船上にて 蟹と少女 騒がしい奴ら 照れるものたち
2
船の上には、塩の匂い、海の匂いが立ちこめている。
帆は風を掻き、幾つかの船舶用の魔具が、がなり立てるような音を奏でる。
紋章と貯蓄の機巧に、予め蓄えられた【力】が、紋章に【力】を送り、
それが決められた推進力として発現しているのだ。
発現する力は爆発か、あるいは風か。
ともあれ、指向性を持ったエネルギーを、船舶は自ら放ち、
帆の喰らう風の力とともに推力としていたのだった。
大陸中央の内海。
船の所在地、巨大な船体が泳ぐ場所。
そしてこの船が、恐ろしく速い速度で海を駆ける理由もそこにある。
エンジンの音。機巧の音。紋章の音。海の波音。さざ波の潮騒。
白い渡り鳥の鳴き声。その遙か頭上に棚引く白い雲は、空を覆う天蓋そのもの。
だが合間合間に空の青が顔を覗かせている。
主役は私だ。と自己主張を忘れないのは太陽。
何時も通り、ともすれば忌々しい程に元気なその日射しの下、蟹は回想に耽っていたところであった。
とはいえその回想も、既に終わり、周囲の客から不審な、あるいは驚きと恐れの眼で見られながらも、
彼は甲板で、悠然と愛すべき海の風に当たっている所である。
彼の生まれ育った海ではない。
あれはもっと南東の海である。
それでも海は、彼――大蟹デンザロスことペンタに気持ちよい感慨を想起させるのだ。
それは慣れ親しんだお袋の味を他国の定食屋で味わうような。
あるいは、遠く異国で自らの家と同じ形の家を見つけたような。
遠国、異なる文化圏の雑踏の中で、自らの母の匂いと寸分違わぬものを嗅いだような心持ち。
胸がくすぐったくて、弾むような、笑みがこぼれるような、思わずハミングしながら鋏を振り回したくなるような。
そんな心持ちを蟹は味わっていた。
近くで、初めて乗るらしい船の動きに感動しているのは元村娘のルナーレ・ジュール
肩まで伸びる金の髪を、揺らし、彼女は鼻歌を口ずさみながら、甲板の手すりにもたれかかって、蟹の隣で、こちらも楽しそうに嬉しそうにしている。
「海、いいわね……」
「いい……」
あぁ、と声を出して潮の匂いを嗅いでいる少女と蟹。
それを訝しげに見る、周囲の客。
眼を細めて太陽と潮の香りに想いを馳せている二人には、しかし関係のないことではあった。
蟹と少女が昨日に泊まった宿を出て、
ワインランド都市共和国首都ワインランドに着いたのは正午ほどであった。
少女ルナーレもかつて二度しか訪れたことない街(二度とも親の商用に供して)
いや都市と言った方が正しいだろう。
内海西南の湾岸全てを管轄下に置いた商業都市、中央都市同盟の末席に名を連ねた都市国家であるワインランド。
南にロートランド公王国を、西にタンボルグ山、タンボルグ辺境国。
西と南を通りやってくる旅人や商人を、内海を隔ててエミダリ、そして内海の南湾岸沿いに東の都市国家へと送る役割を持ち、
時には、それらの国家から出先の交易商人、仲買が集まる都市であり、
また北や東から西、南を目指す旅人も、一度や航路あるいは陸路の途中で寄る港湾都市。
それこそが人口4万、時期によれば人口七万にも膨れあがるワインランドである。
宿場街ポートニアからワインランドまでは、徒歩で行けば丁度、日が暮れるほどの距離がある。
馬で行くのなら、3~4時間と言ったところか。
ここで疑問に思われることがあるかも知れない。
ルナーレとペンタの一人と一匹も、馬を使ったのと同じ速度で街道を行ったということになるではないか、と。
これはその通り、馬ではないがルナーレはある乗り物に乗ったのだ。
便利で、無料で、速く、なにより人が乗るのに適した構造を持っている者。
果たしてそれはなんだったのか、
――蟹である。
距離の近しいということを聞いたデンザロスは、海と聞いて、いてもたってもいられなくなり、
自分で歩くと言うルナーレを、
無理矢理、自らの背中の上に載せて、しがみつかせ、その荷物ごと街道を爆進したのだ。
横歩きで、弾丸のように高速で疾駆する蟹。
それにしがみつく少女、というシュールな絵面が道の隅を往き。
その蟹の爆速のかいあってか、九時に宿を出た少女と蟹は、見事、正午にワインランドに到着したのだった。
久方ぶりに都市を訪れる少女の顔はいやに暗い。
消沈した様子で何事かをぶつぶつと呟き、
速度と比例するようにもたらされた危険に、未だ想いを馳せていた。
とうに都市に着いたことにも気付かず、蟹にしがみついている美麗な少女(髪を張り付かせてまるで魔獣のようだ!)
と大きな蟹の魔獣。その奇妙な二人組はは大きく目立っていたが、
人間の世界に疎い蟹は、その眼差しに一切の頓着をせず、少女もそれどころではなく、速度の恐怖から放心したままだ。
その少女が気を取り戻したのは、それから三〇分ほどしてからで、
エミダリ行きの定期船がある船着き場に着いた頃であった。
「ばっ、ばかじゃないの! なになんかの恨みでもあんの!
死ぬかと思ったわよ、死ぬかと思ったわよ、ああああああああああ!!!!!!」
神よ生きていることに感謝します。感謝します、ううぅ、今度やったら茹でて食べるかんね!!
