第八章 闘争の御者
国境付近の村々を回り、避難民を聖都に運ぶ作業は、三日間続いた。
道明は、ほとんど眠らずに走り続けた。子供を抱えた母親、杖をついた老人、泣き叫ぶ赤ん坊——さまざまな人々を、天輪号に乗せ、安全な場所へと送り届けた。
その間、手の甲の紋章は、絶えず輝き続けていた。功徳が、膨大な速度で蓄積されていく。
「道明さん、少し休んでください」
リーゼルが、何度も懇願した。
だが、道明は止まらなかった。
「まだだ。まだ、運んでない人がいる」
その執念は、異常とも言えるものだった。
だが、道明には——わかっていた。
自分が走れるのは、今だけかもしれない。
戦争が始まれば、状況は一変する。敵の攻撃を受ければ、自由に動けなくなる。今のうちに、できることを全部やっておかなければ——
四日目の朝。
最後の避難民を聖都に送り届け、道明はようやく馬車を降りた。
足元が、ふらついた。
「道明さん!」
リーゼルが、駆け寄ってきた。
「大丈夫だ……ちょっと、疲れただけだ……」
「ちょっとじゃないです! 三日間、ほとんど寝てないじゃないですか!」
「タクシー運転手は——」
「ここは異世界です!」
リーゼルの声が、悲鳴のように響いた。
「道明さんの身体は、もう限界なんです! お願いですから、休んでください……」
道明は、リーゼルの顔を見た。
涙を浮かべた、真剣な目。
「……わかった」
道明は、観念したように頷いた。
「少し、寝る」
「本当ですか?」
「ああ。だから——何かあったら、起こしてくれ」
道明は、御者組合の奥にある休憩室に向かった。
ベッドに横たわる。
目を閉じた瞬間——意識が、闇に落ちた。
◇
夢を、見た。
深夜の東京。タクシーの運転席。
いつもの風景。いつもの匂い。いつもの——
「神崎さん」
後部座席から、声がした。
道明は、バックミラーを見た。
そこには——老人が座っていた。
あの夜、最後に乗せた客。透明な目を持つ、謎の老人。
「……お前は」
「覚えていてくれたか」
老人が、薄く笑った。
「あんたが、俺をこの世界に——」
「違う。わしは、ただの案内人だ。お前を呼んだのは、別の者だ」
「リーゼル、か」
「そうだ。彼女は——千年前から、お前を待っていた」
道明は、黙っていた。
老人が、続けた。
「神崎道明。お前には、『お化け』を乗せる力がある」
「お化け?」
「わしのような存在だ。この世界では、『失われた神霊』と呼ばれている。かつて世界を守護していた、十二柱の神霊——彼らは、千年前に封印された。だが、今も——この世界のどこかに、潜んでいる」
道明の心臓が、強く脈打った。
「——俺に、何をしろと」
「彼らを、乗せろ。目的地まで、送り届けろ。それが——お前にしかできないことだ」
「なぜ俺なんだ」
「お前が、二十五年間——『お化けを乗せる日』を待ち続けてきたからだ」
道明は、言葉を失った。
お化けを乗せる日。
それは——タクシー運転手として、いつか「大当たり」を引くことを夢見てきた、あの感情。
まさか、それが——
「時間がない」
老人の姿が、薄れ始めた。
「闘争の御者が、動き出している。お前の知る者——黒沢という男が、帝国の先鋒となって、この国に攻め込もうとしている」
「黒沢が——」
「彼を止められるのは、お前だけだ。神崎道明。『神の御者』として——」
老人の声が、遠ざかっていく。
「——走れ」
その言葉と共に、夢が終わった。
◇
目を覚ますと、外は夕暮れだった。
どれくらい眠っていたのか。半日以上は経っているようだ。
身体を起こす。疲労は、まだ残っている。だが、動ける。
「——道明さん!」
扉が開き、リーゼルが駆け込んできた。
その顔は、青ざめている。
「大変です! 国境で——」
「黒沢か」
「え——どうして——」
「夢で見た」
道明は、ベッドから立ち上がった。
「行くぞ」
「でも、まだ休まないと——」
「時間がない」
道明は、リーゼルの目を見た。
「黒沢を止められるのは、俺だけだ」
リーゼルは、しばらく道明を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……わかりました。私も、一緒に行きます」
「危険だぞ」
「知ってます。でも——道明さんの助手ですから」
道明は、わずかに笑った。
「頑固だな」
「道明さんほどじゃないです」
二人は、御者組合を出た。
天輪号が、光と共に現れる。
「行くぞ、アウルス」
『ああ。だが、覚悟しておけ。今回は——前とは違う』
