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とんかつ物語

 そのとんかつ屋さんは、巷では結構評判の店である。山田さん(仮称)の勤務する職場は、そのとんかつ屋さんの近所にあった。そんなことから、山田さんは以前からとてもそのお店が気になって気になって仕方なかったのだ。


 ある日のこと、比較的順調に仕事が流れた山田さん、お昼休みのまとまった時間を利用してそのお店に足を運ぶことを決意した。しっかりと味を楽しみたい彼は、敢えて「連れ」を避け、一人で乗り込むことにしてみることにしたのである。


 暖簾をくぐると、意外とお店の狭いことに彼は驚いた。10人程度がやっと座れるカウンター。4人がけのテーブルが3~4組。店内にはご主人と、アルバイト的な日本人に似て否なる女性が数人。。おもむろにメニューを眺めて、山田さんは鼓動が高まるのを感じた。


とんかつ定食 880円

ロースかつ定食 1,500円

ヒレカツ定食 1,800円


そう書いてある。

(?この値段設定は一体何だ?)

とんかつ(定食の値段)は分かるとしても、ロースになると何故に値段が倍化してしまうのだろう!?

ならば、豚さんの「とんかつ」とはいかなる部位を用いているのだ?

いやいやそうじゃない、折角とんかつが880円なのに、ロースになると何故にそこまで高いステージに上がってしまうのだ?


山田さんはモンモンとしてしまった。

 ロースからヒレカツに上昇するに300円アップは分からないでもない。しかし、880円から一気に1,500円に跳躍してしまう「とんかつ→ロース」の理由が分かんない。

 とんかつがそんなに庶民的なのか、はたまたロースがブルジョアなのか、彼はロースが食いたかったが、この値段設定に、やむなくとんかつ定食を選択するに至る。

ってか、「とんかつ」と「ロース」の(味の)違いが難儀な(要するに「出来ない」)彼にとって、1,500円を選ぶのは正に「豚に真珠」なのであった。


だが、事はそう簡単には終わらなかった。


 折りしもお昼時。山田さんの腰かけたカウンター・テーブルの空席には、次々とお客さんが座り、後からやって来た順番待ちのお客さんなどは、とうとうカウンターに腰掛けているお客さん達の背後にずらりと並んでいる図になってしまった。

山田さんの背後にも壁にもたれかかるようにして何人も立っている。

後ろに並ばれると言うのは「早くしろ!早く食い終われ!」のような無言の圧力がかかるようで、ゆっくり出来ない(食事できない)プレッシャーを感じる。

 それだけだったらまだいい。山田さんの両隣のお客さんも、そのまた向うのお客さんも、注文する品は殆どが「ロースかつ定食!」と言っているのである。

 勿論、中には違う注文をする人もいる。しかし、そう言う人は決まって「ヒレカツ定食!」なんて言うのだ。



〔 「とんかつ定食」を注文しているお客がいない 〕



さぁ、困った。

激しく困った。

『(自分だけ)とんかつ定食!』という勇気が湧いてこない。

なんか、皆が1,500円オーダーしているところで、880円オーダーをすることに「惨めさ」まで感じてしまうのである。


そんなわけで、「見栄っ張り症候群」が発生した。


「僕もロースかつ定食!」


本意ではなかった。

言ってしまってから心で泣いた。

(しかし、俺も男だ、ロースくらい食ってやる!)

(折角頼んだんだから、気合入れて味わって見せようぞっ!)

彼は心に誓う。


「当店のとんかつは上質の選びぬかれた豚を使用しています。上質の味をお楽しみいただくために、塩でお召し上がる事をご推奨いたします。」


店内に張られたビラにはそのように書かれていた。

カウンターを見渡すと、確かに塩は置いてあるが、なんと、ソースが見当たらない。

お試し下さいと敬語表現しているクセに、並んでいる調味料を俯瞰すると、それってば「塩で食え!」と強制されているようなものではないか。



再び悩む。



何故って、彼はどんなとんかつであれ、ソースで食べたかったんだもの。

悩んでいるうちに次々とロースかつ定食が出来上がり、山田さんよりも先に注文していた両隣のお客さん達に並べられていく。


(うーん、みんなどうやって食べるんだろう?)


皆さんは何の疑いもなく塩で食いはじめた。


(まいったなー。塩で食うのはてんぷらくらいにして欲しいなー。)


彼の偽らざる感想だ。


そこに、カウンターではなくて、後のテーブル席についているファミリーらしき4人団体から、この局面をぶっ壊すような発言が飛び出した。


「お母さん、ソースは!?」


年の頃、もう直ぐ中学に上がりそうな感じの男の子である。


(うむ!率直な意見だ!)


心の中で激しく同意する山田氏。


「ここはね、塩でとんかつを食べるお店なのよ!」


母親、子供を説得にかかる。


「え~っ!?それ、ヘンくない~?」


(うむっ!!率直な意見だっ!)


山田氏は振り返ってその子を見たくなった。





フツーの子だった。





子供は更に駄々をこねる。


「だって、ソースがなきゃ、意味ないじゃーん? お父さんもそう思うよねー?」


お父さん、黙っている。


(いいから塩で食べなさいっ!)

小声でしかもきつく子供を叱る母。その言葉は確実に山田氏の耳に届いている。「いいから」という単語にどれだけの説得力があると言うのだろう?


「やだっ!」

にべもなく拒否する童子。


「じゃぁ、食べなくてもいいっ!」


この切り返し、『王手飛車角取り』くらいに強烈。



「ソースっ!、ソースっ!、ソースっ!」



『ひとりシュプレヒコール』の子供。


お父さん、黙る。

母、焦る。



すると、やおら立ち上がったお父さん、カウンターの向うへ声をかけた。


「すみません、子供がぐずっちまいまして…ソースありますか?」



そしたら、ソースが出てきました。


(なんだ、あるじゃん!)


子供はたっぷりととんかつにソースをかけて美味そうに食べ始めました。

何故か、お父さんもソースをかけて食べ始めました。

もうひとりのお子さんもソースをかけて食べ始めました。

お母さんは、…塩です。

でも、お母さんはお父さんにきつい視線を送っています。

お父さん、意に介していない風です。


山田さんは、そのテーブルのお子さんに声をかけました。

「坊や、よかったら、終わったらそのソース、おじさんにも貸してくれないかな?」


山田さんの隣に座っていたサラリーマン風のお兄さんが、山田さんに話かけました。

「あ、すいません、それ、僕にも貸してください。」



圧力に屈してはいけないというお話でありました。おしまい。

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