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伍拾六 将門復活

 五月十一日、ほぼ己の言い分が通ったことに満足し、将門は帰郷した。しかし、将門に取って不都合なことがひとつ起こっていた。将門は脚気かっけを発症していたのである。

 のちに天下の謀叛人として京人みやこびとに恐れられることになる将門だが、この時の上洛では、実質、罪を着ることが無かったばかりで無く、大歓迎を受けていた。

 向うところ敵無し、将門の不敗神話が形成されつつ有り、その噂は既に京の都にも届いていたのである。そして、あちこちの公家に呼ばれては馳走ちそうになり、

『兵名を畿内に振い、面目京中に施し』

 意気揚揚と故郷に引き揚げて来たのである。

 全く受け入れられること無く、失意のうちに坂東に戻った頃のことを想うと雲泥の差が有った。将門は、心に突き刺さっていたとげが抜け落ち、傷がいやされるのを感じた。

 だが、みやこは、やはり将門に取っては鬼門だったのだ。坂東に居て、玄米や雑穀も食している限りかかることの無いやまいに侵されてしまった。もちろん、当時その因果関係が解明されていた訳では無いので、なぜかかったのか、将門自身には分からない。只、ついていないと思うのみだ。

 そんな訳で、馬に乗ることもままならなくなってしまった将門は、早く治さなければと思うのみで、兵を訓練する余裕も無くなっていたし、良兼らの動きを監視することも怠っていた。

 そんな中、恨みを募らせ、着々と準備を進めていた良兼が、八月六日、再び戦いを仕掛けて来た。その少し前に、さすがに気付きはしたが、兵を集める暇も無くなっていた。

 前の戦いで懲りたのか、良兼軍は、衣川きぬがわの上流を廻るような面倒なことはせず、小貝川こかいがわ子飼こがいの渡しで渡り低湿地を進んで、豊田とよだの本拠に正面から攻め寄せて来た。


 策は図に当たった。高望王と良将の木像を先頭にして進んで来る連合軍に、将門の郎党達は明らかに動揺を示し、攻撃することが出来ない。その上、必ず陣頭指揮を取り、真っ先に突っ込んで来るはずの将門の姿がそこに無い。

『勝てる! 』

 貞盛はそう確信した。時を掛けて訓練した成果も有るのか、相手の動揺を目にした兵達にも落ち着きが見て取れる。

「射よ!」

の号令と共に、良兼軍の矢が降り注ぐが、将門方は射返せない。

 

「ええい、退くな~っ! たかが木像。不敬には当たらん。構わず射よ! 」

とでもげきを飛ばしていたら、或いは流れは変わったかも知れない。将門のカリスマ性は、既にその域に達していた。しかし、軍の先頭に将門の姿は無い。

「掛かれ~っ! 」

 良兼の号令と共に、兵達は一斉に突撃を開始した。そして、あの将門軍がもろくも崩れ去ったのだ。


 良兼軍は、豊田郡とよだごおり来栖院くるすいん常羽いくは御厩みまや(現・茨城県結城郡八千代町大間木~尾崎)始め、百姓ひゃくせい伴類ばんるいの家を焼いて廻った。

 この辺りには、下総国・大結牧おおゆいまきや製鉄施設が有り、これは、将門の戦力を壊滅させる為の徹底的な焦土作戦であった。

 将門の焼き打ちを受けた途端に凋落してしまった源護に付いては何度か触れている。しかし、将門は、この時に於いても非凡であったのだ。

 八月十七日には、倍の兵力を集め、下大方郷しもおおかたごおり堀越渡ほりこしのわたし(現・茨城県つくば市大方)で良兼を待ち伏せた。だが、脚気かっけが治っていなかった将門は、カリスマ的に軍を統率することが出来ず、再び敗れ去り、伴類ばんるいは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 勢い付く良兼は、将門の本拠地である豊田郡とよだごおりを焼いて廻った。取り入れ間近な農作物も焼き払った。

