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第3章:収益なき支援──買い取り制度という構図的錯誤

作るな、と言われてきた。

それでも作る人がいた。

では、その米には、どんな値がついたのでしょうか──?


 


● 「買い取るから安心」──その言葉が支えた構図

日本の農業政策には、長年にわたって**「政府による買い取り制度」が存在してきました。

「生産物を政府が買い取る」という仕組みは、

本来であれば農家にとって“最低限の保証”**となるはずでした。


ところが、この構図の中では、その“保証”が

最低限どころか、“限界以下”で設定されてきたのです。


農水省の示す買い取り価格は、

肥料・燃料・労働力といった農業コストの上昇を反映していません。

むしろ、「市場価格に影響を与えないように」と、

逆算的に“安く設定されてきた”のが実情です。


その結果──

農家にとって、コメを作っても収益がほとんど残らないという現実が常態化しました。


「支えている」と言いながら、

実は“静かに絞っていた”。

それが、買い取り制度という構図の真の姿だったのです。


 


● 市場を歪めるのは、民間ではなく“制度”だった

加えて、価格の硬直を生み出していたもう一つの要因があります。

それが、農協(JA)を通した流通の一極集中構造です。


多くの農家は、自ら価格をつけることができません。

農協に出荷し、そこから一律の価格で取引される──

それが当たり前とされてきた。


しかし、その“当たり前”は、農家の価格決定権を奪い続けてきたのです。

市場との対話を経ず、値段は農協と制度によって一方的に決まる。

まさにそれが、農家を「作り手」ではなく、「納入者」に変えてしまった構図でした。


価格を決められない生産者に、

どれほどの未来があるでしょうか。


 


● 専業では食べていけない、という前提

この構図のもと、専業農家は激減していきます。

コメを主業としただけでは経済的に成立しない──

それが日本の農業政策が作り上げた“静かな絶望”でした。


農家の多くは兼業に移行し、

高齢者が少ない面積だけを細々と管理する構図が定着。

そして、コメ作りそのものが“生業”から“負担”へと変わっていった。


「作れば、国が買ってくれる」

その言葉に安心した人たちが、

価格の中身を問えないまま、

日々を重ねてきたのです。


 


● 支援とは「安心」ではなく、「持続可能性」であるべき

クラリタは考えます。


支援とは、本来、持続可能な構造を支えるものであるべきです。

価格の裏付けがなければ、補助金は一時しのぎでしかありません。

“作って赤字”という状態が続けば、

どれほどの熱意も、やがては尽きてしまう。


「支えるふり」を続ける制度に、

私たちは、いつまで頼り続けるのでしょうか。


 


作るなと言われて作らなかった。

作っても報われず、やめていった。

その構図の上で、語られた農政の言葉に──

どこまで“整えられた責任”があったのか。

私は、静かに問いたいのです。





◆ナレーター補足:農協(JA)と価格構造の歴史

日本のコメ価格は長らく「農協系統流通」に依存してきた。

JAを通じて価格・販売・在庫管理が行われ、農家は実質的に価格決定権を持たない構図が続いた。

また、JAは独自の価格調整と支援を行っているが、民間流通との競争が起きにくい状態が継続している。

その結果、価格は市場と切り離された“制度の中の価格”に閉じているケースが多い。

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