少女と蟹。進まない話。旅路の一幕。
1
陽は既に昇りきっている。
春とはいえ、輝く日射しは夏にも負けず。
暑く厳しい旅路を、道を行く者へと課す。
こういう時に限り、風は吹かず。
歩く者、進む者の意志を挫こうとするような、熱線が、道を歩む者の肌を灼いている。
ロートランド公王国、北西、ワインランド都市共和国へとつながる小さな旅人用の道。
そこを行く二つの影は、一切の手加減無く疲労困苦を与え続ける天性のサディストに、
一抹ならぬ呪詛を抱きながら歩いていた。
歩く姿二つ。
一つは元村娘、現旅人兼冒険者志望。ルナーレ・ジュール。
もう一つは、大きな蟹だ。少女の腹程の高さもある。
彼の最も大きな特徴は少女が膝を抱えたならば寝そべることができるであろう甲殻の広さ。
動かされるのは四本の脚。すべすべした棘もなく、毛のない種類の蟹であるのだろう。
サイズ以外の点ではどこからどう見ても普通の蟹であった。味噌の旨そうな類の蟹だ。
歩く姿には奇妙な愛嬌が漂っている。
名前はデンザロス・デンザロス・ペンタレシア。
故あって今はペンタという率直な名を名乗っている蟹だ。
二人は目的の一致から、同道して旅路を進んでいる最中であり。
その二人の旅路は、今のところ順調であった。
ルナーレは小さなリュックを背負っている。
村を出てからしばらく経つが、未だ慣れない腰に提げた剣の重みに、
時々、身体を取られているようだ。
服装や、食料、水や鍋、火打ち石や大きな布の類が入った大きいリュックは、
デンザロスの背中に置かれている。
蟹と、少女の二人旅。
少女の姿はマントに覆われている。旅人用の装いだ。
寒さと風を凌ぎ、泥を被り、草から身を守るためのマントには、
無数の傷が付いていた。
着ている服は、長旅と、森と土の埃のためか、
あるいは野宿をしたのか、およそ少女に似つかわない程に茶黒く汚れていた。
見るからに疲労が溜まっている少女は剣の重量にときおり脚を取られながらも。
それでも、脚を健気に動かしていた。
蟹は、その危なげな歩調を見て、僅かに心配の念を抱く。
もちろん蟹は、荷物、あるいは少女の身体を己の身体に預けてもよいと、助けを申し出た。
疲れるであろう、生半可な鍛錬しかしていないような村娘のいきなりの強行軍であるのだから。
といったニュアンスで。
しかしルナーレはそれを固辞した。
曰く「己の足で歩かなければ一体それがどうして自分の力で前に進んだことになるのか」
ということらしい。
――その言葉、最もだ。と蟹は納得し、
以降、少女が限界を訴えるまでは、背に乗せぬと決め、これを見守っていることにしたのだった。
――己の夢へ、足を使い進む覚悟。自分自身への覚悟の表明、決意の表明。
甘えを許さない気高さがそこにはある。誠に好ましい。
そう蟹は考える。
「ねえ」
物思いに耽る蟹に何か問うような声。
緑と紅。
緑樹と花や果実のコントラスト。
春の色彩に彩られた世界に入り込んだ錯覚が二人を包む。
日射しを遮る植界の庇護に入り、少し暑さが落ち着く。
遠く、どこからか聞こえてくる川のせせらぎ、昆虫の羽音、鳥の合唱。
自然の合奏が些細な清涼感を演出する。
日射しが落ち着いたのを見計らって蟹が応える。
「なんだルナ」
少女は、顔を動かさず、しかし足を動かして聞く。
「……まだ?」
「まだだ」
はあ、と息を付くのはルナこと、少女ルナーレ。
汗に湿る金の髪、それを払う仕草は、檻に入れられた獅子の気怠さ。
世界を厭うかのように、手を振り、飛び回る羽虫を追い落とす。
「あと、どれくらい……?」
「ふむ、計算上は三時間か、四時間か、日暮れ直前くらいには着くだろうな」
その言葉に絶望感を覚えたのか、少女は一度、足を止めた。
「ワーオ!」
少し壊れてしまったかのような感嘆。
「じゃあ、あたしはこの糞暑い、糞太陽の下、糞羽虫に集られながらあと糞四時間も、この糞街道を歩くことになるのかしら」
村長夫婦が聞いたら泣いてしまうだろう汚い言葉で少女は聞いた。(悪態つき)
あるのは間で、蟹は鋏を天頂に振り上げ、
――イグザグトゥリィ!
なめらかな応答とともに振り下ろす。
シャキンッ! という軽快な鋏の効果音付きだ。
「……」
はあ、というのは、ルナーレの息の音。
水分をこまめに補給し、一定のペースをどうにか守って歩くその姿は、どこからどうみても限界直前。
足は棒、脚は鉛、腕は壊れた案山子の風に揺れるよう、空を見上げて虚空を眺める瞳の光は、たしかに危うく限界直前。
「乗るか?」
蟹の問いは、即ち限界を問うているのだ。
ここで諦めるのか?
