伍 秀郷の思惑
乱そのものに否定的な考えは秀郷には無かった。実際、秀郷は、将門を訪ね会談している。
この時点ではまだ、将門に助力しようかと思っていた節が有る。
国司の力が強まった坂東を変えなければならないとは思っていた。だが、将門が何を考え、どうしようと思っているかを探るうち、将門自身には坂東をどのようにしようという考えは余り無く、成り行きでそう成ったに過ぎないこと。都で叶わなかった夢をこの坂東で実現しようとする興世王に操られていることが分かって来た。
坂東に都の朝廷を真似たものなど作ってみてどうなる。坂東には坂東のやり方が有る。秀郷はそう思った。
将門を帝として祭り上げた後、やがて、関白か太政大臣を称して力を得るであろう興世王の専制に因って、坂東は一層住み難くなるに違いない。
なぜそうなるかと言えば、当初、将門は、弟達や戦に功の有った兵達を重用するだろう。仮に、第一次の追討軍を撃破したとしても、朝廷がそれで諦めてしまうとも思えない。足柄峠・碓氷峠を固めて暫しの安息を得たとしよう。
問題は、一旦『新皇』と名乗ってしまった以上、それ成りの形を整えなければならなくなることだ。
『新皇などと名乗ってみても、所詮は東胡、山猿よ。有職故実の”ゆ” の字も知らん』
と笑われることは将門に取って大きな屈辱となろう。始めから
「坂東には坂東のやり方が有る。有職故実など糞食らえだ」
と居直ってしまえば良いのだが、『新皇』などと名乗ってしまっては、それは出来ない。猿真似をやらざるを得なくなってしまうのだ。
だが、周りに居るのは、すべて坂東の田舎者ばかりとあっては、体裁を整える為には、結局、興世王に頼らざるを得無くなる。やがて、将門の言葉は 興世王を通して皆に伝えられるようになり、皆の言葉も興世王を通してしか将門に伝わらなくなる。
そう考えた秀郷は、この時点で、将門に協力して乱を成就させようという考えを捨てたのだ。
一旦協力して置いて、後日、興世王を除くと言うことも考えたが、戦には強いが、政に於いて将門にそれ程の器量が有るとも思えなかった。大体、都で官位も官職も得られなかったこと自体、政治力が無いと言うことに他ならない。こと成就してから、将門までを除き、秀郷自身がそれに取って代わると言うのは難しい。
『ならば、討つしかない』
それが、秀郷の決断だった。
そんな折、将門との戦いに度々敗れ、都へ、陸奥へ、そしてまた都へと逃げ回っていた貞盛が、一人の手勢も持たず、只、将門追討の官符のみを持って、秀郷を頼って来て情に訴えたことに因り、秀郷はやっと重い腰を上げた。
貞盛の母は秀郷の父・藤原村雄の、秀郷とは腹違いの娘であり、秀郷に取って貞盛は甥のような存在なのである。
秀郷は、太政官から見て、元々は好ましからざる人物であった。それが、将門追討と言う大功を上げたことに因り、朝廷はその扱いに悩まされることとなる。
除目を前に、天慶三年(九百四十年)三月、太政官に於いて開かれた考課定を兼ねた公卿詮議の席で、乱後の論功行賞は、揉めた。
将門を滅亡させた第一の功は、朝廷の権威に基づいた諸寺諸社の祈祷に因るものとしたのは、今の時代から見れば馬鹿馬鹿しい限りだが、恩賞を約束して兵を募ったこともあり、やはり、実際に戦った者達を無視する訳にも行かない。
秀郷にこれ以上の力を与えることの危険性を強調する意見が多かった中で、秀郷が恩賞に不満を持ち、再び乱となることの危険性を具申したのが、前年参議に成ったばかりの二十七歳の源高明だった。
通常、公卿詮議では、一番下位の者から発言する。上卿は、普通は新参の参議の発言など聞いていない。他のことを考えているか、頭の中で和歌でも詠んでいて、最後に自分の考えを述べ、
「そのように致すゆえ、よしなに」
とでも言って、さっさと席を立ってしまう。無論、それに反論など出来ない。比較的上の者は意見を言う機会は持てるが、大体が、公卿詮議以前に根回しが出来ており、少数の反対意見は無視される。
聞いている者は、揚げ足を取ろうか、後で笑いものにしてやろうかという魂胆で聞き耳を立てているに過ぎないのだ。
