八 戦士の郷
翌日から食事は郷の者達と同じ雑穀となった。付くのはひとつまみの塩と、山菜それに汁のみ。たまに、干した魚が付いた。しかし、なぜかそれは千方に取っては大した苦痛では無かった。出来の悪い強飯より、稗や粟の方がましとさえ思えたのだ。
「今日は競馬などお見せしたいと存じます」
二日目の朝、郷長がそう告げに来た。広場に出向くと、その日も、既に郷人が総出で、馬を引いた五人の男達が広場に控えていた。
合図を待って乗馬するが、日本古馬は気が荒く、サラブレッドのように大人しく整列などしない。それぞれ、あっちを向いたり、こっちを向いたりとしようとするのを、乗り手が 宥めながら、長の合図を今や遅しと待っている。
その中に、葦毛の馬に乗った長の倅が居ることに朝鳥は気付いた。
広場脇に筵が敷かれており、千方達はそこに案内された。千方と朝鳥が席に着くと、乗馬した男達に向かって郷長が手を挙げ、さっと振り下ろす。
一斉に走り出すが、現代の競馬の光景を想像してはいけない。サラブレッドのようにすらりとした馬体ではなく、むしろ、農耕馬に近い。
体は太めで、足も太い。従ってそんなに速くはない。いくら速くても、サラブレッドのようなガラスの足では、十貫目(四十キロ)以上もある大鎧を着た武者を乗せて走ることは出来まい。映画の世界とは違うのだ。
馬の体高は四尺(約百二十一センチ)を基準として、これを超える高さを一寸、二寸、三寸…… と表記し、四尺の馬が通常の馬の体高であるが、これを小馬と言い、四尺五寸(約百三十六センチ)あるものを中馬、五尺(約百五十二センチ)あるものを大馬と呼んでいた。軍用には中馬以上が使われたが、百六十~百六十五センチのサラブレッドと比べれば、大馬でも八センチから十三センチも低い訳だ。
郷の中心には、狭い山里には不似合いな幅六間ほども有る道が、広場を横切って一直線に走っている。その道は山に係る手前で狭まり、緩やかに曲がり、上り坂となって木陰に消えて行く。一方、六間道の後ろも同じように山に係り、木陰に消えている。見回すと、馬二頭ほどが辛うじて通れるほどの道が東側の斜面の木立の途切れる辺りに見え隠れする。どうやら、郷を半周する道が作られているようだ。
乗馬の訓練をするだけなら、こんな大掛かりな道を作る必要は無い。郷中はともかく、低い所とは言え、山を削って馬二頭が並んで走れる程の道を作るには、相当な年月と労力が必要となる。明らかに、見せる為だけに、大変な労力と時間を掛けて作られた道だ。この道は完全な周回路であり、郷の外には通じていない。
郷に入る道は、防衛の為か、狭隘で険阻なまま少しの手も加えていない。競走路の造作は秀郷が命じたものなのか。あるいは千常か。それとも、祖真紀ら自身が考えて作ったものなのか。いずれにしろ、この郷が只の山里では無いことを示している。
歓声が上がる。乗り手であろう者達の名があちこちで叫ばれる。手を振ったり、跳び上がったり、大変な応援である。
走り出した五頭の馬の列は、次第に縦に伸びて、山に係る辺りでは先を争って揉み合いながら木陰に消えて行く。
馬の進行位置に合わせて人々は体を巡らし、千方も朝鳥も立ち上がってその方角に目をやった。
木立の途切れる辺りでその姿が垣間見える度にまた歓声が上がる。
やがて、後ろの山陰から現れた馬群が、一直線の道で、最後の力を振り絞って広場に雪崩れ込んで来る。
先頭で飛び込んで来たのは、葦毛の馬に乗った体格のがっしりした、三十代半ばの男だった。
「いや、さすが、長の倅殿。やり申したな」
朝鳥が祖真紀に言った。
「恐れ入ります」
とは言ったが、祖真紀は当然とでも言いたげに、特に喜びの表情は無い。
馬を降りた男達が、千方の前に歩み寄り、立ったまま頭を下げる。
「千寿丸様。勝ったのは長の倅殿で御座るよ。お言葉を」
朝鳥が千方に言った。
「うん。見事であった」
千方は興奮気味に長の倅を見た。
「恐れ入ります。大道古能代と申します。お見知り置きを」
祖真紀の顎の張った四角い顔を受け継ぎ、眉が太く、しっかりした大きな鼻を持った意思の強そうな男だ。千常よりいくつか年上であろう。
