冒険者
1
海の底のように深い、岩と土の底。
一匹の巨大な生命が眠りに着いていた。
夢に見るのは遠い昔のこと。
そこには戦いがあり、友情があった。
あらゆる生命の尊厳を賭けた、と自負した戦いがあった。
巨大な生命は、幾つもの邸宅が建ち並んでもなお余力を持つような、自らの甲羅の中に意識を眠らせ。
岩の如きその脚も、鋼の如きその体も、今は死んでいるかのように眠りに浸っていた。
夢に見るのは遠い昔のこと、遠い遠い昔のこと。
しかし今は無音。
鼓動の一音さえ、この巨大な生命が眠る室には響かない。
彼はなぜ眠るのか、
地底の一室には光も届かない。
答える者なき、闇の中、それは悠然と眠りに耽っていた。
2
冒険者バル・ファルケンは第八迷宮都市・魔惨迷宮において名の知れたシーカーである。
個人単位、数人単位の武を極限まで研ぎ澄ませる試みが、迷宮攻略と同義であったこの600年間。
迷宮探索のためのノウハウの蓄積、攻略法の蓄積、定石の研究。
職業、戦闘スタイル、魔法、魔導の選択、用法、連携技術。
魔具や武装の方向性、異能研究、魔物の生態、罠、迷宮自体。
そういった迷宮攻略術の600年の研鑽された知識・技法その全てに精通した、正に冒険者の中の冒険者という存在こそが、バル・ファルケンであった。
齢の頃は50、冒険者として肉体的には油の乗った時期は過ぎているものの、その知識、経験、技量においてはまず間違いなく、魔惨迷宮において並ぶ者なき前衛アタッカーの一人であった。
白の混じった髪をを短く刈り揃え、太く蓄えた髭を歪ませ、その熊の如き体型を揺らして、好々爺然とした笑みを浮かべ、魔惨迷宮の高位冒険者御用達の酒場で給仕の尻を撫でながら若い冒険者に助言を与える姿は、魔惨において探索を行っているものならば、誰しも必ず一度は目にした光景であろう。
そのバル・ファルケンが迷宮で未帰還者認定された事実は、多大な衝撃を関係者一同に与えた。
魔惨迷宮全56層の内、50層地点で、高位冒険者グループ『海色の天理』に目撃をされたのを最後に消息を絶ったのだ。
予定帰還時刻を240時間越えた時、ようやく現実を受け入れたといった様相で、迷宮管理組合は、最高位冒険者バル・ファルケン=ノースの未帰還者認定を発表し、この事件は迷宮全体に周知されることとなった。
ただしその未帰還を早くも察知していた冒険者の間では、否応がなしに高まる不安を抑え、情報収集がなされ、分析、対策、予測、ありとあらゆる事態についての研究が始まっていた。
「宝具」を幾本も所有し、儀式小家とも呼ばれる魔導さえも使いこなす最高位冒険者が、帰還しなかったと言うことには理由があるのだ。正しくは、あらねばならないのだ。
勿論、それは当人ではないので完全に知ることはできはしない。
しかしその理由を探る試みを絶やしてはいけなかった。
死と隣り合わせである冒険者という稼業、あのバル・ファルケンをも飲み込む大きな脅威を迷宮側が思いつき、用意したというのなら、それを考え、予測し、警戒に努めなければならない。
そのことが偉大な冒険者への弔いにもなるし、多くの情報を冒険者にもたらしてきた彼が最後に、彼自身が帰還しないという事実によってもたらした最後の情報であったのだから。
「だから主が出てきたんだってば!」
「いや新しい罠ではないのか?」
「強力な魔物の新造か、もしくはあらたな特殊部隊をあちらが編成したか」
「そ、それって練度の高い対冒険者用の部隊が出たってことですよね……」
「十分にありえる……しかしこのタイミングで?」
「バル老は狙い撃ちされたのでは?」
「もしかしたら新たな宝物を装った可能性もあるのう」
「迷宮の配置が変わったのではありませんか? もしくは隠し部屋、あるいは隠し通路による強襲戦法」
「ボスみてぇなやつがいたんじゃねーの? あの糞迷宮騎士共に囲まれたかよ」
「毒かもしれませんね」
「解毒に関しての名手ですよバル老は……」
しかし議論は糾合する。
答えは見つからないまま、冒険者の合間を無数の錯綜した思案が駆け巡る。
