六拾四 光と影-差別はこうして生まれた
郎党の案内で近くを見て回った後、千方達は舘で都留儀の話を聞いた。
都留儀は祖父から聞いた話として、倶裳射と大鹿との逸話を語った。
そして、
「我等は、大和と争わず、従いつつ、我等の手でこの国を徐々に豊かにして行く道を選んだのです。今では、多くの者達が我等の意を汲んで協力してくれています。しかし、いつの世にも不満を持つ者はおるものです。それは何としても抑えねばなりません。そして、抑えきれぬとあらば討つしかありません。我等の力で陸奥の安寧を保つことが出来ることを、大和に対して常に示して行かねばならんのです」
と付け加えた。
「なかなか気苦労の多いことで御座いますな」
朝鳥が言った。
「いや、何の。大和と戦ってはならぬ。それが我が祖・大鹿の遺訓でございます」
「成る程…… 」
「渡来人と同じように、我等もやがて大和人となって行くことでございましょう。ですが、我等の風習、祭りなどは出来るだけ残して行きたいとは思っています。とは言え、何代も経た今でも、心の中では大和を敵だと思っている者も確かにおります。特に移配されていた者達の末裔にはそう考えて居る者が多ございます。ひどい扱いを受けたり、全員が餓死したりした所も御座いますれば…… 」
実際に承和十四年(八百四十七年)の日向国の記録には「移配蝦夷がすべて死亡した」と有る。延暦二十一年(八百二年)に阿弖流爲が降服してから四十五年後、千方がこの地を訪れた天歴四年(九百五十年)から百三年前のことである。
そして、承和年間は、既に述べたところであるが、ここ陸奥国でも天変地異が多発し、情勢が不安定となって、蝦夷の大規模反乱の噂が飛び交っていた時期でもあるのだ。
「餓死? …… 朝廷は蝦夷稲を支給しているのでは? 」
千方が質した。
「はい、確かに大和朝廷は蝦夷稲を支給し、生きる為の最低限の生活を保障してくれました。しかし、大和人の間でさえ、京から赴任した国司が搾取を繰り返し、己の利のみを追及し、その結果、耐え切れなくなった者達が京に訴えるということが起きている時代です。俘囚の為に用意された食糧を横流しして自分の懐へ入れてしまう国司も少なくは御座いません。その量が僅かな場合もありますが、殆ど全部を横流しして俘囚には全く渡らないという状況も起こり得ます。全部が死んでしまったのですから、その真相を語り継ぐ者はおりませんが、噂では、そのようなことが起こった可能性がありますし、吾もそう思うております」
「朝廷は、初め蝦夷にも口分田を与えたと聞いておりますが…… 」
「ふふ、仰りたいことは分ります。大和人と同じように口分田を与え、王民化を図ろうとしたが、蝦夷達はその生活に馴染めず、狩ばかりしていて田畑を耕そうとしない為、やむ無く蝦夷稲を支給するようになったということで御座いましょう。大和の民にさえ、十分な口分田を与えることが難しくなって居る時に、俘囚にまともな田畑を与えることが出来たとお思いですか? それに、ここ胆沢の者達は元々田を作っておりました。田畑を耕す習慣が無かったのでは無く、耕せる状態では無かったのです」
「六郎様。その蝦夷稲こそが、大和の者達が俘囚を嫌い、差別をする原因となっているので御座いますよ。蝦夷稲は税として各国に割り当てられており、それを貸し付けた利子によって蝦夷に支給する食糧を賄っております。つまり、大和の民達にしてみれば、それでなくとも生活が大変なところへ以て来て、蝦夷を養う為の食糧までも税として供出させられていた訳です。それなのに、当の蝦夷は田畑を耕しもせず、狩ばかりして遊んでいるように見える。面白く無いのも当然です。それが、俘囚を蔑視する原因となっております」
朝鳥が言った。
「日下部殿もそのようにお思いか? 」
「はい、以前は正直そう思うておりました。ですが、古能代の父・祖真紀と度々話すうち、色々考えました。建前通りの蝦夷に対する政策が行われておれば、そこまでの保護を与えられておりながら、働きもせず蝦夷稲で食べている俘囚を大和の民達が侮蔑するのは当然と言えますし、多くの大和人達がそう思うのも仕方無いでしょう。しかし、大和人である我等でさえ、京の者達のやり方には腹立たしい思いを少なからず抱いているのです。京から下って来る受領の多くが、己の利のみを求め、私服を肥やすことに躍起になっている有様を見れば、俘囚に対する政が建前通り行われていたとは思えませぬ」
