人狼探偵
デロスが死んだ春の朝、村の鐘はいつもより重々しく十三回打たれた。
夜気の残りが薄く霧となって流れ、広場に面した大きな屋敷の門前へ、まだ寝巻のまま飛び出してきた者、鍬を肩にかけて朝の仕事の前に駆けつけた者、祈るふりをして野次馬をしにきた者たちが集まってくる。
石畳の中央には毛布をかけられた死体が横たえられている。端からのぞく手は蝋のように白かった。
占い師がデロスの死体のそばにしゃがみ込み、水晶を死体の上で揺らすとそれは濁った赤に染まる。彼は険しい顔で言った。
「魔力の反応から見て、死因は巨大な爪、あるいは牙状の凶器による裂傷と失血……屋敷の中で殺されて、夜明け前に引きずり出されているね。獣性の強いものによる殺害だ」
誰かの一言で広場の空気が冷えた。
「……人狼だ」
「村に紛れ込んでたんだ」
「俺たちの中にいる……!」
囁きはたちまち恐慌に変わる。誰もが隣にいる者を疑い、誰もが自分だけは疑われまいと忙しく目を泳がせる。
その中でシャロンだけが別の意味で青くなっていた。
――やばい。ラタンが疑われちゃう。
十年前、飢えて倒れていたところを彼女が拾って以来、シャロンはラタンの正体が人狼であること知っている。知った上で友人を続けているのだ。この村で一番ラタンの生態に詳しいのはシャロンだった。
だから彼女は断言できた。ラタンはデロス殺害の犯人ではない。
なぜならあの人狼は、肉も一応食べはするが、それより根菜の煮込みと香草の和え物を好む。気の荒い人狼の群れに馴染めず一匹で村外れに住み着き、しかもひどい潔癖症で、生肉どころか泥つきの人参に素手で触るのも嫌がるのだ。
包丁を握らせれば「脂がぬるぬるする!」と半泣きになり、食事の支度は九割九分シャロン任せ。洗っていない皿の山を見るだけで寝込む、精神的貧弱なものぐさ人狼。そんなラタンが夜陰に乗じて村の有力者を引き裂いて殺すような凶行に及ぶはずもない。しかし村人たちがラタンの正体を知れば、まず間違いなく彼に罪が着せられるだろう。
シャロンは広場のざわめきに背を向ける。村外れの小さな家へ向かって全力で走った。
「ラタン!」
家の扉を蹴り開けると、中から悲鳴があがった。
「やめろシャロン! 昨夜そこの床を拭いたばかりなんだぞ!」
寝巻の上に厚手のガウンを羽織り、頭に妙に品のあるナイトキャップを被ったラタンが抱き枕を盾にして立っている。銀灰色の髪は寝癖で跳ね、琥珀色の目だけが無駄に鋭い。
「デロスが殺されたわ」
「知ってるよ。朝から鐘がうるさかった」
「人狼の仕業ってことになってる!」
「それは災難だな。ん? この村に人狼がいるのか」
「あんたのことよ!」
ラタンはしばらく無表情でシャロンを見たあと、瞼をこすりながら心底迷惑そうにため息をついた。
「僕は昨夜、湯浴みして、爪を整えて、ラベンダーとカモミールのハーバルティーを飲んで、九刻の鐘のあとには寝た。証人はいないが、これは事実だ」
「あんたがやったんじゃないなんて、言われなくても私は分かってるわよ。だからこそ真犯人を見つけなきゃ」
「なんで?」
「放っといたらあんたが疑われるからよ!」
「無実の者を疑う側の知能に合わせて僕が働くのか?」
「丸焼きにされたくなきゃやるの!」
丸焼きにはされたくないなと遠い目をするラタンの腕をシャロンが掴んだ。ラタンは足だけ狼に戻して床に爪を立てて抵抗したが、もともとやる気のない者の抵抗など物理的に強いシャロンには意味をなさなかった。
「待て、せめて手袋を」
「いいから早く行くわよ」
「外気に触れるならそれ相応の準備が……」
「うるさい!」
こうして村で最もやる気と殺気を持たない人狼は、村で最も勢いのある女に引きずられる形で探偵の役を負わされたのだった。
***
デロスの屋敷は村の中央広場を見張るように、高い石塀に囲まれて建っている。
血痕を辿った末に殺害現場は一階の書斎とみられていた。磨かれた床にまだ血の跡が生乾きで残されており、暖炉には灰の山、窓はきっちりと閉じられている。書斎の壁には鹿の角、猪の頭骨、狼の毛皮まで飾られていて、いかにもな成金趣味にシャロンが顔を顰める。
