最大の復讐とささやかな復讐、そして最低な復讐
あれから何年も月日は過ぎたが、高校二年の時に起きた破滅的な出来事を思い返してはあれは一体なんだったのだろうと時折考えることがある。
女子高生が起こした硫酸による自傷行為は世間を騒がせた。桐崎雫が父親の勤める大学の研究室から濃硫酸を持ち出し、高校内でぶちまけたという破滅的な行為。
最初情報が錯綜して桃園エリカが重体だと思われていたけど、重体なのは雫の方だったのだ。エリカによると校内で偶然、薬品が詰まった瓶を自身の顔に振りまく雫に出くわしたらしい。エリカは地面に呻く雫を介助しようとした時に手に火傷を負ったくらいの傷で済んだ。
雫は長い間入院したがすぐさま救急車を呼ぶなどエリカの手早い初期行動のおかげで大事には至らなかった。劇物を持ち出したことで保護観察処分になったとも、父親がその責任で失職したとも聞いてるけど、桐崎家は事故後すぐに引っ越してしまったから、あれからどんな生活をしているのかも分らない。
雫は高校も辞めてしまったし、その後詳細な報道はされなかったから、彼女がどんな理由でそんなことをしたかも分からない。一条ユウトに振られたことで、彼女は自暴自棄になっていて、頭も少しおかしくなっていたというのが当時のクラスメイトたちの見解だった。
いずれにせよあれから何年も経ったのだ。僕は古い友人として彼女の傷が少しでも癒え、幸福に暮らしていることを祈っている。別れたにせよ彼女が僕の恋人であった事実には変わりはないからだ。
高校卒業後は僕にとって一番辛い時期だった。エリカはデザインを学ぶために海外の大学、僕はモデルを続けながら日本の国立大学に進学することになり、僕らは一度別の道を辿った。エリカのいない中で、大学に通い、モデルとして過ごす日々はただただもがくような時間の連続だった。それでも僕の関わる仕事はそれなりの評価を得ていて、多忙のうちに大学時代は過ぎていった。
大学卒業後にエリカと再び暮らすようになり、僕はモデル、エリカはファッションデザイナーとして生計をたてている。二人で共同で設立したweb関連の会社経営も順調で、二十五になった今では東京とカリフォルニア、パリ、ロンドンを行き来するという高校時代の僕が想像もしていないような生活をしている。
エリカといるとあの時雫に振られたのは運命だったんじゃないかと考えることもある。もしずるずる雫と付き合っていたらこんな尊敬できる人と巡り会えたかどうか怪しいものだ。その意味ではきっかけを作ってくれた一条ユウトに感謝してるくらいだ。
いつか彼らとあって全てを許し合い、昔話ができたらどれだけ素晴らしいことだろうと考えることもある。
ただ僕は意外なところで桐崎雫の名前を目にし、少なからず傷つくことになった。
昔から僕やエリカ、経営する会社に対して執拗に誹謗中傷をする匿名ユーザーがいて、普通はそれほど強い対応はしないのだけど、顧問弁護士の判断で情報開示請求訴訟を起こすことになった。そしてその結果開示された資料で桐崎雫の名前を見つけたのだ。
僕は衝撃を受けた。彼女がSNSに書き込む文章を読んでみてしばらく息ができなかったほどだ。僕らと同じように二十五歳になる桐崎雫は何年も前から現在に至るまで一日に何十件も僕らに対して穏当ではない言葉を綴っていた。
彼女はまるであの頃のままのように僕に対して「イツキの分際で生意気。土下座しろ」「無価値の陰キャ」と書いたと思えば、「お前のした復讐のせいで私の人生はめちゃくちゃだ」と書き連ねていた。エリカに対しても「男を盗んだ意地汚いくそ女」、「こいつのデザインする服はどれもダサい」「あとお前がした復讐も許さない」などと正気では思えないことを書いていて薄ら寒い気持ちになったほどだ。彼女の中では時が止まったままなんじゃないか、そんなことすら思えた。
顧問弁護士は「どうみても幸福とは言えない女性です」と前置きした上で「シングルマザーのかなり貧しい生活を強いられている方で、今回の誹謗中傷以外にも様々なトラブルを起こしてます。被害妄想が強いのかお二人に人生を台無しにされたと強い恨みを持っているようです」と言った。
