先人の教え
『隣の芝生は青い』
日本人でこのことわざを知らない人はまず、いないだろう。
誰もが知っている通り、これは他人のものが自分のものより良く見えてしまうという意味のことわざだ。
しかし、ここで疑問に思ってしまう。
本当に良く見えているだけか。
実際に自分のより良いものなのではないか。
確かに、子供の頃は、周りの子が持つもの、何でもかんでもが羨ましく見えたものだ。
しかし、少しずつ大人になり、色々な知識・価値観を知った高校生である俺には、自分のものと他人のものを比べてどちらがいいか判断するくらいは出来るはずだ。
つまり、俺が他人のものの方が良く見えたのなら実際に自分のより良いと言っても間違いではない。
他人が羨ましく思えるのはそれまでの努力を知らないからだ
このように考える人もいるだろう。
確かにその通りだ。他人の努力が見えない以上、その人の苦労が理解できず、良いところだけ見てしまっているのだろう。
しかし、言わせてもらいたい。
他人のものを羨む時、努力で変わるようなものを羨むだろうか。
答えは否だ。
人々が羨むのは、才能や容姿、環境など努力では変えることの難しいものを羨むのだ。
テストで100点とった友人を羨むやつがいるか? いや、いないだろう。
そいつが羨むのは100点取るまでの過程である、教科書を覚える記憶能力だったり、勉強したことを簡単に理解する理解能力であって、テストの結果ではない。
つまりだ、『隣の芝生は青い』という先人の教えは間違っているのではないか。
しかし、この言葉は俺の人生よりも遥かに長い年月の間、使われ続けたのだ。それまでの間に廃れなかったということは、間違いなくこの教えは正しいだろう。
でも……、いや、こんな無駄な議論はやめて、現実に向き合おう。
俺は現在、ショッピングモールに来ている。
その中を歩いていると手を繋いでいる男女がちらほら。
──幸せそうな雰囲気出しやがって、このリア充どもが。
羨ましくないのか?だって。 羨ましいに決まっている。
リア充どもがイチャイチャする一方俺は、女子と2人きりで来ているが、ただの幼馴染、手を繋ぐなんて展開はありえない。
こんな状況であいつらを羨ましく思わない奴はいないだろう。
先程の議論の結論を出そう。
先人の教えは間違っていなかった。隣の芝生は青く見えるものだ。
そして、その真の意味も今、理解した。
これは他人のものは良く見えるという意味ではない、リア充のものは良く見えるという意味だ。
──幸せそうなリア充ども、爆発しろ‼︎
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