蟹と少女の出会い、出発。
――まさか1000年以上会ってなかった相手の第一声が、
「俺の身体……小さくしてくれないか」
だとは思わなかったわね――
大陸南方 ゴルシュナメルク島にて ある高位長耳族の呟き
1
大陸南西部 ロートランド公王国は小国である。
とはいえその狭い領土は潤沢な土壌の平野部と、自然の恵みに事欠くことない母なる森林を備え。
西方に世界最高峰のタンボルグ山が望め、南には大連峰が有り、ロートランド大川が中央の内海に向かって流れている。
およそ肥沃な土壌といえる条件の全てを併せ持っており、その農業生産は、小国ながら侮れないものがある。
小村、山村が多く、そこに公王国の主要な階級である村民が住んでいる。
彼らは畑で作物を作り、森で狩猟し、時に川で魚を釣る漁民にもなる。
彼らのもたらす食料を使い、首都ロートランドの王や大臣は近隣諸国と貿易を執り行い、国を富ませるための様々な政策の財源としていた。
また、南西にある大連峰とタンボルグ山の境、モレアス自治共和国からは、
大連峰を迂回した南の旅行者、行商人、貿易者が入り、タンボルグ山を避けた西の交易者や旅人も、ロートランドに入る。
貿易の経路、あるいは中継都市としての首都ロートランド、そして狭いながらも肥沃芳醇な地味がもたらす高い食料生産の領内。
ロートランド公王国は端的に言って、恵まれた裕福な国であった。
さて、話はそのロートランド公王国の一つの村で始まる。
時は夕刻。 逢魔が刻とも呼ばれる時間帯。
春になり繁茂した森林の生命に、不吉な赤い夕陽が差し込み、朱と緑が入り交じる、
なんともいえず混沌とした原初の不安を感じる時分。
「っ……はぁはぁ…………は、っは?!」
鬱蒼と茂る森の中、まるで追われるように走る一人の少女の姿があった。
いや、その姿は正しく、逃亡の為の疾走であったのだ。
まるで屠殺を察知した豚の逃げる様。
みっともなく、息を切らせ、呼吸を乱しながらも、足を動かす。
向かう先は、より深い緑界。
春を迎えて生命を謳歌する森林の中、駆ける少女の未来は、いま途絶えようとしていた。
追う者は亜人。獣型の亜人だ。
その亜人種の中でも特に低知能な種であるのだろう。
言葉はなく、飢えた狼のような吠える音だけでコミュニケーションを取っているようだった。
その正体は犬人
低知能の亜人、犬のごとき、狼の如き面貌と、野生を併せ持った種族。
その多くは、森や山に潜み、少ない数が迷宮にも棲んでいる。
ときおり民家や旅人を襲う生来の無頼漢とも知られていた。
いま彼らの犬面、狼面には下卑た欲望に彩られている。
その数は6。何処ぞの群れの狩猟隊の一班か、
彼らは獲物を狩り捕らえるために、南の大連峰の方面から、この辺りに出張したのだろう。
そもそもこの辺りに犬人は滅多に出現しない。亜人の脅威など無い、平和な森。
逃げる少女が、一人(少女は何時も一人だ)
いつものように森の奥で山菜や果実、ついで若い枝を採取していて問題はなかった。
はずだったのだ。しかし今日の森林には野蛮な侵入者がいた。
少女はそれに気付き、一目散に逃走を計ったのだった。
それから数分が経過し。
駆ける少女と、追う者の距離がぐんぐんと縮んでいるようだった。
ワオォーン、というような歓喜の遠吠えを謳う獣たちを後目に。
少女は駆ける駆ける。
脚を動かし、手を動かし、脚を取られたら一巻の終わりと頭を動かす。
その年齢はおよそ10代の前半というところだろう。
駆ける速度は健脚。歳と性別を考えれば恐ろしい程の速さで、己が熟知している森林を駆けている。
平均以上の運動能力、地の利、それがなければ、とうに捕まっていただろう彼女の顔は必死に歪められている。
涙、鼻水、顔をくしゃくしゃにして、本来なら気丈な類の、筋の通った清廉な美を醸し出すであろうその容姿に、見る影もない。
