3 月夜
夜空に三日月が浮かぶ静かな夜。
窓の外では星々が煌めき、柔らかな月の光が大理石の床に青白い模様を描いている。
「ジャック、今日からここがあなたの部屋よ」
ミリアーナはジャックを連れ、小さな個室へと案内した。そこは使用人達の住まう区画にある一室で、質素ながらも掃除が行き届いた清潔な空間だった。部屋にはベッドと机、クローゼットなどが備え付けられており、生活するには十分過ぎる程の環境が整えられていた。
「好きに使っていいわよ。何か必要な物があれば言って頂戴」
「……ああ」
部屋の中を無言で見渡した後、ジャックは静かに頷いた。これまで過ごしてきた檻の中とは雲泥の差であり、その違いに未だ現実味を感じられないでいた。
「見て!ジャック。三日月よ」
「月……?」
窓辺に近づき外を指さすミリアーナにつられ、ジャックも月を見上げた。冷たく冴えた月の光が、雲ひとつない夜空に凛然とした輝きを放っている。
「私ね、月が大好きなの。こうして眺めているだけで心が落ち着くわ」
そう言って微笑むミリアーナの横顔は、月明かりに照らされて幻想的に映った。その姿を一瞬だけ横目で確認したジャックは、特に何も言わず再び視線を月へと戻す。
月の輪郭をぼんやりと眺めながら、これまでの生活を思い返していた。
暗い檻の中で過ごしていた時は、明かりといえば壁に取り付けられた仄暗いランプくらいなもので、空を見上げる機会など久しく無かった。ましてや、その美しさに気づく余裕など到底持ち合わせていなかった。
「ねぇ、ジャック。貴方の髪、月の光に当たると凄く綺麗なのね」
不意に声をかけられ振り向くと、そこには目をキラキラと輝かせたミリアーナの姿があった。
「ほら、まるで雪原のように輝いてるわ。とっても素敵な色ね」
そう言って楽しそうに笑う彼女に、ジャックは少しだけ眉根を寄せた。
「……気味悪くないのか?」
「気味が悪い?どうして?私はとても美しいと思うわ。勿論瞳も綺麗よ」
真紅の瞳と銀色の髪。それらはかつて己が虐げられる要因となっていたもの。それを目の前の少女は躊躇うことなく称賛してくれている。それが不思議でならなかった。むず痒いような感覚に襲われ、ジャックは僅かに目を逸らす。
「きっとみんな、貴方の美しさに嫉妬しちゃうでしょうね。でもまぁ、私はもっと美しくて可愛いから大丈夫よ」
冗談交じりの自慢げな台詞に、思わず小さく鼻で笑ってしまう。すると、耳聡く聞き逃さなかったのか、ミリアーナがニヤリと笑みを浮かべる。
「あら、貴方が笑うところ初めて見たかも」
ジャックは咄嗟に表情を引き締め、いつもの無愛想に戻った。
「…気の所為だ」
「ふふ、そういうことにしておくわ」
「…………」
部屋に静寂が訪れる。
お互い黙ったまましばらく月を眺めていた。
突然、ノックの音が響き渡る。
「失礼します」と言う声と共に扉が開き、メイドが一人トレイを載せたワゴンを押して入ってきた。
「お食事をお持ち致しました」
メイドが手際良くテーブルの上に料理を並べていく。焼きたてのパン、野菜スープ、チキンソテーといった品々が並べられ、芳ばしい香りが部屋中に漂った。
「さあ、召し上がれ」
「……」
ミリアーナに促され、ジャックはぎこちなく席に着く。生まれて初めて見る豪華な食事に目を丸くし、しばし呆然とする。いつも口にしていた固いパンや残飯とは比べ物にならなかった。
「どうしたの?食べないの?」
「……これ全部俺の分なのか?」
「当たり前じゃない。他に誰が食べるっていうのよ」
当然の如く返された言葉に、ジャックは恐る恐るスプーンを手に取り、スープを一口掬って口に運んだ。その瞬間、口の中に広がる濃厚な旨味と塩気。飲み込むとスープの温かさがゆっくりと体の芯まで沁みていくような感覚を覚えた。
「美味い……」
ポツリと漏らしたその言葉は、自分が発したものとは思えない程優しく穏やかな響きを持っていた。同時に、胸の奥底から込み上げてくる感情に戸惑いを覚える。
(なんだこの感じ……)
そんな彼の様子を見守っていたミリアーナは、嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわ。まだまだ沢山あるからどんどん食べてね」
「……」
目の前の食事に夢中になりつつも、ジャックは無意識のうちに視界の端でミリアーナの表情を捉えていた。彼女は幸せそうな笑顔を浮かべ、時折優しく「おいしい?」などと声を掛けてくる。その無邪気な笑顔を見る度、何故か居心地の悪さを感じてしまいつい視線を逸らしてしまう。
やがて食事が終わり、片付けられた後のテーブルを眺めながら、ジャックはお腹いっぱいの幸福感に浸っていた。温かい食事、柔らかな寝具、肌触りの良い清潔な服。どれも昨日までの自分からは想像が出来ない程贅沢なものばかりだ。
「さて、そろそろお休みしましょうか」
ミリアーナがそう言うと、ジャックは素直に頷き用意されたベッドへと足を運んだ。
「それじゃ、おやすみなさい」
「……ああ」
パタンと閉まる扉の音と共に、静寂が訪れる。ジャックは暗闇の中でぼんやりと天井を見つめながら、今日の出来事を振り返っていた。
(……変な奴だ)
思い出すのは宝石のように輝く蒼い瞳。透き通るように白い肌。高い位置で二つ結びにされた金糸雀のよう金髪。そして自信に満ちた笑顔と、掴みどころのない言動。出会ってからまだ一日も経っていないのに、強烈な印象を残していった。
『一緒に冒険の旅に出てもらうわ』
彼女の言葉が脳内で反芻される度に、胸の奥がざわついた。生まれてこの方、未来に対して何か希望を抱いたことなど一度もない。世間知らずのお嬢様が想像もできない程の苦痛の日々。今日生き残ることだけを考えてきた。
(……くだらない)
頭の中で呟き、瞼を閉じる。しかし、眠ろうとすればするほど、先ほどの言葉が蘇ってくる。そして、自然と思い浮かぶのは彼女の笑顔だった。
(……なんでこんな気持ちになるんだ……)
得体の知れない感情に苛まれながらも、次第に意識が朦朧としてくる。そして、いつしか深い眠りへと落ちていった。