と嘆く少女を後目に、蟹は、通りすがりの屋台からもらったチキンレッグを口に運んでいるところであり、さらに言うのなら、船が到着し、待っていた者たちが乗り込み始めるところであった。
喋る蟹は目立つ。なのでなるべく喋らないようにしよう、という方針を昨晩初めて定めた、どこか抜けている蟹と少女。
蟹(すごく目立つ)の荷袋から取り出した旧金貨(ものすごく目立つことに二人は気付いていない)
を払って、蟹の前を行くように少女(少し野暮だが華のある美貌、当然目立つ)が船に乗り込む。
こうして少女は生まれ育った故郷から、
海で隔たった危険と浪漫が溢れた都市へと本当の意味で旅立ったのだ。
そして今、蟹と少女は甲板にいる。
「あー」
と少女。
「あーー」
と蟹。
蟹はブクブクと泡を吹いている。
鋏を海にかざし、己の故郷に思いを馳せながら潮の満ちた空気。海の空気を楽しんでいた。
「ねぇ」
「なんだ?」
「あんたの生まれたところもこんなところなの?」
「うん? ……うむ、どうだったかな、もっと綺麗で穏やかな、それこそ真珠のような、太陽の光の反射する様はまさにそんな感じだった、と思う」
「やけに曖昧ね」
「……長く帰ってないからな」
「ふーん」
そして少女は興味をなくしたように、遠く、海と陸、空と海の境界線を眺める。
何か悩んでいるような不安な様子である。
少女の隣、同じように甲板に立ち、隙間のある柵から海を眺めていた蟹は、思いついたように、それでいて独り言のように、少女に声を掛ける。
「今度、行ってみようではないか」
「へぇ……へっ?!」
何を言われたのか分からないというように少女。
蟹の黒い瞳は何も語らない、しかしそこには優しさと、なによりも強い意志が煌めいている。
「な、なに言ってんのよ! 何処にあるか知らないけどそんな近くにないんでしょ?!」
どこか慌てたように言うのは少女。
「そうおかしな話でもあるまい? 冒険者なのだ、大陸中を用事で駆けることもあるだろう」
「……えと、じゃあエミダリについても一緒にこうやって旅したり仕事したりしてもいいのよね?」
どこか探るように、子犬が主の心情を探るような上目遣いで、少女はおずおずと聞く。、
「ん? 何を言ってるんだお前は、少女ルナーレ。
俺一人では荷袋も開けられないし、文字も読めないのだぞ?
当然ではないか! そも冒険者とは仲間を作る者なのだろう? 俺でも知っていることだ」
そう平然と返すのは蟹。
「……そ、そう」
どこか嬉しそうに少女、不安そうな様子は既に払拭されていた。
大海にただ一匹、生を受けた稚魚のような不安は、
しかし、少女の不安など何でもないといった様子の蟹に、綺麗に拭い浚われたのだ。
心なしか、その不安から解放された表情には笑みらしきものが浮かんでいる。
「そうね、あたしたちは仲間……でいいのよね」
「うむ、当然だろう?」
言葉を切って、何かを考えるような蟹。
「ふむ、そういえばはっきりとは言ってなかったなルナーレ。
冒険者志望のデ……ペンタだ。これからもよろしく頼む」
少女も納得したというように頷いた、そう、冒険者になるのだ、己は。と
ルナーレの胸に既に別れへの不安はなかった。
心のどこかから湧いた不安。
都市に着くまでの約束しかしていなかったという事実、から出てきたような不安は、
しかし小さいことだ!と隅に追いやられ、目前の蟹は鋏を少女の前にかざしていた。
まるでそんなことを考えていた少女が考えすぎであるといったように。
少女は今度こそ、満面の笑みを、堂々と浮かべる。
「ルナーレ、ルナーレ・ジュールよ、……こ、これからもよろしくねペンタ」
「うむ頼むぞ」
蟹の鋏に、少女の手が合わせられる。
ここにいるのは一つの命と命、二つの冒険者志望だけだった。
「で、どうなのだ?」
「そう、まあそういうことなら、……そ、そうね、まあ確かに行ってあげてもいいかもしれないわね」
どこか照れた心持ち。
それを隠すように、己の朱く染まった頬を隠すように、顔を蟹とは反対側に背けながら少女は言う。
なぜそんなに偉そうなのだ? と蟹はない首を傾げながらも、まあいいか、と彼もまた海の方を眺める。
蟹の視界が移ったのを確認したのか少女もまた、海を眺めるように背けた顔を元に戻すのだった。
少女は、新たに一つ、将来の夢を増やしたばかりの幼女のように、海を眺めながら純朴に微笑んでいた。
母なる海へとつながる、蒼い海、そのさらに内側にある内海は、小さな波の音の他には、なにも音を語らない。
どこか遠くから鳥の鳴き声。
そして甲板から響く、粗野な歌声や話し声、階下の船内からもれる食卓歓談の笑い声。
どれも静かな海を決定的に壊すには至っていない。
なにかの魚が跳ね、銀の鱗が陽を弾く。
「で、どこなのよアンタの故郷は」
気を取り直したように、少女が訊ねた。
「ふむ海、いや、海のような湖のような河のような」
「要領を得ないんだけど?」
「インザーディヨ サヴォーナ」
蟹は唄うように、こじゃれた調子で笑う。
「サヴォーナ河?!」
「生まれてこの方、そのサヴォーナ以外にサヴォーナなるものを知らんな、俺は」
「大陸の南東の端っこじゃない!」
「長旅の目的地には丁度いいだろう?」
笑う蟹に、呆れる少女。
それでも少女の心は、一時、まだ見ぬサヴォーナを思い浮かべる。
この世の楽園と、古の詩人が歌にした地。
限りなく透明な水、深い水底には、色とりどりの魚、蟹、貝、水草が生えている。
その様は、如何なる造園師の作庭にも負けない幽玄玄妙。万凜光輝の精髄である。
神の自然さが潜む、素朴かつ風光明媚な佇まい。清流はそのまま掬って飲める程に清浄で、
川のせせらぎは、教会の賛美歌よりも聖錬されている。
柔らかな岩。独特の形の緑、河に集い囲むようにそびえる花と草。
花草に潜む虫の合奏曲。呼応するような蛙の鳴き声、鳥の鳴き音。
