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藤原千方伝・坂東の風  作者: 青木 航
幼年編 第一章
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六 兎、蛇、そして明日

 入るとそこは土間で、右奥には土で固めたかまどしつらえてあり、煙り抜きが施されている。床は低めで一尺ほどの高さだろうか。あがかまちから三尺ばかりと、真ん中辺りがかまちで仕切られている。正面には、切り込み式の暖炉らしきものも有った。

 その手前と奥にわらで編んだ円座わろうだが一つずつ置かれている。

 現代の目から見れば、『なんと殺風景な』と思うかも知れないが、竪穴式住居に住む彼等からすれば、驚くべき、超近代的な作りなのである。

「ささ、どうぞお上がり下さいませ」

「千寿丸様、どうぞお先に」

と朝鳥が身を避けて、左掌ひだりてのひらを上にして先を差し、千方を促す。

「長、邪魔をする」

 急に大人びた態度を示し、千方がそう言って、框に腰を掛けた。

 絲鞋しかい(糸を編んで作ったスニーカーのような履物で、底は革製)を脱ぐと、控えていた四十がらみの女が、竹筒で引き込み水を貯めた洗い場で濡らした布を持って来て、千方の足を拭く。

 竪穴式の住居で暮らしている彼等は、川や湧水で足を洗うことは有っても、家に入る際に、足を洗ったり、拭いたりする習慣は無い。従って、足を洗う為の、水盤や桶なども無い。水を保管するには、かめや革袋を用いるのだ。多分、足をすすぐことは、千常の来訪に備えて教え込んであったものだろう。

 千方が上がると、

「いや、麿は良い。それを貸せ」

と言って、朝鳥は自分で足を拭いてから上がった。

 何の躊躇ためらいも無く、千方は奥に進み円座に尻を載せ胡坐あぐらを掻く。朝鳥は円座を脇に寄せ、千方の前に坐った。

「暫く、お寛ぎ下さい。又、参ります」

 そう言い残して、郷長・祖真紀は、女を伴って出て行った。

「お疲れですかな? 」

 朝鳥が意味有りげに尋ねた。

「うん。疲れた」

 千方は正直に答えた。

「勝負はこれからですぞ」

「勝負? 何のことか」

「今夜は、殿がお泊りになるかと思い、あの者達に取っては精一杯の馳走を用意しておりましょう。とは言っても、旨い物が出るなど期待してはなりませぬ。例え千寿丸様のお口に合わずとも、あの者達が普段口に出来ない馳走だと言うことを忘れてはなりませぬぞ。…… そう、あのうさぎも出て参りましょうな」

「兎? 夜叉丸が射た兎のことか? 」

 あの光景が蘇り、千方は不快感を覚えた。

「なりません! そのような顔をしては」

 行き成り、朝鳥が大声を発した。

けものの肉を食うことは禁じられているであろう」

 千方は正論を吐いた。とは言っても本音は、単に食べたくないだけだ。

「ほう、千寿丸様は、太政官のめいには、何でも従うと言うことですかな? 」

 千方の本音を透かし見ているかのような表情で、朝鳥が返した。

「誰もそんなことは言うておらん」

「もし、千常の殿や、安蘇(下野国・安蘇郡あそごおり)の大殿が、太政官のめいに背いたら、討ちなさるか? いえ、そう言う大人に成りたいと思っておられるのか! 」

と朝鳥は畳み掛ける。

「そんなことは言うておらんと申しておるであろうが」

 なんと意地の悪い男かと千方は思った。食べたくないと言っているだけなのに、何故なにゆえそんな大袈裟なことを言い出すのか、朝鳥の意図が分からなかった。

「宜しいか。馳走を前にして、そのようなお顔は絶対にしてはなりませんぞ。あの兎を射て殿のお褒めに与かった夜叉丸の気持ちをお考えなされ。誇らしい気持ちで御座る。それを喜んで、旨そうに食べてやらずして何と為さる。がっかりするだけで無く、場合に寄っては、恨みが残るかも知れません。少なくとも、そんな主人の為に、命を懸けて戦おうなどと誰が思いましょうか? 宜しいか、夜叉丸らを、本当に千寿丸様の手足に出来るかどうかの戦いがこれより始まるのです。命を懸けた戦いと同じ覚悟で臨まずして、千寿丸様の明日は無いとお思いなされよ」