死に際の梟。あるいは死地を悟った魚の如き瞳。
それでも諦めずに少女は駆けた。肩まで伸びる金の髪を揺らし、必死に走る。
しかし鬼ごっこには何時か終わりが来るモノだ。
鬼たる獣たちは少女を捕まえる。そして、この鬼ごっこに交代はない。
スタミナが切れ、速度の落ちた少女は、距離を詰めてきた犬人にその身体を木に叩き付けられていた。
まな板にこれから捌く鯉を載せるような乱暴で乱雑な動作。
「っ……かはっ」
と衝撃に淡く呻くのは顔を歪めた少女。
しかしその瞳には諦念はなかった。
意地、危機に瀕した少女の気勢。
とはいえ少女を木に押さえつけた犬人の周囲に、追いついた他の五人が集まってくると、その瞳の意気も急激に失われる。
手間を掛けさせやがってという表情で顔を歪める犬人。
そこにあるのは喜悦、原初的な欲望。支配を行うということへの恍惚。
舌なめずりする彼らの巣に持ち帰られる少女の前途は悲惨である。
その先にある未来とは苗床。孕み腹。望まぬ欲望の解消のための道具と堕す、尊厳なき生。
少女の首元には何時しか犬人特有の長い舌が這わされ、
その毛と肉球を備えた手は嫌らしく猥雑に、まだまだ未発達な蒼い胸に這わされている。
そして隆起した己の欲望を、少女のスカートに、太股に、股に、さするようにこすりつけている。
見れば周囲の五匹も、己の股間をむき出しにしていた。、そこにあるのは毛がびっしりと生えたそれぞれの獣人の愛子。
匂い立つのは凄惨な予感。獣の如き野生の欲望。青臭い、そして獣臭い野蛮な性愛の空気が六匹の獣の間に立ちこめていた。
己の巣へと持ち運ぶ前に、前菜を摘むかのような調子で行われる、強制的な狂欲の宴。
「っ……ひっ」
と微かな恐怖、己の終わりを少女が自覚するかのように、ふるえ、いやだ、いやだ、と声を出したその時。
「ふむ、そこの者たち、少々尋ねたいことがあるのだが」
と、音が吹き抜ける。
音は言葉だ。新帝国崩壊後に主に各地で使われている方言の中で、最も共通語的な方言と見なされているエミダリ方言を巧みに操っている。
(言語学的な意味での方言とは、標準語という仮想の理想ではなく、それを基底として各地で話されている現実の言語を言う)
姿は蟹である。
大きい。しかし大き過ぎはしない。
身長150cm半ばという背の少女の腹ほどの高さ。
横の幅は、少女が二人も載れば満杯になるというような大きさ。
当然のことながら、その幅の多くは甲羅がとっている。
色は蒼。鬱蒼と茂り乱れる植生の王国においては一目で珍客であると分かる程度には
その森という情景に合っていない蟹である。
響いた声に、振り向くのは人型の獣、六匹。
狼そのものの形相で、唸り、吠え、睨み、牙を軋らせる彼ら。
絶対の警戒態勢。
その反応は、どうみても言葉が通じているとは思えぬほどに獣に近かった。
蟹のかつての仲間に『海月』というものがいるが、その群体生物にも遠く劣るようなその身振り、
知性というものとの縁遠さを感じずには入られない、野性の存在であったようだ。
「ううむ、困ったなこれは……、言葉が通じておらぬのか?」
と、呟く、遠く聞こえるのは呻く声、押さえつけられ、服装を破かれて、己の大人しい胸を空気に晒している少女の声。
――た、たすけてっ。
「ふむ、私は生の可能性の追求者、それが野蛮な欲望であろうとも、自律意志に基づいたのならば温かく見守りたいモノだが」
……生命の可能性とは醜い欲望を含んだ自由のことなのだから。
とはいえ、その六匹の獣は言葉が通じない、そして通じるのは一人の百舌の早贄のように射止められた少女のみ。
彼は尋ねたいことがある。彼らでは不適任で、彼女は適任だった。
「うむ、すまんな獣諸君! ……なに命までは取らんよ、俺は」
自らもまた、一人のプレイヤー、世界というモノを新しく生きると決めた。