 豊田郡は壊滅的な打撃を受けた。将門は、妻子を猿島郡さしまごおり葦津江あしづえほとりに舟に乗せて隠し、自らは山を背にした場所に潜んでいた。誰しもが

『これで将門も終わり』 

と思うような絶望的な状況である。


 良兼勢は、翌八月十八日兵を解散させ、将門に見せ付けるかのように、猿島郡さしまごおりの道を上総に向けて凱旋して行った。

 将門に取っての悪夢は更に続く。良兼側に兼ねて内通していた者の手引きで、妻が生け捕りにされてしまい、二十日に上総へ護送されて行ったのだ。

 良兼の娘であるから殺される心配は無かったが、将門の怒りは頂点に達した。

 将門のは、幸いにも、良兼の息子達・異母兄弟である公雅きんまさ公連きんつらの力を借りて脱出し、九月十日に豊田に送り届けられた。

 公雅、公連の兄弟は父を裏切った訳では無い。ただ、幼い頃から面倒を見て貰った腹違いの姉に同情しただけだ。

 さすがに自分達で姉を将門の許に送り届ける訳には行かず、たまたま、乱行に寄って、常陸介との折り合いが悪くなって上総に避難していた藤原玄明ふじわらのはるあきに頼んだ。

「分った。やりましょう。麿も、将門という男のつら、一度見てみたいと思うておったところだ」

 そう言って快く引き受けてくれた。


「済まぬ。この恩、生涯忘れぬぞ! 」

 を届けた時、将門は目に涙を滲ませて玄明の手をきつく握った。


 粗食を余儀無くされたことで、脚気かっけの症状がだいぶ軽減した将門は力を取り戻し、散っていた兵達が将門の許に再び集まり始めた。

 これは、驚嘆すべきことである。つまり、将門軍の強さは、全て将門の個人的資質に由来しているということなのだ。例え全てを失ったとしても、将門が健在である限り、奇跡は再び起こると皆が信じていればこそ、集まって来た。そこが源護との違いである。

 千八百の兵を集めた将門が、良兼が常陸国・真壁郡まかべごおり羽鳥はとりの舘に出向いたという情報を得て、再起の軍をおこしたのは、を取り戻してから十日も経たない九月十九日のことである。


 将門が再起したという情報を得て、良兼は筑波山の東に有る弓袋山ゆぶくろやまの南に陣を敷いて待ち構えた。季節は収穫期、戦いは稲を泥に踏み込みながらの戦いとなった。将門有利な展開となったが、良兼を追い詰めることは出来なかった。


 再び将門に風が吹き始めた。承平じょうへい七年(九百三十七年)十一月五日。良兼らに追捕官符が下ったのだ。

 先程も述べた通り、是即ち忠平の意向である。

 様子を見ていた忠平が、将門が再起したのを知って、後押あとおしの手を打ったものだ。

 上総介の任に在りながら、私的遺恨を晴らそうと兵を集め、他国の国府に侵入したばかりで無く、官牧かんぼくである常羽いくはの御厨みくりやを焼き払ったことの罪を上げていた。

 追捕の対象は、良兼、その子・公雅、公連、源護並びに貞盛、秦清文はたのきよふみとなっており、近隣諸国の国司に対して、将門をして良兼らを追捕させるので協力せよ、との官符である。

 ところが、そんな追捕官符一枚で慌てふためいて協力する程、坂東の在庁国司達は素直では無い。じっと様子を見ているだけで、一向に動こうとしないのだ。忠平をしても、坂東の経営は難しい。だからこそ、忠平は一本気な将門に目を着けた。


 十二月になって、危機感を募らせた良兼が動いた。

 将門に仕え、農事のかたわら、田夫でんぷを使って将門の石井営所いわいのえいしょ(現・茨城県坂東市岩井千六百三の一)で荷運びの仕事をしていた駆使くし丈部はせつかべの子春丸という男が居た。

 下総国・豊田郡とよだごおり岡崎村(現・茨城県結城郡八千代町尾崎)に私宅を持ちながら、石田荘いしだのしょうの田屋に通っていたと言うから、駆使くしとは言っても底辺に生きる者では無い。女が居たのだろう。

