第四章 足切りライン
御者組合の復旧作業は、予想以上に順調に進んだ。
道明が「大袈裟にするな」と言ったにもかかわらず、王城からは職人の一団が派遣され、建物は驚くほど短期間で使用可能な状態に戻された。壁は塗り直され、窓ガラスは入れ替えられ、床板は補修された。かつてのカウンターも再建され、受付として機能するようになった。
だが、何より道明を驚かせたのは——依頼の数だった。
「……これ、全部か」
道明は、カウンターに積まれた紙の山を見つめていた。
依頼書。それが、百枚以上はある。
「はい! 昨日から、ひっきりなしに依頼が来てるんです!」
リーゼルが、嬉しそうに言った。
「御者が戻ったという噂が広まって、みんな我先にと——」
「待て。これ、全部さばけるのか」
「え?」
「俺は一人だぞ。馬車も一台しかない。この量を、どうやって——」
「あ……」
リーゼルが、固まった。
道明は、ため息をついた。
——需要の掘り起こしなんて、余計な心配だったか。
百年間、御者がいなかった。その間に溜まった「御者に頼みたかったこと」が、一気に噴出しているのだ。当然といえば当然だ。
問題は、どうやって優先順位をつけるか。
「リーゼル、この依頼を分類してくれ」
「分類?」
「緊急度と、重要度で分ける。今すぐやらないと人が死ぬようなものが最優先。次が、期限があるもの。その次が、いつでもいいもの。わかるか」
「は、はい!」
リーゼルが、慌てて依頼書の山に取りかかった。
道明は、最初の一枚を手に取った。
「——病人の搬送。東の村から聖都の医療院まで。緊急」
これは、最優先だ。
道明は、依頼書を持って立ち上がった。
「行ってくる」
「え、もう? でも、他の依頼の分類が——」
「それは任せる。俺は走る。それが仕事だ」
道明は、組合の建物を出た。
外に出ると、空気の匂いが変わった。朝露の残る草の香り。遠くから聞こえる鳥の声。東京の朝とは、まったく違う。
「——アウルス」
『聞こえている』
「馬車を呼べるか」
『当然だ。お前が御者である限り、天輪号はいつでもお前のそばにいる』
アウルスの声と同時に、道明の足元が光った。
そして——馬車が現れた。
空間が歪み、光が収束し、一瞬で天輪号が姿を現す。その出現は、まるで魔法のようだった。いや、実際に魔法なのかもしれない。
道明は、御者台に飛び乗った。
「東の村に行く。ルートは」
『直線で三十里。馬車なら、半刻で着く』
「半刻か……」
この世界の時間単位は、まだよくわからない。だが、「急いだ方がいい」ということは伝わった。
「行くぞ」
道明が命じると、馬車は動き出した。
音もなく、振動もなく、まるで滑るように。
街を抜け、城門を通過し、郊外の道に出る。
景色が、流れていく。
緑の草原。遠くの山脈。青い空。
道明は、ハンドルを——いや、この馬車にハンドルはない。だが、不思議と「操縦している」感覚がある。左に行きたいと思えば左に曲がり、速度を上げたいと思えば加速する。まるで、馬車が道明の意思を読んでいるかのようだ。
『お前の「実車率」への執念が、馬車に反映されている』
アウルスが、唐突に言った。
「実車率?」
『無駄な動きを嫌い、最短距離で目的地に向かおうとする意識だ。それが、馬車の性能を引き出している』
「……つまり、俺がせっかちだから速いってことか」
『そういうことだ』
道明は、小さく笑った。
実車率。タクシー運転手にとって、最も重要な指標の一つだ。
実車率とは、営業時間中に「客を乗せて走っている時間」の割合のこと。空車で走っている時間が長ければ長いほど、実車率は下がり、売上も下がる。
道明は、常に実車率を意識してきた。
無駄な回り道をしない。渋滞を避ける。客を降ろしたら、すぐに次の客を探す。その繰り返しで、二十五年間、堅実な売上を維持してきた。
——その意識が、異世界でも通用するのか。
馬車は、ぐんぐん速度を上げていく。
風が、頬を切る。
景色が、後ろに流れていく。
そして——
「見えた」
東の村が、視界に入った。
