ぐに、届く。攻勢に出て調子に乗り切っていた目前の無礼者へと。
直撃。
二段頭の天使は大きく体勢を崩す。
思わぬ地点、思わぬ間からの衝撃に、大きく体躯をへ揺るがした天使は、
しかし途中で踏みとどまり、眼の前の獲物を意志の籠もらぬ瞳で睨み付ける。
蟹はしかし既に体勢を整えている。
天使の斧の届かぬ距離を確保し、己の甲羅に巻き付けられた荷袋の紐を切り落とし、
天使をその黒い瞳でねめつける。
「ふむ、昔に、よく壊した下位天使の洗練された形、という所か」
――かつてどれだけ討ち滅ぼしたか分からないが、今もなお現役とはな。
「意志さえ持たぬ劣等風情が、この俺によくもまあ、好き勝手!」
何年経っても進歩のないものだ。と想いながら蟹は己の魂の内にある力を意識する。
天使は、蟹と己の距離を測りつつ、全身を覆う筋肉を励起させながら、様子を見ている。
下位の冒険者が数人集まって、ようやく倒せるかどうか、というような異形の巨漢を、
しかし蟹は脅威とも思わず、淡々と始末するために、行動する。
意識――体内――儀式小家:想像法――導力――想像・属性性質操作・構築――発現
儀式小家:想像法『蟹の泡』
蟹の口。鋭い顎と顎の間。そこに設えられた細密のような穴から、
蟹がいつものように泡を吹き出す。
だが、それは通常、蟹が吹き出すような泡ではなかった。
それは大きく、それは飛ぶような勢いで蟹の口内から吹き出る。
そして、シャボン玉のようにふよふよと、口から出た泡は生まれて中空を漂う。
紫がかった蟹の泡が、たんぽぽのように宙を浮動する。
迷宮の暗闇を中に落とし込んだ、透明な泡は、じわじわと燃える松明の揺らめきも映し持つ。
その泡は、生まれる。まるで全自動の機械のように、何事もなく生まれて漂う。
続々と生まれ、宙へと浮かび漂う。泡の群れは、
瞬く間に蟹と二段頭の天使との間を占有する。
蟹と巨体を阻む壁のように。泡は壁となるのだ。
天使は警戒するように、鼻息を荒げ、下の頭部が咆吼を上げ、上の頭部が哄笑を上げる。
蟹は動かない。天使は己を鼓舞するように猛り、そして泡の壁に不用意にも斧を振り下ろす。
石槍で鉄を突いたような醜い音。バツンともガツンともとれる大きな音。
膨らました風船を割ったような音が立て続けに鳴って響いた。
斧を持った天使の腕は、その衝撃の反動からか、大きく後ろに弾かれていた。
その斧は、微かに溶けて、己の成分を溶かし込んだ液体を涙のように流し出す。
蟹は、空間の向こうから、次の手を打つ。
単純な壁。単純な泡。
石でも投げて割ればよいのだが、目前の巨漢はそんなことにさえも気づけない。
蟹の嘲り。
このような技は児戯に等しい。
泡の大きさはかつての己であったならばもっと大きかったであろうか。
その泡でさえも児戯と考える仲間が居た。
そして敵がいた。
蟹は嘲り、そして駆けた。小細工は此処までだと。
己の堅さを、己の全速でもって弾丸のように弾けさせた。
勝負は一瞬、いやこれは勝負でさえない。
一瞬で最大の加速へ。
蟹の複足の生む、脅威の加速力。
蟹の堅さ、重み、それら全てが一迅の槍、達人の突きのように、
僅かに捉えられるかどうか、という速度で、泡を突っ切り、蟹は巨体の腹へと突き刺さった。
そして響くのは、岩の爆発するような音。
泡の弾ける音。者が吹き飛ぶ音。牛が崖に叩き付けられた音。
水風船の割れる様。その水は朱い。
見れば蟹の全力突貫を一切の逃げる間もなく、備える間もなく。
目眩ましでもある泡の外より打ち込まれた巨体は、
腹から臓物を大きく弾けさせ、見るも見にくい有様に。
背から、腸らしきものが溢れ、そして背骨や肋骨が折れて身体を内から串刺しにし、
身体のあちらこちらから白い骨はまるでアクセサリーのように、天使を彩る。
一輪の花が咲いたかのような真紅の無惨は、壁にオブジェのように張り付いていた。
蟹の体躯が縮んだことにより、発想した、蟹の技の一つ。
蟹は思いの外、大した威力、大した衝撃であったことに満足したように鋏を鳴らし、
そして意志がないとはいえ見るに痛ましいその生命に近づき。
辛うじて繋がっている首を、淡い松明の光に照らされ輝く鋏により、介錯した。
「こんなものか」と蟹が呟いたのと。
少女が己の胃のモノを全て吐瀉したのはほぼ同時であった。
6
またしても呆気ない蟹の勝利。
しかし少女には複雑であった。
それはその、惨たらしい死骸への恐怖。
そしてそれを見て吐いた己への、怒りとも悔しさともつかない気持ち。
己が、ここまで弱いとは、意志なき敵の死骸が惨く醜いものであったということだけで、
嘔吐した己の弱さ、覚悟の弱さが許せなかった。
少女は、今までの人生においてたったの二回しか嘔吐をしたことがなかった。
祖父の死の瞬間、そして木の根を眺めていた瞬間にふと二回目。
晴れて三回目の吐瀉は、
今日この日の迷宮、敵として戦うべきであった一匹の巨体の骸の残酷を見てのそれだ。
そして少女が複雑を思うこと、自己嫌悪の種。
それは己が先の戦いにおいて全く何も出来なかったことある。
手も足も出ず、どうにかその敵、その暴力を見上げることしかできなかった己。
刃を握れど振るうことはなく。
そも、振るうことは不可能で、足は震え、口元からは涎。
戦い、加勢し、己も冒険者になれる。それを証明したい気持ち。
それと対抗する、逃げたい、諦めたい、蟹に任せたいという怯懦。
それが少女には許せなかった。
死骸への嘔吐から、殺す覚悟。村娘から脱皮する覚悟が足りていないことが露呈したことよりも。
戦うべき時に、戦う手段もなく、戦う気概もなく、戦う思考でさえなく。
全てを蟹に任せ、その暴れるがままに己を委ねたことが、少女にはなによりも許せなかったのだ。
自分自身が許せない、と俯き、蟹に乗って、通路へと戻る最中も。
少女は、呆然と自己嫌悪に浸った。
己の弱さに浸り、それを克服したいと願った。
なにしろ蟹は強かった。度々危惧した、蟹が少女を見守るのをやめるのではないか?