「大和の方にしては、随分と思い切ったことを言われますな」
「京の公卿達も我等も同じ大和人ですが、あの、白粉を塗り紅を引いた方々と、大和人では無いが我等と同じく武を尊ぶ命らとどちらを身近に感じるかと言えば、正直今では、我等・坂東の兵と命ら・俘囚の方が、遥かに近いような気がしております。我等も京人からは、東胡と蔑まれております。ですが、
『朝廷と戦ってはならぬ。戦わずして力を養って行く』
と言うのが我が主、と言っても六郎様のことではなく父上である大殿のお考えです。都留儀殿のお考えを伺い、大殿のお考えと良う似ておると思いました。もちろん、他に大和人のおらぬここだけの話ですが…… 」
「ほう、前将軍様が…… 成る程。一度お会いしてみたかったものです。遥任と言うことでお目通りする機会が無かったのは、実に残念です」
延暦八年(七百八十九年)、巣伏の戦いで阿弖流爲に大敗を喫した征東将軍・紀古佐美は、敗戦を棚に上げて、
『蝦夷達は攻撃を逃れたけれども、水田・陸田ともに田植が出来なかったので、放置しても滅ぶでしょう』
と桓武天皇に報告を送っている。
呆れた言い訳は別にして、胆沢の蝦夷が、既に農耕を行って定住していたことがはっきりと書かれているのだ。
それなのに、その後の時代に於いても、
「俘囚は皆、狩猟・漁労を生業とし、養蚕を知らず、定住しないので、調庸を徴収することが出来ない」
などと言う地方からの報告が上って来る。
延暦十七年(七百九十八年)太宰管内諸国からの解を受けて、太政官は四月十六日の太政官符を以て、全国の移配俘囚から調庸を徴収しないことを定めた。蝦夷の移配は既に奈良時代から行われており、その戦闘能力の高さから、防人として大宰府にも多くの俘囚が移配されていた。
実際、全国的な口分田の不足と班田収受制の衰退の中で俘囚に満足な口分田が与えられたとは考え難い。
全国一斉に班田が実際に行われたのは、延暦十九年が最後であり、延暦二十年(八百年)には六年ごとの班田を十二年に一度に改めており、延暦の元号の終わりと共に、班田収受制の崩壊が始まるのである。
当初、俘囚にも調庸の義務が課されていたが、まともな口分田を与えることは出来ない。与えるべき十分な口分田が無いとは言えないから、荒地でも何でも形だけのものを与える。その土地で米など作れる訳が無いのは分るから、俘囚達は狩猟や漁労で食糧を調達しようとする。もちろん、調庸など徴収することは出来ない。国司はその分を負担して納めなければならなくなる。そこで、俘囚達が農耕をしようとしない為だと京に報告する。恐らくそんな成り行きだったのだろう。太政官の方でも、班田が不足していることは分っているので、国司の言い訳を目くじら立てて追及することも無く、調庸の免除と公粮の支給に踏み切ったのだろう。
朝廷は当初楽観的に考えており、調庸の免除は『子孫が増えるまで』とし、子の代までと考えていた。しかし、孫の世代と思われる貞観十一年(八百六拾九年)になっても公粮の支給は続いており、調庸の免除も継続されていた。全ての土地でそうだった訳では無く、移配蝦夷の中には、『野心』などを理由に処罰される者がいる一方で、誠実に蝦夷政策を実行した数少ない国司の許、移配先で富裕化したり、善行によって叙位されたりするなど、朝廷の政策に順応する蝦夷も確かに現れた。自ら課役の負担を申し出た例や、郡司に任命された例も有る。そうした者達は競って中央の貴氏姓に改名しようとした。それには呼称の上で内民化を勝ち取ろうとする意図が有った。しかし、辺境出身もしくは蝦夷出身と分かるような形でしか改名は許されなかった。また、自ら課役の負担を申し出た者達に対して、太政官は、なぜか、それすらも容易に許さなかったのだ。それが、表向きの王民化政策の裏で差別を温存することになる。
条件さえ整えば、進んで王民化を望む者達も出て来る蝦夷を、大和人とは違う存在として置きたい理由が有った。大多数の蝦夷は見知らぬ土地で理不尽な支配に抵抗を続けたのである。その主な方法は反乱と越訴であった。