生の営みの参加者。ならば、己の利益の為には越えなければならぬ障害というものも現れるだろう。
そして障害とは除けられるモノだ、己の利益と目的のために、それが生というものなのだから。
呟きと共に、獣へと猛然と突進する蟹。
そこに恐れは微塵もなく、敗北への不安も一切見えない。
鋼鉄の弾丸。残像しか認識できない超速度に乗った甲殻が、
猛然と獣へ突き進み、そしてぶつかった。
蹴散らされるのは獣。
蟹のとっての牽制の一撃は、しかし数匹の獣を吹き飛ばし、その足を砕いた。
少女の傍へと侍った蟹は、人間の如き太さの脚をもって、その速度を作り、
そして人間の腕を幾つか束ねたかのような大きさの鋏を振り回し、
幸運にも蟹の突進を回避できた二匹のコボルトの脚の腱をを剪み、斬る。
ザッパァ、と鋏が入れられ、脚が紙であるかのように、すっーと、断たれる。
辛うじて幾つかの筋肉繊維と皮だけが残ったというような有様。
蟹はその瞳になんの感慨も浮かべず。
豆腐に包丁を入れるような自然さで、鋏を入れている。
激痛。満足に歩けぬ未来像。死よりの残虐。
しかし蟹にとっての精一杯の手加減であった。
彼にとっては、未だ慣れぬ、矮小に変身した己の姿。
その中で取れる、最も操作性の高い攻撃が鋏であったのだ。
器の【力】を用いた想像法や、紋章法では、即死は免れない。
突進では不慮の死があり得るため、つまりは生命を不用意に奪う可能性がある以上、多用はしたくない。
その点、鋏ならば、暗殺者が人を殺し、蚊が人の柔肌へと浸食するように、簡単に、命までを取ることのない致命傷を避けての攻撃が可能なのだ。
……とはいえ、その先にあるのは死よりも辛い激痛と不便の生活かも知れないが。
蟹にとってはどうでもよいことであった。
奪うと決めたなら迷わない、その不断さは蟹の特徴の一である。
既に犬人は恐慌とともに姿を消し始めていた。
ある者は仲間を抱え、ある者は木を伝って、森に逃れる。
安寧の狩りを、一転させて破壊した。
奇妙な姿の強者から逃れるために。
2
速やかに目的を遂げた蟹は、呆然と、己の運命を救出した蟹を眺める少女へと話しかける。
「ふむ、無事か?」
「えっ、あ……っ、無事……よ、一応」
そう顔を赤らめた少女は、泣き腫らしたモノ特有の気怠さに満ちた表情を取り繕うように、強気な表情を作る。
乱れ晒された己の身体を急いで整えるその様は、隠しきれない可愛げを伴っている。
ぴょこぴょこと動く頭、顔には羞恥と感謝、そしてそれに素直になれないことからくる熱が灯り。
ついには顔をそらして、蟹に向かって呟いた。
「ぇぅ…… そのっ……ありがとぅ…………ました」
後半は消え入るような音で、多分本来は強気な少女の精一杯の礼儀。
未だに混乱から立ち直っていないようだ。
蟹はしかしそれに頓着しない。
「なに、礼はいい。……こちらにもこちらの事情があったのだからな」
そう呟く蟹、未だ混乱と恐怖が抜けていないだろうに、必死に己を取り繕う金髪の村娘の姿は愉快であった。
とはいえそれを何時までも何時までも観察している暇はない。時間の無駄だろう。
無駄にも滋味があるが、その滋味を味わっているようなシチュエーションでもなかった。
「さて、聞きたいことがあるのだが」
「ぇ、えっ、ええ、な、なんでも聞いてちょうだい」
「エミダリへの道はこちらでいいのかな?」
髪に手をやり、それを整え、表情の険も幾分とれた少女の戸惑い。
(この蟹、喋る)
という素朴にして重大な疑問。驚きもある。
しかしそれ以上に、彼女が戸惑ったのは、あるいは天啓を感じる程に驚いたのは。
――エミダリ
大陸の中心。地理的に文化経済的にも、そして歴史的にも世界の中心であり続けた。
由緒で凝り固まったような大都市である。
この奇妙な大型の蟹は。少女が生まれて始めて見た喋る魔獣は、そこに行きたいと述べている。
