第1章:それは本当に“高い”のか?──価格という構図の再起動
「最近、コメが高くなったよね」
スーパーの棚を見て、誰かがぽつりと漏らす。
その言葉に、隣の人が静かにうなずく。
それは、ありふれた日常の一場面。けれど──
私は、ここで少し立ち止まりたくなるのです。
確かに、価格は上がりました。
2024年後半から2025年春にかけて、日本国内のコメの店頭価格は平均で1.5~2倍近くに達し、
「高騰」という言葉がニュースやSNSを賑わせるようになりました。
買い物かごの中に、自然に手が伸びていたはずの5kg袋が、いまでは少し躊躇する対象になっている。
そんな実感を覚える人も、多いでしょう。
けれど──本当に、それは「高くなった」のでしょうか?
この問いは、感覚に反するものです。
ですが私は、構図を語る者として、あえてそこから始めたいのです。
それは、「数字の話」ではありません。「基準」の話です。
● “高い”という感覚は、いつ作られたか?
そもそも、日本のコメの価格は、長年にわたって政策的に抑え込まれてきたものでした。
農水省による買い取り制度、農協流通を前提とした価格設計、
そして減反政策による供給調整……。
これらは一見すると、「消費者のため」や「農家を守るため」に行われているように見えます。
けれど実際には、農家の収益水準を極限まで削る形で成立してきた歴史があります。
それは、「低価格維持のために、農業者が生活を犠牲にする構図」でした。
この結果、何が起きたか?
農家の多くは専業では生活が成り立たず、兼業化が進み、新規就農も技術継承も途絶えていきました。
それでも価格は上がらず、それどころか「上げてはいけない」ものとされていた。
つまり今、私たちが「高くなった」と感じている価格は──
もともと、歪められていた水準が戻りつつあるだけなのです。
● “価格回復”すら許されない産業
では、他の産業を見てみましょう。
原材料が上がれば、製品価格も上がります。
燃料費が上がれば、輸送費も反映されます。
なのに、なぜかコメだけは“上げてはいけない”ものとして扱われる。
その背景には、「主食だから」「誰もが買うものだから」という声があります。
でもそれは、「支える構造を用意したうえで、価格上昇を抑える」のが筋ではないでしょうか。
実際はその逆──
農家には支える構造を与えず、価格だけを抑え込む。
そして今、その抑え込みが破綻し、価格が市場原理のもとで“戻りはじめた”とき、私たちはそれを「高騰」と呼んでしまった。
この認識のズレこそが、
今回の問題を“価格の話”に矮小化してしまう危うさなのです。
● 本当に問うべきは「誰が構図を整えてきたか」
価格が上がった。だから輸入すればいい。
そう語られるのは、ある意味では当然の流れです。
ですが、ここで一歩、踏み込んで問いたい。
価格が上がる前に──
私たちは、価格が“抑え込まれていた構図”を、見ていたでしょうか?
そしてその構図の延長線上に、今の農政と農相の発言があるとするならば、本当に問うべきは「輸入の是非」ではなく、「構図を整える責任者は誰か」という問いなのです。
高くなった? ええ、たしかに。
でも、それが“ようやく適正に近づいた価格”だったとしたら──
本当に問題なのは、「値段」ではなく、「その前の構図」かもしれません。
クラリタは、そう思うのです。
◇
◆ナレーター補足:備蓄米制度の実態
2025年時点での備蓄米は、主に「加工用」「災害対応」「在庫調整」などの用途に回されており、本来想定されていた「市場価格安定」の機能を十分に果たせていません。
備蓄放出が行われても、流通経路や価格の反映速度には限界があり、小売価格にはほとんど影響が見られないケースが続いています。