「うわやだ。ダサい」
その横でラタンは顔を押さえて彼女以上に顔を顰めていた。
「鼻が曲がりそうだ。血と鉄の匂い、安物の香料、古い紙とインク、埃、なめし剤のタンニンが混ざって……最悪だな」
「ラタン、何か分かったことは?」
「一刻も早く掃除すべきだということが分かる」
シャロンはラタンの後頭部を軽く叩いた。尤も、軽くというのは彼女の感覚で、である。
頭が吹き飛ぶかと思ったなどとぶつぶつ言いながらラタンは血痕の濃い場所を見下ろし、床の痕跡を目で追った。夜闇に紛れて死体が引きずられていったであろう扉、壁際の書棚と暖炉、磨かれた窓と血が跳ねたカーテン、机の上に置かれたグラス。そして壁に飾られた狼の毛皮。
「この毛皮、いつからここに?」
朝から来客の対応で忙しくしていた使用人の若者――ロイが困ったように答えた。感じの良い青年だった。目許は穏やかで姿勢がよく、綺麗に整えられた御仕着せに喪章が似合う物憂げな顔立ち。こういう男は村で誰かが死ぬと率先して雑事を引き受け、遺族を気遣う。老人や女たちに「あの子は本当に気が利くいい子」と褒められる類いの若者だ。
「古いものです。旦那様のお気に入りでした。買いつけたのではなく、いつかの春の狩猟で、旦那様ご自身が仕留めた狼だとか」
そう答えるとロイは「申しつけていただければ居間にお茶をご用意しますので」と言い置いて、他の客の対応に向かった。
ラタンは毛皮から顔を背ける。
「微かに死体と同じ血の匂いがする。これ、毛が少し抜けてる。デロスを殺したやつが毛皮に触れたんだ」
シャロンがまじまじと見上げれば、確かに目立たないところに毛が薄くなった箇所がある。匂いは人間の鼻では分からなかった。
「狼の毛を死体につけて、人狼の仕業に見せかけてるってこと?」
「本物の人狼なら、こんな古臭くて防腐剤まみれの毛を残すわけないけどね」
血飛沫は机の脇から扉の近くまで伸び、そこから先は飛沫ではなく引きずった跡だけが引かれている。
「傷は深い。でも、爪と牙でやったにしては裂け方が綺麗すぎる」
「ふぅん。綺麗に殺されたのね」
「嫌な言い方をするな。自然の爪痕はもっと乱れるものだ。指の一本一本で微かに軌道がぶれるし、肉をえぐる力もそれぞれ違う。けど死体には同じ間隔で同じ深さの痕があった。血飛沫も一定」
ラタンは細い指で空中に線を引いてみせた。
「まるで異端審問が使う拷問用の鉄爪みたいだ」
「審問を見たことがあるの?」
「僕の曽祖父がちょうど鉄爪で殺されたよ」
「あら……ごめんね」
「べつに。人に殺されるほど人を殺してきたんだから、因果応報じゃない?」
「ドライねえ」
書斎の机にはグラスが二つ置かれている。一つは空、もう一つには葡萄酒が少し残っている。昨夜デロスには来客があったようだ。
「書斎に迎えて、酒まで出してる」
「犯人は知ってる相手?」
「そういうことになるね」
シャロンは書斎の扉を見た。デロスは成金趣味だが、村人には特に嫌われても大袈裟に慕われてもいない、ごく常識的な有力者だった。来客は普段から多かったものの、書斎にまで招くことはそうそうなかったはずである。
「じゃあ、容疑者は最初からかなり絞られるかしら」
「そうでもない。田舎の有力者なんて愛想が良くなきゃやってられない。顔見知りなら書斎にくらい入れるだろ、寝室じゃあるまいし」
その時、廊下の向こうから騒がしい声が聞こえてきた。
「俺がやったって言うのか! ふざけるな!」
声の主はデロスの息子、リオルカだった。口論をしていたらしい村の若者を、リオルカの命令で使用人たちが屋敷の外へ追い出してゆく。
リオルカは金の刺繍の入った派手な上着を喪の帯の上に無理やり羽織り、髪を丁寧に撫でつけていた。父親が死んだ朝にしては妙に見栄えがよく、場にそぐわない洒落っ気がかえって不誠実に見える。
「ああいうのは根拠がなくても性格で疑われるんだ」
「ちょっと、声大きいわよ。見た目で決めつけちゃだめでしょ」