復讐はおろか彼女に恨まれるようなことをした覚えはないし、それはエリカも同様だろう。僕は彼女に浮気された上で捨てられたわけだし、エリカは硫酸事故のせいで多少なりとも傷を負った。恨みを覚えるとしたら僕らでもおかしくない気がする。
とにかく僕は混乱していた。自分の知らないところで桐崎雫を傷つけていたのかも知れないし、もしそうであるなら一体僕のなにに原因があったのだろう。僕は雫と誠実に付き合ったつもりだけど、何かひどいことをしてしまったとでもいうのか。
長い時間一人で悩んだ後、僕はエリカに相談することにした。実は改まった形で雫のことを彼女に話すのは初めてだった。幼馴染との関係、浮気のこと、あの奇妙な誤爆メッセージ、やや脈絡にかけてはいたし、時間が経って忘れてしまった部分もあるけど、可能な限り話してみた。
エリカはワインを飲みながら静かに僕の話に耳を傾け、話が終わると見知らぬ言葉をつぶやいた。
「それってスペイン語?」
エリカは頷いた。
「イツキ、今、幸せ?」
奇妙な問いかけだったけど答えはもちろんYESだ。悩みは尽きないけれど仕事もプライベートも充実していないと言ったら嘘になる。何よりこんな聡明で、美しい女性と暮らせていることは僕にとって幸運としか言えない。エリカは言った。
「もしかしたら知らず知らずのうちにイツキは幼馴染に最大の復讐をしてしまったのかもね」
「最大の復讐? 僕が? まさか」
「さっきの言葉は海外のことわざで、幸福に暮らすことこそが最大の復讐、という意味なんだ。もちろんこのことわざに含む意味は別にあるけど、彼女にとって君が辿る幸福な人生は文字通り最大の復讐劇として機能してしまったんじゃないかな」
「僕が幸福に生きることがなぜ最大の復讐になるんだろう?」
少なくとも僕が幸せに生きることが雫への復讐になるとは思えない。
「弁護士の方が言う通り、桐崎雫さんが今不幸な境遇にいるとして、君の今の活躍はどう映るかしら? 無能、無価値と罵っていたかつての恋人の成功はもしかしたらひどく堪えることなのかもしれない」
「言われてみれば……」
「まぁイツキ、気にしないことね。君は懸命に生きているだけ。その結果、誰かを傷つけることになったとしてもそれは仕方がないことだから」
「でも彼女が僕を恨むのはわかるけど、あの事故で介抱したエリカまで恨むというのは少し度が過ぎていないか」
エリカはしばらく赤ワインの入ったグラスを眺めた。
「もしかして私がしたささやかな復讐を彼女は恨んでいるのかもしれない」
「エリカがしたささやかな復讐?」
まるで古傷が痛んだかのようにエリカは眉間をキュッと寄せた。「そう、ささやかな復讐」
エリカと雫の接点はあの硫酸事故しか思い当たるところがない。ましてやエリカが雫に対して復讐するとは想像もつかなかった。
妻はテーブルに置かれたワインをわずかな量飲んでから言った。
「小学校五年の時、わずかな期間だけ、私と君が同じクラスだったと知ったら驚く?」
「え?」
「苗字も違ったし、髪は短くて真っ黒に日焼けしたボーイッシュな小学生だったからそりゃ分からないよね。両親が離婚したことで急に海外で暮らすことになったから数ヶ月間だけのクラスメイトだったし。おまけに君は幼馴染から他の女子と話すなと言われていたから会話もほとんどできなかったし」
長年彼女といて一番驚いた瞬間だったかも知れない。さらにエリカは意外な事実を言った。
「私はよく覚えていた。学芸会の時、いつもは目立たない内気な男の子が魔法を使ったかのように鮮やかな光を放った時のこと。長い前髪で美しい顔を隠すその不思議な男の子に初めて恋心を抱いたことも。そして、それが原因でとある女子と激しく対立したことも」
「それってまさか」
エリカはワイングラスをくるっと回した。
「もちろん、私はフェアな恋愛をしたつもりよ。知っての通り私たちがデートを重ねるようになったのも二人が別れた後でしょ。でも私にとってはささやかな復讐をしているような気分だったし、もしかしたら今の雫さんも君を奪われたように感じているのかもしれない」
僕は驚きつつ言った。「あの当時、君のこと、桐崎雫は知っていたのだろうか」
「さぁ、どうなんだろう。彼女は君のことしか関心がないような人だったから」
僕のことしか関心がない?桐崎雫はそんな人間だったか?