天に月あらば、水面に月あり。
空に日あらば、水面に日あり。
水面の月は、銀を越えて金色。
水面の日は、金を越えて銀色。
そう讃えられるは、水影に映る月光と落日の、朱の美しさが伝わる河畔。
世界の縮図であり、楽園の縮図そのもの。
古き詩人の愛した地。
それこそがインザーディヨ、サヴォーナ
いつしか少女は時を忘れて、蟹の故郷を幻視する。
そしてそこに己と蟹が、冒険者として訪れる姿も。
3
午後の三時を回ったところで、少女は空腹を訴え、蟹は、一人甲板でそれを待っていた。
あのような危機感の薄い少女が、
荒くれ者や素性の解らない不審者をたらふく抱え込んでいるこの船で一人にさせていいのか?という疑問が湧かなかったわけではない。
しかし少女の
「大丈夫なんだから! というかこれから冒険者になるんだからっ、これくらい出来ないとおかしいでしょ」という言葉と、なによりもその剣幕に押されたので、彼は一人ここにいた。
「おお! これか」
「ああ、これこれ」
ふと海を眺める蟹の後ろから声が響く。
「……?」
身体を動かして、蟹が見たのは二人の男。
見かけない顔だ、蟹にとって見かけたことのある顔の方がこの世界では圧倒的少数ではあるが。
「ホントかよ」
「マジだって、ぜってぇマジ、こいつの荷袋の中にたんまり光るゴールデンブラボーが」
彼らは蟹と少女が乗船するときに、その一部始終を見ていた者たちだった。
なにしろ少女と蟹は、目立つ。
多くの乗船者が、蟹と少女のことを見ていた以上、彼らの財産や彼ら自身を獲物と考えた粗暴者が現れたとしても不思議ではない。
しかも相手は蟹。そして少女。
一見、あまり強そうでないことが、その粗暴を加速させる。
「なんだ、物盗りの類か」
蟹は鋏で己の脚を掻き、甲羅を一瞬震わせる。
黒い瞳を揺らした後に、興味なし。といった意図を込めた溜息をこれみよがしに吐く。
蟹は己の口内と口周辺と下腹に、己の言語を意志へと変換する、意志変換紋章を働かせている。
もう一つ、1000年の時を経て眠りから覚めた蟹への餞別として送られた紋章が、実は蟹には埋め込まれていた。
空気のふるえ、独自の周波、揺れを感知し、分析して、言語へと変換する、言語通訳紋章がそれである。
この二つの紋章を、誰かと会話するとき、あるいは意志疎通の必要が予測されるとき。
蟹は、己の魂の内の【力】を引き出し、口内の紋章群にそれを這わせて発現し、会話を可能としている。
声をそのままでは放つことの出来ない蟹の苦肉の策であり、
現代の言語を理解出来ない蟹への友人たちの心遣いである。
つまり蟹の言葉は、この二人組に伝わり、
二人組の言葉は、蟹に伝わる。 そういうわけである。
「うおおぉぉぉ! 喋ったぞこいつ」
「お、おお、やっべぇなマジこれ」
「ふむ、蟹が喋ったくらいで何を驚く」
「いやいやこりゃ驚くのも無理ないって、おおおぉぉ俺ぁ感激だなぁおい」
「いやぁ、すんごい魔獣だな! これ!」
「ほおぉ、蟹が喋るのは珍しいのか? うん? 魔獣でも言葉を解するものはあまりいないか、ほおぉ」
どこか嬉しそうな調子で、蟹は二つの鋏をぶんぶんと振り回す。
思いのほか長い鋏は、人の太股よりも厚く、内側は鋭く光る刃を形作っている。
「やべぇな、蟹って喋るのか」
「マジすげぇよアンタ」
心なしか機嫌よさそうに、蟹は、澄ました態度を取っている。
「で、なんのようだ?」
「いやぁなんだったかな」
「うん、確かゴールデン」
「おおぉそうだぜ兄弟、この俺、ハッシさまが思い出したぜ!」
「おお流石だなぁ兄弟、この俺ボッシが聞いてやんぜ!」
「寸劇ならばあちらでやってくれないか?」
蟹が鋏で指し示すのは海。
「おおぃ、この蟹意外とクール!」
「ふふん、俺はこう見えても仲間内で一番クールだよね生息域が!って言われた蟹だからな!」
蟹が鋏を掻き鳴らす。
ハッシと名乗った男が、ニヤリと笑い。
ボッシと名乗った男が、舌で己の唇をなめ回す。
「さあてお遊びはこれぐらいにしとこうぜぇ! 蟹ちゃんよぉ」
「おめぇの荷袋の中にあるもんよこしてくれないかぁい」
飢えた狼さながらの、モデルを捉えた画家さながらの、嫌らしい笑みを浮かべて、粗暴者が蟹に凄む。
「ふ~む、……なあ」
「ああん?」
「これはまさか俺は恐喝されているのか?」
「おおい聞いたかよ!」
「恐喝されてんのか?だってよ!」
ゲハハハハと粗雑な笑い。
「頭のワリィ蟹だなぁ」
「いやいや兄弟、頭はいいんじゃねぇのか! 喋るし」
「うん、そうだな兄弟、じゃあなんだ?」
「なんだろう」
むむむ、と唸る二人は、何処か憎めない。
蟹も呆れたように、その光景を見ていた。
やがて、蟹は諦めたように、おもむろに二人に近づき、鋏を動かす。
「ふむ、お二人さん、これを見てくれないか」
「あん?なんだよカニさん」
「おおぉ、大したことなかった……ら」
二人は見た。
蟹の鋏が、二人の粗暴者の身に付けていた剣を挟み込み。
そして、それがまるで飴細工のように、
スゥーっと折れ曲がり、
まるで千歳飴のように、
バツンッと千切れ落ちる光景を。
「おお、おおお? おおおおおおっぉぉぉぉぉぉ!!」
「兄弟、兄弟、しっかりしろ、おい兄弟」
「こんなもので、俺を相手にするつもりだったのか?」
蟹は凄む。円らな黒い瞳をぎらつかせて(精一杯)
意外とリーチのある、恐ろしい切れ味の鋏を、二人の男に突きつけた。
「ううぅ、外道がっ! おおぉ新金貨五枚したんだぞこれ!」
「おお兄弟、そんなにうなだれて、糞この蟹野郎! 人非人!!」
「ううむ、正しく俺は人ではないが」
――ここまで言われると相手が夜盗崩れの悪漢でも心が痛むなぁ。
おいおいと男泣きをしていたハッシを名乗る男は、
しばらく経ってから涙を止め、男たるもの涙を流すべからず!