という心配にも、いい加減けりがついたと思った矢先。
あの圧倒的な暴力の顕示、その赤灼色の巨漢をこともなげに、打ち倒し、余裕さえ見せる蟹の姿。
少女にはなによりも遠く、なによりも壮烈勇壮なその姿を見れば、再び不安が湧いてくるのも無理がない。
――蟹の格好良さに対して、あたしが出来たのは何か?
――通路の隅で、立つことぐらいだ。
この小さな冒険で、少女は痛感する。
あるゆる面での己の無力を、あらゆる意味での己への修養の必要性を。
滋養が足りない花は、幾ら気を吐こうとも、生まれる美は十全ではなく。
「はぁ」と少女は溜息を吐き、
蟹は何処か心配するように、そして慈しむように、
その未熟、その悩む姿こそを、歓迎するように沈黙を守っている。
とはいえ、
切羽詰まった少女、気分を腐らせている少女に、その蟹の内心を察せる余裕など存在し得ず。
少女は、先ほど述べた嫌悪に身を浸かって、悩ましげだ。
「……思いの外めんどうくさい奴だなぁ、少女ルナーレ」
「え……え!? い、いきなりなにいってんのよ、というか面倒ってなによ!」
「いやな、お前は初心者なのだし、ゆっくりと進んで行けばいいだろう?
そも、お前は一四歳なのだぞ?あのような偉容に負けたとしても、しょうかないだろう?
気を揉んでも意味のないモノに蟹は気を揉まない、そんなことをしている暇があるのなら、
さっさと次の穴を掘って、そこに潜って、次の獲物の為に備える」
息を吐き、少女は鳥の羽のように、己の目をパチクリとしばたたせる。
「あたしは、あたし自身が許せない、あたしは……」
「急ぐこともない、この世は無だ。
そして無駄ばかりだ、ともすれば無駄にこそ意味があるのではないかと思える程にな。
少しばかりの己が弱いところを見せたからと言って、それを詰る友人がいるものか。
期待とは違った、想定とは違った。
それを笑って見守れない、それもありか、と笑って流せない者がどうして仲間であり得るのか?
なに、何度も言うが、今日のことを糧にこれから精進すればいいのだ。
あの程度の蟻なぞ、数秒で切り刻み、数瞬で先ほどの巨人を切り捨てる高みを目指せばいい、
知ってるか? 山とは登り始める瞬間にこそ悦楽があるのだぞ?
山に登るが如し人生の道を楽しめ、少女ルナーレ、先達からの忠告だ、ルナーレ」
少女は何も言わない、不甲斐なさを呪うように、頭を垂れ、蟹の背かけている手にぎゅっと力を込めた。
蟹は優しい。しかしそれでも少女が焦りを捨てないのことこそが、若さの証なのであろうか。
ざわめき、靴の音、人の匂い、亜人の獣臭、生活の気配。
大通路はすぐそこだ。
そして、その後。
少女は結局、黙したまま、迷宮の外へと蟹とともに帰還した。
これが蟹と少女の、派手さの欠片もない、呆気ない、初めての迷宮探索であった。
激闘も、死戦にもほど遠い、結果。
それでも、得たものは多い。
蟹は身体の試運転を行い。
少女は悩み、己に力を着けることを望むようになる。
収穫はそこそこ。
蟹の倒した、二段頭の天使は、その頭と斧が荷袋へと詰められ、
蟻の殻、蜘蛛の足、糸、蝙蝠の羽とともに蟹に揺られている。
ともあれ、迷宮探索は終わった。
反省もあれど、悩みもあれど、命があるなら問題はなく。
時は全てを等しく撫で浚う。
蟹と、少女は迷宮から出て、酒場へと戻るのだった。