九拾九 天命 2
翌日、介の藤原尚範を既に追放し、印鎰を押収したことを告げると、籠っていた者達はあっさりと降った。
国衙を接収した将門は、入れる限りの者達を国衙に入れ、改めて、多くの者達の前で、神託を再現した。
痙攣状態の巫女が
「朕の位を蔭子・平将門に授ける。その位記(位階を授けるときに与える文書)は、左大臣・正二位・菅原朝臣の霊が捧げる処である。右の八幡大菩薩は、八万の軍を催して朕の位を授かるであろう。今、直ちに、三十二相楽を奏でて、速やかにお迎え申し上げよ」
と告げ位記を翳す。
将門は位記を頭上に恭しく捧げ持って拝礼し、興世王と玄茂らが称号を奏上。
将門を名付けて『新皇』と称した。
驚愕と興奮が、居並ぶ者達の間に伝播して行く。どよめきが鎮まるのを待って、将門が語り始める。
「我等は既に反乱軍では無い。天命に因り世の乱れを正す、新たなる皇軍である。我等は八幡大菩薩の御加護を受ける身。運悪く肉体を失う者も、その霊魂は浄土へと導かれるであろう。天命を信じ、持てる力の全てを尽くし、世直しの為働くが良い」
「お~!」
と言う雄叫びが上がり、再びどよめきが広がって行く。
因みに、八幡神は、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し、一つの信仰体系として再構成された神仏習合の形態を取り、神でありながら菩薩でもある。
続いて除目が行われ、以下が読み上げられる。
下野守 平将頼(将門舎弟)
上野守 多治経明(常羽御廐別当)
常陸介 藤原玄茂(常陸掾)
上総介 興世王(武蔵権守)
安房守 文屋好立(上兵)
相模守 平将文(将門舎弟)
伊豆守 平将武(将門舎弟)
下総守 平将為(将門舎弟)
前夜の打ち合わせに於いて、興世王は、経験が有るとの理由で、当初、武蔵守を望んだ。だが、将門は、武蔵守に付いては腹案を持っていた。
秀郷を待っていたのである。
下野守とするのは、秀郷の力を更に増すことになるので危険と思った。そこで武蔵守をと思ったが、未だ参陣していない秀郷を指名すれば、物議を醸すことになる。その為、武蔵守に付いては、敢えて空席とした。しつこく聞いて来る者が有れば、当面自分が兼務すると言い繕うつもりでいたが、仮にも帝を称した為か、問い詰めて来る者はいなかった。
それに、興世王を武蔵守にはしたく無かったのだ。
武芝との間で和議が成ったとは言っても、民は興世王の所業を忘れてはいない。上手く行く訳が無いと思った。
興世王にしてみれば、武蔵守を拝して、貞連を追放することが出来たらどんなに気分が良いだろうかと思ったが、皆の手前、今の将門に表立って強く要求することは出来ない。作り上げようとしている権威に自ら水を差すことになるからだ。
もうひとつ、皆の意見を抑えて、将門が己の考えを通した部分がある。
京の朝廷に倣って親王任国の長官を、『介』としたことだ。これに付いては、異論も多く有ったはずだが、やはり、表立って反対する者は居なかった。
しかし将門は、結果としてひとつの例外を作ってしまった。
当初、四郎・将平を上野介とするつもりだった。しかし、夜半より将平の所在が掴めなくなっている。
間に合わず、除目に際してやむを得ず、上に上野守として多治経明を据えた。
将平が出て来れば、そのまま上野介とし、多治経明は異動させる。最初の構想では、経明は蔵人頭として手元に置くつもりでいたのだ。だから、上野守を置いたのは飽くまで繋ぎの処置で、太守である親王の権益を侵すつもりなど毛頭無かった。
その将平は、八幡宮から戻った日の晩、密かに伊和員経と会っていた。
「員経。良う言うてくれた。お聞き届け頂くことは出来なかったが、兄上のことを思うてのそのほうの諫言、麿から礼を申す。そのほうこそ、兄上の真の忠臣じゃ」
「勿体無いお言葉、感じ入りまする。しかし、お心が分かっていれば、もっと早く将平様にご相談申し上げるべきでした。僕如きが申し上げるべきでは無いと堪えておりましたが、間違っておりました。遅過ぎました」
「いや、罪は麿に有る。戦に明け暮れるようになってから、兄上と話すことが無くなっていた。もっと話すべきであったのだ。兄上をあのように導いたのは、やはりあの男か? 」
員経が黙って頷く。