と言って、立ち上がり蟹の方を見据えた。
短く借り上げられた赤髪、それなりに己の@命を削ってきたのか、身体を張って生きてきたのか、
その身体には、大小さまざまな傷がついている。
同じような髪型、体型で、同じような身なりをしているもうひとりの男はボッシというらしい。
「双子か?」
と蟹が聞くと。
「ノー! 俺が兄弟と出会ったのは、酒場が初めてだよ」
とハッシが応えた。
とりあえず、蟹の荷袋のことは忘れたようだ。
しかしかなり特異な思考形態をしているようで、蟹にとっては安心できない。
それよりも気になる文言が、あった。それは、
「酒場? ……もしかして貴様らは冒険者なのか?」
「ふっふ! そうともよ、Dランク冒険者の『紅金兄弟』ハッシさまたぁ、俺のことよ! おおぉ!」
「それで俺が、同じく『紅金兄弟』ボッシさまよ! 通称知能担当のボッシ。盗んだお宝は数知れねぇぜ!」
「夜盗崩れではなかったのだな……」
職業の貴賎善悪はともあれ、
活力だけはこの世界で再び眼を覚ましてから見た人間の中でも随一であろう兄弟を、蟹は感心したようにじろじろ眺める。
――ふ~む。大した生命力だ。
己の脳天を掻き毟りながら、にわとりさながらの雄たけびを上げている二人組。
――だが、この騒がしさ……嫌いではないな
「そんなに見るなよ蟹公、照れるぜ」
「おお流石兄弟! 謙虚だねぇ!」
基本的に物事を推し進める方が、赤い髪のハッシを名乗る男で、
それを補佐している……のか? ともかく補佐しているのがボッシらしいということ蟹は認識する。
「ふうむ、冒険者か、ではお前らは俺の先輩ということになるのだな」
その言葉に驚くのは兄弟。
「おお、なんだ、おお、もしかして蟹さん」
「ペンタだ」
「ペンタ……はっ、鳥みてぇな名前だなこの野郎」
「兄弟、脱線脱線」
「ん、おお! おうお前この蟹野郎、なんだお前は冒険者になるつもりなのか?」
蟹は、何を当然のことをを、と胸の代わりに腹殻を張り、兄弟に応える。
「当然だ!」
「蟹なのにか」
「勿論だ!」
「甲殻類の分際でか、この野郎」
「人間如きでもなれるのだ、俺がなれぬという法もあるまいよ」
「字とかどうすんだよ!」
「誰かに書いてもらうよ」
というか兄弟!あんたも字かけないぜ! という言葉に。
お、おおそうだったな!と兄弟の漫才めいた会話。
それを横目に、蟹は、自らを誇るように、俺も冒険者だと悦に入ったかのように、誇らしげな様子。
「蟹よぉ、気に入ったぜその根性!」
「甲殻類だからといって舐めないでもらいたい」
「オーケーオーケー、おめえも今日から兄弟みてぇなもんだ、てめえを馬鹿にする奴がいたらぶっとばしてやんよ」
――兄弟兄弟、さっきまであんたが一番蟹ばかにしてたぜぇ! ばっかおめぇ細けぇこたぁいいんだよ!
「ふむ、知己が少なくてな、その申し出ありがたい。兄弟の方は勘弁願いたいがな!」
「なんだいノリの悪い蟹野郎だぜ、わびさびとか仁義ってぇもんがわかってねぇ」
「兄弟はそんな講談本ばっか読んでやすからね、大した盗人だぜ!」
「まあこれも何かの機会だ、聞きたいことがあるのだがいいか?」
蟹は鋏を掲げ、海と船を遮っている柵の方を向く。
呆れと興趣、相反するような感情を持ち併せ、蟹は聞く。
とはいえ、その心に嫌はなく、騒がしい生命、犯罪者の欲望。どこか憎めない人間の心地を味わい、一種楽しげだ。
穴蔵で寝ていたのなら起こりえなかった出会い、見ることの叶わなかった人間観察の機会。
その出会いから、蟹はむしろこの上なく上機嫌であった。
「おういいともさ、俺らにわかることなら是非聞きな!ペンタ」
「へっへ、兄弟マジテンションあがりっぱなしっすね」
――あたぼうよ! へへ。 お前らは何時もこんなテンションなのか? あたぼうよ!
蟹は甲羅を抑える。彼なりの頭が痛いというジェスチャーである。
この場合は、蟹味噌が痛むとでも言えばいいのか、蟹の魂が痛むと言えばいいのか。
「ああ、それでは聞きたいんだが――」
質問するのは、先ほど兄弟が述べたランクについて。
本当にこいつら聞いて大丈夫なのか?という疑問がないわけではない。
蟹の心配の通り、
兄弟の説明は、いたく要領をえず、
あちらこちら迷い脱線する様は疲れ果てた蜜蜂のようであったので、ここでは割愛しておく。
無軌道とは限りを尽くせば、描写に困るものなのだ。
説明の結果、蟹が得た情報はこうであった。
曰く、冒険者はFからAのランクがある。
迷宮都市ごと、地域ごとに名前が違い、北方では初心者冒険者から最高位冒険者。
南方では第六位冒険者から第一位冒険者。となっているらしい。
冒険者になるには、迷宮管理組合に行き、そこで受付登録を済ませる必要がある。
これは意外と簡単で、さくさくと進むらしい、余程の不適格者でなければまず受かるとのことだ。
そして受付を通れば晴れて初心者冒険者だ。
これは簡単な身分証明になる。
ただし実のところ初心者冒険者、エミダリではFランク冒険者は冒険者見習いみたいなもので、
軍で言うのなら新兵を越えない程度。
そこでは未だ懐疑と試練の眼差しが都市から、行政から、組合から、軍から、与えられ続ける。
とのことである。身分証明の証としては正直、心許なく、迷宮と酒場の利用許可のようなものらしい。
真の冒険者とは即ち下級冒険者。Eランクからである。
Eランク冒険者を目指してFランク冒険者は迷宮を駆け、地域を駆け、戦い採取し、努力して酒場に己の位置を作っていく。らしい
(相当の意訳であり、蟹が己の理解能力を限界まで働かせた結果の要約であることは疑いえない)
いやに濃密で、錯乱した時間を、
二人の粗暴で、欲望に素直だが、どこか憎めない冒険者二人と過ごした蟹。
この奇異な邂逅も、しかし彼らに用事があると言うことで、終わりを告げようとしていた。
「ってわけさ!」
「兄弟流石!」
「ふむ、それはいいのだが、お前たちは『紅金兄弟』という渾名を持っているのだろう?