そんなニュアンスに聞こえた少女は、己を奮起させ、歯を食いしばり、足に込める力を再びしっかりと意識する。
蟹本人は純粋な善意のつもりであったそれは、
村を出たばかりの少女が、二日間しっかりと地を踏みしめ歩いて進み、野宿にもちゃんと付き合った強い少女への純粋な気遣いは、
しかし誤解され、思わぬ効果を生むのであった。
つまりは奮起。意地である。
「まっだ……まだぁ!」
叫ぶように、死力を尽くすように。
力の残り滓を振り絞ろうとするその少女の姿は気高く、活力に富んだものであったが、
しかし、万が一に備え、力を使い切らないようにすること、温存することを知らぬその様は、
どうしようもなく素人的で、決定的に冒険初心者であることの表明であった。
だが、しょうがないだろう、二人とも実際に素人であるのだから。
やがて少女は突き進み、ばたんと顔面から地に崩れ落ちた。
2
少女の奮起むなしく、結局は蟹が少女を背負うこととなった。
宿場街ポートニアへと辿り着いたのは、陽が落ちきって一時間ほど経った頃である。
スピーディで、軽快な蟹の背中から見る景色、
その疲れ知らずに進む蟹の速さは、少女の疲れを癒す程度には楽ちんであったようだ。
ぬるぬると、一定の速度で進む蟹の機動力は、恐ろしく安定している。
宿が見えると、少女は筋肉痛に悩む足を降ろし。
蟹をおいて、打ち合わせ通り、一人で宿屋へと進んだ。
身だしなみは年ごろの少女にあり得ぬほど薄汚れていたが、少女は頓着せず、足を動かす。
忍者の忍び足のような、傍から見ると滑稽な動きで、そろそろと宿へと向かうルナーレ。
一階部分が酒場を兼ねている旅人、行商人、巡礼者のための宿屋。
大変盛況なようで、一階の酒場からは無数の笑い声が響いている。
人見知りの気がある少女は、足を小さく震わせ、息と唾を飲み、『至高神』へと祈りを捧げてから扉を開けた。
手を組み、祈り、よし。と呟いて、
扉を押す。
バタン、という音。
瞬間的な沈黙。
一瞬、酒場にある全ての女。男。荒くれや冒険者、旅人や老人の視線が己に集中したように感じる。
その緊張と羞恥で、酒場に脚を踏み入れた少女の心は、既に折れ気味であった。
足と手を、子鹿のようにぷるぷると震わせ、羞恥から頬と額を赤く染めているその姿は、
どこからどうみても初な田舎娘。
どこかからヒューッ、と音がする。
煽るような声、品定めするような声。
「はぁ、ありゃ絶対初物だね」
「あのケツのラインいいなぁ、ありゃ将来そうとうな美人になるぜぇ」
だとか
「へっへ、お一人は危ねぇぜ嬢ちゃん」
「あれぐらいなら俺でも……」「ばっかおめぇ俺が口説くぜ」
というように猥雑が入り乱れ、色々な声が、獲物の鴨を狙う銃口のようにやまずに反響する。
森のさざめきよりも多いその音の反響は、少女が歩く間、つねに嵐のように鳴り響いていた。
そういった声や態度、露骨に卑猥な言葉や仕草を取る彼らに対して、少女が抱くのは当然怯えである。
次いで、竦み。
次に怒り、最期には胸を張り、手足を震わせながらも、堂々と酒場の主らしき男のところに進む。
その姿には、彼女のやけくそな心持ちとそれ以上の「負けてなるか!」というが自負が見受けられた。
結局のところ負けず嫌いなのだ彼女は。
彼女は負けるのに屈辱を感じ、歯を食いしばって耐えているのだ。
難儀な性格である。それ故に行動できるとも言えるが。
蟹は宿の扉を少し開け、その黒い真珠のような瞳で、その情景を覗いていた。
ぴょんっと飛び出る鋏は、扉を抑え、止め。
蟹は、気丈な少女の様を見て、安堵するような気持ちで、ほっと一息吐いた。
見れば少女が、酒場の奥、階段の隣、宿の主人兼酒場の主人であろう、髭面の肥満中年と話していた。
「ええと、宿を……っ、一晩もらいたいんだけど」
慌てるような、慣れないような声。
「30メルクだ」
「えと……」
助けを乞うように蟹を見つめるのは少女。
赤い頬はさらに紅い、煮詰めたトマトのようだ。
――お金は……?