「麿は、これ以上兄上に着いて行くことは出来ぬ。袂を分かつことにする。どうする? 麿に付いて来るか? 」
員経は首を横に振った。
「いえ、例えどのようなことに成ろうとも、麿は、命尽きるまでお舘様の側におるつもりで御座います」
「そうか。ならば、他人に見られぬうちに戻れ。兄上のこと、頼み置く」
「畏まりました」
甲斐、信濃の国府と連携を取り、将門と対抗することを模索していた百済王・貞連が、上野陥落と将門が除目を行ったことを耳にし、遂に逃亡した。
将門の側近に興世王が居ることを考えると、他の国司達のように追放だけで済むとは思えなかったのだ。以後、坂東の情勢は、信濃からのみ、京に齎されることになる。
伊豆守、相模守は、常陸での将門の蜂起を知った後、早々と逃亡している。常陸とは離れているが、以前より、将門の弟・六郎・将武が伊豆、相模に勢力を広げていた為、危機感を抱いたのだ。
安房守は、上野陥落後、海路、伊勢に向けて逃亡。貞連の後任の上総介は、まだ赴任していなかった。
その頃、京は大騒ぎになっていた。
庶民の間では、将門が、数万の大軍を率いて明日にでも京に攻め上って来るかのような噂が飛び交っていた。そして、その噂が貴族達をも怯えさせる。
私闘を戦っていた頃、上洛し、京で持て囃された将門の噂を皆覚えている。実際には負け戦も有ったが、噂としては無敵の猛将である。その将門が謀叛を起こしたとなれば、明日にでも京が火の海になるのではないかと恐れるのだ。
遠く離れた京では、将門の実態とは掛け離れたものになっている。
確かに将門は強かった。それは、源扶らに常陸の野本で待ち伏せされた時の戦闘や、八十人もの騎馬武者に石井の営所を急襲された時、僅か十人ほどの人数を率いて打ち破っていることを見ても明らかだ。
ただ、軍を率いての戦闘となると、将門が強かったと言うより、いずれも、呆れるほど相手が弱かったと言わざるを得ない。どの物語を読んで見ても、ここに登場するような、弱くてだらしない軍が登場することは無いだろう。情けないとさえ思える程だ。
もしこの時代に、信長軍や武田信玄の騎馬軍団が突然現れたら、あっと言う間に天下統一を成し遂げてしまったかも知れない。正にラノベの世界の話ではあるが。
何度も述べている通り、平安初期に国軍が廃止されて以来、それまで、定期的に行われていた農民兵の軍事訓練は全く行われなくなって久しい。そう言う、いわゆる一般人が、志願した訳でも無いのに突然戦闘に狩り出される。自分の身に置き換えてみれば、その恐怖心たるや想像出来る。時代や戦に関する考え方は相当違うにしても、命の危機に際しての人の反応に、そんなに大きな違いは無いと思う。普通の人が、敵を殺し、命の危険を顧みず戦えるように成るには、相当な教育と訓練の繰り返しが必要だ。それが全く無かったし、思想も無い。ちょっとしたことで逃げるのは当然なのだ。
国軍を廃止する代りに、少数精鋭を標榜して設けられたはずの健児にしても、時代を経るに連れ形骸化し、張り子の虎となっている。寄せ集めの土豪達に忠誠心などは無く、一旦不利と見れば、迷うこと無く逃げ去ってしまう。
そして、こんな構成の軍を指揮する受領はと言えば、軍人では無く文官である。戦闘経験、指揮経験も殆ど無い。初めから、まともな戦など出来る訳が無いのだ。軍とさえ言えない。
そう言う意味で、実際のところ、秀郷らと戦うまでの将門の指揮能力に付いては未知数と言っても良かった。
将門謀叛の噂が飛び交うと、それ迄も悪かった京の治安は更に悪化した。
盗賊団が昼間から我が物顔で洛中を闊歩し、荒らし回る。火付けも頻発し、いつ御所が焼けるかも知れない有様だ。
公卿達の中にも、財宝を密かに運び出し、どこぞに隠そうとする者が居る。その数、ひとりやふたりでは無い。
そんな折、信濃の国司より、将門が下野、上野を制し国司を追放し、印鎰を奪ったばかりで無く、新皇と称し除目を行ったらしいということが報告される。
忠平に取っては、将門謀叛の報せ以上の衝撃であった。朝廷の権威を根底から揺さぶり兼ねない。
その上、藤原純友の部下の藤原文元が備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹を摂津国須岐駅(現・兵庫県芦屋市付近)で襲撃し、純友も謀叛に踏み切ったとの報せも入って来る。