だが、時は非常時。また高明は、醍醐天皇の第十皇子で、自身が臣籍降下した一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じていた。その上、成る程と思われる意見なので、無視する訳にも行かなかった。珍しく、この詮議では、意見が割れた。
下野守は仕方無いとして、武蔵守兼任も危ぶむ声が有った。その上、鎮守府将軍となると、秀郷は、陸奥、下野、武蔵という広大な勢力範囲を構築する機会を得ることになる。
甚だ危険であると言う意見が多く、一旦は、鎮守府将軍は与えるべきで無いということになった。
因みに、この年の太政官の顔ぶれは、
太政大臣 従一位 藤原忠平(六十一歳)[摂政]
左大臣 従二位 藤原仲平(六十六歳)[左大将を兼ねていた。(以下“兼”一字とする)]
大納言 従三位 藤原實頼(四十一歳)[兼按察使]
中納言 従三位 橘公頼 (六十四歳)[兼大宰府権宰]
権中納言 従三位 源清蔭 (五十七歳)
権中納言 従三位 藤原師輔(三十三歳)[兼中宮大夫]
権中納言 従三位 源是茂 (五十四歳)
参議 従三位 藤原當幹(七十七歳)
参議 正四位下 藤原元方(五十三歳)
参議 正四位下 源高明 (二十七歳)[兼大蔵卿、兼備前掾]
参議 正四位下 藤原忠文(六十八歳)[兼修理太夫、兼右衛門督、兼征東大将軍
参議 従四位上 伴保平 (七十四歳)[兼近江守]
参議 従四位上 藤原顕忠(四十三歳)[兼左兵衛督、兼近江権守]
参議 従四位上 藤原敦忠(三十五歳)[兼左権中将]
となっている。
右大臣に付いては、天慶元年五月五日、藤原恒佐が薨じて以来、空位となっていた。
参議が近江守、備前掾などを兼ねているが、これは『遥任』と言って、現地には赴任しない。また、摂政、太政大臣、関白は公卿詮議には加わらないことになっているので、この席での上卿、即ち最上位は、左大臣・藤原仲平である。
見て分かる通り、数では藤原氏が圧倒している。しかし良く見ると、若年で比較的高位に在るのは、源高明の他、源清蔭、藤原實頼、源是茂、藤原師輔の四人。後は高齢になって漸くその地位に上った者達である。
源清蔭は陽成天皇の第一皇子、源是茂は嵯峨源氏であり大納言に上った源昇の子であるが、光孝天皇の養子になり第十三皇子となっている。
一方、藤原實頼、藤原師輔の両人は忠平の子。トップの忠平、仲平兄弟を除けば、この時点では、一世源氏と忠平周辺の藤原氏の勢力が拮抗していることが分かる。
「武蔵守、鎮守府将軍に付いては一期のみとし、重任させないということにしてはいかがか。僅か四年では、何も出来ますまい」
と高明が、反対意見に配慮して具申した。
「左様でおじゃるな。一応、過分な褒美を与えて、秀郷を太政官の命に服させる必要が有る」
と藤原實頼が同意した。太政大臣・忠平の長男であり、四十一歳にして大納言の職に在る。しかし
「鎮守府将軍の後任は、貞盛と決めておこう。常陸介と兼任させれば、抑えになる。陸奥守を考えても良いのう」
と楔を打ち込むのを忘れなかった。
「それに、武蔵に付いてでおじゃるが、良文を罰せぬほうが良いのでは」
と、三十三歳にして権中納言と成っている実頼の弟・師輔が付け加えた。
良文を罰するより、その力を、武蔵に於ける秀郷の力を抑える為に使った方が良いのではと言う意味だ。
将門の伯父のひとり平良文は、他の伯父達に助力せず、将門とは戦っていない。その為、将門に同調していたのではないかと疑われていたのだ。罰せられる可能性が有った。
良文は村岡五郎とも呼ばれ、武蔵国・埼玉郡・村岡(現・熊谷市)の他、相模、下総にも根を張る剛の者であり、足立郡・箕田(現・鴻巣市)の、箕田源二と言われた源次郎宛との一騎打ちは、『今昔物語集』の逸話として有名である。
「成る程。それは良い。強い抑えになるな」
忠平の兄であり、実頼、師輔の叔父に当たる左大臣・仲平が言った。
「それに、もうひとつ、大事なことが有る」
「それは? 」
と師輔が尋ねる。
「彼の者達は、土地の有力な者と結び付くことで力を着けて行く。土地の者の娘を娶らせぬこと。これが肝要…… 処で、征東大将軍、何か意見は有るかな? 」