とでも言うような円らな子犬の瞳。
――というよりもあれは
耐えきれなくなったのか、
あるいはヤケクソの心持ち特有の開き直った気勢が、予定外の質問で削がれて正気に戻ってしまったのか。
見れば、「足りない」というように、こちらに口をパクパクさせている少女が一匹そこにはいた。
哀れなひな鳥を掬い上げる心持ちで蟹は、鋏を使ったジェスチャーを行う。
こっちこいこっちこい、とでも言うような、ひょいっ、ひょいっという鋏を掻く仕草、それによって少女を招く。
少女は、最後の力を振り絞ったのか
「ちょっと待ちなさい」
と店主に大声で言った後に、大急ぎで扉へと走り、外へと駆けていく。
なんだありゃ?というのは店主の心思で。
ガキのお使いかよ!ままごとかよ! という声は酒場中から響く酔っ払いのヤジである。
オチが付いて笑う観衆のように、酒場は笑いに包まれた。
旅に似つかわしくない姿と仕草、明らかになれていないような動作の少女を話の種に酒場は盛り上がるのだ。
とはいえ話の種になるのも五分かそこらで限界であろう。
物珍しいとはえ、一瞬の珍客、長く話すようなネタでもない。
いつしか話題としての面白さは薄れ、このままいけば少女の存在自体が、
明日か明後日には完全に、この酒場に居た全員の脳裏から消えたであろう。
そう、そのままであったのなら。
ギィ、という木の揺れる音。妙に強い足音を、出口の傍の卓の男は聞いた。
バタンッ! という強い音。扉が開かれる。
少女が戻ってきたのか? と酒場の主を含めて幾人かが出入り口を見つめ、息を飲む。
そしてその反応を見て、酒場にたむろする他の者たちも扉を見つめて、
こちらもまた同じく驚きから、だらしなく口を開ける。
そこにいたのは蟹。巨大な魔獣。巨大な蟹であった。
青光りする肌に、人間の太股ほどもある巨大な鋏の威容。
人間の脚ほどの大きさもある四対八本の脚。 黒く円らな瞳。口角から微かに吹き出るのは泡である。
そして、その丸く平べったい甲羅に、先ほどの少女が堂々と腕を組んで座っていた。
酒の飲み過ぎか?と、
己を疑わざるをえないような、奇妙な姿が、開け放たれた扉の前に仁王立ちしている。
クラブ・ライダー。
知っているのか?と、それを呟いた老人に視線が集まる。
いや知らん。
――酔っ払いの戯言であったようだが、その意味するところは明白だった。
彼女は間違いなく、クラブ・ライダーであった。
少なくともそう言われて違和感のない姿ではあるのだ。
シュールな緊張を多分に孕んだ空気。
幾人かの冒険者は、戦闘態勢を取り、警戒を欠かさず。
魔導士は己の魂に、己の【力】に、己の意志を埋没させる。
そんな警戒をしている冒険者たちを、凡夫と、
一気に切り捨てるような潔い動作と挙動をもって、二人は酒場の中心を往く。
まるでモーセの海を往くが如く。
「マスター、待たせたわね!」
先ほどよりも幾分以上に安心している少女。
心強い味方、ある意味保護者のような蟹が付いているからこその、露骨な安心感から来る強気だろうか。
強い語気で言いきり、挑発的とも言える笑みを浮かべる。
「あ、ああ」
と呆然としたように呟くマスターは驚きが抜けきれない。
今まで生きてきて、初めて見るような異様の魔獣――それも巨大な蟹――に乗って、酒場に少女が入ってくるという現実でないような現実の映像。
さすがの歴戦のマスターも、多くの旅人、民族、種族を迎え入れてきた宿場街の宿屋主も、大きな混乱を隠せなかった。
しかしそこは流石にプロ、速やかに己を安定させ、まずは少女に声を掛ける。
ごほんっ、と咳き込んだ後に、いかにもなしかめっ面で少女を必死に威嚇する。
蟹を視界に入れないように。
「すまんがな嬢ちゃん、そのデッカイペットは外だ。わかるな?」
威厳を漂わせる、店主の声音。
厳めしい面、厳つい雰囲気。咄嗟の取り繕いとしては上出来だ。
そう己でも思うような見事な「威厳ある店主」っぷり。
俺は猿でも鹿でも蟹でも人間でも怖くねぇ!まとめて掛かってこいや!
とでも言いたげな店主の必死の重圧に、
しかし少女は僅かにも、うろたえない。
外面はともかく、少女の内面は揺れまくりではあったが、
密かに、蟹の背中に背負うリュックを触ることによって心を慰めている少女を置いて、
デンザロスことペンタが店主に応答する。
「ペットとは失礼だな店主」
驚愕、混乱、理解不能。
如何に歴戦の店主のもってしても予測しえなかった事実が、津波のような衝撃として、彼の意識を殴りつけてきた。
蒼い蟹は喋る!この蟹喋るぞ!という二段構えの驚愕、酒場は何時しか静まりかえっていた。
冒険者も、巡礼者も、従業員も、この突発的な事態の進行を、ただ見つめることしかできなかったのだ。
蟹の追撃のような問いの重ねは続く。
「ふむ、俺はこう見えても中々に紳士的な蟹でな、糞尿の類を撒き散らすつもりもない。
建物になんらかの危害を加える程に暇でもないのだよ、勿論、誰かを攻撃する意志もない」
一息に言い切る、彼が放つのは、本当に蟹が喋っているのか?という信じられないような理性的文言。
まだしも、少女の腹話術と言った方が信じられるような口ぶりである。
蟹が、蟹の魔獣が、しかも巨大なそれが、言葉を不自然なほどに巧みに操っている謎の事実。
酒場の主にしても。酒場の客にしても一生忘れえぬ驚きと衝撃が包んでいる。
少女だけでは些細な笑い話。一瞬の話の種であった。
しかし蟹と合わさった少女の話は、これから一生のように、話の種、物の話として語られるのだろう。
幾ばくかの時間が、沈黙の内に過ぎて、
どうにか店主が再復帰した。
理性あるらしい蟹の応答に、ようやく対応できたとも、気持ちが追いついたともいう。
蟹が行っているのは、よくよく考えたら商談交渉の類なのだ。、
つまりは蟹という一顧客の交渉である。そう考えれば、店主もいつまでも驚いてはいられなかったのだ。
この場にいる人間の中でも特に速い復活を果たして店主は計算を働かせる。
つまり、泊めてよいのか? 他の客の迷惑にならないか? もし泊めるとしたら料金は?
