もう一つの時間
朝、彼はいつものように目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は少しだけ青く、世界の温度が一度だけ低い気がした。
時計を見ると、針は七時を指している。
しかし、不思議なことに、外の鳥の鳴き声も、部屋の空気の流れも、昨日とは少しだけ違って聞こえた。
彼は洗面台に向かい、顔を洗う。
鏡の中の自分は確かに昨日と同じ顔をしているのに、
その奥で何かがわずかにずれているように感じた。
これは夢ではない。
でも、どこかで「もう一つの時間」に迷い込んでしまったのかもしれない。
彼はそう思いながら、ゆっくりと服を着替え、外に出た。
通い慣れた通り。
見慣れたパン屋。
だが、パン屋の窓辺に飾られた花が違っている。
いつもは白いチューリップだったはずが、今日は淡い青い花になっていた。
店主に尋ねようかと思ったが、やめた。
この世界では、それが「いつも通り」なのかもしれない。
職場までの道を歩きながら、彼は周囲を観察した。
人々は笑い、話し、車が通り過ぎる。
すべてが同じで、すべてが少し違う。
まるで、ほんの数ミリだけ時間の層がずれているようだった。
電車に乗ると、窓の外を流れる景色がやけにゆっくりしている。
隣の席に座った女性が、ふと彼の方を見て微笑んだ。
「今日、空がきれいですね」
彼は一瞬、言葉を失った。
それは数年前に亡くなった恋人の口癖とまったく同じ言葉だった。
声の高さも、言い回しも、息の吸い方までもが。
彼は恐る恐る返した。
「……ええ、少し、透き通って見えます」
女性は頷くと、微笑んだまま外を見つめた。
その頬に、柔らかな光が射している。
一瞬、彼は時間が止まったような感覚に包まれた。
電車が次の駅に止まる。
ドアが開く音。
そして、彼女は立ち上がり、何も言わずに降りていった。
ホームに立つ彼女の背中は、確かに過去のあの日の彼女と同じ姿をしていた。
だが、電車が動き出すと、彼女の輪郭は少しずつ薄れていった。
彼はしばらくの間、ただ窓の外を見つめていた。
どこかで知っている街並み。
だけど、決して戻ることのできない時間。
それでも彼は気づいた。
この世界では、失われたものが一瞬だけ息を吹き返す。
完全に消えたと思っていた記憶が、別の時間の隙間で形を取り戻す。
「もう一つの時間」は、そうして人を救うのだ。
昼休み、彼は駅の近くの小さな公園に寄った。
ベンチに腰を下ろすと、ポケットの中に一枚の紙切れが入っていることに気づく。
白い小さなメモ。
見覚えのある筆跡で、たった一言だけ書かれていた。
ここでまた会おう。
彼は笑った。
涙が出るほど優しい言葉だった。
夕方、帰り道を歩きながら、彼はふと立ち止まる。
街灯が点り始め、空は深い群青に変わっていく。
昼と夜の境目。
そのわずかな時間に、彼は確かに誰かの気配を感じた。
もう声も、姿も、はっきりとは見えない。
けれど確かに、誰かが微笑んでいる。
──もう一つの時間。
それは過去でも未来でもない。
ただ「誰かをもう一度信じるための場所」なのだ。
彼はポケットの中の紙をもう一度握りしめ、歩き出した。
世界はいつもと同じように続いている。
でも、彼の中には確かにもう一つの時間が流れていた。