だが、渾名を持てるのは、上位の冒険者や特別な業績をもった冒険者が、その名で広く呼ばれて、
それが審査の上で組合に認められて初めて正式な『称号』として認定されると先ほどおまえたちから聞
いたが」
「うぐぐ」
「あっ、だめだぜカニさんよぉ兄弟は自称ってことにコンプレックスもってんだからさ」
「……自称なのか」
「当然だぜぇ、称号持ちはちゃんと組合や行政の側の書類に記載される特別な連中だからな」
「うぎぎぎぎ」
きょ、きょうだい! うぐぐぐ
ハッシは口から蟹のように泡を吹いて、白目のまま、船内へと通じる扉へとふらふら向かっていく。
ボッシが、それを追い、蟹はそれを大人しく見送っている。
――まるで台風一過であったな。
そう独りごちながら、蟹は、鋏を手のように振り上げ、左右に大きく振る。
船上で出会った奇妙な二人組、縁があればまた出会うこともあるだろう。
なぜなら――
「俺も、冒険者になるのだからな」
どこか愛らしい風情を漂わせて、
人の半分程の高さのある蟹は、その鋏を手のように振り続ける。
それは遊びを終えた童子の別れ時に、不思議とそっくりである。
蟹、人、なんのその、そんな違いなど些末と切り捨てて、船は目的地へと進み続ける。
日も大分落ちてきた。見れば白い渡り鳥が羽を休めるように、甲板の縁に泊まっている。
渡り鳥、白い鳥、虹色の鳥、白、白、赤、白、白、赤、虹、白、黒。
カラフルな鳥の群れの中に一匹の鴉。
場違いなそれが、カーと鳴く。
4
「……おまたせ」
「ん? おおルナ!」
蟹が声を掛けられ振り返ると、そこいたのは少女ルナーレ。
いやにげっそりとした表情。
内海は徐々に朱に染まりつつ、春の夕方特有の妙に肌寒い風が、蟹と少女を包み込む。
少女は風を嫌い、己のマントの前を紐で締め、それから逃げるように身を丸めた。
向くのはいよいよ陽が落ちつつある春の一日の終わり。
既に法の月、四つめの月。
とはいえ陽の落ちるのは、夏に比べれば幾分はやい。
「いやに遅かったな」
「ええ、ちょっとね」
言う少女の顔は陰っている。
「何かあったのか?」
「あったわよ」
「まさか……」
身体をいいように弄ばれて! と蟹は口に出した瞬間に、
少女は、蟹の腹部を思いっきり蹴り上げた。
ガズンッ、という鈍い音。
「ぐっ、ちょっと痛かったではないか!」
「あ、あんたがデリカシーのないこと言うからでしょ、この蟹っ!」
「むう、では」
「ちゃんとご飯食べたわよ、というかガキじゃないんだから大丈夫よ。
それに食堂なんかは色々な立場の、色々な仕事の人が集まるからむしろ安心できたわよ」
「といって、意外と緊張していたルナーレであった」
「う、うるさわねっ!」
図星なのか。と
子供が首を傾げるように、ミミズクが小首を傾げるように、蟹が甲羅と鋏を斜めに傾け、少女を見る。
「うう……ええ、認めるわよ!
案外、人が一杯いて怖かったわよ! ええ認めればいいんでしょ?!」
「ううむ、そこまでは言ってないのだが」
「うっさい!」
ぷんぷんと怒るルナーレと、ううむ初めてのリアクションだ、どうすればいいのか。
と悩むように身体を落ち込ませる蟹。
どちらかというと余りよくない空気を払拭するため、
ますます水面を朱く染め上げている巨大な夕陽を背景に、
蟹は、話題を変えようと考える。
「う、うむ、それでは何故こんなにも時間がかかったのだ?2時間は余裕で経過してるぞ」
「………………わよ」
「ん?」
「………えないわよ」
「すまんが聞こえないのだが」
「言えないって言ってんの!!」
いやに激しい剣幕で、蟹はきょろきょろと首の代わりに鋏を振り回す。
空気は払拭されるどころか、より重くなっている。
―― 一体これはどうしたことか?
そして何故、少女は言えないのか。
恥ずかしいことなのか?
急に起こったことなのか?
少女。言わない。他者に知られるのが恥ずかしい?