 夜叉丸の誇らしげな顔を思い起こした。そして、同時に

『夜叉丸ばかりでなく、酒呑丸しゅてんまるも犬丸も、この千寿丸の役に立たせたい』

と言う千常の言葉も蘇った。だが、その意に反して、口を突いて出た言葉は

うるさい! 」

の一言だった。

 千方はぷいと横を向き、ごろりと横に成って、朝鳥に背を向け、腕枕をした。

 しかし、神経は背中に集中して注がれていた。朝鳥が何を言うか、それを待っていると言っても良かった。

 自分が

『分かった』

と素直に言えるような言葉を掛けて欲しいと思っていたのかも知れない。腕が頬に当たると、千常に殴られた痛みがまだ僅かに残っていた。腕を頭の方に移動させた。

 朝鳥は一言も発しなかった。

 千方は待っていた。しかし、朝鳥の口から発せられる言葉は無い。尚も千方は待った。待つことが段々苦痛になって来た。朝鳥が何をしているのか、どんな表情をしているのかも分からない。もはや、意地だけで、千方は朝鳥に背を向けたまま横に成っていた。

 どのくらい時が過ぎたのか分からない。寝返りも打たず、同じ姿勢で横になっている苦痛と、千方は戦っていた。その苦痛を我慢している自分が、段々馬鹿馬鹿しく思えて来た頃、朝からの疲れが出たのか、遂に千方はうとうととしてしまった。


「お待たせを致しました」

 祖真紀の声にはっと目を覚ました千方が跳ね起きると、何事も無かったかのような顔で坐っていた朝鳥が、おもむろに立ち上がり、

「おお、おお。世話を掛けて済まぬのう、長」

と上がり框の方へ歩いて行く。

 一瞬、さっきのやり取りは、夢の中の事であったのかと、千方は思った。

 祖真紀に続いて、膳を持った女達が入って来た。どこで支度をしたのだろうかと千方は思った。

 正面奥の上座に千方が坐り、左脇の席に朝鳥が着くと、その前に膳が並べられた。

 わんには強飯こわいい(玄米を蒸したもの)が山盛りに盛り付けられているが、恐らく、郷の者達が口にすることは無いものであろうことは千方にも察せられた。その他に、汁、クワイ、川魚の焼き物、ひしおそして、恐らくは、あの兎であろう肉切れが土師器はじきの皿に盛り付けられている。

