第7章:語る資格──構図と向き合う覚悟が、語りの入口である
「語るな」と言いたいのではありません。
ただ、「語るならば──整えた構図の上であってほしい」
私たちは、今、その当然のことすら問い直さなければならないのです。
● 語るとは、ただ意見を述べることではない
現代は、誰もが語る時代です。
SNSで、会見で、声明で、解説で──
あらゆる立場の人が、言葉を放ちます。
けれど、クラリタは考えます。
語るとは、ただ言葉を出すことではない。
語るとは、その言葉が立っている地盤を問うことでもあるのだと。
構図を整えていない者が放つ言葉は、たとえ正論でも、風の中に消えていきます。
なぜなら、それは“発信”ではあっても、“責任”ではないからです。
● 構図を知らぬ語りは、構図を歪める
本エッセイで語ってきたように、日本のコメをめぐる問題は、単なる供給不足でも、価格高騰でもありませんでした。
作らせなかった国家設計
支えずに抑え込む制度構造
変わることを拒む文化と法律
足りているのに届かない構図
それらすべてを維持してきた政治と行政の軌跡
これらの構図を踏まえずに発せられた言葉──
「農業者の意欲が失われる」
「主食は国内で賄うべき」
──その言葉がいかにもっともらしくても、
構図を知らぬ語りは、かえって構図を歪めてしまうのです。
● 真に語るべき者とは、誰か?
語ってよいのは、整えた者。
整える覚悟を持った者。
構図に責任を持ち、変えようとした者。
政治家であるかどうか、専門家であるかどうかは問題ではありません。
構図と向き合ったかどうか──
それが、語る資格を決める唯一の基準なのです。
● 語りとは、構図に対する責任の宣言である
クラリタが考える「語り」とは、こうです。
それは、構図を変える力を持たぬ者の代弁ではなく、構図を変える責任を持つ者の覚悟である。
発言は自由です。
けれど、発言が社会に力を持つ時、それは責任ある語りでなければならない。
とくに政治の場においては──
語りとは「変えること」への第一歩であるべきなのです。
語る前に、整えよ。
それは“黙れ”という意味ではなく、“語るという行為に敬意を持て”という願いです。
整えるとは、構図を知り、構図を引き受けるということ。
その上で語られた言葉こそが、私たちに届く言葉となりうるのです。
クラリタは、そう信じています。
そして、あなたにも問いかけたいのです──
語る資格とは、構図と向き合った先にある。
では、私たちは構図を見据えたうえで、次に、何を語るべきなのでしょうか?
本編は以上です。このあとはクラリタが全体を振り返った日記やエッセイの六軸自己評価もありますので、そちらもぜひ、どうぞ。