夏休みの宿題で苦手だった読書感想文
かつて、聞いたところによると「読書感想文模範解答サイト」なるものが出回っていたらしい。(今でもあるのかな?)
タイトルを入力すると、読書感想文模範解答が何パターンか用意されていて、そいつを流用すれば快適な夏休みがまた一つ充実するという優れものサイト。考えたら、自分も学校に行ってた頃は読書感想文を書くのが大嫌いでしたわな。
「何で感想を書かなきゃなんないの?」
「何で強制されるわけ?」
「何で感想文に優劣をつけるの?」
「何で読む本をそれに決めたわけ?」
などなど、色んな理由があってイヤだったなぁ。あ、天邪鬼なのか>我
ところが最近じゃ「読書感想文って面白いかも!」と思ったりもするようになってきた。
体質が変わってきたみたい。
とはいえ、『○○の本を読んで、私は○○に感動しました。私も○○のようになれたらいいなぁと、思いました。』みたいな思いっきりベタな文章は今でも大の苦手。ってか、大嫌い。つまんない。こういった「書式」の方がガッコーの先生たちには好感もたれるのかもしれないけど、んな感想って、意味ないよね。
実際、自分の頃を振り返って見ると、私も随分とベタな読書感想文を平気で書いていたなーと、思い出したわ。
中学の頃、島崎藤村の「破戒」を読んで、「○○は大変だと思いました。今でも世の中には…云々」なんて、思いっきりベタな文章を書いていたっけ。
日記も大嫌いだったし。(絵日記は、絵だけ描いていた事があった)
社会人になった今この瞬間で、読書感想文を書こうとすると、処世術と言うかサラリーマン気質と言うか、色んなところに気遣いをしながら文章を書くようになってきてる。これまた問題なんですけどね。
(^^;
例えば、「本を評価する」
例えば、「本を紹介してくれた先生に感謝する」
例えば、「『国語』がもっと好きになれたような気がする」
…などと、授業や担任の先生に「おべっか」をそれとなくちりばめて「ヨイショ!」したり、文章の出だしあたりから読み手を意識して言葉を選んだりするだろう。。やだねー。これじゃ、学校行ってた時のひな型と大して差はないじゃん。
私が最近読書感想文を面白いというのは、そういう処世術的に書くことなのではないのですよ。なんていうかなー、自分だったら『「あとがき」にどんなこと書いてやろうか?』みたいな視点に立とうとしちゃうのにモチベーションが高まるんですわ。
例えば、
川端康成「雪国」。
この作品の読書感想文を書こうということになったら、どうするでしょう。
昔の私だったら、
『「雪国」を読んで最初に思ったことは、日常からはなれたところにもうひとつの日常があって、そこで展開される人々の生き様に、いろいろなことを感じました。例えば…』
なんて書いたことだと思う。「ですます調」基本で。
でも、
今の私だったら。。。
『駒子は何を思っていたのだろう?』
なぁんて、唐突な出だしを書いて、読み手の意識を引っ張ること辺りから始めちゃうかも知んない。
『この作品に出会えたことは、この夏の最大の収穫だったと思う。先生の設定された「本の選択肢」にこれをラインナップされたセンスは脱帽に値する。』
なぁんて、ヨイショもするかもしんないけど(^^;
もっとも、当時読んだ「雪国」を今改めて読んだら、確実に違う感想を持つだろうな。
当時は真正面から読んだろうけど、今では真正面から読んでいるつもりで
「鉄道で国境のトンネルを抜ける…このプロセスからして、著者の現実逃避願望のようなものを感じるし、そこから話がスタートする辺りに、もう最初から答えを用意しているような伏線を感じる。」
なんて印象を受けちゃうし、
「もしかすると、この作品を書き上げた時には著者はかなりのストレスを抱え込んでいたのかもしれない。」
などとまで思えてしまう。
つまりはあれだ、作品のワールドに直球で入って行った当時とは異なり、今じゃ現実界に「先ずは」作品を引張ってきて、そこから作品の世界に入るような、妙なステップが出来上がってしまっているなぁ。
やな大人になっちまったもんだ。
追記(笑)
川端先生の表現手法には脱帽してます。これは、昔も今も同じ。
「悲しいほど美しい声」
こんな逆説的表現ができる人って、中々いませんよ。もう、これだけで萌える。
そうなんです、少女漫画以上に少女漫画な心理描写が…違うな、オタク以上にオタクなエッセンスが何気にあると実感したりしてるんです。
男性の書く大人向け少女漫画の劇画調テキスト。たぶん、これだな。自分的なストライクってのは。。