初心者から、低位、中位、上位、高位、最高位。南方の迷宮都市風に言うのならば、FからAまでのランクの冒険者を問わず、あらゆる酒場において今回の事件のことが話題に挙がり、人間の想像の限りを尽くしたあらゆる種類の『犯人』像が語られた。
しかし結局、警戒に留まるのだ。
なぜ彼は帰ってこなかったのか、本当のところ、それは誰にも解らなかった。
3
最高位冒険者ロード・エーサーベインは、その日バル・ファルケンの死因を調べるため、40階にあるポーターからバル・ファルケンの死んだ50階へと向かっていた。
速やかな情報の収集は、冒険者の命綱である。
彼は金の長髪をたなびかせ、薄暗い灯のみを頼りに、暗闇を駆け続ける。
身に付ける武具は腰に帯びている量産型『貯蓄;刻印型』の魔導長剣と、背には黄金に輝く家宝の刃。
銀色に輝く【力】によって構成された軽鎧は、灯を受けて鈍く輝いている。
シュンと、空気の掠れる音。そしてザザッと砂のこすれる音がした。
音の静止――数瞬の後――人型の天使系魔物、鬼系魔物、粘状系魔物の死体が、ロード・エーサーベインの往く路にその屍体を晒した。
人間の可能性、神という遙かな可能性の模造たる人間は、時に超越的な体術を身に付ける。
エーサーベインの放ったその妙技は、居合い系闘法であるのだろう、
一体いつのまに、その刃を抜いたのか、それさえも分からない絶技が惜しげもなく振るわれた。
「っ……弱いな」
そう不満気に呟いたエーサーベインの貌には冷笑と苛立ちが現れていた。
高慢と実力の高さを比例させているかのようなその傲慢な性格は、冒険者仲間の間ではいたく不評である。
そしてまた、エーサーベインも多くの冒険者を自分以下として見下していた。
実力こそ全て、高貴にして優秀な自己を越える戦闘力は、迷宮の最高位冒険者の間においても殆ど散見されない。
が、そう常日頃から考えていたエーサーベインをから見ても、その実力が本物であることに疑いを挟みえない冒険者。
それこそが、先頃から酒場で話題になっているバル・ファルケン=ノース最高位冒険者、その人である。
ロード・エーサーベインはその死を信じていない。いや信じたくないのだ。
だからこそエーサーベインは誰よりも早く駆ける。
その死の報を虚偽とする為に、もしくはその死を確信するために、彼は走る。
歳は離れていたが、この都市における数少ない友人の為に、この高慢な冒険者は走り続けていた。
脚を止める。47層の三番階段だ。
すぐさま48層へと駆け降りるロード・エーサーベインの瞳には熱情と激情、曇りなき怒りのみが存在していた。
「ふんっ!!」
シャッ!と蛇の鳴く音のような剣閃音が、屍体を瞬く間に造り出した。
刃が、エーサーベインの鍛えられ上げた肉体の筋を無駄なく使って、放たれる。
ザンッ!と鳴れば、シャンと燦めく。
迷宮通路の明かりが、刃に照らし出され、怪しく光る。
あるいは埃さえも空中で二度切り込まれるような、無駄なく、雑なく、淀みなく美しい剣の軌跡が、夥しい刃剣の嵐となって、戦慄すべき速度で放たれ続ける。
蛇首を二つ、屈強な人間の肉体を持ち、背に白い羽を持った魔物の集団は、その戦闘法でもある集団による連携槍撃も、『魔導:詠唱式』を使う間もなく、世界に満ちる【力】の流れへと帰っていく。
階段を降りてすぐに待ち伏せるかのように、列を組んでいた一〇人程の蛇頭天使の群れは、幼児が瞬きをするよりも早い合間に、全滅の憂き目にあっていた。
一切の障害を許さない、とでも言うような、疾走剣戟により、通路を占拠していた迷宮の住人を【力】に返して、それでも休むことなく、黄金騎士エーサーベインは走り続ける。
『黄金剣マクシムス』 先祖伝来の鋭い刃を持った神器は未だに抜き放たれていない。
この調子で進めば、30分で最後にバル・ファルケンがその姿を目撃された迷宮50層へと辿り着くであろう。
そういった速度で、彼は進む、進み続ける。
この48層は一応の最前線ではあるものの、要所要所にはこちら側が仕掛けた罠があり、簡易の補給設備まで設置されていて、既に冒険者側の階層といえた。
