彼女との最後の時間
病院に着くとちょうど生徒会副会長、教師たちと鉢合わせた。一様に浮かぶ青ざめた表情が、事態の深刻さを物語っている。
「何が起きたのですか」そう尋ねると想像もしていない答えが返ってきた。
「何か劇物のようなものがかかったらしい」
「劇物のようなもの……?」
「ああ。しかも、高校の実験室の倉庫にも置いてないような劇物らしい。なんでそんなものが高校内にあったのかも分からないのだと」
「……容態はどうなんです?」
「詳しいことはわからないが広範囲で火傷を負ったそうだ。……ほんとなんで桃園会長みたいな素晴らしい人がこんなことにならなくちゃならないんだ」
そう言って副会長は唇をかんだ。「彼氏のお前も辛いだろうな。とにかく一緒にいてあげてくれ」
副会長は学校の状況を確認してくるといって出て行き、病院の待合室で言葉少なな教師らと立っている間も、まだ悪夢を見ているようだった。
桃園エリカのシルクのような艶やかな肌。芸術品としか思えない胸から腰にかけてのフォルム。僕を毎晩包み込んでくれるしなやかな両腕。僕は生涯、あれほどまでに美しい身体を目にすることがないとはっきり断定できる。
いつもデリケートにメンテナンスされるあの肌が損なわれたら、どれだけ彼女を傷つけるかは想像もできなかった。
「イツキ君!」
突然、名前を呼ばれて振り向くと意外な人物が視界に映った。
「雫のおじさんとおばさん……」
青ざめた表情でこちらに向かってくるのは桐崎雫の両親だった。なぜここに二人がいるのかも分からなかった。
「それで雫は? 雫は大丈夫なの?」
雫の母親は涙ながらに尋ねてきた。僕はなんと答えてもいいか分からないでいると、看護師が「桐崎雫さんのご家族ですね」と言って二人をどこかへ連れていった。
いったい何が起きているのだ?雫も怪我したのか?桃園エリカだけじゃなく、なぜ雫も傷を負わなければならないのだ。
スマホは始終震え続けていた。清水結衣や、生徒会のメンバー、クラスメイトから心配の声が無数に届いているのは分かっていたけど、目を通す余裕もなかった。
その時、突然、ヒヤッとしたものが頰にあたり僕はびくりとした。
「佐々木君がどれだけ不安がっても結果は変わらない。そして君まで調子を壊されたら僕も困る。これでも飲みなさい」
冷えた缶コーヒーを僕の頰に当てるのはよく知る国語教師、高一の時の担任だ。それまで一緒にいた教師が帰ってしまったから、代わりにこの先生が来たのだろう。「まぁ座って待とうじゃないか」
「はぁ」と言って、僕は勧められるままに待合室の椅子に座った。
「それにしても君の印象は随分変わったなぁ。見た目だけじゃなく態度も立派になった。あれから何ヶ月経つ?」
「あれからとはなんでしょう?」
「ほら、私が君を生徒会に立候補するように勧めたのは、そうか、もう半年以上も経つのか」
その言葉で思い出した。半年前、隣の教師から生徒会に入るよう勧められたことを。
「私は半信半疑だったんだよ。確かに君は成績優秀。ただ人前で何かをするようなタイプには見えなかったから。でも君と一度じっくり話してみて納得した。意外としっかり喋るし、何より自分を変えるきっかけを探していたのはすぐにわかった。彼女の言うとおりだった」
彼女? 今はともかく、あの時の僕を知る女子なんて雫しかいない。言っている意味も分からず相槌だけを打っていると、国語教師は続けて言った。
「彼女は本当に熱心に佐々木イツキを生徒会選挙に出るよう説得しろと私に言ってきてね。君が直接説得すればいいじゃないかと言うと、自分じゃ彼は聞く耳を持ちませんなんて言うんだよ。彼女の話を聞かない年頃の男子がいるとは私には思えなかったけど」
「待ってください。誰かが生徒会選挙に出るよう僕を説得しろと言ったのですか? その彼女とは誰ですか?」
「あれ? 知らなかったのか。決まっているじゃないか。私の教師生活の中でも稀に見る才女だよ彼女は。今回のことも彼女がいなかったら状況はさらに悪くなっていただろうね」
その時、廊下で言い争う声が聞こえた。
「あんたがちゃんとしてないからあんなものを雫は持ち出したのよ!」
声の方に眼を向けると、雫の両親が激しい言葉を言い交わしながら歩いてるのが見えた。二人が事あるごとに怒鳴り合いの喧嘩をしているのは僕もよく知るところだ。
国語教師は小さく「本人はもちろん、桐崎君のご家族もこれから大変だろうな」と言って立ち上がった。
「佐々木君、ちょっとこれは高校生の君が出る幕はなさそうだ。もう遅いし、クラスメイトが心配なのは分かるけど、今日のところは帰りなさい。桐崎君も君がずっと付き添っていてくれたことを知ったらさぞかし嬉しいことだろう。知り合いの小学校教師から聞いたことがあるけど、君たちは古い仲なんだってね」
国語教師はそう言って、雫の両親の方へ向かっていった。
一体今、何が起きているんだ?雫の容体は?桃園エリカはどうなったんだ?僕は何をしたらいいんだ?
呆然としながら人気も少なくなった病院を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。僕は終始、震え続けるスマートフォンを手に取った。
しばらくディスプレイに表示される名前をぼんやりと眺めた。次第に頭がはっきりしてきて、震える手で着信を拾った。
「エリカさん! 大丈夫ですか!」
少しの間が挟まってから、彼女らしい声が聞こえた。
「えっと、どした? あの、みりんというものを私知らなくて、すき焼き調理に挫折しかけていて全然大丈夫じゃないんだけど……イツキ、今どこ?」




