アリスタルコスの戦い
月は蒼の炎を吹く、巨大で、丸く、そして竜であった。化学的には、月中心から偏るウラン鉱床から昇るラドン222のガス噴流が太陽光と衝突した発光ではあるが、アリスタルコスのクレーター全体が青に呑み込まれる光景は幻想的であり、しかし死が満ちていた。
死の蒼光が漏れるアリスタルコスに、外部機動ユニットを背負った空間歩兵が、昼と夜の境界に環となったレゴリスの反射に混じり降下を始める。キラキラと反射する微小な砂粒のレゴリスが装甲服を打ち付け、関節のシーリングに弾かれ、掻き分けられ、光の中から地上へとやってくるのだ。
アリスタルコスの爆雷対策で多層防御されたレーザー対宙砲台は事前のシードで、無人攻撃隊が犠牲を払いながら無力化している。ロケットの火を小刻みに吹きながら、コイル状に巻かれた破片板を磁気破壊し撃つ散弾ビームで攻撃する鉄人形が、砂丘とクレーターに埋まりながら、激戦を繰り広げた残骸がいたる場所に焼け焦げた塊としてレゴリスの海に半ば埋まっている。
そしてーー月に人間が投じられる。
星の煌めきとは違う、刹那の火、姿勢制御のロケットが星とレゴリスを隠し、ソラでまばゆい星の代行は死天使としての燃える翼を広げ、瓦礫と化しているレゴリスの砂丘に足跡を残すのだ。
(略)
月面型攻撃ユニット“ムーンビースト”、機械仕掛けの怪物が、アメンボのような多足でレゴリスの海を滑るように走り、沈む海に足がとられる兵士を圧倒した。
接地圧の低い複数の足はレゴリスには沈まず、逆にレゴリスを突き固めるように踏み出しては、月面の低重力を低空滑空し、射撃されれば素早く足を下ろし直角に、あるいは急制動で押し包む弾幕の多くから致命的な損傷を防いで見せられた。
大気ない月面地上で、そこではただ、無線越しの断末魔が叫ばれることでのみ聞き取れる静寂。
空間歩兵達がコッキングガンで一発ずつ排莢と装填を繰り返すしか銃を撃つ術がない月面で、宇宙のアメンボのようなムーンビーストは重機関砲に準じる自動火器を乱射してなお、反動を吸収できる質量を持っていたのだ。
大口径機関砲弾底部からのロケット噴射が、僅かな時間激しく燃焼し、硬い弾頭が装甲宇宙服バイザーを打ち砕き、赤熱し変形し、貫く合金が眼窟の白くブヨついた眼球を熱と衝撃で完全に液体をぶち撒け、脳を弾道の旋回でグズグズのスライムに変えながら、射出口から脳とも骨とも合金ともつかないものを噴出させた。兵士を宙へと吹き飛ばし低重力ゆえの緩やかな軌道で亡骸を滞空する。
漂う戦友を押しのけ、コッキングガンの銃火、外部機動ユニットの制御炎が長く伸びた血飛沫のベールを突き抜けた。
焼けた血が、装甲に焦げついた。
(略)
軌道爆撃支援、マスドライバーから加速された耐久コンテナがアリスタルコスのレゴリスに突き刺さり、巨大な、月面軌道からでも観測できるだけの、舞い昇るレゴリスの嵐が引き起こされてしまう。
人為的な嵐は、レゴリスの濁流はやがて光の粒子で満たされ、目を奪い、砂の津波がアリスタルコスを飲み込み、ムーンヴィークルを横転させ、視界の全てを反射光が白く塗り潰し、センサーユニットがフィルターした、荒すぎる視界が全てに変わる。
橙色の光に満ちた、生命が胎の中から透かして見る色のそれと同じものは、本来安らぎである筈のそれは、生命がもっとも存在しないであろう環境に闘争を強制した。
低重力戦闘の訓練と実戦を積んできた兵士ですらも、まったく知らない環境がそこにはあり、未知に対して適応できるものだけが戦いを制するであろうことは、誰もが理解していた。
理解しているのではあるが、流動する状況に多くのものは自身を支えるだけで精一杯であり、足を止めた者を、理解できないなら盲目的に遂行するだけという、極めて単純な行動原理で切り抜けるムーンビーストが刈り取っていく。
「バケモノめ!」
合金と環境適応シミュレーションで形作られた機械仕掛けの生命は、勇者達でさえも怪物に抗い難い能力を遺憾なく撒き散らし、月面でもっとも、最先端に進化し適応したデザインとして、地球環境下でさえも充分な能力の発揮が難しい兵士を追い詰めていく。
竜の吹く青い火の中で人間は戦う。
赤とは違う、黄とは違う、青、深い青、紺よりも藍よりも青なのだ。それはただ美しく、恐ろしく、赤い血も青くする。
存在し立つだけでも、原子の格子は放射線の攻撃を受け続け、急速に硬度を低下させている。