その上、大まかではあるが、ほぼすべてのフロアは探索され尽くされている。
エーサーベインが足を止める必要はどこにもなく、このまま行けば黄金剣を振るう機会もない、筈であった。
通り道に過ぎない階層。
48層の、西南にある階段から東北東の方向へ通路を驀進するエーサーベインは、しかし、一つの違和感を感知した。
それは彼の冒険者として培った直感が訴える、強烈なまでの違和感であった。
壁の色。壁の匂い。壁の形。それらを走りながら分析する。
どんな情報でさえも、バル・ファルケンの事件とは無関係とは思えなかった。
もしかしたら50階から上に戻る途中でなにかに襲われたのかも知れない、あるいは巻き込まれたのかも知れない。
そういった意識と、怒りに満ちた思考の中でも、天才の、冷静を失わない一流の冒険者が極限まで感覚を研ぎ澄ませ、一切の違和感も逃さないという態度で、辺りを視ていたからこそ、発見できた違和感であったのだろう。
エーサーベインは立ち止まり、振り返る。そしてまた走り出す、違和を感じた地点に戻るため。
――見つけた。
それは本当に小さな違いであった。
迷宮の薄暗い通路の細い横道。
その先の行き止まりの壁、その一部分の範囲が他の壁と少々違った材質で出来ていたのだ。
それは例えるなら、大理石により作られた壁の一部に、岩石を削り磨いて壁らしく装っている場所がある。そういった体裁であった。
48層へ人類が辿り着くようになってはや50年。
ここは未だに前線である。危険のせいか探索には向いておらず、また灯りもこの通路の奥には届いていなかった。
なによりも、奇妙なほどに、その壁は、そうあるのが当然といった風情を醸し出していたのだ。
それらの要因の複合が、50年の時をもってしてもこの違和感の壁を発見させなかったのであろう。
エーサーベインはそう考える。
些細な違和感だ。こういった細やかな迷宮内の仕掛けは大抵完全に冒険者が知り尽くした階層において、前線に向かうような冒険者でなく、細部を探索するような冒険者達が見つけるようなものだ。
しかしエーサーベインにとって、常時であったら見逃していた、あるいは報告だけにとどめたであろうこの小さな壁の違和感も、今回に限ってはそんな些末なものには見えなかった。
もしかしたらこれは魔法を使った仕掛けかも知れない、あるいは魔導を使った仕掛けか。
ここを秘密の入り口として、奇襲や移動に魔物が使っていないとも限らない。
なによりもこの先に、あの敬愛すべき友人であるバル老の亡骸が雑然と置き捨てられている姿を想像したら。
――エーサーベインは迷わなかった。
背負う『黄金剣』を抜く。
――神器『マクシムス』
魔導を用いて作られた魔具「魔導器」
魔法を用いて作られた魔具「魔法器」
その両方の魔具の技術を使って作られた器。
それこそが「神器」に他ならない。
かつて魔軍三十六将の一将が考案したとされる技術、その粋を凝らした剣。
黄金に輝くその長剣を、顔の横に、刃を寝かせて構える。
刃先にあるのは当然、壁。
大気中に満ちる大いなる【力】、それに干渉する術を魔法と言う。
――別名を儀式大家。
生命が皆所持しているもの【魂】
それを器とし、その内に蓄えられた大いなる【力】、それに干渉する術を魔導と言う。
――別名を儀式小家。
前者は後者よりも難しく。その術者の数は後者とは比較にならない程に少ない。
儀式大家は世界の【力】を使う術である。それを概念として定義付け、世界に満ちる絶対神の血流とでも言うべきその力を理解し、体感し、共感し、それがなんであるか視ることができて、始めてその【力】を借り、操作し、偏向させることができる。
それに対し儀式小家の力とは、自らの内にあるもの。
つまりは自らの肉体の延長であるのだ。
当然、その難易度は、外よりも簡単、ということになる。
(とはいえ、その操作にさえも才というものが必要になるのだが)
この基本的な原理を利用して、個体に応用したものが魔具と言えよう。
いま、エーサーベインが構える刃は、儀式大家の魔具技術である刻印法により、所定の方式に従い外に満ちる大いなる【力】を、予め刻印によって定められている定義に従い操作し集力し始めていた。