「決めつけてはいない。ただ見た目が不利だと言ってる」
そしてラタンは心底面倒そうな顔で続けた。
「さて。まずはあの放蕩息子からだ」
***
リオルカは評判通りの男だった。軽薄で口がうまく、女に笑いかける外面だけは完璧で、男には案の定ひどく嫌われている。だが話を聞いてみると、少なくとも昨夜の彼には証人が山ほどいた。村で一番ましな宿の酒場で三人の娘相手に口説いてまわり、五人の男から睨まれ、最後には椅子ごと外へ放り出されたという。
「つまり、最低野郎だけど犯人ではなさそうね」
シャロンの感想にリオルカは心外そうな顔で肩を竦めた。
「俺だって父の死は悲しいさ」
「でも遺産が入るんじゃない?」
「入るからこそ。これから手続きで忙しくなるし、父の仕事をすべて引き継がなきゃならないし、何より喪主は忙しくて今朝は女性に会いに行く時間もないんだ」
「最低」
「いや、誤解だって!」
しかしリオルカは、ふと真顔になった。
「……父は最近、おかしかった。何か決めた顔をしていた。俺と話したがっていたようだが、昨夜は会えなかった」
「あんたが飲みに行ってたからじゃないの。話って、遺産の話?」
「さあね。父が俺を叱責する時は、その前にため息を我慢するんだ。でも最近はため息が多かった。叱らずに済ませるようになったのか、もはや諦めたのか」
それは少しだけ、気になる言葉だった。
次に訪ねたのは旅人のオリアスとララシュが泊まる宿の二階である。彼らにも疑いの目が向けられている。
オリアスは穏やかな笑みを浮かべた青年で、旅装のままでもどこか育ちの良さが滲んでいた。疑われる理由が「なんか温厚すぎて逆に怪しい」なのは気の毒だったが、村という狭い共同体の中では余所者であるだけで充分怪しくなるのだ。
「昨夜ですか。私はずっと部屋にいましたよ。ララシュと一緒に」
「二人きりで?」
シャロンが聞くと、オリアスは一瞬だけ言い淀んだ。
「まあ……そうですね」
ベッドに腰掛けたまま、少女が前のめりになって口を挟む。肌は雪のように白く、瞳は暗い紅。年の頃は十五、六に見えるが、少女としては妙に人を食ったような視線をしている。
「先に言っておく。あたしは人狼じゃない。そっちの“本物”は気づいてるだろうけれど」
「えっ」
シャロンが驚いて振り向くと、ラタンはあっさり頷いた。
「吸血鬼だろ」
「ええ?」
ララシュはふんと鼻を鳴らした。
「あたしは血にはうるさいの。普段なにを食べてるんだか分からない他人の血なんて飲まないわ。オリアスの血はあたしがしっかり品質管理をしてるから」
「言い方が悪いよ、ララシュ」
オリアスが小さく抗議する。一見すると彼が保護者のような二人組の旅人は、実際にはララシュのほうが主人というに相応しい間柄らしかった。
驚きつつも人狼を友人とするおかげで、あるいはただ単純な性格のためにシャロンはすぐに吸血鬼という存在を納得して受け入れた。
「でも吸血鬼ってことが村のみんなにバレたら、吸血を隠すためにお前が殺したんだろうって言われるかもしれないわよ」
「証拠ならこいつの手首でも見れば? 殺されたやつとは絶対に傷口が違うと分かるはず」
オリアスが躊躇いがちに袖をまくると、確かに新しい噛み痕が二つ、きれいに並んでいた。少女の口らしい小ささで、おそらくはララシュの歯とぴったり合うのだろう。
ラタンが感心したように眺める。
「随分と上品に飲むんだな」
「あなたたちみたいに血腥い趣味はないの。食事ってもっと優雅にやるものよ」
「人狼を一括りにするな。とはいえ同感だ。血を撒き散らしても後の掃除が大変になるだけだ。僕は肉より火を通した茸のほうが好きだけどね」
「あら、いいわね。あたしも野菜が好きなの。だって肉や魚を食べさせたらせっかくのオリアスの血の風味が濁っちゃうじゃない?」
なぜか吸血鬼と人狼の偏食談義が始まりかけたので、シャロンは慌てて止めた。オリアスはいつものことなんですよという顔で苦笑している。いずれにせよ、二人には夜に出て行った様子はないという宿の女主人の証言もあり、容疑はいずれ薄くなるだろう。