この蟹どうやって声を出しているのかしら? と考えながらも、返す言葉を考える少女。
その表情は真摯。期待。歓喜に塗れている。
蟹という魔獣を目前に、その対応を二の次にするほどの強い意志の発火。
少女は気がついたら不躾にも、質問の声を発していた。
「あんた、わざわざエミダリまでなにしに行くの?」
うっすらとした期待、どきどきと鳴る胸の音。
エミダリ、エミダリ、その名前を、そこへの行き方を、彼女が知らない訳がなかった。
彼女が恋い焦がれたのもまたエミダリなのだから。
蟹は、鋏を掲げ、その黒く、どことなく愛嬌のある瞳で、こちらを見据えた(ように少女には見えた)
「当然、冒険者になりに行くのだ」
そう音を作った、蟹の最新型音声変換紋章の音に、しかし少女は喜びと戸惑いの表情を浮かべた。
「そう! もちろんあたしも知ってるわよ、エミダリの場所。あたしもそこに用事があるの」
蟹は、鋏を鳴らす。
少女の威勢に何かを感じたか、愛らしくも燃え上がるような瞳の中の、意志の火を眺める。
「あたしの用事も、冒険者になることよ!」
これが、長い長い付き合いになる、一匹の蟹と一人の少女の出会いであった。
彼と彼女は、此処に始まり、これから多くを共に見て、共に歩くことになるのだが。
その奇妙な運命を知るものは、しかし未だ誰もいない。
3
「背中に乗るがよい」
という蟹の言葉に従って、少女は蟹の甲羅に座っている。
蟹の脚は、巧みに木と根を選り分け、森林をそれなりの速度で進んでいる。
少女を、村に送り届けるのと、これからどうやってエミダリに行けばよいのかその詳細を聞くためにである。
少女は先ほどからどうしても気になっていることが一つあった。
些細な疑問。
――どうして、背中にリュックがあるのかしら?
二本の紐がX字に蟹の甲羅に縛り付けられており、そのXの交差点に大きめのリュックが一つある。
「ねえ、この荷袋なんだけど」
「ん? ああ……、中に飴ちゃんはいってるから開けて食べても良いぞ」
弾むような声。げんなりとした少女の声。
相手をするのも面倒そうに少女は答える。
「あたしは子供じゃないわよ……」
「ふむ、俺からして見れば幼児に毛の生えたようなものだ」
蟹の歩みは続く、少ない揺れで、上半身を巧みに運んでいる。
脚裁きの熟達。四本の脚を見事に動かす。
進むや、進む、山を森を歩く蟹は堂々とした足取りをもって進んでいた。
そしてまた少女の、素朴な疑問。
「このリュックどうやって開けるの?」
「む…… なんだ、その」
親切な人に…… と呟く蟹の声は小さい。
冒険者に荷袋は必需品であるという情報が先行して、後先考えずに知り合いに作ってもらった荷袋だ。
当然の話だが、背中に鋏は届かないし、蟹は触手だとか手を持っている訳ではない。
多分これを用意して巻き付けた旧友連中は知っていてやったのだろう。
揃いも揃ってそういう奴らしかいないのだ。
「わかったわ! あんたアホなのね」
「傷口に塩を塗り込むような真似はやめてくれないか? レディ」
ふとそこで気付いたのだろう。
少女は気の強そうな顔、しかしまだ何処かあどけなさの残ったそれに微苦笑を浮かべた。
「ルナーレ=ジュール、あたしの名前よ」
「デ……、ペンタだ」
――やけにかわいい名前ね。 ――放っておけ。
少女がしばし揺られ、たわいのない話でしばらく時間を潰していたところ。
気がついたら村へと到着していた。
石、木、煉瓦、泥。
それらの素材を混交して造られた質素で素朴な家が、山の傾斜の始まりに、密集している。
幾つかの群れと群れ、数戸の家の連なりが至るところにあり。
それらを囲むように、棚田と段々畑、傾斜に沿った果樹、牛と鳴き声、馬のいななき、犬の吠える声。
そういったものが存在している。
笑いの声が響き、希に来る行商人と旅人の為の宿を兼ねている村の為の酒場からは、灯りと土の香り漂う男たちが酒臭い息を吐いている。