分析。分析中です。
蟹は、蟹味噌に走る擬似的な脳神経を働かせに働かせた。
魂と意識が、励起し、加速の極限に達したエンジンのように、その思考速度は上昇し続け。
そして閃く。蟹がこの答えを思いつく可能性は実のところ、恐ろしく低かった。
だが閃いたのだ、人間の構造に決して詳しい訳ではない蟹は見事に閃いたのだった。
それこそ神の思し召しか!(既に蟹自身が始末している神か、蟹の友人ではある神しかこの世界にはいないが)
急に訪れた閃きに、鋏をガチンッ! 打ち鳴らして蟹は叫ぶ。
「そうか分かったぞ! 分かった!」
「……なによ」
「せい……グッ」
少女が渾身の力で蟹の腹部を蹴り上げた。
外甲殻に比べて柔らかいとはいえ、それなりに強固な蟹の腹部を揺るがす振動の大きさが、
少女の激情、もしくは羞恥の感情の大きさを如実に表していた。
「さいってー!!」
しばらく経って、
少女と蟹は落ち着いたのか、二人でまた海を見ている。
驚く程に悪化した空気も、今は奇跡的に回復していた。
夕陽はいよいよ半分近くが、内海の底に沈みつつあり、
太陽に晒された鏡面のような海のキャンパスは、限界まで黄紅の光が殖え満ち広がる。
一面を覆う、陽と海と陸。
光が織り成す、大自然のグラディエーションは、如何なる一流の画家でさえも再現不可能な神秘の美。
印象派を越えて、写実派を越えて、真に迫る、迫力の情景が二人の眼前にある。
それは圧巻の景勝。究竟超然。実に素晴らしい絶景であった。
感動に打ち震えているのは、
この光景を初めてみたらしいルナーレと
もう一人は、郷愁により想いを遙か彼方、己の始原にさまよわせていたらしいデンザロスであった。
多くの旅人は、そのような光景は見慣れているといった風情で、
精々が少し綺麗な日常の風景といった様子で、己の話に添える一輪の花程度にしか感じていないようである。
だが時折、数人の巡礼者らしき旅人。
未だ幼い幼女。少女。見るからに山育ちといった亜人が、デンザロスたちと同じように
息をのみ、心を打ち震るわせ、祈るように、その光景を見ていた。
あるのは、神秘。神々しさせ感じる、風景。
少女はただ一言。
「……きれい」
と零しただけであった。
「いやぁ思いのほか速かったなぁ」
「ええ、もう着くんだから、ホントに早いわよね」
「ふむ、これも紋章機巧の力という奴か」
「凄いわね紋章と【力】ってやつは」
少女が人ごとのように呟く。
蟹がそれをめざとく聞きつけて、率直に聞く。
「何故ひとごとなのだ?」
「え、だってあたしつかえないもの、魔導なんて」
……
…………?
「……えっ?」
「……えっ?」
ひゅー、と吹くのは風の音。
「ルナーレお前、魔導も使えないのか?!」
「ちょ、ちょっと待ってペンタあんたもしかして使えるの?!」
「当然であろう、むしろ使えないのか?」
「いや普通は使えないわよ、というかなんでそんなこと黙って」
――聞かれなかったからな(シャキィン)
鋏を輝かせ、ニヒルな調子で蟹が呟く。
この突飛な行動は、彼の動揺の現れか、元々の性格か、その両方か。
「……はぁ」
と溜息を吐き、気勢が削がれたらしいルナーレ。
蟹は、未だに少し愕然としている。
「いやそうか、それでは意外と大変というか、本当に冒険者などできるのか?」
驚きの余り物言いが率直になる。
「な、なによ今更、……で、出来るわよ? ホントよ?」
「いや気概は疑ってないが、うん。
というよりもよく考えれば使えるなら最初あった時、使ってたよな……うん」
「な、なによっ! べ、別に……そんな言い方しなくてもいいじゃない。
一緒に冒険者になるってさっき言ったばかりなのに……」
どこかいじけたような少女、背後、ようやく夕陽が降りきったところであった。
「いや、すまんな前提が崩れたというか。てっきり使えるものとも思い込んでいた俺が悪いのだ」
「む~」
「む~?」
少女は慌てたように、背筋を伸ばす。
そして腰に提げていた、ようやく重みに慣れてきたらしき剣を、おもむろに構える。
「ん?!」
「なんでいまちょっと後ろに引いたのよ!!」
別に何もしないわよ、ただ。
「ただ、魔導が使えなくても出来ることがあるのを見せたくなっただけよ!」
「ほう、それはまたなぜ?」
「う、うるさいわね、魔導が使えなくてもあたしには剣があるんだから、冒険者になるのも問題ないのよ!」
そう言って、血気盛んに剣を素振りし始める少女。
剣法における基礎の基礎。素振り。
見返すように、あるいは主人に失望されないように必死に芸をおこなう子犬のような体のルナーレ。
ふっ、ふっ、と己の身体に合っていない大きめの長剣を振り回す一四歳が、甲板で、蟹と戯れる。
蝸牛が30cm進む程の時間が過ぎる。
ふう、ふう、と汗を拭い。
どうだ、と言わんばかりに蟹を見詰める少女。
「いや、うん筋は悪くないと思うぞ、うん剣筋も綺麗だ」
ぱぁぁと顔が明るくなる少女。
ただし、と付け加える蟹は本当に空気を読むことが出来るのだろうか
「そのなんだ、言いたくないが、
……剣が身体に合ってないと、思うぞ、……剣の重みところどころ身体を引っ張られていたような」
「うがーーー!! あんたなんのよさっきからもう!! なに?! なんか文句あんの?!」
蟹をぽこぽこ叩く少女。
金剛よりも堅いだろう彼の甲羅には傷一つ付かない。
ただし、蟹の苦手な衝撃は、どしどしと彼の身体にぶつかってきているのだが。
やがて疲れたのか、少女はぜいぜいと息を激しく吐きながら、顔を俯かせている。
「……そうよ、私は所詮、村娘だもん、面倒になったんでしょ?!」
「うむ」
うつむいた顔を思わず上げて、裏切られたように顔を大きく歪める少女。
己の窮地を救い、燻っていた己を停滞した境遇から助け出し、一緒に旅をする仲間として、確かに絆を感じ始めていた矢先のことだ。
少女は愕然として、口をパクパクと開いて、そしてまた俯く。
その感情は大きく揺さぶられて、一滴、一滴、しょっぱい露が彼女の顔から流れる。
表情は伺えない。
蟹は、少女を一瞥し、せっかちなこの少女に呆れを感じ、
そして己がまだまだ信頼されていないことを知ったのだった。