三人目の容疑者、肉屋のタルバは無口な中年男だ。
口が動かない分、作業の際の手先のほうが異常に饒舌である。手際よく肉を切り分けて店先に並べ、血のついた前掛けのまま「俺じゃない」とだけ言った後、彼はシャロンたちに店の裏を見せた。吊るされた肉塊、鋭く研がれた刃物、鉤爪のような解体具がずらりと並んでいる。
シャロンは思わずラタンの前に立ちはだかった。
「何だよシャロン。僕は肉に飛びついたりしないぞ」
「逆よ。生肉からあんたを庇ってあげてるのよ」
「……それはどうも」
謎のやりとりに首を傾げつつ、タルバは腹に響くような低い声で言う。
「今朝、村長代理に道具を見せろと言われた。全部ちゃんと揃ってる。盗まれたものはない」
シャロンが棚をじろじろ眺めていると、タルバは押し黙り、やがて申し訳なさそうに一つ付け加えた。
「すまん。皮はぎ用の鉄爪を、先月デロスに貸したんだ。納屋の留め金を直すとかで」
「デロスに?」
「まだ返却されてないが、村長代理に伝えてある。事件が解決したら、屋敷から回収してくれるらしい」
シャロンとラタンは顔を見合わせた。タルバ自身はともかくとして、その鉄爪は相当クサい。
四人目の容疑者、酔っ払い牧師ジンガは相も変わらず教会の扉横に置かれた長椅子で寝ていた。
葡萄酒臭い息を吐きながら重々しく「神は見ている」と言って「俺は見てない」と続けるような男だったが、その日ばかりは思わぬことを口にした。
「デロスなあ……昨夜、懺悔にきたよ。珍しく真面目な顔をしてた。『あの子は出来が悪いが、血は血だ。ロイには別に褒美をやる。それで筋を通す』ってさ」
その言葉にシャロンが思わず身を乗り出して、あまりの酒臭さにすぐ引いた。ラタンに到っては三十メートルほど離れた風上に避難している。
「ロイに褒美をやって筋を通すって、彼はクビになる予定だったの?」
「クビかは知らんが、息子ではないとか。畑一つとか、金貨袋とか、そんな話だった。よく覚えとらん」
「役に立たないわね、この酔っ払い牧師! それロイは知ってたの?」
「知ってたかどうかは神のみぞ知る。デロスは『今夜話す』と言ってた」
教会を後にしてシャロンは拳を握った。
「ロイが犯人ね」
「短絡的だな」
「だって動機があるわ!」
「動機がある人間は他にもいる」
「でも一番それっぽいし!」
それっぽいで犯人扱いされたらたまったものじゃないと窘めるラタンの横で、シャロンは歩きながら名探偵のように指先で顎をなぞった。
「だいぶ見えてきたわよ。犯人はデロスが夜に書斎に招き入れるような相手で、遺産の話を知っていて、壁の狼の毛皮をむしって、デロスの屋敷に鉄爪があることを知ってて、それを持ち出せる人間。つまり、ロイしかいないわ!」
「結論ありきの推理だ」
「私はとりあえずあんたが疑われなきゃいいのよ」
「ありがたいけど横暴だな」
***
夕刻、デロスの屋敷の居間に容疑者たちが集められた。喪の黒と不安のざわめきで空気は重く、窓の外で真っ赤な陽が沈みかけている。
リオルカは主人のソファに深く座って腕を組み、タルバは壁際に控えめに立ち、ジンガはもう酔って椅子から落ちかかっていた。オリアスは心配そうにララシュの手を握って、とうのララシュは椅子の上で脚をぶらつかせて興味深げに皆を眺めている。そしてロイは誰よりも健気に使用人の役目を果たしていた。
部屋の中央にシャロンが歩み出る。
「デロス殺害事件の真犯人が分かったわ」
ラタンは彼女の後ろ、できれば関わりたくないという顔で壁にもたれていた。それでも視線は鋭く、獲物を見る獣じみている。
「まず、これは人狼の犯行じゃない。死体に付着してた狼の毛は壁の毛皮からむしったものよ。防腐処理がされてたの。あと傷が綺麗すぎるって。狼にしては爪の間隔が揃いすぎてるとか。ラタンがそう言ってた!」
最後の一言で、皆の視線が一斉にラタンへ向いた。
「おい。僕に丸投げするな」
ラタンの抗議にもめげず、シャロンは勢いだけで推理の披露を続けた。
