2 少女の夢
二人は路地裏を抜け、街の大通りへ出た。
人通りも多く、すれ違う人々は汚らしい格好をした少年に眉を顰める。そして、その横にいる身なりの良い少女との不釣り合いな組み合わせに、奇異の目を向けていた。
しかし、そんな視線も意に介さず、ミリアーナは少年の手を引き続けた。
「そういえば貴方、名前は?」
「………ジャック」
感情の無い冷たい声が、周囲の喧騒に紛れながらもはっきりと聞こえた。
「ジャック!素敵な名前じゃない」
「…別に」
「これからよろしくね、ジャック!」
ミリアーナは満面の笑みで宣言すると、再びジャックの手を引いて歩き始めた。
夕暮れの前の鐘が遠くで鳴り響く中、二人はローズベリー家の馬車が停めてある場所へと向かった。
そこで待っていた御者は、やって来た二人を見るや否や、慌てた様子でミリアーナに駆け寄った。
「お嬢様!一体今までどちらにいらっしゃったのですか!?心配していたのですよ!それに、その少年はいったい……?」
御者はジャックに視線を移すと、驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべた。
「ゴメンなさい。言ったら絶対に反対されると思ったから……でも、ちゃんと事情はお父様にお話するわ。だからこの子も一緒に乗せて欲しいの!」
「しかし……」
「お願い!」
ミリアーナの強い眼差しに、御者は渋々と引き下がった。
「わかりました。とりあえず早く帰りましょう。帰ったら旦那様に今日のことを必ず報告致しますよ?」
ミリアーナはコクリと頷き、ジャックの手を離さないまま馬車に乗り込んだ。
馬車の中、ミリアーナはジャックと向い合って座り、今後について話し始めた。
「貴方はこれから、私の従者として仕えること。わかった?」
ジャックは、無言のまま少し考えた後、短く頷いた。
「そして、それに伴い最低限の礼儀作法や、教養を覚えてもらうわ」
「…ああ」
面倒臭そうに、同じように短く頷く。
「そして、もう一つ。なんならこれが一番大事なことかもしれないんだけど……」
「……」
ほんの少しの静寂の後、ミリアーナは口を開いた。
「私が18歳になったら、一緒に冒険の旅に出てもらうわ!どう?すっごくワクワクするでしょ?」
ミリアーナはまるで、新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせた。
一方、ジャックは想像していた内容と違っていたためか、拍子抜けしたかのような表情を一瞬だけ覗かせた。
「この広い世界を、自由に旅するの。きっと見たことのない綺麗な景色や、面白い物が沢山あるはずだわ。どう?とっても素敵でしょ?あんな暗くて陰気臭い場所なんかにいるより、ずっと楽しいわ!」
そう語る彼女の澄み切った碧色の瞳には、純粋な好奇心と希望に満ち溢れていた。その眩しいほどの輝きは、ジャックが今までの人生で感じることのなかった光だった。
「………楽しい?」
その言葉に、ジャックの胸の奥底で何かが静かに揺れた気がした。
「ええ、そうよ。私が言うんだから間違いないわ!」
「…ふーん」
得意げな表情で言い放つミリアーナに、ジャックの真紅の瞳にほんの僅かだが興味の色が灯った。
それは、これまでの灰色の世界とは別の可能性を感じさせる微かな光だった。
外は日が沈みかけ、空が茜色に染まる頃。二人を乗せた馬車はローズベリー邸に到着した。
大きな門を潜り抜け、広い庭園を抜けると、壮麗な白亜の邸宅がそびえ立っている。
屋敷の玄関では既に使用人達が集まっていた。
馬車が止まると、慌てて数人の使用人が飛び出し、中から降りてきた二人を迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。大変心配しておりました」
執事と思われる老紳士が丁寧にお辞儀をする。その後ろには数人のメイド達が控えており、皆一様に安堵の表情を浮かべていた。
「ただいま。心配かけたわね」
ミリアーナは申し訳なさそうに微笑むと、隣に立つジャックに視線を向けた。その視線の先の擦り切れた服を着た薄汚れた少年を見て、執事は眉を顰めた。
「……それで、そちらの方は?」
「この子は私の従者になるジャックよ!今日からここで暮らすことになったわ」
唐突すぎる宣言に、執事だけでなく周囲の使用人達にも動揺が走る。
「お嬢様……いきなりそのようなことは承服致しかねます。まずは旦那様に……」
「わかってるわよ。だから、すぐにお父様にお話させて。それと、ジャックの体も綺麗にしてあげて欲しいの」
ミリアーナは有無を言わせぬ勢いで、強引に話を進めていく。その姿勢に、執事も渋々と折れざるを得なかった。
「…承知しました。では、まずジャック殿のお風呂を用意させましょう」
執事の指示により、メイドの一人がジャックを浴室に案内した。そこは大理石で作られた贅沢な造りの浴室で、初めて見る豪華な設備にジャックは目を見開いた。
「こちらでお湯をお使い下さい。衣服はこちらで洗濯いたしますので、脱いだものはここに置いておいて下さいね」
若いメイドが淡々と告げると、ジャックは静かに頷いた。そして彼女が部屋を出ると、ジャックは言われるがまま、服を脱いで浴槽に入った。
温かい湯に浸かるのは久しぶりのことだった。普段はたらいに汲んだ水で体を拭う程度だったので、全身を包む柔らかな感触に、思わず溜息が出る。
