伍拾参 貞盛と将門 2 良兼の出馬
貞盛や良兼の態度に業を煮やした良正は、承平五年(九百三十五年)十月、将門を討つべく単独で兵を挙げた。
しかし、それを察知した将門もすぐさま出陣し、十月二十一日、常陸国・新治郡・川曲村にて戦闘となり、双方激しく戦ったが、将門の勢いは強く、良正は敗走した。六十人余りが討たれ、逃亡した者は数知れない。
こうなると、負けた良正より、貞盛と良兼に非難の目が向けられるようになる。
良正は上総の兄・良兼に訴え、共に将門と戦って欲しいと頼み込んだ。良兼も放って置く訳にも行かなくなり、貞盛にも加わるよう説得に乗り出した。
貞盛は、良正の要請に答え上総から出張って来た良兼に、水守に呼び付けられた。
良正を外しての会談となり、最初、貞盛は、和睦の方向で、逆に説得するつもりでいた。しかし、ふとしたことで口が過ぎてしまい。そのことについて激怒した良兼に詫びを入れ、挙兵に同意せざるを得ないことになってしまったのだ。
「良正には、暫し待つよう申して置いたのだが、聞き入れず勝手に事を起こしてこの様だ。しかし、こうなった以上、もはや放って置く訳にも参らん。我ら高望王に連なる坂東平氏の全てが世間から侮りを受けることになる。我等の手で将門を討ち、一族の団結を図るより仕方あるまい」
良兼は冷静な態度で話し始めた。
「伯父上の申されること、御尤もとは思います」
と、まずは良兼の言い分を肯定し、
「しかし、事が大きくなれば、朝廷への聞こえも悪くなります。また、小次郎に心を寄せる者がこのところ急に増えております。下手をすると、我等一族の争い事にとどまらず、坂東をふたつに分けての大きな争いとなる恐れがあります」
「なればこそ、そうなる前に小次郎を叩いてしまわねばならんのじゃ。恥は雪がねばならぬ」
「一挙に叩けましょうか? 」
「何? 麿を誰と思うておる。上総介・平良兼じゃ。小次郎如き青二才に負けるはずが無いではないか! 」
「水守の伯父上も、同じように申されて兵を挙げられました」
良兼はムッとした。
「貞盛! 貴様、父を討った将門に味方したいのか? 」
「我等が互いに殺し合って、亡き御爺様(高望王)が喜ばれますでしょうか? 喜ぶのは他の者達ではありませんか? 」
貞盛は、そう追い打ちを掛けた。
「…… 長年京におると口が巧くなるものじゃな。ならば聞こう。汝はどうしたいと申すのじゃ」
「小次郎と和睦致します」
「条件は? 」
「所領は全て返してやりましょう」
「何?! それでは、我等が小次郎の軍門に下ったも同然ではないか」
「小次郎には、それなりの対価を払わせます」
「それを、あ奴が聞かぬゆえ、話が拗れたのであろう」
「小次郎は、父や伯父上方の申し出を聞かなかったとのことですが、麿には、小次郎を説き伏せる自信が御座います」
「例えそれが出来たとしても、そなたを含め、我等の面目はどうするつもりじゃ。良正はこのままでは納得せんぞ。そなたとて父を討たれている身では無いか! 」
「ですから、伯父上に水守の伯父上を説き伏せて頂きたいのです。父・国香については、平正樹と源護殿の争いに巻き込まれ、運悪く命を落としただけで、小次郎に我が父を討とうなどという気は無かった訳ですから、詫びの一言も言って貰えば、麿は忘れるつもりです」
「話にならぬ。そのようなことでは我等の面目は立たんし、良正は元より、そなたの弟達でさえ納得せぬであろう」
「面目、面目と言っていては、何も始まりますまい。内輪揉めをしておれば、坂東に於ける我等の力を損なうことになりましょう。伯父上であれば、それをお分り頂けると思うておりましたが…… 」
「それは、分らぬでも無い。…… じゃがなぁ」
否定しながらも、良兼の心が少し動いたように見えた。
「それに、甚だ申し上げ難いことですが、伯父上に今ひとつお願いせねばならぬことが御座います」
「何か? 」
「甚だ僭越とは存じますが、伯母上を護殿のところへお返し頂く訳には参りませんでしょうか? 」
「何ぃ? 」
「事を収めるには、我等一族の揉めごととと、護殿と真樹との揉め事とを分ける必要が御座います。一族の揉め事、所領の件については、麿にお任せ下さい。…… 更に、もし、伯父上に真樹との確執を絶って頂ければ、事は全て収まるのですが…… 」
良兼の顔が見る見る紅潮して来た。
『しまった。言い過ぎた! 』
と、貞盛も直ぐに察した。
「…… 貞盛! 言わせて置けば勝手なことを抜かしおって、読めたぞ。貴様、小次郎が怖いのであろう。戦いたく無いから何のかんのと屁理屈を捏ね回しておるだけであろう。この臆病者めが! 」
良兼が、これほど護の娘に執心していたのは、貞盛の思いの外であった。
『麿としたことがなんということを言ってしまったのだろうか。もう無理だ』
そう思って、貞盛はがっくりと肩を落とした。少なくとも、甥が伯父たる者に言うべき言葉では無かった。政略の為、護の娘を娶っただけで、その護が凋落してしまった今、護の娘である妻を返すのに、良兼にそれ程の拘りは無いのではないかと読んでいたのだ。