『光』の概念としての【力】を、刻印に従い集める刃は、やがて黄金を越えた光をその身に湛え始めた。
迷宮に満ちていた中途半端な闇は、光によって払われ。
突如として現れた眩い光源に迷宮も動揺しているように見えた。
次に、構える剣に内蔵された器に、その「光の力」が貯蓄をされる。
儀式小家の魔具技術である貯蓄法である。
本来は、人間の内なる「力」を外に保管し溜めておく目的で使われる。
力は集められ、溜められる。
エーサーベインは儀式大家、つまりは魔法を使うことは出来ない。
彼に出来るのは自らの内。限られた器にある【力】のみだ。
もちろん瞑想は欠かしていない、その器は瞑想により大きく高められている。
だが、儀式小家では出力に限りがある。威力と範囲に限界があるのだ。
儀式大家には限界はない。力は全ての源から溢れ出るため、時間が経つか、場所を変えれば、幾らでもしかも比べものにならないほどの多様性と威力をもって【力】を使うことが出来るのだ。
だから予め儀式大家でもある鍛冶屋に刻印を刻ませる。
それはそのままでは細やかなコントロールも出来ず、定められた力しか発動できない『魔法器』に過ぎない。
そこで一度その力を貯蓄する。
エーサーベインは目を瞑る。
黄金剣の器に力は充分に満ちた――腰をより深く沈める。
エーサーベインは黄金剣に彫られた刻印と、交差するように彫られた紋章を意識する。
魔具において最もありふれた、そして何よりも汎用性の高い技術。
――儀式小家の魔具技術:紋章法。
内側の力を物体に記された紋章に沿わせ流し込むことにより、その紋章に従って所定の効果が発現し、発動する技術。
内側の力をそのまま詠唱と想像により構築する詠唱法(想像法)よりも簡素で便利な儀式小家の基本技術。
魂を想う、器を意識する、力を引き出す。
黄金剣に刻まれた紋章に【力】が流し込まれる。
そしてまた、エーサーベインの身に付けていた鎧と籠手に刻まれていた溝――紋章にも光が宿る。
莫大な力を、一度蓄え、その上で指向性を持たせ、より精密に【力】の収束を操作する。
光は集まり、溜められ、再び放たれる。
(――起動)
エーサーベインの胸裏の呟きとともに光の奔流が、剣より迸った。
光線。
熱線。
皎々と光輝を膨らませ、一条の指向が、壁へと走りだす。
――刹那、爆音が階層に鳴り響く。
崩れる音。階層全体を、いや迷宮全体を揺らす轟音。
辺りは粉塵に包まれている。
未だに光を残している黄金剣を握りしめ。
右腰に帯びている魔導長剣の柄に手を掛け。
目前、先ほど自らが大質量をぶつけた小通路(神器の一撃により既に小とは言えぬ程に幅が削り広げられているが)の先。
違和感の元であった変質壁があった場所を睨む。
「――当たりかッ!!」
そこには穴があった、光線の熱により融かされ空けられた穴が。
しかしその先、遙か先、そこは穴ではなかった。
開けた場所。つまりは部屋。隠し部屋だ。
判断。推察、思考、決断。
一連のプロセスを1秒で済ませ、エーサーベインは駆け出す。
先ほど止めた前進を、再びやり直すかのように、未知の穴蔵へと突撃する。
意識する――足、紋章、力を内より引き出し紋章へと送る――紋章は光る、効果の発現――加速の力を発現する。
意識――足、紋章、導力――発動、効果発現――加速――二重。
さて、どうなるか。
3
そのとき。巨大な生命は、数百年ぶりに意識を再起動させた。
深い深い、地の底に近い、闇の中の一室。
太古の皇帝の墳墓の如き、一室に鎮座するその巨体は、力を感じた。
なかなか見事な収束された「力」が、この部屋に向かって放たれたことを感知したのだ。
――警戒、警戒、肉体は固まりきっている。
今は何時だ、此処はどこだ、何が起こった。
部屋に空気が流れ込んでいる。
つまりは、侵入者だ。それに思い当たる。
――来る。侵入者だ。
蒼色の巨体を、まるで青銅の塊にしか見えない、その肉体を警戒させる。
――来る、そうだ侵入者だ! 久方ぶりの客人だ!!
