後
いないって、どういうこと? と、アレイナは首を傾げました。
泉のほとり。朝の光が梢の葉をきらきらと輝かせています。
あれから数日。
ユーリは村長の家での逗留を認められたらしく、子どもたちに読み書きを教えるかたわら、島の住人になってもよい、と言われたそうです。
漂流者が(よほどの荒くれでなければ)村に居つくのは珍しいことではありません。アレイナはおっとりと笑いました。
花の顏。
ユーリは、アレイナほどのうつくしい少女を見たことがありません。人ではないからだろうか……と考えつつ、彼女と話すと不思議と心が落ち着きます。あんなにも焦って、誰ともわからない“伴侶”を見つけて国に帰らねば、と躍起になっていたのが嘘のようです。
「君に、ふれられたらいいのにな」
(!)
どきん、と、跳ねたような気がして、アレイナは胸の辺りを押さえました。
どきどきどき、と困ったことに治りません。
青年は、切なそうに少女へと手を伸ばしました。すべらかな頬の辺りです。
まるで、ふれているかのようにユーリの手がぴたり、と止まりました。鳥のさえずりも一瞬、止まります。二人はしばらく見つめあっていました。
「また来るね。僕のお姫様」
にっこりと笑ったユーリは、朝陽に溶けるほど嬉しそうな顔をしていました。
* *
大きな国の王子がルクレナ島に流れ着いた、という知らせは、やがて領主の耳にも届きました。
領主はすぐに、忙しい仕事にめどをつけて海を渡り、ユーリに会いに来ました。ちょうど村長の家で、子どもたちを集めて字を教えていたときのことです。
「すまないが、一緒に来ていただきたいところがあるのです。おう……いえ、“先生”」
「はぁ」
子どもたちは、きょとん、としていました。
領主様は、ルクレナ島にたまにしかお見えになりませんが、村長だってぺこぺこする偉い方です。みな、興味津々で二人を眺めています。
ユーリは苦笑しました。
村の住人には身分を伏せてほしい、と願ったユーリの気持ちを、もう少しで台無しにしかねないような慌てっぷりです。
「じゃあ、今日はここまでね」
やさしく諭すユーリ先生は人気者です。
子どもたちは、しぶしぶと帰っていきました。
領主は、ゆったりと落ち着いた風情の青年を村長の家から連れ出しました。
「お待ちください、領主殿。どちらへ?」
怪訝そうに尋ねるユーリ。
領主は、道すがらお話します、と急いで馬車に青年を乗せてしまいます。
お伴の御者には、さっと目配せして、慣れた声音で命じました。
「出してくれ。別荘まで」
* *
じつは、領主には娘が一人いました。
ですが十五歳になったある日、原因不明の眠りについてしまったのです。
眠っている間、時が止まったように娘は姿をとどめました。その娘に会ってみてほしい、と言うのです。
「僕は、医者じゃないんですが――」
「わかっています。ですが、娘が生まれたときに不思議な占者が現れました。『成長してからただ一人、定められた伴侶にふれられるまで、この娘は眠りにつくだろう』と」
「! 待って、その占者とは」
問いかける青年の声が途中で切れました。
前をゆく領主が、ばさっと布のカーテンをひらきます。
幾重にもかさねられた透ける薄布の向こう側で、清潔に整えられた寝台に一人のお姫様が眠っていました。
閉じられた瞳が何色かはわかりません。しかし、波打つ金の髪と面影が「彼女」を思わせます。ユーリにとって大切な、大切なまぼろしの少女。水辺の姫君に。
そっと娘の頭をなでた領主は、ささやくように言いました。
「アレイナ、と申します。ユーリ殿」
──────
それから。
領主の見守るなか、ユーリは生身のアレイナにふれました。
あのとき、ふれられなかった彼女の左頬です。氷ほどではありませんが、ひんやりとして柔らかく、その冷たさにどきり、としました。けれども。
「うう、ん……」
長く優美なまつげがぴくり、と動いてうっすらと瞳が開きます。
暁の、紫色。きれいなバラ色がかった夢のような色合い。間違いありません。あの子です。
ユーリは、なぜか堪らなく泣きたくなって、のどをきゅっと詰まらせながら、ちいさく呼びかけました。
「おはよう、僕のお姫様。……“アレイナ”というんだね、君の名前。知りたかったんだ。よかった、会えて」
「ユー……リ? どうして。わたし」
みるみるうちに、頬が赤みを取り戻して行きます。止まっていた時が再び流れ出すのが、目に見えるようでした。「アレイナ……!」と、青年の後ろで領主が感極まった声をあげます。
ずっと眠っていたお姫様が目覚めた、という喜びごとに、村中大にぎわいとなりました。すぐに宴が始まり、お祭りのよう。
何人かの村娘は失恋を味わいましたが、こればっかりは仕方のないことです。
島の者があらかた酔いつぶれて寝入ったころ。アレイナとユーリは、領主の別荘のバルコニーで夜空を眺めていました。語っても語っても、話はつきません。
アレイナにとって、水辺にしかいられなかった間の記憶は、しっかりと残っています。
アレイナに予言をあたえた占者は、ユーリの国の占い師と同じなのでしょうか。
どうして二人を結びつけようとしたのでしょう。――あるいは、本当にそうなる定めだったのか。
二人にはわからないことばかりでしたが、きっと、それはまた別のお話。
二人はしばらく、仲むつまじく常夏のルクレナ島で暮らし、やがて、ユーリの生まれた国へと旅だったそうです……。
〈おしまい〉