つまりは見切りの早い者とも思われているのは蟹にとってもしゃくだった。
――これぐらいで、見捨てるとそう思われている、そういうことなのだから。
「面倒だ」
強調するように、しっかりと言葉を作る蟹。
少女は肩を大きく振るわせた。
「……教えなければならないことが沢山できてしまったではないか」
「っ……っえ?」
「ふむ、俺が魔導を教えてやってもいいが、
俺は細かい【力】操作が苦手でなぁ、古い知人に連絡を取らなければならないなぁ」
「……なっ、なに言ってんのよ?!」
「闘法、身のこなしも古い知り合いの伝手を辿らなければなぁ、ああ面倒だ面倒だなぁ」
チラッと蟹は少女を左顧する。
少女はびくっ、と身体を反応させ、急いで、顔を拭って、蟹と向き合う。
恐れをねじ伏せ、誤解を恥るかのような挙動。
そして少女の脳に、蟹の言葉の意味が及んだとき、
喜びとさらなる己への恥ずかしさから、少女は顔を赤らめて、柔らかく破顔した。
その朱くなった頬を隠すように、
彼女は既に暗く、どこか得体の知れない不気味さを潤沢に讃えている海に頭を動かす。
蟹は、その少女の行動を、その眼でしっかりと確認しながら、
なにも知らないように、なにも気付いていないかのように、それとなく言葉を作った。
「それに冒険者の知識やら、都市の仕組み。
職業も、武器も、薬も、施設も、役割も、なにもかも知らないのは俺も一緒だ。
いやむしろその辺りは、少しでも勉強していたルナーレには負けるかもしれん」
海を見ながら、耳をそばだてるのは少女。
「二人で一緒に、……その、なんだ。
ん……冒険者のなんたるかを学んで行こうではないか」
潮騒。海の匂い。月の光。
月明は幽かなれど、肌を染めるには十分で、月代は今日も変わりなく己の裸身を降り注ぐ。
照らし出されている海は月輪を眩しく思うこともない。
その形は仙美あふれる半輪。
波光は揺らめき、陽炎のように淡く月の影を凪ぐ。
白む月は清明そのもの、星明かりさえも月下を輝かせ、
山紫水明は、玄趣極まりない水墨画の一部と化している。
仰げば尊く、俯けば等しく、
永遠に、そして永久に、泰然とそこにある者。汝、その名は「自然」である。
夜が地を墜ち、鳥が賢しく狩りをして。
蜂が怒って回りに回り、花が夜に潜み。
日が空を登り、魚が愚かに逃げまどい。
蝶が笑って舞いを舞い、種が世に出る。
それら全ての自然さと同じように、蟹と少女は笑い合う。
そんな自然の一幕。
そんな一幕であったのだ。
少女と蟹が、お互いに笑い合うその様は。
そんな一幕であったのだ。
船は進む、どこか気恥ずかしい空気も、
その全てを置いて、自然の如く、船は進んだ。
5
対岸が見える。
すぐそこだ、もう後一〇分もせずに、大陸中央域エミダリ地方へと船が接岸する。
蟹と少女は、既に定位置と化している甲板の柵の前に二人で立ち、
遙か向こうに消え去りつつある夜の海を見送るように眺めやる。
黙々とした空気。
「そういえば友人の話なのだがな」
「なによ」
「この世界の発展を押し留めているのが魔導っていう話なんだが」
「おかしいんじゃないのその人?」
「うむ、頭が常時弾け気味なのは認めるがな一応学者だ」
あんたの交友関係が怖い、とルナーレの不審な眼差し。
いやいや、蟹の一匹や二匹、学者の一匹や二匹、友人にいるものだよ。とペンタ。
「で、この世の当然の原理を使わないでどうやって発展するの?」
「いやそいつが言うには科学で発展するらしい」
「カガクゥ?」
うむ、と蟹。大きな甲羅の上には荷物、そして立っているのに疲れたのか少女。
月を仰ぐように座る少女に、海を睥睨する蟹。
「そうだ、そいつが言うらしいのは、世界の現在の文明を発展させたのは魔導や魔法。
所謂【力】によるが、その実これは枷であるらしい」
ワケガワカラナイ、と少女ルナーレ。
蟹ことデンザロスこと、ペンタは続ける。
「『この技術には限界があるのだよ、デ……ペンタ』というのはそいつの一つの口癖だった。
その限界とは、【力】とは、その技術体系が、決して個人の主観を越えないということにある。
だそうだ」
「いいことじゃない、一人の人間の研鑽が、人を何処までも高みに押し上げていくってことでしょ?」
「一概にそうとも言い切れないらしい、例えばこの船は、魔導により造られているが、
これは儀式大家と呼ばれる卓越した個人を数名集めて、
船に器を作り出し、紋章の構成を考えてそれを対応させる。
そうやって製作されている技術なわけだ。
実のところ、このプロセスは非常に遅く、なによりも個人の感覚と才能に頼りすぎている技術だ。
時間という限界、一人の人間に出来ることの限界。それを越えることがこの技術はできない。
一つのアイデアが生まれても、実現に時間がかかる。そもそも特定の人間がいなければ達成できないという不完全な技術。
いや、その特定の技術を誰もが修めることのできない時代があるという可能性。それが【力】であるという話だ」
「で、代わりに科学を使うの?」
「ああ、この世の法則、裏切らない物質の規則、極めて客観的な自然のプロセスは、
原理さえ解明されれば、確実で、一定の速度で、誰もが使える技術を生み出すことが出来る。
そしてそれは才能や修行あるなしに関わらず多くの人間が関与できる形態、だ。
勿論、学習、知識の洗練、教育陶冶の錬磨というものは欠かせないが、
それにしたって、卓越した儀式大家一人が生まれる可能性に比べれば。
卓越した知識人、学者の生まれる可能性の方が圧倒的に高い。
たった一人の人間、個々に焦点を置いた【力】というものに対して、科学は数により進み洗練されていく、というのがそいつの持論だったな」
「ふ~ん。中々面白いけど、色々と不確定で、現実味のない話ね」
「ああ、そいつも言ってたよ。
【力】というものの有用性が後少しでも悪く、その汎用性、その使用可能人数もっと少なければ、
多分間違いなく、科学の世界は訪れていた。と、ただ、なまじ技術としても武力としても有効なこの【力】の前に科学が発展することはありえないだろう」
という推論だ、どうだ暇つぶしになったか?