4
走り込む、警戒しながらの驀進。
自らが黄金剣により空けた穴が続き、やがて開ける。
「……っ」
息を飲む、そこは広大、そこは空間。
城、一つの小さな城が、丸々一つ入りそうな、広大な空間。
部屋に灯りはない、暗い。
右手に黄金剣を握ったまま、左腰に身に付けた小さなカンテラ(導器:貯蓄・紋章)に刻まれた紋章を意識する。
意識――カンテラ、紋章、極々小・導力――発動、効果――カンテラに灯りが点る。
結構な光量だ。一度起動用の紋章を発動させる必要があるが、後は、予め貯蓄しておいた【力】を燃料として、自動で起動し続ける、中位以上の冒険者の必須アイテム『灯器』(超ロングセラー商品)
左にカンテラを握り(エーサーベインのは小カンテラ型)改めて、右手の握りを強くする。
広大な空間。遺跡だろうか。
カンテラの灯りは、向こうがわの壁にギリギリ届くかどうか、というところである。
勿論、届くとは言っても、微かにその輪郭が判別できる程度だが。
その微かな徴を読み解けば、
入ってきた穴の先にある向こう側の壁には、先ほど放った光線が造った穴がまだ続いていることがエーサーベインには窺えた。
歩く、歩く、慎重に。止まる。地面が切れている、下を見る、また地面がある。
気づく、階段のように段差が続いていることに。
室の最外周が最も高く、そこから内周に向かって段々に低くなっている。
エーサーベインの造った穴は上方であった、つまり最外周段の一つに、見るからに無理矢理に空けられていた。
ゆっくり、しかし迅速に、警戒を忘れず、室の中央、最も低い場所に向かって降りていく。
エーサーベインは直観していた。
なにかがある、と。
この室の空気、その汚れ具合。
それはこの室が今回の事件とは全く関係ないと、エーサーベインの経験に訴えていたが、
しかし、エーサーベインはこの偶然、彼の能力が限界まで発揮されたからこそ見つけることのできたこの室を捨て、48階層に戻るつもりは全くなかった。
先ほどの轟音。敵も、味方も、すぐに駆けつけてくるだろう。
冒険者としての本能が励起していた。何かがある。
彼は、高慢であり、矜持は高すぎるきらいもあったが。
しかし、やはり冒険者であった。
新発見、栄誉、宝物。
期待。
罠、敵方の秘密兵器、いや、なにかもっと底知れない……。
不安。
それでも、進む、今だけは、バル・ファルケンのことも横に置き、室の中を下に降り進む。
コツコツ、と足の音だけが響く。
カツンッ、と音を立てて止まる。
最も低い場所だ、カンテラの灯りを強める。
他に一切光のない、混じりけのない闇の中。
恐ろしい程に強い輝きが、
室を、より確かに照らし出す光源が、部屋の中央、最も低い位置に現れた。
「ほぉ!」と、感嘆をあげる。
最も低いエーサーベインの立つ場所から、四方八方全ての方向に見える段差。
今自分が降りてきた段差類は、全く、1カ所の乱れもなく、精緻極まりない寸法をもって、造られている。
その段差全てに、見事な紋様、紋章、文字、宝石、そういったものが記し、刻まれている。
「やはり、旧暦の古代遺跡か?」
エーサーベインは自分の出てきた穴を見る、こう見ると大分、上の方にあることが窺えた。
そしてもう一つ、その穴の延長線上にある反対側の段差も見る。
綺麗に穴が空いている。
強まった光により、陰ではあるが、穿たれた穴は確かに確認できた。
二つの穴。
この流麗な細工が施された、室に与えた大きな破壊。
「むう」
もったいない、と顔をしかめる。
エーサーベインは美を愛する、根っからの貴族であった。
意識を周囲にそらすのやめる。
光源に貯蓄した【力】も有限である。
その上、無理矢理にも光量を上げていては、それもすぐに尽きてしまうだろう。
剣の握りを強める。
改めて、室の中央を眺める。
――そこには岩塊があった。
いや鉄塊か、色は青銅の如き青の鈍さを持ち合わせている。
巨大である。貴族の巨大な館ほどの大きさ。
高さは、エーサーベイン二、三人分というところか。
約4M。形は異物だ。
上部、一辺の長さはそれぞれ10mと7mが二辺ずつ、
この岩塊を真上から見たなら、多分丸みを帯びた長方形といったところか。
周囲を回り、細部を確認する。
固まってはいるが、この巨大な塊には、隙間がある。
みっちりと詰まっているわけではないようだ。
「……これは足、か?」
同じような形に折りたたまれているから最初は気づかなかったが、
気づく、三本の足?もう片側にも、三本の足。
「なんだ?」
――石像?いや金属細工?こんなにも巨大な?