越訴とは、居住地から抜け出し京に上って訴えることである。俘囚といえども、国府に訴えることは出来る。しかし、大和人と俘囚の間で争いことが起きれば、どちらの言い分が通るかは分り切ったことだ。役人やまして国司の不法行為などは、訴える相手が加害者そのものなのだから言うまでも無い。大抵は、訴えを受け付けはするが、放置していつまで経っても処理しようとしないのだ。
俘囚達は苛立ちと恨みを募らせ、やがて反乱を起こすことになる。とは言え、反乱を起こすのは命懸けであり、最後の最後と俘囚達も思っている。そこで、最後の望みを託し、京に上り中央の役人に直接訴えようとしたという訳だ。
そこで、太政官も手を打たざるを得なくなる。
既に述べたことではあるが、千方の曾祖父・播磨介・藤原藤成以下、備前介、備中守、筑前介、筑後守、肥前介、肥後守、豊前介を専当国司に任じた。その後、各国の掾が専当国司に任じられることになる。
「夷俘に厚く教喩を加え、彼等の申請に速やかに処分を与えることを命じる。もし、撫慰方に乖きて、叛逆を致し、及び京に入りて越訴せしむれば、専当の人ら、状に准じて罪を科さむ」
俘囚を良く教え諭し、一方で申請は速やかに処理するようにせよ。もし、俘囚達が教え諭しても聞かず、叛逆をしたり、京に入って越訴したりするようなことになれば、専当国司にも罰を与えると言うのだ。
朝廷は一所懸命蝦夷を王民化させようとしているのに、国司達が誠実に職務を果たさない為、俘囚の越訴や反乱が相次ぐのだ。彼等の訴えを速やかに処理し、そういうことが起こらないようにせよ。もし、越訴や反乱が起これば、担当者である専当国司をも罰する、と言う朝廷の断固たる姿勢を見せているかのようだ。
しかしこれは、朝廷が本気で蝦夷対策をやろうとしているのに、国司達がいい加減なことばかりしているから越訴や反乱が相次ぐのだと、班田の不足に荘園の拡大などが関わっていることを棚上げして、国司に全ての責任を押し付けているだけのことなのだ。
確かに、私利私欲に走る国司が多かったことは事実だろう。しかし、彼等が私利私欲に走るのは、公卿達に貢物を贈らなければ出世出来ないからである。口分田が足らないことの一因は、上級貴族達が荘園として、元々国有だった土地を私物化しているからだ。そういった根本的なことを棚に上げて、すべてを国司の責任として丸投げしているに過ぎない。面倒な徴税を国司に丸投げし、ちゃんと納めれば出世させ、納められなければ左遷するというやり方と同じなのだ。太政官にしてみれば、俘囚の反乱が頻発するのは困るし、京に上って越訴などされては余計面倒だから、担当を決めるので責任を持って何とかしろ。出来なければ罰するぞと言う訳だ。これに因って俘囚に対する扱いが少しは良く成ったとは思うが、根本的な解決策とはなるはずも無かった。
平安貴族達は和歌を詠んだり、遊んだりしていて、碌に政治をしなかったと思っている方も多いと思うが違う。
平安初期から行われた改革を並べてみれば、宗教勢力が政治に介入することを避ける為の遷都、皇室費削減の為の臣籍降下、軍事費の大幅削減の為の軍団制の廃止、租税徴収の地方移管、俘囚の王民化の為の福祉政策としての蝦夷稲の支給と専当国司の任命、こういった政策を次々と実行しているのだ。
現代の政治家であれば、さぞかし、その実行力をアピールすることだろう。独裁もしくはそれに近い政治形態に在っては、反対勢力が居ない分、その実行スピードは格段と速くなる。しかし、それが的を得た政策であるか成果が上がるかということは別の問題だ。
この中の多くの政策は切羽詰ってやむを得ず取った政策である。桓武天皇自らが主導した遷都や臣籍降下はそれなりの意味を持った政策であり成果も有ったとは思うが、軍団制の廃止は治安の悪化を招き盗賊が横行することになり、租税徴収の地方移管は私利私欲に走る国司を増加させた。蝦夷稲の支給と専当国司の任命に因って俘囚の不満を解消することは出来ず、大和人の俘囚に対する差別意識を増長する結果となった。
なぜそう成ったか? 当の為政者達、それは藤原摂関家の者達を中心とした上級貴族達であるが、彼等が己の栄耀栄華を満たす為に全てのものを犠牲にしても顧みず、国家さえも食い物にしていたからである。推定五百万人から六百万人の人口の中の、たったの数十人の高級貴族と、下級貴族まで合わせても、九百人から千六百人が構成する社会。それが、源氏物語に描かれているような絢爛たる、王朝絵巻・王朝文化の正体なのだ。




