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藤原千方伝・坂東の風  作者: 青木 航
幼年編 第一章
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九 尚、残る不安

 そのいくさとは、天慶てんぎょう三年(九百四十年)二月十四日。朝鳥が是光これみつを失った初戦から十四日目の下総国北山しもうさのくにきたやまの戦いに於いて、秀郷、貞盛らの連合軍が将門を討って勝利した戦いでのことだ。朝鳥は千常のめいにより、千常の許を離れて秀郷に着いていた。本陣に置いて、朝鳥が無謀な突進に出るのを少しでも防ぎたいとの千常の配慮が有ったのだ。


 初戦に策を用いて先鋒を叩き大勝した秀郷ら連合軍は、将門を追って下総国川口しもうさのくにかわぐちへ進撃し、将門は沼に囲まれた湿地帯に籠った。秀郷は袋状になった湿地帯の二か所の出入り口を固めて包囲したが、宵闇に掛かる頃、藤原為憲ふじわらのためのりの隊の固める辺りが突破され、将門は本拠地である石井いわいのがれた。

 秀郷らは石井近くに進出し、村々を焼き払い将門を追い詰めて行った。将門は自ら舘を焼き、残り少ない兵や家族を連れて身を隠した。

 この辺りは川や沼が多く、以前、良兼よしかねとの戦いに敗れた時も、将門は、川舟に潜みまこもに身を隠して時を待ち、再起を図ったことが有った。

 この度もそうしているに違い無いとの見方から、捜索の輪を徐々に絞って行こうと言うことになり、ありの這い出る隙間も作らぬよう、事は慎重に進められた。強引な方法を取ることは危険だった。

 これまで、将門は数倍の敵を何度か破って来た。死んだ蜂に刺されたり、抑えたまむしに噛まれたりするのではないかと思うのと同じような恐怖心が、兵達の心の中に有り、どんなに優勢と思える状況に在っても油断が出来ない。

 もし、将門が突然現れ、囲みを破り逆襲するようなことが有れば、恐怖心が頂点に達し、四千を超える兵のうち、かなりの者が逃亡してしまうかも知れないのだ。

 この時代の軍勢とはそんなものであった。もし、互いに、戦国時代のような精強な軍勢であったら、いくら将門でも、あっと言う間に坂東を制圧することなど出来なかったであろう。


 秀郷も将門も、いわゆる、領主ではない。

 元々、律令制の許では、土地も民も建前上はおおやけのものである。土豪達は、毎年、国司との間で請負契約うけおいけいやくを交わし、それに応じた税を納めるだけの存在に過ぎない。

 だから、理屈の上では国司は、翌年は他の土豪と契約することも出来る訳だ。しかし実際には、そんなことは簡単には出来ない。種籾たねもみを貸し付けたりして、民との繋がりも出来ているし、独自に開発した私営田もある。

 荘園の拡大なども含めて、既に律令の制度の多くの部分が形骸化しつつあった。

 また、土豪達の多くが、同時に国府の役人でもある。今の時代に例えるなら、地元の有力者が県庁の幹部職員として名を連ねているのだ。更に、役職が部長や局長であっても、実際には、知事や副知事よりも力を持っている者も居る。藤原秀郷が正にそうであった。

 いざとなれば、力尽くで国司に反抗する者も少なく無い。

 一方、土豪達にしてみても、いくさに際して狩り出す兵の殆どは農民である。主従関係は無いのだ。軍団制が有った時のように、年に数か月の訓練を受けている訳でも無い。

 有利と見れば従うが、一旦不利と見れば、数千人の兵が一夜にして逃亡し、翌朝には十分の一になってしまうことも珍しくない。それどころか、いくさの最中であっても、一旦劣性になれば、浮足立った兵達は、退却どころかそのまま逃げ去って二度と戻って来ない者も多いのだ。

 頼りになるのは、『家の子』と呼ばれる身内と少数の郎党のみだ。


 戦い続けていた将門にはどんどん兵が集まって来て、遂には数千の兵を率いるようになったが、平安な日々が長らく訪れなかったので、天慶てんぎょう二年(九百三十九年)十一月以来、兵を帰して休ませることが無かった。そのまま歳を越し、春の種蒔たねまきの時期が近付くに連れ、兵達をそのまま留め置くことが出来なくなり、遂に帰す決断をした。

 休ませるだけなら、交代で帰せば良い訳だが、誰も、農作業に最適な時期に帰りたいと思うのは当然である。近くに住む者達は交代制にし、遠い者達はすべて帰した。

 その結果、残った兵は、与力の土豪達、それらの家の子郎党すべてを合わせても千人にも満たなくなってしまったのだ。

 細作しのびを放って、常に将門の動静を探らせていた秀郷の耳に、それが入った。

「今だ! 」

と秀郷は思った。

 貞盛の他、常陸大介ひたちのだいすけ藤原維幾ふじわらのこれちか、為憲親子も秀郷を頼って来ていたので、秀郷はそれぞれにも兵を集めるよう促し、貞盛が八百、為憲が五百の兵を集め、秀郷の三千の兵と合わせて、既に四千三百の兵を抱える軍を作り上げていた。

 貞盛、為憲ら、言わば負け組がなぜ兵を集められたかと言えば、負け組なればこそ、その民は、家も田畑の収穫物も焼かれており、種蒔たねまきも出来なければ、この先どうやって食べて行けば良いかも分からない状態に在ったのだ。遠い他国に逃亡した者も多いが、朝廷が恩賞を約束し、何より当面食べることが出来るから集まって来た。

 兵の訓練は充分に出来ていた。陣形を組むと言うことは言わばマスゲームだ。いかに素早く陣形を組むかを繰り返し叩き込んだ。かね太鼓たいこに合わせて、次々と陣形を変えて行く。ひとつの陣形が破られた時、素早く次の陣形に組み直せなければ、兵はばらばらになり四散する。それぞれが従う将の旗を見分け、鉦や太鼓の合図の許、素早く集まり、指示された陣形に組み直させなければならないのだ。

 秀郷は訓練の成果に満足していた。だが、対・将門戦に付いての不安は残った。

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