夕刻も終わりが近づき、とうに山間の向こうに、陽そのものは落ちている。
空にあるのは終わりの名残、かすかな夕暮れの紅と、境界の橙と白と透き通った青、
そして空には一番星と深い青、月は昇り、雲は無数だ。
蟹を乗騎として、少女ことルナーレは、意気軒昂とはほど遠い表情で、村の中を伺いつつ、蟹と共に進んでいる。
酒場と教会、そして自分の住家でもある村長邸宅が、村の中央部とでも言うべき戸の群れの中に見えた。
人口は三〇〇人程か、山村にしては多いだろう。
道の途中では老婆が、歩み、時に足を止め、時にぎょっとした表情で大きな蟹の魔獣と、それに乗る少女を見る。
老いた老人が、庭に立ち、左足をぴんと伸ばしながらも、もう片方の脚を大きく曲げている奇妙な体勢で、
果樹の整備をしているのが見える。
よぼよぼの顔、時折見えるのは若い男、若い村娘、質素なスカート、それを大きく補うような飾らない笑い。
粗野で野暮ったいとも言える村娘と村の青年たちの逢瀬。笑い声、ふざけ合い。
下品な冗談は酒場からも、その若い集団からも聞こえてくる。
近くを、あるいは少し離れて、村の住民の傍を通り過ぎる蟹と少女を見る顔は、驚きと恐怖と好奇心に彩られている。
しかしそれでも近づいてくる影がないのは、一体なぜなのか。
少女を背に乗っけている蟹の大きさか、はたまたこの少女の村での立場がそれをさせるのか。
様々な視線にさらされながらも、蟹はそれを意に介さず。
少女は、ふんっ、と気勢を吐いて、逆に睨み付けている始末である。
村の中で一番大きな邸宅。
ただ一つの二階建て、石造りと煉瓦、そして木が混交された独特の建築様式。
とはいえ、大きな都市の一軒家という程の大きさでしかない。
マッチ棒の中にライターがあれば目立つだけのことだ。
植物の垣根、中庭、道、蟹の足音、無言の少女、段差、木の扉、人一人ほどの大きさのそれ。
少女が蟹から降りて、蟹は、中庭で脚を折り、疲れを休める。
とんとんっ、というのはノック。
そしてそのあと、ガチャリ、とドアの開く音。
しばしの待ち時間だ。
蟹は色々考えてみる。
昨年の冬 新暦1622年の冬、蟹は1000年の眠りから目覚めた。
そして運良く古き友と出会い、冒険者という生き様を見て、外の世界へと脱出した。
新しき夢を得た彼は、肉体的に怪しまれない大きさに変貌し、
実力を制限して、己の新たな生を送ることにした。
そのために古き友人を何人も訪ね協力を仰いだのは良い思い出だ。
最終的には儀式大家に覚えのある研究者肌の友人知人が自らの身体を弄くってくれた。
九烈士ならば『無貌』『智慧』『賢者』 魔将は『鴉』『人形師』『海王』『四つ耳』
簡単な同窓会であった。
ともあれ彼らの渾身の世界理解、儀式法、想像法、紋章法、と属性変化やら概念変化やらのお陰で、
蟹はその姿を封印し、大きくサイズを縮小することになった。
刻印も削り、紋章も削る、魂の器は一度大きくしたのなら二度と小さくならない類のものだったのでそのままではあるが。
冒険者として生を送ることにした己への選別に皆、色々なモノを送ってくれた。その嬉しさを胸に。
デンザロスは、大連峰南の半島を出発し、途中で『四つ耳』と別れて、後は世界最大の迷宮、エミダリ中央迷宮へと向けてぽつぽつと進んでいたのだ。
旅路は順調、しかしモレサスを越えた辺りから続いた同じような景色が、
蟹の方向感覚を崩し、それがエミダリへの正しい道よりも、幾分に東にあるこの村の森林区域へと、蟹を進ませた理由であった。
蟹とて体力は無尽蔵ではない、溜まった疲れを休めることもある。
道を聞くために助けたルナーレの実家で、それを行っているところであった。
「ん?」
ふと視線を感じる。
子供だ。村の子供達、怖い物知らずな好奇心旺盛の少年少女が、仕事の手伝いを終えた後の時間で遊んでいた少年少女の視線が