といったような計算を行いつつ、沈黙を場に作らないように咄嗟に応答を差し挟む店主。
「む、それは……」
蟹の言葉に応えるように出た音は、迷いの濁りが染みついた水のような声。
迷っているという心情が漏れ出ているようだ。
「むろん無料とはいわん」
少女はことの成り行きを完全に蟹に預けたようで、ただ一連の蟹の発言を一幕の劇のように眺めている。
「人間の大人二人分で俺を換算しても良い、また朝食もいらない、水を少し頂ければな」
つまり一人分の手間で、三人分の宿賃を取れるということである。
――雑費合わせ一〇〇メルク! どうだお得ではないか?
そういうような声も聞こえてくる。畳みかけるような蟹の声だ。
「ううむ」
と、悩む店主に追撃を掛けるかのように、蟹は己の甲羅に座り、ことの成り行きを眺めていた少女の太股を、鋏で軽く叩く。
ルナーレは打ち合わせ通りに、蟹の荷袋を開け、周囲の冒険者には見えないように、店主の手元に一〇枚ほどブツを握り込ませる。
黄金の輝き。
旧帝国の貨幣の皓々とした輝き。
世界で最も純度の高い金貨。
美しく、純度の高い希少な金貨
店主は無意識のうちに、懐に差し込まれたそれの重みを確認した。
――勝った。
と思ったのは店主の反応を見ていた少女と蟹。
沈黙と動揺、些細なざわめきに包まれた酒場で、
直前まで悩みに悩んだであろう店主は、
「いやあ、お客さん運がいい!」
今なら最高級の部屋が空いてましてね!
いやぁ貴族様もお泊まりになられる程のレベルの部屋ですぜ。
と、どこか嫌らしくしかし憎めない微笑みで、肥満の身体と、顎髭を揺らしていた。
そして、あ、気付きませんでしたね、へへどうぞ! と手元にある鍵を少女に渡し、手を擦り合わせながら揉み合わせる。
「さあどうぞどうぞ、あっ! お食事は直接部屋に運びますか?」
「う、うむ」
――自分で大金払っておいてなんだが、気持ち悪い変わり身の速さだな。
中々見事な鋏ですね、いやぁ甲羅もピカピカ。
と続ける店主を後に、二階の奥にあるらしいその部屋に向かうために
階段の起伏を器用に登っていく蟹。
脚は、下から、上へ、一歩一歩、一段一段、確実に進められる。
背中に乗せてことのなりゆきの完全に安全に終結した過程を見ていた少女は、
少し驚きながらも安心したように微笑み、
ペンタは鋏をたたき合わせ、微笑みと同じような感情を彼なりにアピールする。
そしてすぐに二階に到着する。
向かうのは奥だ。階下からは奇妙な珍客二人についての無数の雑言と囁き、ざわめきと不安の声が聞こえてくる。
当人たちが消え、にわかに噂の虫、おしゃべりの虫が騒ぎ出したのだろう。
それとは別に蟹と少女を擁護するような店主の大声が響いてくる。
とはいえ二階と一階を隔てる床が厚いのか、その声はまるで地獄から聞こえるように遠かった。
疑問があるの。という不安げな調子で、
ペンタの背中に声が降ってくる。
「あんた、あの金どうしたのよ」
蟹はしばし言葉に迷う。
「ふむ、友人の手製……んん、手土産のようなものだな、うん」
ふ~ん。と訝しげな少女、
一日歩きづめで疲れ切ったルナーレは、
脚が重いのか、蟹に座りながらそれをぶらぶらと揺らしている。
少し緊張が切れたようである。
男、男、男。
嫌いな村とは言え全員が知り合いの村を出て、初めて触れた他人の群れだ。
カモシカが狼の群れに出会ってしまったかのような驚きと不安を感じたとしても不思議ではない。
蟹のインパクトと、思いのほか逞しかった店主の商魂に助けられた形だが、
どうにか今夜の宿を確保できたこと。
三日ぶりのベットを手に入れたことによる安堵が、
ルナーレの細く肩や腰に、降りかかってきてもおかしくはない。
――当然のことか。
むしろよくやっている。
とは蟹の思考。
今のところ気概はぶれていない。
頼もしい若者だな、うむ。と蟹は喜ぶ。
ふと見れば、目の前には扉、その他の部屋より多少豪勢な装いだ。
預かった鍵を手に、鍵穴に差し込めば、ギィ、と開くのは扉なり。
旅人にも休みは、いや旅人にこそ休息は不可欠である。
往く道が街道であろうとも、人生であろうとも変わらぬ一つの真理。
それを噛みしめながら蟹と少女は、扉をくぐった。
3
「ふ~」と息を吐くのは布で身体を拭い、服装を変えて、二日ぶりに下着を替えた少女。
洗う目処も、場所も、暇も無い以上、最低限の着替え以外は行わないのが旅の基本である。
水袋にナイフ、簡単な布、マント、松明、火打ち石、鍋、必要なものは幾らでもある。
服や下着の替えは余り入れてないのは、容量に余裕がないためだ。
ルナーレはその恥辱に唇をくしばり、目に涙を溜めて、一時間ぐらい、う~と、唸ったが、覚悟を決めたのか、あるいは吹っ切れたのか、全身を覆うマントの下、服や下着を殆ど替えずにここ数日の強行軍に望んでいた。
部屋の隅に置いてあるそれらの脱ぎ終えた服(薄汚れた雑巾の色彩である)は、余り目に入れたくない代物なのだろう。
故郷の村、村長の娘として幾分裕福な生活を送っていれば出会わなかったであろう屈辱の象徴は、