「これは、殿の為に用意したものであろう」

 朝鳥が言った。

「はい、出来れば召し上がって頂きたかったのですが、お忙しいお方ゆえ、やむを得ません」

「折角のもの。兄上の分まで麿が馳走になるぞ」

 そう言ったが早いか、千方は箸を取り、ひしおをひとつまみ口に入れると、ガバと飯を掻き込んだ。

「うん、旨い」

 そう言って噛み続けたが、米を蒸すことの殆ど無い者が蒸したからか、芯が有って、あまり旨くは無かった。しかし、千方は旨そうな表情を崩してはいない。

「この魚は何か? 」

「アカハラ(ウグイ)に御座います。さ、朝鳥殿もお召し上がり下され。ご遠慮なく」

 朝鳥は、一瞬、呆れたと言う顔をし、すぐに嬉しそうな表情を浮かべ、

「行儀の悪い和子わこで済まぬのう、長」

「思えば、朝、何も腹に入れてはおらぬ。腹が減ったものは仕方あるまい。朝鳥も馳走になれ、早く」

 演技をしてはいたが、実際腹は減っていた。或いは、千常はわざと、朝餉あさげも取らせぬまま、朝早く出立したのでは無いかと千方は思った。

「なんの、童は良く食べてこそで御座るわ。千寿丸様とて同じ。さ、さ、朝鳥殿もどうぞ」

「そうじゃな。折角のもの、馳走になろう」

 そう言って箸を取った後、意味有りげに朝鳥の目が動いた。

「長。これは何かな? 」

「それは、あの兎に御座る。夜叉丸が射た。…… 我等は、日頃丸焼きにして刃物で切りながら、そのまま口に運びますが、それではあまりと思い、削がせました」

「うむ、そう言う食い方もしてみたいものじゃな。どれ」

と朝鳥は兎の肉を口に運ぶ。

「おお、旨いぞ、これは」

 そして

『さあ、どうなさる? 』

とでも言いたげに、千方の顔を見た。

慮外者りょがいものめが』

と思いながらも、にわかに千方の負けん気が顔を出した。

「うん。旨そうだ」

 そう言うと千方は、肉片を口に放り込んだ。ゆっくりと口に運んでいたら、やはり、けものの肉の匂いに、一瞬箸を止めてしまっていただろう。祖真紀は都合の悪いことは決して他言しないだろうが、その様子は女達の口を通して、やがては夜叉丸の耳にも入るに違いない。千方にもそれは分かっていた。

「うん、旨いぞ。これは旨い」

 千方はそう言って、肉を噛み続けた。最初、僅な臭いが鼻を突いたが、噛み続けるうちに、穀類では味わえない歯応えと肉の旨味が口の中に広がり、本当に旨いと思い始めた。

「獣の肉など食したことは無かったが、好物になりそうだ」

「左様で御座いますか。それを聞いて夜叉丸もさぞ喜びましょう」

 祖真紀が安心したように言った。

「麿は食ろうたことが御座いますが、ししや熊の肉はもっと旨う御座いまするぞ。それに、いくさの時、兵糧ひょうろうが尽きた時などはカガシも食らいますが、これが中々珍味でしてな」

『食うている時にかがしまで持ち出すな』

と千方は思った。

 意味有りげな笑いを浮かべながら話す朝鳥に、少しムッとした千方は、

『調子に乗るな』

と言いたげに睨んだが、朝鳥は全く気付かぬ素振りをしている。

「山里といえども、熊や猪はそうしょっちゅう獲れる訳ではありません。獲れました時には是非お召し上がり頂きましょう」

 さすがに祖真紀は、蛇にまでは触れない。

「それは楽しみじゃな」

と言った後、朝鳥が、急に真面目な顔付きに成り、

「時に長、馳走痛み入るが、米は何とした。日頃、この郷に置いて有る物ではあるまい」

と尋ねた。

「何かの時の為にと蓄えておりました熊の毛皮などを、府中(下野府中)に持って行き、替えて参りました。郷の者達皆にも、今日はひえ三分さんぶほど混ぜて振るうております。生まれて初めて米を口にする者も多御座いますゆえ、童らに取っては、千寿丸様がお見えになったこの日は、一生忘れられない日になることと思います。郷始まって以来のことで御座います」

「殿から、特におくだし物は無かったのか」

「使いの者を通して、大層な砂金を頂いております。ですが、

『これは千寿丸に贅沢をさせる為のものでは無い』

と仰せとのことで御座いましたので、使いませんでした。いずれお役に立つ時が来た時の、支度金したくきんと思うております」

「そうか、痛み入る。我等も今日は遠慮無く馳走になるが、明日からは、皆と同じ物で良い。千寿丸様、宜しいな」

『言われるまでも無い。あの兎を食うたのだから、稗や粟など何ほどのことも無い』

と千方は思った。

かがしだけは御免だが、それ以外の物なら何でも食える』

と。


 話しながら、千方と朝鳥が、一刻(三十分)ほど掛けてゆっくりと食事を済ませると、祖真紀は女達に片付けをさせた上、引き連れて帰って行った。

「粗末なもので申し訳御座いませんが、夜具はここに置いて参ります」

 帰り掛けに女の一人が、そう言って、畳んだ物を、上がり框近くに置いて行った。

 この時代の食事はみの三刻(十時)頃とさるの三刻(十六時)頃の一日二食である。

 季節に寄っても違うが、朝はとらの一刻(三時)頃からとらの三刻(四時)頃には起きてひと仕事してから朝餉あさげを取る。夕餉ゆうげが済む頃には陽も傾いて来るので、とりの三刻(十八時)頃からいぬの一刻(十九時)頃には寝てしまう。因みに、江戸時代の一刻は二時間だが、この時代の一刻は三十分なのである。

 ともす為の油は貴重品であり、庶民は使うことが出来ないから、明るい時間にだけ活動するのだ。考えてみれば、それが自然であり生物学的にも正常であるはずで、終日利用出来る照明に寄って現代人の生活時間が狂ってしまっているだけなのだ。

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