己に向けられていることにデンザロスは気付いた。
「どうした」
うわぁ! という喜び、うわっ! という驚き。
喋った! 喋ったという少年少女たちに、魔獣であるデンザロスへの恐怖は殆ど無い。
猫を殺す好奇心、地雷原へと脚を進める好奇心。
蟹は鋏をちょいっ、ちょいっ、と動かし、子供達にこちらへ来るように伝える。
好奇心を隠さない子供達は、そうして蟹の下へと走り寄る。
4
「なに……これ……」
ルナーレが見た光景は驚きの物であった。
呆れを伴う物でもあったが。
腰には鈍く輝く武骨な剣、少女の腰に帯びるのは不均衡で不調和的なその装備と、
大きなリュックを背負った少女は、
うわぁ、と呟く。
蟹が、凄まじい速度で、残像さえ捉えられないような高速で、左右を行き来しているのだ。
背には子供が乗っている。
きゃっはっ~、だとか、うおぉぉぉ、だとか。
呻きとも歓喜とも取れる声を挙げてその速度を楽しんでいることは明らかだった。
――あたしが、父さんと母さんに会っている間に一体なにがあった。
シュールな蟹の高速反復運動。
眼を輝かせている順番待ちの子供たちを掻き分け、少女は蟹を止める。
「おおルナーレか」
「「おおルナーレか」じゃないわよっ! なにこれふざけてるの?」
どうしてこうなった。というルナーレの背には子供からの非難の声が響く。
それをシャァーッ と威嚇して、そのあと蟹をまた見る。
「うむ、試しに子供を乗っけて動いてみたら思いの外、好評でな」
「好評……」
俺はこう見えても、仲間内からは、見ていて愉快な奴だとなぜか言われていた蟹だからなっ!
それ褒められてるの?
結局子供たち全員が満足するまでの間、蟹は子供を乗せ、疑似ジェットコースターごっこを行った。
子供達は全員満足した顔で、笑って家へと帰っていった。
各地の戸で、暖炉の灯りと煙突から出る煙が上がり始めている。
春とは言え、夜はまだ寒い。
「それでその荷物、どういうつもりだ?」
蟹の問いかけ
背負っていたリュックと、鈍く古いもののよく手入れされているらしい剣を、中庭の隅に立てかけてからルナーレは振り向く。
「決まっているわよ、冒険者になるための道具」
そう毅然と返すのは村娘、
とはいえその容姿は、村娘とは思えない程の気高い器量に満ちていたが。
「俺に付いてくるつもりか?」
――それを俺が許すと思うか? そもそも納得のいく理由を示してみろ。
審問のような、冷たい声が蟹の微妙に泡を吹いている口から出ている。
先を促す蟹の黒目。
「理由はね、簡単」
一息を溜め。
「強くありたいのあたしは」
誰にも負けないような強さが欲しい。
そう願い、空を見るのは少女。
「本当はさっき、あの獣どもにも臆してはいけなかった。毅然とにらみ返して、舌を噛んで死ぬべきだったのよ。
……あたしね、この家の本当の子じゃないの、歳を取って子供のいなかった村長夫婦に拾われた子供なの。
小さい頃からそれで虐められたりしたわ、拾われッ子てね……誤解しないでね、あたしはお父さんとお母さんを本当の両親だと思っている。
沢山の愛情を受けて育ってきたわ……でも、でもね、この村にはどうしても馴染めなかった。
この村は何時までもあたしのことを阻害しているように見えた、あたしのことが嫌いな村。
……息苦しいのよ、だから、あたしは何時かこの村を出て行こうと思ってた」
――その為の冒険者
蟹は、身じろぎせず、先ほど会ったばかりの少女が告げる話に耳を澄ませる。
「しかし、なぜあったばかりの俺に、しかも蟹の怪しい魔獣にそれを話す?」
「さあね、聞いてもらいたかったのかもしれない、こんなこと話せる友達なんて一人もいないもの。
……いや正しくはわからないのね、わからないわからない。
本当はわかってた、木刀を暇なときに幾ら振っても、体力を鍛えると言って走り込んでも、