と問いかける蟹。
蟹に座り、脚をぶらぶらと動かしていたルナーレは何処か気怠げだ。
「そうね暇つぶしにはなったかしら」
「そうか。それはなにより」
気付けば船が、港湾へと寄せていた。
ここは既にエミダリ地方。
内海北方に二つある港湾都市の、西側。
通称――エミダリ西部港湾。
ここに至り、古都にして、旧都である、迷宮としエミダリは徒歩で三時間という直近だ。
蟹と少女も、降り口から、そそくさと、その街に降りる。
交易の盛んな街にありがちな夜も眠らない大きな喧噪。
どこかわくわくとした表情の少女と蟹。
蟹は鋏をぶつけて、あっちへふらふら、こっちへふらふら。
少女も、流れの屋台に興味を注いでいる最中であった。
「ん?」
「どうした?」
ルナ、と呼びかけるペンタ。
曖昧に言葉を濁して少女は、一つの方向を見ている。
「おかしわね、いま確かに裏路地に」
「裏路地がどうかしたか?」
ざっざっ、と蟹の足音。鋏の鳴る音はシャキン。
甲羅の偉容、繁華街の酔っ払いを掻き分け、今夜のお宿を探す二人は目立っている。
蟹が現在、少女の誰何に応えるように停止していることも、その状況に拍車を掛けていた。
「いますごく綺麗で背の高い金髪の女の人が、路地裏に居てこっちを見てたんだけど……」
う~ん。と唸る。
蟹も件の路地裏を見てみるが、しかし……
「なにもいないぞ?」
「だから唸ってるんでしょ!」
「幽霊か何かだったりしてな」
カカカ、と笑う蟹に、物怖じするところは徹底してあり得ない。
平然と鋏を掻き鳴らしている、八つ脚の甲殻類。
「ゆ、ゆうれいなんて居るわけないでしょっ!」
「グールとか」
「うっ」
「ゴーストとか」
「ううっ」
「スケルトンとか」
「うううっ」
「ルナよ、お前…… 幽霊が怖いのか?」
「っ……は、はぁ?! ま、まさかそんなわけないでしょっ!!」
ふざけるのも大概にしてよね、と蟹から降りて、少女はそそくさと現場から立ち去り始める。
その露骨さには、蟹も呆れながら笑っている。
蟹が蟹らしい強靭で鋭い顎を震わせ、動かし、笑って、少女を追いかける。
楽しげな二人。
それを遠く見据える影が一つあった。
高い建物に影のように寄り添って、蟹と少女を見詰めるのは金髪の女性。
いよいよ夜も更け始める。
金髪の女は、懐から鉄仮面を取り出して、そして無造作に宙へと跳躍する。
路地と路地の合間。薄暗い闇へと溶けるように落ちて消える金の影。
あとには何も残らず。
どこからか少女と蟹の楽しげな笑いが聞こえるのみであった。
魔軍三六将
『鬼王』ケップタイオス
タレンコイア山稜、ティンダロス連邦の出身。
言わずと知れた鬼の王。
その性質は、凶暴にして残虐。
ただし卑怯は好まないという由緒正しき戦闘狂である。
正々堂々と敵を殺し、女を犯し、街を燃やし、強者と戦うことに命を掛ける。
気っ風のよい鬼の全氏族長。
脳味噌は鬼族らしい筋肉一色、粗暴で、短絡的だが、自称鬼族史上最も頭のよい鬼族。
書物でたき火をする趣味がある、野人極まりない下劣な亜人である。
亜人の連合国であるティンダロス連邦の総軍団長でもあり、
『英雄進撃』の最中にあった『有角姫』ネーベンハウスと戦場で幾度も激突した。
バーラ砦の決闘と呼ばれる一晩の死闘。
『有角姫』と『鬼王』のその戦いを、最終的に『有角姫』が勝利し、
その後その強さに惚れ込んで感激したケップタイオスは潔く軍を退く。
この時に意気投合した二人は、ダーナ(オーガの言葉で『終生の絆』)の誓いを結び、
以降二人は、宿敵にして、親友にして、同盟者にして、契約者にして、義姉弟という関係になったのである。
天上戦争においては、『有角姫』が天上の旧神に喧嘩を売ったと聞いて、
いても経ってもいられず魔王領に駆けつけ『有角姫』に助力。
以降『有角姫』の股肱の臣として、ほぼ全ての戦闘に参加。
己の姉となった『有角姫』のため『死』ファイニを撲殺。
その他にも多くの天使を縊り殺した。
新暦においては『神官』至高神に最もよく仕えた亜人と言うことで、一般の民衆にも広く知られている数少ない魔将の一人である。
現在も『有角姫』に荷物持ちとして付き従い、世界中を回っていると考えられる。
『鴉』
出身不明。
かつて地上に落ちた堕神に飼われていた一匹の鴉が変質した姿。
己の飼い主の骸を喰らい類い希な理解力と記憶力を獲得。
以降世界中を旅していた。
名前はなく、ただ『鴉』と呼ばれる存在である。
脅威の神秘大家であり、己の魂と存在を無限に分割できる異能が特徴。
戦闘能力こそ高くないが、諜報、監視、連絡、策動のあらゆる分野で活躍する。
無数の『鴉』は世界中に散らばっており、記憶は共有され、常に相互に伝達される。
地軍には気がついたら参加していた。
その動機は不明。
己の主が堕神であったことと関係があるのかもしれない。
天上戦争においては、その異能により活躍。
というよりもこの『鴉』がいなければ天上戦争における勝利は有り得なかったといってもよい。
新暦においては『神僕』忘却と記憶を差配する、神の使いとしてごく一部で崇められている。