朝鳥は古能代にどこかで会ったような気がしていた。夕べは気が付かなかったが、こうして正面からまじまじと顔を見ていると、その太い眉、大きな鼻、確かに以前どこかで見た顔だった。それがすぐに思い出せないのが歯痒い。歳のせいか、この頃そう言うことが良く有る。
「以前、何処かで会ったことが有るのう」
「ああ、郷の者達を連れてお舘に伺ったことが何度か有りますので、その折では御座いませんか? 」
「う? いや違う。婿から聞くまで、御事らが雑穀を受け取りに来ていることも知らなかった。お舘で会ってはいない」
「左様ですか。それでは、誰か似た者と間違えているのでは」
「いや、そのようなことは無い。確かに…… 」
「朝鳥。良いではないか。そのうち思い出すであろう」
なぜか、祖真紀親子が困っているような気がして、千方が口を出した。
「あ、はあ」
朝鳥は思い出せそうで思い出せない苛立ちを感じていた。
「千寿丸様。まだまだ趣向を用意しておりますので、どうぞ、お楽しみください。さ、汝達も支度に掛かれ。早う」
話題を変えようとしてか、祖真紀が男達を促した。
前を走る馬に追い着いて、騎手の後ろに乗り移ったり、騎手が、駆けながら地上に立っている男の片手を掴んで、ひょいと馬上に拾い上げたりと、競馬よりはるかに面白い趣向が、千方の胸を弾ませた。
駆けながら騎手が後ろ向きに乗り換えたり、地面に突き刺した太刀を、ほとんど逆さまに成りながら拾い上げて、すぐさま体勢を建て直しそのまま走って行ったりと、前輪、後輪を左右に分かれた居木で繋ぐ形式の大和鞍と舌長鐙を使っていては絶対に出来ない技に、千方は驚愕した。
大和鞍は前輪、後輪の高さが高く肉厚になっているので安定はするが、駆けながらその上で体勢を入れ替えるのは至難だ。また、舌長鐙は、輪の中に足先を入れる形式では無く、扁平な“はてなマーク” を逆さに吊るしたような形状になっており、足を乗せるだけなのだ。
落馬した際、鐙から足が抜けず、頭を下にしたまま引きずられることは非常に危険なので、それを避ける為に、騎馬民族に比べて乗馬の下手な漢民族に寄って中国で考案されたものだと言う。
つまり、大和鞍、舌長鐙は、普通に乗っている分には安定していて良いが、アクロバット紛いのことをやろうとしても無理な構造になっているのだ。
次々と繰り出される見たことも無い乗馬の技に、千方は、只々興奮していたが、朝鳥は別の驚きを以って観ていた。
すべてが戦の際そのまま使える技なのだ。すなわち、一人で百人に当たると言われる騎馬戦に於ける蝦夷の強さを裏付けるものだ。
重い鎧を着けて乗っている武者に軽々と追い付き、後ろに乗り移って刺す。長弓を持った武者は左側にしか射ることが出来ないが、半弓を持つ蝦夷は、右側にも、場合に寄っては後ろにさえも射ることが出来る。また、馬を射られて落馬しても、仲間が、走りながら拾い上げる。
それだけでは無い。後の日本刀は蝦夷の蕨手刀を模すことにより進化したという説に対して、蕨手刀は刃長五十センチほどで短い為、騎馬戦には使えないという言う説がある。直立して騎乗した場合は確かに届かないだろう。しかし、体を横に乗り出して戦うことを想定すれば、使えないことは無いのだ。
また余談になるが、蕨手刀がなぜ優れた面を持っていたかと言うと、ひとつに、刀身を木製の柄に差し込んだ形の大和の太刀に対して、柄までが鉄で一体成型されていたこと。それまで直刀だった大和の太刀に対して、柄と刀身が角度をもって作られていたことだ。
その結果、打ち合った際、大和人の太刀が折れたと言うのだ。確かに、角度が付いていることに寄って衝撃を逃す効果が有る。また、日本刀の一つの特徴である、硬い鋼を柔らかい鋼で包む製法は、蕨手刀から始まっているとも言う。
しかし、すべて蕨手刀が優秀だったとは言い切れない。蕨手刀は砂鉄から作られていた。焼き入れの温度は低く、三百~四百度で、日本刀の焼き入れと比べて半分以下の温度であり、品質にムラが多く、刀身そのものの強度は大和の太刀より劣っていたと思われる。
因みに、蕨手刀の呼び名は、その柄が蕨のような形状をしていたことから来ている。
乗馬技の数々を観ているうちに、突如朝鳥は思い出した。
「そうだ。あの戦いの折、確かにあの顔を見た」