――これが古代文明の遺跡だとするなら、旧神のシンボルか? あるいはこういう形の棺兼宝物庫か?
思考を走らせる。そしてまた細部の確認を進める。
「……ん?」
カンテラを掲げる。 刃に込める力を強める。
ある部分に差し掛かって、巨大な塊の形に意味が見えたような気がしたのだ。
「これは、はさみ……か?」
片側に鋏と脚、片側に鋏と脚。
「蟹」
蟹の形をしていると見た方が良い、とエーサーベインは考える。
鋏があるということは、顔、つまり口と眼があるはずだ、と。
エーサーベインはカンテラを掲げて、上部を見上げた。
眼がある。
小さな、黒っぽいような、見事に彫り込まれてる。
まるで今にも動き出しそうな、精緻な模造であった。
――古代人の趣味はわからんな
そして次の瞬間、エーサーベインは戦慄した。
無意識の内に、脚に刻んである、加速と跳躍の紋章を発動し、体力と腕力上昇の紋章もついで起動させた。
そして大きく飛び退くエーサーベイン。
――彼は見たのだ。
この蟹の、蟹の石像の、瞳が。
確かに動いたことを!
そして直観する。
これは命の意志を灯している、と。
「魔物かッ!?」
これは、この巨大な鉄塊は、生きている。
この部屋を守護している。怪物の類、である。
エーサーベインはそう判断して、無意識が先行して行っていた肉体強化を意識的にもう一度行う。
カンテラを最大光量にして、地面に置く。
この暗い室で、光源を失うことは命を左右する。
とはいえカンテラの強度は、一流冒険者の全力攻撃を叩き込んでも壊れないような超高級品である。
灯りの心配はない。
エーサーベインは、大きく飛び退き、蟹の怪物がいる中央と距離を置く。
中程の段差に、立ち、右手の剣を握りしめる。
左手には銀に輝く魔導剣。銀の鎧は強化され、眼に刻まれた紋章を発動させる。
魂が、器が、悲鳴を上げる、一気に力を引き出したことによる弊害だ。
だが、器にある【力】の残量にまだ問題はない。
黄金剣は刻印に従い、力を集め始める。
――輝く
銀の魔導剣は紋章を発動する。
貯蓄型の魔導器だ、一度発動させれば、持ち主が力を注ぎ込み続ける必要もない。
――鈍く、輝く
このとき、エーサーベインの心には慢心があった。
最高位冒険者として、迷宮にその覇を轟かせ、黒竜人さえも打ち倒したことのある己が、この見るからに鈍重で、攻撃のパターンも限られてそうな相手に、負けることがあるだろうか、と。
またこの段差も、こちらに利している。勝てることはなくとも負けることは絶対にないだろう。
ともあれ、まず一当たりして、できうるなら撃破してみせよう、とまで考えていた。
この後、彼はこの慢心のツケを払うことになるのだが。
それは知るよしもなかった。
5
戦闘の始まりは、エーサーベインの神器であった。
巨体の怪物、岩藏の奥で永き眠りに着いていたこの蟹の怪物の隙をついた形であった。
エーサーベインの黄金剣は、一条の光線を放つ。
威力の奔流が、剣から溢れて目標に進む。
爆音、激突音。
「はっ」と軽く笑う、金髪の麗人。
――やったか!?