それは現実逃避なのかも知れないって、本当は村を出て行くことも冒険者になることもなく、
中途半端なまま、この村で適当な相手と結婚して、子供を産んで育てて、老いて死んでいくのかも知れないって」
言葉を切る。既に夜の暗さだ。
強い意志を瞳に乗せ、ルナーレと呼ばれた村娘は、蟹を見据える。
「そんなときに、あんな奴らに襲われて、そして白馬の王子様ならぬ、大蟹の王子様に助けられた……
そしてその蟹は、ペンタとか名乗ったあんたは、エミダリの中央迷宮に行くって言う。
もうこの機会しかない、これを逃せば、全てを諦めて、惰性で生きることになるって思ったの。
それはいや。そんなのは死ぬのと変わりないわ、前を向いてないもの……、だからあたしはアンタに付いていく、そう決めたの」
ほう、と蟹が呟く、生の輝き、素晴らしいまでの自律の意志。
我。つまりは自らというものと。
それ。多くの雑然としたものを振り捨てて、
汝。己の真にやるべきと自認する目的への純粋な意志。
生を追求する、生命の意思だ。
「素晴らしい」
蟹の思わず漏れた声。
だが、だがそれだけでは……
「私に何のメリットがあるのだ?」
「簡単なことよ、貴方は魔獣。一人じゃあ生きにくいし、偏見に晒されるわ、仕事だって選べない。
本だって読めないし、金の受け取りも支払いも出来ないわ。なら、それを補う人間が必要じゃない?
それにあんたどうやって一人で背中の荷袋あけるつもりよ……」
はっ、はははははは! と響めくのは蟹の笑い声。
「それもそうだなぁ。うむ言うことは一々最もだ。理由も気に入ったぞ」
「そう、お褒めにあずかり恐悦至獄ってところかしらね」
「ふむ、だがご家族はなんと言ったのだ?」
するとそれまで、輝かんばかりの強気に満ちていた顔が、弱り俯いた。
父と母というものを想う顔だ。血が家族なのではない、想いが家族なのだ。
それを象徴するような苦しそうな嬉しそうな顔のルナーレ。
「いつか、いつか……こんな時が来るような気がしてたって
娘が、外の大きな世界へと旅立っていくような気がしてたって……
それは心配だけれども、それは成長だから誇らしいって、
笑って、笑って言うの……、この剣もくれたの、役に立つだろうって」
「ふむ、血のつながりはない。がしかし、想いのつながりはあるということか、
良い家族ではないか! とはいえ、こんな若い少女をしかし一人で旅させるのは危険ではないか?」
「そのことでね、ええと……ペンタだっけ、あんた家の中に入っていいって、
それで、ちょっと話をしてみたいってお父さんが言ってた」
「ふむ、娘を託すに相応しい相手かどうか見極めるということか?
まるで婚姻みたいだなぁ」
「こ、婚姻って、……なっ、ば、馬鹿じゃないのっ!」
「うむだが、俺はお前が気に入った、気持ちの良い性格、前を向く意志。
とはいえ冒険者として適性や知識についてはまだなんとも言えないがな」
「ばっ、ばかにしないでよねっ、こうみえてもあたしに剣技や駆けっこで勝てる相手なんてこの村にいないんだからっ!」
腰に手を当て、自慢げにそう話すルナーレ。
その言葉を受けて、苦笑するかのように笑うデンザロス。
扉へと歩き始める蟹。
そしてそれに続くように、怒鳴るルナーレ。
「っちょ……ちょっとなにがおかしいのよっ!」
「いや、なんでもないぞ?」
「む~、なんでもないことないでしょっ!」
「いやいや、本当になんでもないよ」
頬を膨らませ、蟹の後を追う少女と、少女の住家に向かう蟹は、
笑い合いながら、家へと入っていった。
食卓には奇妙な客人。
奇妙な食事時。言葉を喋ることの出来る大蟹はしかし凄い速度で馴染んでいくのだった。
そして一晩が経過した。
翌朝、村から朝早く出て行く二つの影がある。
荷物をまとめ、改めてエミダリへと出発する一人と一匹の影だ。
少女と蟹の冒険生活、その始まりである。
続く