黙っていた参議・藤原忠文に、突然、仲平が水を向けた。
忠文は、老齢を押して平将門の乱鎮圧の為に、征東大将軍として東国へ向かったものの、到着前に将門が秀郷らに討伐されてしまった為に面目を失っていた。『征東大将軍』と呼び掛けるなど、公卿らしい意地の悪さである。
「左様、ここは是非、大将軍のご存念を伺いたいものじゃ」
實頼が畳み掛ける。
今、忠文は他人のことなどとやかく言える立場では無い。言葉に詰まってしまった。
「ご尤もながら、いかにして、させぬよう致しますか。まさか、勅諭という訳にも参りますまい」
見兼ねて、七十四歳の参議、伴保平が矛先を逸らすべく言った。
「朝廷がそれを危ぶんでいることを、それと無く、繰り返し吹き込むのじゃ。叛意と看すとな。位は、思い切って、従四位下を賜るよう帝(朱雀天皇)に奏上致すことにしよう。秀郷も満足するであろう。だが、都に住まわせる。そして、遥任として都に留め置き、坂東には行かせぬ。都に上らせれば従四位下など、如何程のこともあろう。軽輩じゃ。坂東に置けば、朝廷のご威光に因り、その力は大きなものとなる」
「元々坂東に住まいおる者を、わざわざ都に呼び寄せ、遥任として、坂東には赴任させぬと言うことですか、成る程。さすが、左大臣様」
笑いながら保平はそう追従したが、目は笑っていなかった。前例、前例と日頃繰り返すのが公家の常だが、そんな前例は聞いたことが無いではないかと思った。
こうして、高明の提案に寄って、一応、秀郷を、下野守、武蔵守、並びに鎮守府将軍とすることは決まったが、藤原北家本流の人々、つまり、摂関家に繋がる公卿達は、それをいかに骨抜きにするかに腐心した。
将門にあっさりと降伏して印鑰を差し出した藤原弘雅に替えて、天慶三年正月二十七日に任命したばかりの大江朝望の処遇を考える必要があった為、まずは、下野介に任命し、大江朝望の処遇が決まるのを待って正式に下野守とした。
因みに、平貞盛は従五位上に叙せられ、右馬助に任じられた。秀郷に比べて僅かな出世に止まっている。
表向きには、秀郷の働きを大いに評価した人事となっていたのだ。
この詮議の次第は、延喜四年(九百四年)から下野守を務めた、参議・藤原當幹の筋から秀郷の耳に入った。
決め事の中で、秀郷の上洛は遂に果たされなかった。
体調の優れぬことを理由に、ある時はのらりくらりと、又ある時は断固として、秀郷は上洛を拒み、結局、長男の千晴を代わりに上洛させることでお茶を濁してしまったのだ。
従六位上・相模介に任じられていた千晴は、その任期を終えると、都に上り高明に仕え、従者と成った。
兼々感じてはいたが、やはり秀郷は、将門が果たせなかったことを、朝廷と決定的に対立すること無く、巧妙に実現しようとしているのではないかと朝鳥は思った。その意を受けて、千常は着々と手を打っている。そのひとつがこの郷であり、千寿丸なのだ。
「五十年以上も前の、確か、寛平九年(八百九十七年)には、蝦夷は殆ど陸奥に帰されたはず」
朝鳥が探るように、祖真紀の顔を覗き込んで尋ねた。
「はい。確かに、一部の大和人と成る道を選んだ者達以外、奥州に送り返されました。我等は、いわば、亡霊の子孫とでも申しましょうかな」
「亡霊とな? 」
「ま、時は十分に御座る。朝鳥殿に隠し事は要らぬと、殿より仰せ遣っておりますゆえ、三年の間には、お話することも御座いましょう。今日の処は、まず、お寛ぎ下さいませ」
祖真紀が先に立って、千方と朝鳥をあの舘の方へ導いた。うねった道を少し上がると、周りは木立となり、更に階段状に土を固め、角には丸木を埋め込んだ道が十段ほど続く。木々に囲まれた敷地には舘(と言っても実態は小屋に毛の生えたような物だが)の外、穀物蔵、武器庫と思われる建物も有る。厩は見当たらず、どこか外に繋いであるものと見える。
朝鳥と祖真紀の後に続いて、千方は黙って歩いていた。当時の二人の会話は意味も分からず、もちろん千方の記憶に残ってはいなかったが、ただ『亡霊』と言う言葉だけが、何か薄気味悪い響きとして頭の隅にこびりついた。