赤痢な話し
私の先輩に鍼灸師の先生がいる。その先生が以前にインドへツアーで出かけたのだが、そのツアー、とてもヘヴィな展開になってしまったらしい。
ツアーのメンバーは合計で30人あまり。そのうちの3分の1くらいが現地に着いたその日のうちに腹痛と下痢の症状に苛まれてしまったそうである。
ツアーのメンバーの職業はまちまちで、先輩の職業が鍼灸師であることは、行く道中の機内での自己紹介でみんなに知れ渡っていたために、調子を崩してしまったメンバーに先輩は初日から非常に重宝がられてしまったらしい。
休暇でインドに出かけたのに、しょっぱなから普段以上に激務になってしまったそうな。
しかも、その翌日には、また別の3分の1くらいのメンバーが腹痛に苛まれた。
で、先輩は罹患したツアーのメンバーの治療にいそしむ一日を再び過ごしたらしい。
こうも連日治療の日々となると、一体何しにインドに出かけたのか解らなくなってしまう。で、当の先輩はと言うと、これが中々丈夫でツアーの最中は全くと言っていいほど体調不良を訴えることはなかったそうである。
ところが。
帰国間際になって、とうとうお腹の調子を著しく害してしまったそうだ。
お腹が痛いだけではなく、全身に震えがやってきて、まともに歩けない状況になったらしい。
しかし、空港でお腹の調子が悪いなどと言ってしまうと飛行機に乗れなくなってしまう恐れがある。
そんなわけで先輩はいたって平静を装って搭乗。10時間近くに渡る帰国の旅についたのだが、これがまた苦痛の世界で「震え」がいよいよ全身を支配してきたのだそうだ。
手も足もガクガクブルブル。自分で制御できないくらいの状態に陥ったらしい。
だもんだから、トイレに行くにしても這って行くような始末。
そしたらスチュワーデスさんがやってきて何やら話しかけてきたそうな。
相手さんは日本語が全く話せず(外国の国際線に搭乗していたのね)、英語でペラペラとまくし立てる。
断片的に理解できたのは「OK・プリーズ・カモーン」だそうだ。
(おおそうか!私の調子が悪いのを察して、何やら手立てを打ってくれるんだね!?)
と理解した先輩はそのスチュワーデスさんに導かれるまま後を「這って」ついて行ったらしい。
ファーストクラスに案内された。
(何と粋な計らいだ!)
先輩はいたく感激したそうである。
が、しかし、感激の時間はほんの一瞬。
そのファーストクラスには、先輩と同じように震えが止まらなくなってお腹を壊してしまっている女性客がいる光景が目に飛び込んできたそうである。
よく見れば同じツアーのメンバーの一人じゃないか。
スチュワーデスはその乗客を指差し、「はやくはやく」と促しているようだ。
実はこの女性客、ツアーの最中に先輩が鍼灸師であることを聞いていたので、体調が悪くなったその時、スチュワーデスに頼んで彼を呼んできて治療してもらいたいとリクエストしたらしい。
素晴らしい先輩は、全身脱水状態のプルプル状態ではあったが、治療を決行したそうである。よくもまぁちゃんとツボに鍼を差し込むことが出来たもんだ。それより何より先輩の体調は大丈夫だったのだろうか?