しかし、その温もりは長くは続かず、すぐに不安と疑問が頭をもたげる。
なぜ自分はこんな所にいるのか。
本当にこのままで良いのだろうか。
あの令嬢は何を考えているのか。
答えの出ない問いかけが、頭の中で何度も繰り返される。だが、考えても仕方ないと判断したジャックは思考を放棄し、今はただ、この状況を受け入れることにした。
湯船から上がり、用意されていた清潔な服に袖を通す。
それは仕立ての良い上質な布地で出来ており、動きやすい軽装だった。袖を通した瞬間、今まで感じたことのない滑らかな肌触りに戸惑いを覚えながらも、自然と身に纏われたことに違和感を抱かない自身に驚いた。
「思ったよりも似合うじゃない!」
浴室から出てきたジャックを見て、ミリアーナは嬉しそうに笑顔を見せた。
「それじゃ、行きましょうか」
ミリアーナに促され、再び屋敷の中を歩き始める。
階段を上り、長い廊下を進んでいくと、突き当たりにある重厚な扉の前で立ち止まった。
緊張した面持ちでノックをするミリアーナ。
「お父様、私よ」
「ああ、入りなさい」
中から威厳のある男性の声が返ってきた。
ミリアーナがドアを開けると、そこには窓際で書類仕事をしている壮年の男性の姿があった。鋭い眼光を持ちながらも、どこか優しさを感じさせる落ち着いた雰囲気を持つ人物だった。
そして彼こそがローズベリー伯爵家当主、ウィリアム・ローズベリーその人であった。
ウィリアムは入室してきた娘と、その後に続く見慣れない少年に視線を向けた後、ゆっくりとペンを置いた。
「その少年は?」
「紹介するわ。今日から私の従者となるジャックよ」
「従者だと?何故突然……」
予想外の申し出に、ウィリアムは困惑した様子を見せる。しかし、娘の真剣な眼差しに何かを察したのか、静かに椅子から立ち上がった。
「詳しく話を聞こう。そこに座りなさい」
ウィリアムはミリアーナとジャックをソファに座らせると、自らも対面の席に腰掛けた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「一体どういうことか、順を追って説明しなさい」
ミリアーナは大きく頷くと、これまでの経緯を話し始めた。奴隷商でジャックを買ったこと、彼を自分の従者とすること、そしていずれ共に旅に出る約束をしたこと。それらを包み隠さず全て打ち明けた。
最後まで黙って聞いていたウィリアムは、深いため息をついた後、静かに口を開いた。
「…なるほどな。実にお前らしい考えと行動力だ。……一体誰に似たのだか…」
「もちろんお父様よ!」
ミリアーナが屈託のない笑顔で答えると、ウィリアムは苦笑いしながらも、どこか嬉し気に目元を細めた。
「…昔、私も親友と共に世界中を旅していた。その時の話をお前に聞かせる度、目を輝かせていたのを良く覚えている。そして、自分も旅に出たいと言い出した時、驚いたと同時に不思議と誇らしい気持ちになったものだ」
ウィリアムは懐かしむように窓の外へ視線を向けた。
「ミリアーナよ、私とした約束は覚えているか?」
「ええ、もちろんよ」
「…お前が18歳の成人を迎え、優秀な従者を一人連れて行くことを条件に、旅に出る許可を与えたが……まさか奴隷商で買うとは夢にも思わなかったぞ」
「だって、自分の側近は自分で選びたかったんだもの」
「まったく……相変わらず型破りなところがあるな」
ウィリアムは呆れたように頭を振ったものの、その表情は穏やかで、否定的な様子ではなかった。そして、視線をジャックに向けると真剣な眼差しで尋ねた。
「ジャックと言ったな。君には魔族の血が流れているように見えるが、間違いないか?」
「…ああ」
銀色の髪に真紅の瞳という特徴的な容姿は、魔族に多く見られる特徴だった。しかし純血ならあるはずの角などが無いことから、恐らくは混血であることが伺えた。
「ミリアーナが選んだ以上、君に対する偏見などは持たないつもりだ。しかし、我々人間社会で生きていくならば、その特徴的な容姿はどうしても注目を集めてしまうだろう。今後、君への風当たりは強く厳しいものになるやもしれない。それでも構わないか?」
ウィリアムの言葉にほんの一瞬だけジャックの瞳が揺れたように見えたが、次の瞬間には平静を取り戻していた。
「…別に、慣れてる」
「そうか……我儘で強引な娘だが、どうか宜しく頼むよ」
ウィリアムの言葉に、ジャックは小さく頷いた。その様子を見届けた後、ウィリアムは改めてミリアーナの方へ向き直った。
「ミリアーナよ。お前が決めた道だ。責任を持って行動しなさい。ただし、旅立ちまでに残された期間、学ぶべきことは多くある。これまで以上に勉学や鍛錬に励みなさい。無論、ジャックも同様にだ」
「わかってるわ、お父様!ありがとう!」
ミリアーナは弾けるような笑顔を見せ感謝の言葉を述べると、傍らに佇むジャックの方に向き直った。
「さぁジャック、やる事が山積みだわ!でも今日はひとまず休んで、明日からまた頑張りましょう!」
無表情のまま見つめるジャックに対し、ミリアーナは満面の笑みを向けると、再び彼の手を取って立ち上がった。
「おやすみなさい、お父様」
「ああ、おやすみ」
そう言って二人は部屋を後にする。
廊下の窓から差し込む淡い月の光が、並んで歩く二つの影を優しく照らしていた。