今や父・国香に代わって氏の長者、即ち一族の長たる立場に在る良兼なら、当然一族の利益を優先するだろうとの読みが見事に外れた。己には才が有るとの想いから、つい言い過ぎてしまったことが、貞盛を苦境に追い詰めて行く始まりとなった。
しぶしぶ挙兵に同意した貞盛だったが、やるからには勝たねばならない。
戦では、兵力ばかりでは無く、敵の心を読み、その裏を掻くことで勝利が得られる場合も多い。一騎打ちなら兎も角、ひとの心を読むことに於いて、将門に引けを取るはずが無い。そう思って良正を加えた軍議の席で、貞盛は良兼に策を献じようとした。
「兵は多いに越したことは御座いませんが、特に雑兵などは、心の持ちように因って、強兵にも弱兵にも成り得ます。我等に義が有ることを、ひとりひとりに至るまで信じていれば強兵となりましょう」
「ふふ。貞盛、誰に物申しておるのか? そのようなこと、今更、そのほうに言われるまでも無く、麿も良正も疾うに承知しておるわ。出陣に際しては、我等に義があることを説き、氏の長者たる吾に背いて我等の立場を危うくしている将門を討って、我等が祖・高望王の残されたものを守らねばならぬことを、良っく言って聞かせるわ。そのようなこと心配せず、黙って麿の下知に従っておれば良い」
「そうじゃ、貞盛、そなたは戦に慣れておらぬ。ここは、兄上にお任せするが良い」
と良正も言った。
『もっと誰の目にもはっきりと分かるようにしなければなりません』
と言いたかったが、良兼は、国香の後を受けて、自らが氏の長者たるべきことを示そうという強い欲望に駆られていた。貞盛の提言にもはや耳を貸そうとしない。軍議は専ら良兼主導で進められ、貞盛が口を出す余地は無くなっていた。
翌、承平六年(九百三十六年)六月二十六日、良兼は三千の大軍を集めて挙兵した。そして、貞盛の嫌な予感は当たった。
将門の当時の本拠地は下総国・相馬郡・豊田(現・茨城県常総市豊田)であり、良兼の舘は、上総国・武射郡(現・千葉県山武郡)に在った。
千葉県山武郡から茨城県常総市豊田へは北西に八十キロほど。普通ならば、良兼は南又は東から、良正と貞盛の連合軍が北から、将門の本拠地・豊田を攻めて、挟み撃ちにするべきだろう。しかし、本格的な戦いは、なぜか遙か北、下野との国境近くで始まるのだ。
良兼は、常陸国・真壁郡の羽鳥(現・茨城県桜川市真壁町羽鳥)にも領地を有しており、舘も持っていた。この辺りは、源護と平真樹が鎬を削っていた地域に隣接しており、護、凋落後は、正に濡れ手に泡といった感じで真樹に侵される心配が有った。
真樹に圧力を掛けようとしたのか、或いは、良正、貞盛の連合軍が真樹に背後を衝かれることを恐れたのか、良兼は北上したのである。或いは又、威風堂々の行軍をすることで、周りの土豪達に、
『上総介殿が乗り出して来たからには、将門に着いても勝ち目は無い』
と思わせるのが狙いだったのか、それは、分からない。
まずは北上して、下総の香取(現・千葉県香取市)に進軍した。ここから西北に進めば、将門の本拠地・豊田に至るのだが、大軍は西には進まず、『香取の湖』を渡り常陸国・信太郡(現・茨城県稲敷郡)に至った。
『香取の湖』とは、当時の常陸国南部から下総国北部に渡って存在した巨大な湖のことである。
現在の霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を含んでなお余り有る大きさを持った湖沼で、海のように広がっていたのだ。湖、沼、川が入り組んで繋がっているような形状で、円形や楕円形では無い。
水守か石田に終結して、護、良正、貞盛らと合流し、平真樹に対する手配りをした上で、一挙に南下して将門を討つ心積もりだったのだろう。軍は桜川沿いに水守に向かった。
ところが、そんな行軍に恐れを成したり、指を銜えて見ていたりするような将門では無かった。
将門は、僅か百騎ほどで、良兼の軍に奇襲を掛けて来た。広い街道では無い。狭い田舎道に長く延びた列の中程を分断するように駆け抜けて、また、風のように去ってしまった。十七人が殺され、五十名ほどの怪我人が出た。軍全体から見れば些細な損害である。しかし、兵達に恐怖心を植え付ける為には十分な攻撃であった。
何しろ、狩り出されて、碌に訓練も受けずに連れ出された農夫達が殆どなのだ。奇襲を受けた途端に混乱が広がり、僅か百騎の将門軍を包囲することも追撃することも出来なかった。
将門が去った後、その恐怖心は隊の前後にじわじわと伝染して行き、今まで胸を張って行進していた大軍が、まるで落ち武者のように、きょろきょろと周りを気にして足早に歩こうとする余り、前を行く兵にぶつかってしまう者が続出する有様。早く将門の領地近くから離れたかったのだろう。隊列は乱れに乱れながら北に向かった。