 良兼は、この子春丸に罠を仕掛け、脅した。そうして置いて、相手が十分に恐怖心に駆られているのを確認した上で、

「言うことを聞けば、許すばかりでなく褒美も与えよう」 

と誘った。練絹ねりぎぬ一疋いっぴきを与え、

「内応すれば、乗馬の郎党に取り立ててやる」

と約束した。子春丸は落ちた。

 将門の本拠は豊田とよだ(現・茨城県常総市豊田(向石下))であるが、鎌輪かまわ(現・茨城県下妻市鬼怒)、石井いわいにも営所を持っていた。そして、この頃将門は、石井営所に移っていたのだ。

 良兼は、田夫のうふひとりを小春丸に与えた。実は、良兼の密偵である。

 翌朝、小春丸は田夫を連れ、炭を担って石井営所に行った。

 作業は泊まり込みになる場合が多い。一日二日宿泊しているうちに、田夫に化けた密偵に、武器の置場、将門の寝所、東西の馬場、南北の出入口をことごとく見せた。

 この上無い情報を得た良兼は、十二月十四日の夕方、石井営所に向けて、一騎当千の兵八十騎ばかりを率いて侵攻した。

 亥刻いのこく(午後十時)頃、結城郡ゆうきごおり方城寺ほうじょうじの辺りの道で休憩していると、将門側の猛者もさのひとりが気付き、夜襲の気配を察知して、闇を利用して列の後ろの方にまぎれ込んだ。そしてそのまま一緒に進み、鵝鴨かもの橋を渡ると列を離れ、先駆けして、石井営所に急報した。

 営所には十人ほどしか居なかったのだが、逆に待ち伏せをした将門の奮闘により、良兼軍を撃退してしまった。

 やはり、将門は強かった。相手は襲う場所の詳細な情報を、事前に手に入れた上で急襲して来たのに、八十名の乗馬の精兵を、僅か十名ほどで撃退してしまったのだ。 

 またひとつ、将門の不敗神話が増えた。やまいを患っていた将門が負けたことは、仕方無いことと思われるようになっていた。

 楯を捨てて逃げ出した良兼軍を将門は追撃し、良兼の上兵・多治たじの良利よしとしを射殺した。良兼軍は、結局八十人中三十余人を殺され、他は逃げ散った。


 いずれの戦いにも、貞盛は良正と共に参戦していた。 

 今回の戦いは、今迄の戦いとは違い、兵を指揮しての戦いでは無く、それぞれの郎党と与力の土豪らの騎馬武者のみで襲撃を掛けたのである。さすがに護には外れて貰った。

 結果は、急報を受けて待ち構えていた、将門を含むたった十人ほどの武者に打ち負かされてしまったのだ。

 高望王の木像を掲げる策が当たって勝ったのもつか、将門を討ち漏らしたが為に弓袋山ゆぶくろやまで反撃され、また今回は、策を使って将門を急襲したにも関わらず惨敗した。貞盛は希望を失った。そして承平八年(九百三十八年)、

『やはり、みやこに戻ろう』 

と心に決めたのである。


 ところが将門は貞盛の上洛を、朝廷に訴える為のものと思った。

 繁盛からの報せで、将門が追って来ていることを知った貞盛は道を急いだが、将門は、下野どころか信濃に入ってもまだ追って来る。

「何としつこい奴なんだ! 」

 貞盛は将門のしつこさにあきれた。みやこまで逃げ切ることは無理だと思った。

 二月二十九日、信濃国・小県郡ちいさがたごおりの信濃国分寺付近で追い着かれた。

 連れている郎党も少なかったので、貞盛は、旧知の滋野しげの氏を頼り助勢を頼んだ。滋野氏が応じてくれ、滋野恒成しげのつねなり(善淵)・小県郡司ちいさがたぐんじの他、他田真樹ただまさきらと共闘するも敗れ、郎党達を失った貞盛は、命からがらみやこに辿り着いた。

 みやこでは、主筋に当たる参議・藤原師輔ふじわらのもろすけに働き掛け、苦労して将門への召喚状を得ることが出来た。

 それを持って、坂東に戻るには戻ったものの、秀郷に頼るまでは、将門に追い回されるだけの毎日が続いていたのだ。


『正に、身の置き所が無い日々であった』

 苦しい毎日の記憶が貞盛の脳裏に甦った。

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