ロード・エーサーベインは考える。
この光線を受け、無事なはずがない、と。
あの迷宮騎士ロード・エクサリオスの持つ、『神盾』さえも貫通し。
竜人の肌さえも焼いた、神の名を持つに相応しい武器だぞ、と。
煙が濛々と上がる。
――沈黙。
数瞬の後。
「<……あまり、この美しい部屋を壊したくないのだがな>」
余裕を思わせる響きの音がどこからか響く。
煙の先からだ。エーサーベインがそれを疑問に思う前に、煙が晴れた。
「なん……だとっ……!?」
驚きの余り呟くのは、一人の冒険者
そこにあったのは無傷の敵。
いや、少し傷が付いたか、という程度に汚れた蟹が一匹。
それが平然とした姿で鎮座していた。
先ほどとまるで変わらない姿……いや、少し違う姿で、そこに在った。
違い――蟹が立ち上がっていたのだ。
鋏は悠然と闇を掻く。
緑青の甲羅はカンテラの光に濡れて、不気味な光沢を放っていた。
堂々と、泰然と、まるでなにもなかったかのように、蟹は王者の風格を漂わせていた。
それは絶対強者の殺意。
身が竦む。
最高位冒険者エーサーベインは恐怖した。
本人は認めないだろう、しかしこのとき彼は確かに恐怖したのだった。
しかしエーサーベインはそれを認めることが出来なかった。
このとき、彼の取るべき行動は逃亡の他に最善がなかったであろうに。
彼は、自負から、目の前の恐るべき怪物に、猛然と挑みかかったのだ。
強化された速度。紋章の輝きを放つ脚と腕。
冒険者エーサーベインは跳ぶ。
蟹に近づき、左に構える魔導剣を振るう。
彼が先ほど見せた居合いによく似た闘法だ。
サンッ、と綺麗な音が鳴る。
響きに合わせて、常人ならば見ることも叶わぬ刃が振るわれる。
体勢、速度、威力、なにもかもが完全な一撃。
恐怖や動揺の微塵も見えぬ、見事な一撃。
蟹の脚、その関節を狙った、研ぎ澄まされた一斬。
魔導剣は紋章の光を最高の強さで輝かせている。
この状態ならば、鉄さえも触れるだけで切れるだろう。
それほどの切れ味だ。
――だが。
ガィッ、と鈍い音が響き、刃は止められた。
入ったことは入ったが、しかし切り進むことなく途中で止まっていた。
刃は入った地点で停止していた。
つまり、もう一回、もしくは何回、あるいは何十回、今の一撃を、全く同じ箇所に、連続で叩き込まなければ、この蟹に致命傷さえ、与えられない。
その絶望すべき事実を、エーサーベインは理解した。
刃を抜く。
右に構える黄金剣をもう一度振るおうとする。
――腹。そこに至近距離で叩き込む。
攻撃の失敗にも関わらず、すぐに次の行動に移るその判断力。
さすがにエーサーベインは最高位冒険者であった。
しかし、蟹はそれを許しはしなかった。
度重なる攻撃に対する怒り、そしてエーサーベインの狙うその攻撃は、さすがの蟹も勘弁願いたかったのだ。
蟹は思う、小五月蠅い猿だ、と。
「<その驕り、ひねり潰してやろう>!!」
蟹は言葉を放つ。
勿論これは蟹本来の発声器官を使っている訳ではない。
魔導を利用している。彼の口内に記された紋章に彼が自らの器に蓄えられている【力】を注ぎ込み、彼の意志を言葉へと転換したのだ。
とはいえそのことに黄金剣の主は気付く暇もない。
焦りと集中が、喋る蟹という事実に気付かせなかった。
エーサーベインは腹の下に潜り込もうと、姿勢低く突撃する。
しかしそこに腹はなかった。
デカイ図体の蟹だ、目算を見誤ることなどあるはずがない。
「――っな、に!?」
エーサーベインは見た、想像もしていなかった速度で、瞬く間に移動し、自らと距離を離した蟹の姿を。
巨大さに似合わない軽快な速度。