「エリカ、あの硫酸事故って、本当に自傷行為だったのか? もしかしたら雫は何か別の目的があって硫酸を持ち込んだんじゃないのか?」
エリカは僕の目をじっと見て言った。
「あれは、本当に自傷行為よ。彼女は自分自身に硫酸をかけ、たまたまその場に居合わせた私が介抱しただけ」
一度、深い沈黙が部屋を占め、エリカは口を開いた。
「桐崎雫さんとの裁判は穏当な形で示談にはできない? 今更彼女と争うことは虚しいことのように思える」
エリカはそう言ってかつて硫酸で火傷を負った手のひらを指でなぞった。傷跡は綺麗に消えていたがエリカは時折何かを思い出すかのようにその仕草をすることがある。なんにせよ雫と争わないという彼女の意見には僕も賛成だった。
妻が寝静まった後も、ベッドに寝そべりながら僕らの間で起きた復讐劇について考えていた。
僕のした最大の復讐。エリカのしたささやかな復讐。そしてエリカが決して口にしようとしない、雫が企てたもう一つの復讐。
僕は寝息を立てるエリカの艶やかな髪を撫でた。高校生の頃と違って今の僕は流石にエリカの心の機微を少しは読むことができる。エリカは正直な人だから嘘をつくとすぐにわかる。エリカはずっとあの事故の真相を隠してきたのだ。おそらくは、雫、それから僕のために。
三人の間で復讐が交錯していたなんて今まで考えもしなかった。あの頃の僕は一体何を見ていたのだろう。今、できるだけあの頃の見ていた情景をリアルに思い出そうとしても、記憶は断片的で、自分が何を考えていたのかも思い出すことはできない。
ただ確実に覚えていることがある。あの頃、自分が抱えていた感情は未だ手触りのあるまま心の隅に残ったままだからだ。
あの頃の僕はいつも苛立っていた。土下座を強要し、理不尽なことをする桐崎雫に。そして奴隷のように命令を受け入れるだけの自分にも激しい怒りを覚えていた。どうにかして自分を変え、雫を見返してやりたかった。彼女の反対を押し切って生徒会に入ったのも何かを変えるためだった。
あの気持ちが復讐心じゃないと言い切れる事ができるだろうか?あのときの僕の気持ちが雫を破滅の道に追いやってしまった、そう考えることもできるかもしれない。
僕は大きく息を吐いた。いくら考えたところで過去を変えることはできない。一つ言えることはエリカの言うとおり僕は懸命に生きるしかなかった。他に道はなかったのだ。
いずれにせよ、僕は桐崎雫の幸福を願っている。彼女が過去に縛り付けられることなく、自分の道を歩んで欲しいと思う。そして君を傷つけてしまった僕に復讐をしたいというのなら、今からでも幸福に生きるべきだ。光あるうちに光の中を歩め。心の底からそう願っている。