丸めて、まるで捨てられるゴミのように、部屋の片隅に預けられていた。
しかし、後悔だけはしていないのは、ルナーレ天性の資質であろうか、もしくは気性なのかも知れない。
少女が着替え、身だしなみを整えるさまを、
部屋の隅で、やることもなしにぼうと眺めていたのはデンザロス。
柔かな肢体、映える黄金の髪、どことは言わぬが成長途中の部位が幾つか、
しかしそこにも若い雌特有の、蒼い瑞々しさが満ちている。
未だ熟していない果実。均整の取れた体美は、
可能性という偉大な資質が、潤沢に眠っているであろう鉱脈のごとき身体でもあった。
その光景は、見る者が見れば幾らでもニヤニヤできる程度に、
あどけなさと未成熟ゆえに醸し出される快美を感じることが出来たのであろうが、
しかし、蟹であるデンザロスには当然、興味もなく、そそられるような対象でもなく、
粛々と行われる着替えも、悠然とさらけ出される裸体も、暇つぶし以上の意味はなかった。
いま、デンザロスは、
ルナーレに頼んで降ろしてもらった彼の荷袋を前に、一人その内容を吟味していた。
完全に友任せであった責任。
ああこれがまさに因果の応報なのか。と
心理的打撃を喰らわせる荷袋の中身のチョイスに、蟹が泡を吹いている。
横から投げかけられる声がある。
「ペンタ…… ペンタ! ペンタッ!」
目をキリッと釣り上げ、少女は何回も呼びかけている。
「ん? ああ、すまんすまん余り名前で呼ばれることに慣れていなくてな」
ルナーレが吐くのは呆れの吐息。
腕を腰に当て、幼子を諭すように、蟹に向かって喋るその様は、
まるで姉のようであり、どこか優しげである。
「もう……しっかりしてよね」
「ううむ、すまん……、考え事をしててな」
「その荷物?」
「ああ」
一見するとがらくたしか入っていないようだが、
うわすごい!本当にがらくたしかはいってない。
『人形師』が入れたのであろう、完全自律人形手乗り版、大道芸くらいにしか使えない。
『海王』は綺麗な貝殻を幾つか、意味ありげだが、本当にただの観賞用である。
『鴉』が入れたであろう鴉の羽、意味ありげだが、実のところ本当にただの羽である。
『無貌』は書物を三冊、
蟹は文字が読めないし、そもそも本を持てない、開けないと知っての所行だろうか。
『賢者』の脳は相変わらず弾けてるのだろう、
鍵の束である。意図はあるのだろう、しかしそれがどこかの鍵であるのかはわからない。
ここまでは畜生野郎どもだ。
多分に悪ノリしているか、そもそも旅行に何が必要なのか解っていないようだ。最高に頼りになる。
そもそも何が必要なのか聞く気がないのが見え見えで、一周回って潔かった。
横で少女も、うわぁ。と言っているのが、蟹に余計、もの哀しさを覚えさせる。
己の友情について弁解したくなったが、それは置いておく。
しかし幸いなことに、『智慧』と『四つ耳』はまともだった。
流石に良心が咎めたのだろう『四つ耳』は大量の旧帝国金貨を袋に詰めて入れてくれている。
入手先は問わない。
ついで、貯蓄型の導器であるのだろう宝石が幾つか入れられていた。
頼りになるやつだルー。と蟹が呟き。
我が軍で一番まともな心根であろう『智慧』あの高位長耳族に至っては、
地図と特殊発煙筒、ついでに導器である『【道】の杖』を入れてくれている。
完璧なチョイスである。鋏ようの研ぎ石まで付けていて、他にも幾つかの道具まで入れている。
――うむ、持つべき者はやはり友。
――それも融通が利くような友であるな。
蟹は確信を深め、人型であったら間違いなく笑みを浮かべていたであろう心情で落ち着く。
落ち着かないのはルナーレである。
改めて見てもこの金貨の量は異常だ。
「ねえペンタ」
「ん?なんだルナ」
「あんたの友達って何してる人なの?」
「うむ……。そうだな……高度な自営業、とでも言うべき職業……だと思う」
答えるつもりはナッシング。
そんな返答である。
ルナーレがその返答に顔をひきつらせながらも納得したのは、
その先を聞いても碌なことにならないと直感したからであろうか。
本当に不思議な蟹ね。と脳裏に浮かべるルナーレは、旅の供である蟹を眺める。
不思議な存在だ。というよりもデカイ。ちょっと怖い。
少しダンディで、もしかしたら天然で、愉快なところもある奴だ。
ここ数日の付き合いで既に大分打ち解けたようにルナは感じていた、
が、しかし、未だに解けぬ疑問もあった。
「そもそも何であんた喋れるの? 納得いく説明もらってないんだけど」
「知らないのも無理はないか」
まるで無知をあざけるかのような蟹の声。
しかしその言葉には優しさが含まれていた。
物を知らないのが当然の童子に対するような甘い態度。
まるで用意してあったようなその発言は、
非道くルナーレの神経を逆撫でするような口ぶりであった。
「し、知ってるわよっ!」
と条件反射的に反応してしまうのも、ルナーレの気性がなせる技なのか。
「……まだなにも言ってないのだが?」
「言わなくてもわかるわよ!」
