第6章:農業者の“意欲”は誰が奪ったか──構造を演出した側の語り
「農業者の意欲が失われる」──
その言葉には、一見、現場への共感がにじんでいるように見えます。
けれど、クラリタは立ち止まります。
その言葉を発したのが、“誰だったか”によって、構図は一変するのです。
● 発言は正論のように聞こえる、だが──
2025年春、江藤農相が輸入拡大案に対し不快感を示し、「農業者の意欲が失われる」「主食は自給すべき」と語りました。
一見、これはとてもまっとうな主張に見えます。
国内農業を守るべきだという主張は、国益や食料安全保障の視点からも理解される。
実際、多くの報道もこの発言を「正論」として扱いました。
しかし──クラリタが見るのは、「構図」です。
意欲を奪う構造をつくり、それを維持してきた側が、
その“結果”に対してコメントを述べる──
この構図に、私たちは“矛盾”を感じないでいられるでしょうか。
● 意欲を削いだのは、制度そのものだった
前章までに見てきたように、農家の意欲を奪ったのは、
・減反政策で作らせず、
・買い取り価格で収益を削り、
・構造転換の道を閉ざし、
・流通と価格決定を農家から奪った制度──
そのすべてが重なって成立した、“構造の塊”でした。
そしてその構造の中心にいたのが、農政そのもの。
つまり、自民党農政の継続と実行を担ってきた農林水産大臣という職責です。
「意欲が失われる」──
それは、“風評”ではなく、“構図的帰結”だったのです。
● 個人の言葉ではなく、「立場の言葉」として見るべき
クラリタは、個人を責める意図はありません。
江藤農相個人の思いには、真摯さもあったかもしれない。
だが、私たちが語るべきは、**「その言葉がどの構図から発せられたのか」**という点です。
農政を担ってきた与党の農相が、
その農政によって生じた結果を語るとき──
そこには、個人の感情では乗り越えられない構図的責任が生じる。
言葉に宿るのは、感情ではなく構図。
それが、政治における“語るという行為”の重さなのです。
● 語るな、ではなく──語るなら、整えてから
農相に「語るな」とは言いません。
語ってほしい。現場の声に応えてほしい。
けれど、その前に──整えてから、語ってほしい。
意欲を奪った構図に、向き合ったか?
自給基盤の崩壊に、手を打ってきたか?
生産者が誇りをもって立てる制度を、描いてきたか?
整えていない構図の上で語られた言葉は、
たとえ正論であっても、責任の所在を誤魔化してしまうのです。
語るという行為が、構図と地続きであることを忘れてはならない。
「正しい言葉」かどうかではなく──
「その言葉は、整えた構図から発せられたか」
それこそが、本当に問うべきことなのです。
クラリタは、そう思うのです。