「デロスは犯人に酒を出してる。だから相手は知った顔だったのよ。そして犯人は、人狼の仕業に見せかけるための毛皮に触れる機会があった。さらに凶器の置き場所。タルバが貸した鉄爪、使用人ならどこに置いてあるか知ってるはずよ。犯人はあなた!」
ぴたりと指をさされ、ロイの表情が初めて怪訝そうに歪む。
「あの……すみません。それは、リオルカ様にも当てはまりますし、私以外の使用人にもすべて当てはまるのでは?」
「確かに!」
シャロンがあっさり頷くと、リオルカとオリアスは崩れ落ちそうになり、ララシュがあげた笑い声で眠りかけていたジンガが目を覚ました。タルバとロイはただただ困ったような顔をしている。
やるせなさそうなため息を吐いてからラタンがシャロンの隣に立った。
「デロスの傷は右から左へ流れていた。左手で肩を押さえて動きを止めてから、右手の『武器』で切り裂いたんだ。獣じゃない。人間のやり方だ」
ロイの喉が僅かに動いた。ラタンは続ける。
「そして書斎の暖炉。もう夜に火を入れる季節じゃないのに、何かを燃やした跡があった。これだ」
ラタンが卓上に焦げた羊皮紙の断片を置いた。村人たちどころかシャロンまでもが身を乗り出す。そこにはかろうじて読める文字が残っていた。
――全財産を実子リオルカに。
いずれ勘当でもされるものと思っていたリオルカは目を見開き、ロイの顔から血の気が引いた。
「自分に財産を継がせる遺言書を、そこの放蕩息子が燃やす必要はない」
「ご尤も! むしろ俺なら額縁に入れて飾っておきたいくらいだね」
「あなたは昨夜、デロスにその話をされたんだろう、ロイ」
ラタンの声は同胞に呼びかけるように静かだった。
「忠実な使用人として、長年デロスとこの家を支えてきた。実の息子より信用されていた。なのに最後は血筋に負けた。腹が立ったんだろう」
「違う」
そうロイは言ったが、その声はひどく掠れていた。
思いきり眉をひそめたシャロンはまず「どうして遺言書のことを教えてくれなかったのか」とラタンを睨んだが、すぐにロイに向き直る。
「デロスを殺したのはともかくとして」
「ともかくとして?」
「人狼の仕業にしようとしたのが気に入らないわ。そのせいで村のみんなは疑心暗鬼になって余所者を怪しんだ。怪しいやつを吊るそうとした。混乱のうちに遺産の話も曖昧になる。あんたはずっと“可哀想な忠実な使用人”でいられる。そういう魂胆、情けないわよ」
ロイは笑おうとして、笑えなかった。
「今朝から手を隠してるな」
ロイの右手にはずっと白い手袋が嵌められていた。それは喪に服す使用人に相応しい白ではあった。
「傷口の一つに金糸が絡んでた。金糸は高級な服の飾り紐によく使うが、この屋敷の使用人でもひとりだけ持っていた。お前がデロスに贈られた、御仕着せの袖の縁取りだ。凶器を振るった時に切れたんだろう。それと、鉄爪を洗う時に無理をしたな。右手首に金具で擦った傷がある」
反射的に手首を押さえたロイの顔が見る間に青褪める。その仕草がすべてを物語っていた。村人たちの視線が、信じられないという目から、真実を見た確信の目へ変わっていった。
「……あの人は、私に家のことを任せてくださった。帳簿も畑も取引も、病の時の看病さえも。リオルカ様が女性を追いかけている間、私がすべてを取り仕切っていました。村の誰より、息子より、私のほうがあの人を理解していたのに」
リオルカが何か言い返しかけたが、ララシュが一睨みして黙らせた。
「なのに最後は、“やはり息子に継がせる”だ。褒美はやる、畑をやる、金をやる。……犬に骨を投げるみたいに。笑えるでしょう。私は家族じゃない。どれだけ尽くしても、血の繋がりには勝てない」
「だから殺したの?」
「ええ」
あっさりとした言葉は部屋の空気をむしろ重たくした。
「最初は脅すつもりさえありませんでした。ただ考え直してほしかった。リオルカ様に継がせたら、この家はどうなってしまうか。でも、あの人は言った。『お前はよくやってくれた。だが筋は通さねばならん。今後はリオルカを支えてくれ』と。あの瞬間、もう、どうでもよくなった」