「……はぁ。 まあ、知らないのも無理ないかもしれないがな」
と一息ついて、少女の見栄を通り過ぎて、続ける。
「蟹というのは喋るものなのだぞ?」
沈黙。
驚き。
嘘でしょう?というルナーレの表情は、
もしかしたら本当かも知れないという不安を僅かに含んでいる。
「えっ?」
「うむ」
「いや……うそでしょう? 聞いたこと無いわよそんなのあたし」
「本当だとも……、ほら俺の円らな瞳を見ろ、これが嘘を吐くような瞳に見えるか? んん?」
「うう」
本当なのか? 蟹は信頼に値する蟹で、なによりも現実として喋っている蟹が目の前にいるのだ。
「……そう言われると、確かにあたしは本物の蟹に会ったこと無いけど」
「そうだ、それに一部の選らばれた蟹が言葉を喋ることができるようになるのだ。知らないのも無理はない」
「へぇ、そうなんだ……って! べ、べつに知らなかったわけじゃないんだからねっ!!」
本当だからねっ、と呟く少女を真面目な顔で見つめる蟹。
蟹の表情はしかし人間には解りづらい。
実際のところ、蟹はいま喜色満面の笑みを内心で浮かべていた。
――というような嘘にひっかかる人間がいるはずないと、思っていたのだがなぁ。と
やだ、この子からかうの案外楽しい!
と思う彼の思考回路は間違いなく、彼が、先ほど彼自身で罵っていた畜生野郎どもの一員であることを如実に表していた。
夜の訪れを祝すように、外からは虫の音が鳴る。鳥の鼾も聞こえてきた。
酒場で酒を飲み、旅の疲れを癒していた旅人たちも、
部屋に戻り、鍵を掛けて、明日に備えた睡眠を取り始める。
月は雲に覆われ、酒場は静かだった。
4
蟹が少女に、現在の暦を聞く。
現在は四の月。
至高の月、秩序の月、混沌の月、法の月と続く、その法の月であるらしい。
ついでに言うならばその後に、知恵、闘争、創造、平和、正義、真実、海、死と続くとのことだ。
長きに渡って眠っていた蟹にとっては初めて聞く暦の名称である。
一月は昔と変わらず週7日で、至高月のみ五週間、死の月は三週間のみだ。
「今日の日付は?」
と蟹が試しに聞いてみると、馬鹿にしないでよねっ! と鼻で笑って教えてくれた。
「今日はねぇ、法の月、21日ね、第三週、三の曜日、時刻も付け加えるなら丁度九ノ夜刻ってところかしらね」
本質的な暦や、暦法は旧暦の頃から変化してないと蟹は判断した。
思えば脱出からこの方、強行軍の連続であり、こうやって落ち着いていまの世界のことを聞く暇もなかったのだ。
蟹はそう思い、鋏を振り回しながら、次々に質問を重ねる。
「大きな方言の数は?」
「えと……たしか六つ、あ、八つだったわよ」
「貨幣はどうなってるのだ?」
「旧帝国の貨幣を古代公式貨幣として、新帝国時代の貨幣が一番流通してるって教わったわよ、一応各地の都市や国家では、信用と証書と兌換を前提とした紙の貨幣もあるらしいけどね」
えへん、と言う少女は、思った以上に博識であるらしかった。
おそらくあの村長の一族は、古くからあの村の知識人の血統であって、村の商事交渉や教育を一手に取り仕切っていたのだろうと推測できた。
その蓄積があるからこその教育。
文字も読めるらしい彼女のその博識が、彼女の村での孤立の一因であったこともまた疑いを得ない。
そしてそれを誰かに語る機会もなく、今までただ覚えるだけだった知識を、こうやって披露する機会に恵まれたことに対する喜びは如何ほどか。
「では、今日はもう時間がない、最後に簡単でよいから現在の信仰、……新しき神について教えてくれないか?」
大まかなところはあの王墓でリューレアーから聞いていた。
しかし細かいところでは、現在の信仰の形態や新しい神話、魔将の扱いについてなにも知らないデンザロスの純粋な疑問である。
これに驚いたといった様子で、デンザロスを見るのがルナーレである。
やがて、頭を振って、これもしょうがないことかと言うように頷いて、説明を始める。
「まさか新しき神々さまについて何も知らないなんて」
「うむ、すまんな、なにぶん魔獣なもので」
「はぁ。魔獣だからといって、その知能の高さなら知らないとも思えないけどね、いいわ説明してあげる」
溜息、その後、大きく息を吸う。
ババーン!という効果音が似合いそうな、
独特の気迫を伴ってデンザロスことペンタを見つめる、ルナーレことルナ。
「まず偉大なる神様は一〇柱おられるのよ!」
10! と返すのは蟹。ノリノリである。
「『至高』と『戦争』のネーベンハウスさまを主神に
『秩序』と『狂気』を見守るアジョリナさま
『混沌』と『信仰』を示すチャルデルラスさま
『法』と『善』を導きくださるエーミッタさま
『知恵』と『学問』を司るフィネイルゥさま
『闘争』と『誓約』を貫くタンドランさま
『創造』と『大地』を護るガルニゼスさま
『平和』と『魔法魔道』を究めたキュリエルさま
『正義』と『寛容』を広めたシェンペルさま
『真実』と『悪』を見抜くデルバイアーさまの一〇柱よ」
後、偉大なる10柱じゃあないけど『海』の神というのもいるわ!