「わかってる」
道明は、御者台に乗った。
リーゼルが、隣に座る。
馬車が、走り出した。
国境へ。
黒沢の元へ。
神崎道明は、この世界で二度目の——「馬車戦」に挑もうとしていた。
◇
国境に着いたのは、夜半だった。
そこには——戦場があった。
聖車国の防衛軍と、黒鉄帝国の侵攻軍が、ぶつかり合っている。剣戟の音。魔法の閃光。叫び声。血の匂い。
その中心に——黒い馬車が、佇んでいた。
黒沢だ。
彼は、御者台に座り、戦場を見下ろしていた。その顔には、残忍な笑みが浮かんでいる。
「来たか、神崎さん」
黒沢の声が、戦場の喧騒を突き抜けて響いた。
「待ってたぜ。リベンジだ」
「黒沢」
道明は、天輪号を停めた。
「お前、何をしてる」
「見ての通りだ。戦争だよ。帝国の先鋒として、この国を滅ぼしに来た」
「帝国の犬になったってことか」
「犬?」
黒沢が、嘲笑った。
「違うね。俺は——『王』になるんだ」
「王?」
「帝国の皇帝は、約束してくれた。この国を滅ぼしたら、俺をこの土地の領主にしてくれるってな。最高だろ? 元タクシー運転手が、王様だぜ」
道明は、黙っていた。
黒沢は、変わっていない。
いや——より「そう」なっている。
元の世界でも、この男は「上」に行きたがっていた。売上トップになりたい。認められたい。偉くなりたい。——その欲望が、この世界で、歪んだ形で開花している。
「黒沢、最後に聞く」
「何だよ」
「戻る気はないか。帝国から離れて、普通に——」
「ねえよ」
黒沢が、吐き捨てた。
「俺は、もう後戻りしない。あんたみたいに、チマチマ客を乗せて、功徳がどうとか——くだらねえ。俺は、もっと大きなものが欲しいんだ」
「……そうか」
道明は、静かに頷いた。
「なら——仕方ない」
天輪号が、動き出した。
黒い馬車も、動き出した。
二台の馬車が、戦場の中央で——激突した。
衝撃波が、周囲に広がる。
聖車国の兵士も、帝国の兵士も、その余波で吹き飛ばされた。
だが、道明は止まらなかった。
黒沢も、止まらなかった。
二台の馬車が、何度も、何度も、ぶつかり合う。
車輪が軋み、車体が揺れ、火花が散る。
「どうした、神崎さん! 前より弱いんじゃねえか!」
黒沢が、嘲笑う。
道明は、答えなかった。
——確かに、弱い。
三日間、ほとんど眠らずに走り続けた。身体は限界だ。集中力も、落ちている。
だが——
「道明さん!」
リーゼルの声が、聞こえた。
「私を、使ってください!」
「何?」
「私は、創世の巫女です! 道明さんに、力を——」
リーゼルの身体が、光り始めた。
その光が、道明の身体に流れ込んでくる。
——温かい。
懐かしい光。
元の世界で、娘に抱きしめられたときと、同じ感覚。
「……ありがとう」
道明は、小さく呟いた。
そして——
天輪号が、輝いた。
今までとは、比べ物にならないほどの光。
『——これは』
アウルスの声に、驚きが混じった。
『功徳が——爆発的に増えている。リーゼルの力が、お前の功徳を増幅している——!』
「行くぞ、アウルス」
『ああ!』
天輪号が、弾丸のように加速した。
黒い馬車を、正面から——貫いた。
轟音。
閃光。
黒い馬車が、粉々に砕け散る。
黒沢が、御者台から吹き飛ばされる。
彼の身体は、地面に叩きつけられ——動かなくなった。
「……終わったか」
道明は、御者台から降りた。
足元が、ふらつく。リーゼルの力を借りても、身体の疲労は消えていない。
「道明さん!」
リーゼルが、駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
「ああ……大丈夫だ……」
道明は、黒沢の方を見た。
彼は、まだ生きている。呼吸はある。だが、意識はない。
「……こいつ、どうする」
「帝国に返すべきでしょう。捕虜として——」
「いや」
道明は、首を振った。
「連れていく」
「え?」
「こいつは、俺と同じだ。元の世界から来た、タクシー運転手だ。——放っておけない」
リーゼルは、道明を見つめた。
それから、小さく頷いた。
「……わかりました」
道明は、黒沢の身体を担ぎ上げた。
重い。だが、運べる。
「聖都に戻るぞ」
「はい」
天輪号に、黒沢を乗せる。
道明は、御者台に座った。
「走れ」
馬車が、動き出した。
戦場を後にして、聖都へ。
神崎道明は、敵を倒した。
だが、彼はまだ——気づいていなかった。
この戦いは、始まりに過ぎないということを。
そして、黒沢は——まだ、諦めていないということを。