巨大な質量を無視した俊敏さ。
すでに最外周、今の一瞬で、部屋の真ん中から部屋の最も高い外側に位置していた。
一瞬の移動。想像の埒外の速度に、エーサーベインは言葉もない。
絶句、そしてすぐさま逃走態勢。
決して安くないカンテラを捨て置いたまま。
眼を、身体の正面を蟹に向けたまま、後ろに大きく跳び次いで、入ってきた穴へと逃げる。
蟹は、笑う。いや嗤うが正しいか。
敵の強さも分からない、無謀な傲慢者を、このまま返すつもりは
彼の甲羅の内に微塵も存在しなかった。
そして見る。
蟹が、恐るべき速度で、こちらに横進してくる姿を。
鋏を頂点に溜め。脅威の速度で、弾丸のようにこちらに突撃してくる。
生きた館。機動要塞。質量の暴力。
エーサーベインは後ろに跳ぶ瞬間、追いつかれることを悟り、当然のように横へと跳ぶ先を変える。
着地、の地点に待ち受けるのは振り下ろされる鋏の一撃。
地を砕き、段差が爆発を起こしたかのように礫を飛ばす。
騎士は腕から着地して奇跡的な体勢を保つ、そしてそのまま左腕一本で、鋏の動きを読みながらエーサーベインはすぐさま跳躍した。
強化された腕力での跳躍。
と、ともに右腰に提げ直していた金の魔導剣を抜き、その紋章を空中で最大発動する。
蟹は移動を続け、鋏による再撃を繰り出す。
それは巨大な暴力の連打。放たれる脅威の追撃。
黄金騎士は迫り来る鋏に顔をしかめる。
足が地へと着地する寸前、脚に記された紋章を最大限に開放した。
彼の魂の器に蓄えられた残力の半分を使った奇跡的な紋章行使。
飛翔と脚力強化と速度加護の多重最大起動。
弛みなき鍛錬と瞑想があればこそ可能な、驚異的な儀式小家の同時行使。
そして、エーサーベインは、着地寸前の脚によって、透明な空気を蹴った。
それによって空中をもう一度、跳躍する。常ならば人間にありえぬ挙動、異形的な空中二段飛びであった。
それによる鋏の軌道からの回避の成功。
そして先ほど起動して左に構えていた魔導剣を、跳躍の頂点で
そのまま蟹の眼に向かって投げる。
蟹は持ち直した左鋏でそれを防ぐ。
一瞬の隙。
降りる間際にもう一度、今度は、右に構えていた黄金剣を発動する。
貯蓄された力が、目眩ましに放たれる。
蟹への駄目押し。
そして着地。
疾走。逃走。
「やるなあ、人間! 世界最高レベルではないか?」
蟹は呟く。
見事に逃がしてしまった。
あれがなんなのか分からない。
しかし、仕返しは当然あるのだろう。備えなければ。
そして此処はどこで、今は何時なのか。
なにもわからない。
――ただまぁ、久方ぶりに目を覚ましたのだ、精々、しっかりと運動でもしようか。
そんなことを考えながら、蟹は、エーサーベインの逃げていった穴を眺め。
暗闇に中、ただ煌めくカンテラの光に、なじませるように鋏を閉じる
ガキンッ!
ここにより記すのはある書物の記述。
『有角姫』ネーベンハウス
タンタロス山嶺シーベネシアの出身
勇者 エリューニサ(『銀の川』)
魔王 『黒の雨』を両親に持つ。
齢10にして立ち、幾多の陰謀、苦難を乗り越え
幾多の暴力と陰謀により人間界を統一した紛う事なき英雄。
だが彼女の目標はこの世界を操り分断し、魔王と勇者。魔族と人間の対立項を作り出し
この世界を一つの遊技盤と見ている天上の旧神にあった。
愛刀『細雪』を片手に旧神に着いた人間界を見捨て、魔王領へと出奔。
以降10年を掛けてとりえるかぎりの勢力増強。策戦立案。あらゆる備えに尽力した。
最後には天上で主神を見事討ち取ることになる。
新暦においては『至高神』ネーベンハウスとして崇拝されている。
本人は行方不明である。