ムーンビーストに蹴られた装甲兵が砕け、飛び出した空気が凍りつき、霜を白く塗った。低重力の漂いは時間の流れを感覚的に狂わせ、大気のない地表は距離感を狂わせ、今何を、をわからなくさせた。大気の釜底と比べて、ではあるが。
(略)
照明チラつき、壁面至る所の弾痕の中、怪物の腹の中へと切り進む兵士は一歩を進む道を血で作らなければならず、されど足を止めずに犠牲を盾と基地制圧を進める。
壁面に四肢六脚を伸ばし立体機動するムーンビーストの脚に首を飛ばされ噴出した血の霧を銃弾が掻き混ぜ壁に死闘の絵が描き刻まれる。
何故、どうして、それら全ては無意味なのだ。敵がいる、化物がいる、ならば撃て、それで良い。
レゴリスの海に人間は文明の山を築いた。そこに住まう怪物も。
(略)
浮遊銃座モスとの撃ち合いは亡霊との戦いに近く、フラフラと月の低重力を泳ぎ揺れる影が現れると、突然機敏に両翼を動かして機動し、ばすっ、ばすっ、と乾いたガスガンの弾頭が襲う。
撃たれた。
ドミニク一等兵が、腹から血を吹き出し、しかし上手く止血できない、精神コントロールにも失敗し、呼吸と心拍が急激に変化しているのは分隊データリンクの全員に共有されている。彼は素早く後ろへ引きずり下ろされ、押さえつけられ、ドミニクが呼吸不全になりかけるほどの圧迫に呻くが、応急を施す戦友は彼の飛び出たハラワタを宇宙服に戻し、穴を塞ぐのに忙しかった。アンダーウェアの圧迫機能を強制起動。
「暴れるな、殺さなきゃならなくなる、殺させるな」
兵士の横腹から低速のグレネードが飛び出し、それは合成樹脂の折り畳み翼を展開し、コントローラで制御された軌道で浮遊銃座のモスを破壊する。小規模な爆発はモスの外骨格を完全に圧砕し、機構のパーツやコードをハラワタの如く撒き散らし、装甲バイザーにガン、ガンと擦過傷を刻みながら飛んでいく。
兎跳びで跳ねながら、小さすぎるライトを頼りに飛び込んでいく心にあるのは恐怖だが、恐怖を決して見せずゆく。与圧スーツに穴が開き、パニックになれば死ぬ。
小さな星、小さな宇宙船の中でしか人間は生きられず、それを一人で管理するには不屈と言うにはあまりにも鈍感であることが望まれる。例え手足が吹き飛ばされても、決して狂乱してはならない。宇宙の空間兵士はあまりにも脆く、それは古代象兵と同じく、周囲へも簡単に被害を広げるのだ、味方自身の行動でも……。
ナカジマ分隊長は浅い息を一塊に吐き、自裁強制のボタンから手を離した。彼には部下を手早く処理する為の裁量が広く許可されている。
(略)
月は地球の衛星であり、惑星と比べれば重力は数分の一以下だが、衛星軌道を周回できるだけのものはあり無重力なわけではない。
アリスタルコス攻撃部隊の軌道支援に投じられたエンデミオン艦隊は、地球水上艦隊程の勇壮はなく、それは最も最新で重武装の地球軌道艦隊とて例外ではなく、宇宙艦隊は地上支援に空爆を仕掛けることも難しく、もっぱらマスドライバー砲撃の誘導、兵員の輸送が任務だ。
地球艦隊最強の『戦艦』ハンニバルでも、爆雷を二発搭載しているだけの非力は、宇宙艦隊、すなわち宇宙空間、低重力環境、地球のような自然環境ではなく、ドームコロニーなど極めて脆弱な居住設備への攻撃は、厳に慎むべきことだったからだ。
どこの誰が、たった一発の爆雷で虐殺の地獄となるソラを戦場にしようか。
「月面からの支援要請に答え、小直径爆雷投下、レゴリスを極力混ぜるなよ」
装甲駆逐艦……ということになった“フリーシャーク号”という武装商船は、船体に後付けされた、およそ小さな爆雷との連結を解いてはカタパルトから射出され、蒼く燃える月面クレーター、アリスタルコス基地に向かって爆撃を開始した。
僅かな推進剤ガスを噴き、爆雷は自ら月軌道からの更なる逸脱と姿勢制御をおこない、原始的に、しかしシーカーの目がアリスタルコス基地の外殻の先、通路で立ち塞がるムーンビーストを捉えていた。
爆雷はアリスタルコス基地の天蓋を次々と貫き、遂には目標へと飛び込む。
爆発と鋭利な破片群は軽装甲のムーンビーストも、モスも一撃で引き裂き、アリスタルコス基地の深刻な被害を対価に駆逐していく。
アリスタルコス基地の掌握。
それは内惑星紛争が、惑星上だけの限られた戦闘に留まらず、禁忌とされてきた宇宙空間に戦果が拡大したことを意味するが、太陽系最大の重水素プラントおよび高純度合金製造プラント奪取の前には、これは一つの作戦にすぎない。