何とか治療を済ませ、息絶え絶えの先輩に無常なるスッチーは「それでは元のお席にお帰り下さい」とばかりに元の場所へ誘導させられたそうだ。先輩、再び這って行く。
先輩の席は、非常扉付近の狭い椅子で、リクライニングが出来ないものだったらしい。従って「直角」のまま座っていなければならないのであるが、とてもそういう姿勢が出来る状態ではなく、たまたま目の前が非常扉ということもあって、前には空きの空間がある。スッチーからブランケットを貰って、椅子の前のその空間にブランケットを羽織って横になってうずくまりながら岐路を過ごしたそうな。
成田空港にて、お腹の調子が悪いと発言したところ、検便を行ったら「検査結果が出るまでの2~3日は自宅に戻っていてよろしい」と言われ、先輩は東京の自宅に帰ったそうだ。
帰宅後、先輩は自分で自分に鍼を打ちながら症状の改善に励み、その甲斐もあって大分回復してきたらしい。帰国後翌日くらいから仕事も始めたという。
数日後。
先輩は仕事先で衛生局からの電話を受けることになる。
その向こう側は非常に緊迫している様子だったという。
「あ、もしもし!○○さん!?、いま、どちらにいらっしゃるのですか?」
「え?、今は横浜で仕事中ですが…」
「私は衛生の○○ですが、直ちにご自宅にお戻り下さい!」
唐突に切り出すその言葉に先輩は、何故かちょっと「むっ」としたそうである。
「ですが、今は仕事中で、直ぐに手が放せる状態ではないです。どういう事情か知りませんが、いきなり帰れとは失礼でしょう!?」
「お話しします。貴方は法定伝染病に罹患していることが判明致しました。この為、緊急の処置が必要となっております。もし貴方がそれを拒むようでしたら、警察が貴方を拘束いたします。その場を離れないで下さい。離れれば犯罪行為とみなし、そのように対処いたします。」
何やら物凄い発言である。私の記憶が正しければ現在日本においては法定の伝染病は10数種類と思う。コレラ、チフス、赤痢…etc。これらに罹患した場合、国はどういう行動に出るのか?さすがにそういうことまでは知らなかった。
先輩のその話を聞いて空恐ろしくなってきてしまった。
一気に隔離戦法ではないか。凄いぞニッポン。
そんなわけで、しぶしぶ自宅に戻る先輩。
着いてみると何やら鉄格子のついた物々しい車がご自宅に横付けされていた。
しかも、先輩のお宅の中からは物凄くせわしない大きな声が連呼していたそうである。
「あ!ありましたありました!」
「よし!それも梱包しろ!」
「浴室は如何しますか!?」
「洗浄と除菌処置を早急に行え!」
「はい!!」
「あ!ここにもありました!」
「隔離!」
こんなやり取りだったらしい。
先輩が旅行に出かけたときに身に着けていた衣料品、バッグ、資料など、ことごとく押収され、ご家族は目を剥いていたという。
そりゃそうだろう。いきなり保健衛生何がしがやってきて、差し押さえとか消毒を始めたのだから無理も無い。
とにかく一番驚いたのは先輩ご自身である。その光景を目の当たりにしながら、それでも何が起きているのか、自分が原因であることはこれっぽっちも感じないで、単に不愉快だったそうである。
『人の家で何を失礼なことをしてくれるんだ!』程度の感じでいたそうだが、先輩の目と合った職員が、
「貴方がご主人ですか?」と聞いてきて、
「ええ、そうですが…」と、言ったとたん、
「来ました!来ました!」と大声を張り上げると、その上司らしき方が、
「手配!」と言って、いきなり鉄格子のある車に誘導されて監禁。
その瞬間、先輩は妙に自分が犯罪者になってしまったようで途方にくれてしまったそうである。
車は都立の隔離施設のある病院へと向かった。
そして先輩はそこで2週間あまりを過ごすことになったそうである。
同室には、コレラ患者やチフス患者もいらっしゃる。
しかし、その全体がいっぱ一からげで同じ部屋なんだそうだ。
この皆さん、完全隔離なので当然のことながら外に出ることも許されず、病室でずーっと過ごさなければならない。
暇なのでトランプなどをして楽しんだそうである。
ヘンな話だが、チームプレーで「コレラさんチーム」とか「赤痢さんチーム」とかでチーム対抗花札なども楽しんだそうである。先輩は赤痢チームね。
ここで、先輩はひとつの疑問にぶち当たった。
「赤痢の患者が、コレラを併発してしまったらどうしてしまうんだろう??」ということだ。
この質問に、コレラ患者の同室の方が答えたそうである。
「大丈夫、貴方が赤痢である以上、コレラには罹りません」
この理由を皆さんはご存知だろうか?
何故かと言いますとね、どの病気にしても、身体が菌に犯されているわけなんですよ。
で、ある人が何がしかの菌にやられてしまうと、その時にはその病原菌自体の特性として、その菌がその人の身体を支配しようとする傾向が出るようなんです。
この為、そういう状況になると、他の菌の進入を強力にその菌が抵抗してくれるので他の菌がその人体に侵食してくれる事を阻んでくれるそうな。だから、赤痢患者は赤痢に加えてコレラやチフスに罹ることにはならないのだそうである。
凄いよね。
ちょっと飛躍するが、だから、風邪をひいている最中はインフルエンザにはならないのだそうだ。菌に支配されることは、そんなわけで諸刃の剣なのでしょう。
菌に支配させて自己防衛。
なんか今後の医療にヒントを一つ投げかけたような気もするんだけど、
…気のせいだよね。