小さな集落だ。木造の家が数十軒、寄り添うように建っている。畑があり、井戸があり、中央には小さな広場がある。
馬車を止め、御者台から降りる。
すぐに、村人たちが駆け寄ってきた。
「御者様! 本当に来てくださった……!」
「病人は?」
「こちらです、すぐに——」
案内されたのは、広場に面した一軒の家だった。
中に入ると、布団に横たわる少女がいた。十歳くらいだろうか。顔色は青白く、額には汗が浮いている。呼吸は浅く、苦しそうだ。
「三日前から熱が下がらないんです。村の薬師には手に負えなくて——」
母親らしき女性が、涙声で言った。
道明は、少女を見つめた。
医療の知識はない。この世界の病気のこともわからない。
だが——やるべきことはわかる。
「聖都の医療院に連れていく。今すぐだ」
「は、はい! お願いします、御者様——」
道明は、少女を抱き上げた。
驚くほど軽い。骨と皮だけのような身体。
——間に合うか。
馬車に乗せ、母親を隣に座らせる。
「走るぞ。しっかり捕まっていろ」
道明は、御者台に飛び乗った。
アウルスに、無言で命じる。
——最速で。
馬車が、弾丸のように走り出した。
◇
聖都に着いたのは、出発から二十分後だった。
往路の半分以下の時間。道明自身、どうやって走ったのか覚えていない。ただ、「間に合わせる」という一念だけがあった。
医療院の前に馬車を止め、少女を降ろす。
医師たちが駆け寄ってきた。
「御者様! 患者は——」
「高熱が三日続いている。詳しいことは母親に聞いてくれ。俺は——」
道明は、言葉を止めた。
手の甲が、光っていた。
金色の紋章が、今までよりも明るく輝いている。
『功徳が積まれた』
アウルスの声が、頭の中に響いた。
『人を救うために走った。その行いが、お前の力を増している』
「……そうか」
道明は、紋章を見つめた。
売上。功徳。呼び方は違うが、本質は同じだ。
人のために働けば、それが力になる。
——わかりやすいシステムだな。
「御者様!」
母親が、道明に駆け寄ってきた。
「ありがとうございます! 本当に、本当に——」
「礼はいい。娘さんのそばにいてやれ」
「でも、お礼を——」
「いらない」
道明は、きっぱりと言った。
「俺の仕事は、客を目的地まで送り届けること。それ以上でも、それ以下でもない。礼なんか——」
と、そこで。
道明の腹が、盛大に鳴った。
「……」
「……」
母親が、目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「御者様、お腹が空いていらっしゃるのでは」
「……いや、これは」
「よろしければ、うちの村の名物をお持ちしましょうか。お礼として、受け取っていただけませんか」
道明は、少し考えた。
礼は断ろうと思っていた。だが、この母親の顔を見ると——断れない気がした。
「……じゃあ、遠慮なく」
「はい! すぐにお持ちします!」
母親が、嬉しそうに駆けていった。
道明は、ため息をついた。
『なんだ、結局受け取るのか』
アウルスが、どこか楽しそうに言った。
「うるさい。腹が減っては戦はできん」
『戦?』
「まだ依頼が山ほどある。これからが本番だ」
道明は、御者台に座り直した。
空を見上げる。太陽は、まだ高い位置にある。
——足切りラインは、まだ遠い。
それは、この世界での「ノルマ」のようなものだ。
どれだけの功徳を積めば、御者として一人前と認められるのか。どれだけの依頼をこなせば、この国を守れるだけの力がつくのか。
まだ、わからない。
だが、やることは決まっている。
走る。客を乗せて、目的地まで送り届ける。その繰り返しだ。
「——よし」
道明は、立ち上がった。
「次の依頼に行くぞ」
『もう行くのか。休憩は?』
「走りながら食う」
『……本当に、お前は——』
アウルスの声には、呆れと——どこか敬意のようなものが混じっていた。
馬車が、再び走り出す。
聖都の街を抜け、次の依頼の場所へ。
神崎道明は、この世界での「足切りライン」を超えるべく——走り続けた。