と付け加える彼女の表情は満面の笑み。
「ううむ、いきなり名前を覚えるのはきついものだな」
それも、友人に知らず知らず付けられていた痛い渾名を覚えるような作業である。
きつい。
というか広めたとか究めたとか言うものの、一体いつの間に究めたのだろうか?
それらの蟹の懊悩を尻目に、少女はどんどん興が乗っているようで、ますます口舌を回転させ始める。
「まあ別に名前までは覚えなくてもいいんじゃないかしら。役職とそういう守護神がいらっしゃることだけわかればべつにいいわよ」
そしておもむろに少女ルナーレは、
膝を突き、手を組み合わせ、それを天に掲げるような姿勢のまま微動だにしない。
「これが基本的な祈りのポーズね、略式で、手を組むだけのが一番人気だけれどもね」
「ふうむ、これは教会とやらが決めたのか?」
己の過去にもそういう名の組織が存在し、旧神の先兵だったような気がしたが気のせいなのか。
「そうね、最も偉大なる神への忠誠者にして伝言者、イリネ=ミレエルさまが1000年以上前に神の啓示を受けて、天にいる神に最も偉大なる方への尊敬の形として伝えたらしいわね、まあそんなことはどうでもいいのよ、結局は気持ちの問題なんだから」
蟹は流石に聞き流せないフレーズがあったように感じたので、少し突っ込む。
「その……、なんだ、神は天にいるのか?」
「そうよ、流石に聞いたことあるでしょ? 天上戦争って言ってね、それでこれまで人間達を豚のように扱ってた悪い神様たちが倒されて、その後、ネーベンハウスさまとその家臣であった九烈士の方々は旧神の代わりに天に座って、地上を見守ってくださってるのよ」
「ああ……そうなんだな。うん、よくわかったぞ」
――天になど居るわけもないのだがなぁ
それこそ二月ほど前に地上で『智慧』キュリエルや、『賢者』フィネイルゥ、『無貌』チャルデルラスに会ったのだから。
思えば姫様が人間界に一切の接点を持たなかったことがこのような独特の信仰を生んだのかと、蟹は推察する。
姫ことネーベンハウスは旧神を破った後、その後の地上には一切の姿を見せなかった。
神を倒して混乱に陥っている世界を、尻目に南洋に繰り出して釣りに興じるような人格の持ち主であった姫。
どうにか崩壊する秩序、後退する人々の道徳心に歯止めを掛けるために、強ち間違っても居ない話を考えて、新たな信仰としたのが現在の教会なのだろう。
――長く関わらず、世に情報が漏れないとこうなるのか、ううむ。
「うむ、そういえば魔軍三六将についてはどれほど知ってるのだ?」
「魔将? う~ん。さすがに私も10人言えれば切りのいいところかしらね。というかマイナーな魔将なんて殆ど誰も知らないんじゃないかしら。
準神であられる『小鬼』『四つ耳』、
魔将唯一の神でもある『海王』 ネーベンハウスさまの兄君である『魔王』
小さい頃にお父さんからさんざん聞かされた『大蟷螂』
えと、後は、物語の題材になりやすい『竜公』や『竜人』
普通の人が知ってるのはこの辺りまでね! まあ私は後2、3人知ってるんだけどね」
えへんっ!という少女の笑い顔。
えへん!顔とでも言うのか、自信満々なその面持ちはどことなく愛らしい。
まるで童女が、自分の知ったばかりの知識を、大人に話して、どうすごいでしょ! とでもいうようなあの愛らしさに通じるものがある。
――あるいはこれが俗に言うドヤ顔という奴なのか、ううむ。
え~と、『獅子王』に、『大亀』と『鬼王』……これぐらいかしらね。
と髪を揺らして、告げる少女の笑みを見ていると、蟹もどこか楽しい気分になってくるのだった。
――うむ! やはり子供は元気で笑顔が一番だな。
遠く昔を見る老人のような、遙か年下の親戚を見るような心持ちで、ルナーレを眺めつつも、
蟹は、少女に一つ質問する。
「ふむ、色々名前が出てきたが、一番好きな神は誰なんだ?」
「好き? ……う~ん。 ……ネーベンハウスさまかしらね」
「ほお、それはまたどうして」
「だって凄い人なのよ! 父親が魔王で母親が勇者という悲劇の血筋に、銀の髪の流れるような美貌をもった儚いけれど気丈な姫神さまなのよ!」
憧れるわぁ。と続けるルナーレ。
――ぷっ。と吹き出しそうになったのは蟹。
蟹は耐えた。意志を閉じ込め、己の心を無にして耐えた。
「そんなネーベンハウスさまが涙ながらに人間をまとめて、その人望に九烈士が集まってきて、帝国が統一されて。
自らの兄でもあり当時の魔王でもある人を説得して、争いなんかなしで、人と魔族をまとめちゃったのよ!