投げやりな仕草で彼は手袋を外した。手首の小さな擦り傷は、すでに血が乾いてどんよりと濃い色をしている。
「鉄爪で裂けば人狼のせいにできると思ったんです。人々は怪しいものを勝手に怪物にするし、誠実そうな顔の人が何をしていても気にしない」
その言葉に、ララシュがおかしそうに息を漏らした。
「そこだけはあたしも同感」
ロイは最後の足掻きに逃げようとした。呆気にとられているリオルカの脇を抜けて庭へ出ようとする。だが、その前にシャロンの拳が飛んだ。鈍い音がしてロイは横へ吹き飛び、卓を巻き込んで床に転がった。
「あーあ、話し合いで済ませたかったんだけど」
「今の勢いのどこに話し合いの余地があったって言うんだ」
タルバが先に我に返ってロイを取り押さえた。誠実そうな顔は床に押しつけられ、もはや誰も「あの子は気が利くいい子だ」とは言えなかった。
***
その夜、村はようやく静かになった。
ロイは牢で町から保安官がくるのを待っている。リオルカは呆然としたまま父の書斎に閉じこもり、ジンガは「人は弱い」と言っていつもの長椅子で寝ていた。タルバは屋敷から鉄爪を回収して帰り、オリアスとララシュも宿へ戻った。
ララシュが「案外やるじゃない、人狼」と言い、ラタンは「吸血鬼が帰ったら村はもっと平和になる」と嫌味を返した。
村外れのラタンの家への帰り道、春の月は朧で、風は冷たかった。また明日の朝には霧が出そうだ。
シャロンは満足げに胸を張っていた。
「無事に解決したわね!」
「まあ半分くらいは」
「何よ、その言い方」
「犯人は捕まった。でも村人の頭の中から“分からないから怪物のせいにしよう”という発想は消えてない。明日また何か起きたら、また別の何かを雑に疑うんだろう。お前みたいに」
シャロンはしばらく黙って歩いた。確かに彼女も安直にリオルカやロイを疑った。ロイの動機を情けないとは思うが、ラタンでないことさえ証明できれば真犯人が誰でもあまり構わないのは、シャロンも同じだ。
「……でも、いいじゃない。あんたは助かったんだし」
「お前が勝手に動いた結果だろ」
「だって友達だからね。それにしても、よく遺言書の端を見つけたわね」
「匂いで分かる。そもそもロイの身体から死体の血の匂いがしてた」
「ええ!? じゃあ最初から分かってたんじゃない!」
「でもそれを証明できないだろ」
「確かに」
匂いで分かった、などと言えば、自分が人狼であると自白するようなものである。
ラタンはちらりと彼女を見た。月明かりの下で神妙な顔をしてみせても賢くはない、考えるより先に拳が出るやつ。だが、一度“仲間”と決めた相手のためなら村中を敵に回しても突っ込んでいく女。
「人狼みたいなやつだ」
「褒め言葉よね?」
「そう聞こえるとしたらお前は変だよ」
家に着くと、シャロンは勝手知ったる我が家のようにキッチンへ向かう。
「お腹すいたでしょ。何か作ってあげる」
「手を洗ってからだぞ、シャロン」
「はいはい」
「ちゃんと石鹸を使え」
「使うってば」
「二度洗いをしろよ」
「人殺しを捕まえた日だっていうのにごちゃごちゃ細かいわね」
「だからこそだ! どれだけの菌がついてきたことか!」
やがて夜が更けると共にキッチンから香草と玉ねぎの匂いが立ちのぼる。ラタンはその匂いを嗅ぎ、ようやく肩の力を抜いた。
村ではこれからも人が人を疑い、獣を恐れ、見知らぬものに罪の名前を着せて遠ざけようとするだろう。しかし少なくともこの小さな家の中では、どんな事件の記録よりもどんな伝承よりも確かな互いへの信頼がある。
潔癖で肉を好まない人狼と、言葉より拳を振るうほうが得意な人間の女。後にシャロンの不注意によりラタンの正体が村人にバレた時にも、「まあ村外れの引きこもり狼より、あの女の拳のほうが怖いしな……」と案外すんなり受け入れられたという。
そして遡ってこの日のデロス殺人事件をめぐって、ラタンは村人たちの間でこう呼ばれるようになった。
――人狼探偵、と。