何を優先するべきか。忠平は究極の判断を迫られていた。
京には、官位を得られずに欝々とした日々を送っている、主に五位相当の地方豪族の子弟が数多く居ることを承知していた。
本来なら、蔭位として得られるはずの官位、官職を得られず、公卿達に無償で奉仕しているのは、それより他に出世の道が全く無いからに他ならない。それを、将門は骨の髄まで承知している。
もし将門が京に向けて進撃を開始し、その途上でそれらの者達の親である土豪に息子達に官位・官職を授けると言って取り込んで行ったら、全国の兵共が雪崩を打ったように将門の許に集まるということも起こりうるのだ。
さすがに忠平は、庶民や多くの公家達のように、将門が明日にも攻め上って来るなどとは思わない。だが、長期的に見れば、将門の謀叛が成功する可能性が、決して小さいものでは無いことを予見した。そして、将門を討つことが何を置いても最優先の急務であると決心したのだ。
何としても純友を懐柔し、和議に持ち込むこと。もはや崩壊してしまった坂東諸国の国府軍に代えて、速かに将門追討軍を送ること。民心の安定を図る為、諸国の神社・仏閣に将門調伏の祈祷を命じること。将門の謀叛が現実化してしまった今、誣告の罪で受牢している源経基を、ただちに解き放ち、その名誉を回復した上、褒章を与えること。
忠平は、それらの対策を次々に打ち出し、太政官をして驚くほどの速さで実行させて行った。
ただちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、天慶三年(九百四十年)一月九日には、源経基が賞されて従五位下に叙された。一月十九日には参議・藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍を募りながら坂東に向かう為に、帰宅することも無く、陣定の席からそのまま京を出立した。
征東大将軍の人選に付いては、野宰相と呼ばれ弓馬を良くした小野篁の孫で、自身も右近衛少将を務めたことの有る正五位下・小野好古を送るべきという意見が出たが、忠平は、六十八歳になる正四位下・藤原忠文で良いと指示し、そのように決しさせた。余談だが、好古は歌人・小野東風の兄でもある。
公卿達は、高齢の忠文では心許無いと案じ、忠平の意向を訝ったが、やむ無く太政大臣の意向に従った。
講和が成ったとは言え、京が軍事的空白地帯と成れば、純友がいつ再び反乱するかも分からない。忠平の考えは、数少ない軍事に秀でた者達は京に残して置きたかったのだ。そして、成り行きに寄っては将門に付く可能性も有る土豪達を、いち早く追討軍に取り込んでしまおうというのだ。
朝廷の威光の許に兵を招集する為には軍事的な才能よりも、正四位下・参議兼右衛門督という肩書が物を言う。実際の戦闘指揮は、誰よりも将門を知る平貞盛に執らせれば良いと師輔の進言により決めており、忠文にもそう伝えた。実態的に忠文は、最初から名目上の将軍であったのだ。
忠平は、既に貞盛に与えてある『将門召喚状』に代えて追討の官符を発行し、潜伏している貞盛を探し出して手渡す為の急使を坂東に送った。
土豪達を追討軍に取り込み、又は反将門勢力とする為に、忠平は、更に画期的な一手を打った。
その身分に関わらず、『将門を討った者は五位に叙す』と全国に告知したのである。五位と言えば国守に相当する官位である。そして、五位以上が貴族と称される。
どこの馬の骨とも知れない土豪でも、いきなり貴族にすると言うのだ。結果として低い身分から大功を賞せられ貴族に登った者は少数居るが、初めからこんな約束をするのは前代未聞である。
その家柄に寄って代々貴族階級を引き継いで来た者達に取って、到底容認出来ることでは無いはずだ。
現代の官僚でも、階層としての既得権益を侵されるかも知れないとなったら、大同団結して徹底的に抵抗するだろう。現代に例えるなら、高卒のノンキャリア平職員でも、いきなり局長級に登用すると言われたような衝撃だったに違いない。忠平はそれも抑え込んだ。
公卿達も、いかに太政大臣の意向とは言え、平時なら到底容認出来ないことであるにも拘わらず、将門に対する恐怖心から承服した。結果として、これが功を奏することとなる。