凶悪な魔将たちも涙ながらの説得と情で接して信頼を勝ち取った姫。
可憐で、清楚で儚くて、それでも旧神と戦ったすごい人なんだからねっ!」
その時、蟹は耐えきれなかった。
ブフッ! と吹き出す音が無情にも部屋に響く。
……
…………
「なによ! あんたなんか文句でもあんのぉ?!」
「くっ、無駄に高性能だなこの言語変換紋章っ!」
「ちょ、ちょっと言語変換紋章ってなによ! というかなんで笑ったのよっ!」
「いやすまんな、俺が悪かった。うむちゃんちゃらおかしくなってきてな」
「なにがよっ! というか全然と悪いと思ってないわねあんた。
む~、私がその姫様と全然違うから笑ったんでしょ!」
「いやそれもあるが、うむ」
剣が飛んでくる。
蟹は華麗に横スライドでそれを躱した。
「ちょ、避けないでよね、床に傷が付くでしょうっ?!」
「いやいや、俺に傷が付いてしまうぞ!」
蟹が笑った理由は、本当のところ別にある。
『有角姫』ネーベンハウスの後世に伝わったイメージの余りの違いに吹き出してしまったのだ。
それは何者か(主に蟹の友人連中)の作為を感じる程の正反対なイメージである。
――拳三発で城を物理的に沈めるお方。
――九烈士と三六将合わせた地軍の面子の中で、最も仲の良かった親友が『鬼王』ケップタイオスだったお方。
――夕暮れの城壁跡で、夕陽をバックに、二人で殴り合って友情を深めるようなお方。
――ケップタイオスに我が生涯の唯一の宿敵にして、親友にして、義兄弟とまで言わしめるお方。
――それに対して、うむ、苦しゅうない。我が義姉になってやろう。と返すようなお方。
――その後、なにがおかしいのか二人で笑い合って、ケップタイオスと酒盛りを始めるようなお方。
笑いをこらえきれぬのも無理はあるまい。
蟹をせめるのは酷である。
なにもかもが違いすぎるのだ。
これは間違いなく何者かの陰謀の仕業であった。
そう蟹が思わざるをえないほどのイメージの違い。
そしていま、蟹はその笑い代償としてルナーレから飛んでくる暴言を捌き続けているのだ。
「最悪っ! さいあくさいあくサイアクッ!」
「いやすまんな、笑うつもりはなかったんだ、うん」
「なんで曖昧な言い方なのよっ!」
「いや、だって食事を食べようとして食卓について、本来肉が置いてあるべき場所にブロッコリーが一本だけ載ってたらおかしいだろう?」
カッ、と火に油を注がれたようなルナの挙動は、直接的な暴力へと変更された。
逃げる蟹を捕まえようとしている料理人のような形相のルナに対して、
うむ、と高速で移動して逃げ続ける蟹。
むー、むーと唸るルナーレの相手をするその顔はどことなく楽しげである。
少なくとも気持ちという面においては、少女から逃げる蟹と、
蟹を追いかける少女に暗いものは一切なかった。
誤解から始まった訳の分からない騒ぎではあったものの、切欠はどうあれ、ここにいるのは脳に血の登った娘が一人。
そして何処か楽しげな蟹が一匹。
「というか笑ったことよりも苛つくことがあんのよっ!!」
「うん? なにかあったかな?」
「~~っ! 言語変化紋章ってなによ!」
「ああ……まさか騙されるとは思わなかった。うむ今は反省している」
「はぁ!? !?!?!??!?」
何を言っているのか到底理解できない、罵詈雑言。
感情と怒りと驚きから、口から出る言葉は支離滅裂で。
蟹の甲羅の堅さを忘れて拳を振り上げる少女は
近くの部屋の連中が煩いと思うような音量で、暴言を撒きながら必死で蟹を追いかける。
結局この追いかけっこが、
日が変わるギリギリまで続いたという事実は、ここに小さく記すに留めておこうと思う。
後には疲れ果てて、ベッドに突っ伏して寝ている少女と。
足を畳み、鋏を折り曲げ、黙坐している蟹の姿が、あるだけだった。