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もう一つの時間

作者: P4rn0s
掲載日:2025/10/09

朝、彼はいつものように目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光は少しだけ青く、世界の温度が一度だけ低い気がした。

時計を見ると、針は七時を指している。

しかし、不思議なことに、外の鳥の鳴き声も、部屋の空気の流れも、昨日とは少しだけ違って聞こえた。


彼は洗面台に向かい、顔を洗う。

鏡の中の自分は確かに昨日と同じ顔をしているのに、

その奥で何かがわずかにずれているように感じた。


これは夢ではない。

でも、どこかで「もう一つの時間」に迷い込んでしまったのかもしれない。


彼はそう思いながら、ゆっくりと服を着替え、外に出た。


通い慣れた通り。

見慣れたパン屋。

だが、パン屋の窓辺に飾られた花が違っている。

いつもは白いチューリップだったはずが、今日は淡い青い花になっていた。


店主に尋ねようかと思ったが、やめた。

この世界では、それが「いつも通り」なのかもしれない。


職場までの道を歩きながら、彼は周囲を観察した。

人々は笑い、話し、車が通り過ぎる。

すべてが同じで、すべてが少し違う。

まるで、ほんの数ミリだけ時間の層がずれているようだった。


電車に乗ると、窓の外を流れる景色がやけにゆっくりしている。

隣の席に座った女性が、ふと彼の方を見て微笑んだ。


「今日、空がきれいですね」


彼は一瞬、言葉を失った。

それは数年前に亡くなった恋人の口癖とまったく同じ言葉だった。

声の高さも、言い回しも、息の吸い方までもが。


彼は恐る恐る返した。

「……ええ、少し、透き通って見えます」


女性は頷くと、微笑んだまま外を見つめた。

その頬に、柔らかな光が射している。

一瞬、彼は時間が止まったような感覚に包まれた。


電車が次の駅に止まる。

ドアが開く音。

そして、彼女は立ち上がり、何も言わずに降りていった。


ホームに立つ彼女の背中は、確かに過去のあの日の彼女と同じ姿をしていた。

だが、電車が動き出すと、彼女の輪郭は少しずつ薄れていった。


彼はしばらくの間、ただ窓の外を見つめていた。

どこかで知っている街並み。

だけど、決して戻ることのできない時間。


それでも彼は気づいた。

この世界では、失われたものが一瞬だけ息を吹き返す。

完全に消えたと思っていた記憶が、別の時間の隙間で形を取り戻す。

「もう一つの時間」は、そうして人を救うのだ。


昼休み、彼は駅の近くの小さな公園に寄った。

ベンチに腰を下ろすと、ポケットの中に一枚の紙切れが入っていることに気づく。

白い小さなメモ。

見覚えのある筆跡で、たった一言だけ書かれていた。


ここでまた会おう。


彼は笑った。

涙が出るほど優しい言葉だった。


夕方、帰り道を歩きながら、彼はふと立ち止まる。

街灯が点り始め、空は深い群青に変わっていく。

昼と夜の境目。

そのわずかな時間に、彼は確かに誰かの気配を感じた。


もう声も、姿も、はっきりとは見えない。

けれど確かに、誰かが微笑んでいる。


──もう一つの時間。

それは過去でも未来でもない。

ただ「誰かをもう一度信じるための場所」なのだ。


彼はポケットの中の紙をもう一度握りしめ、歩き出した。

世界はいつもと同じように続いている。

でも、彼の中には確かにもう一つの時間が流れていた。

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