四 概観・承平の乱
「ご案内致しましょう。ああ、申し遅れておりましたが、この郷の長を務めおります大道祖真紀と申します」
物腰は柔らかいが、内に凄みを感じさせる男だと、朝鳥は思った。
「蝦夷か? 」
ずばりと聞いた。
蝦夷と呼ばれていた人々は、この頃から、エゾと呼ばれるようになっていた。蝦夷がアイヌと同一かどうか、議論の分かれる処だが、私は同一では無いと考える。
だが、それは、又のことにしよう。
「はい。左様で」
郷長は、いともあっさりと答えた。
「麿の下の娘の連れ合いが、蔵番をしておってな。蝦夷らしき風体の男達が、時々雑穀を受け取りに来ると聞いたことが有る。その男、それ以上のことは何も聞かされておらず、不審がっておったが、殿直々の下知なので、詮索も出来ず、言われた通り渡していると申しておった。そうか、この郷の者達であったのか。得心した」
「ご覧なされませ。田は無く、畑も僅かで御座る。木の実、草の根、鳥、獣の肉も食しますが、足りません。殿からのお下げ渡しの物が無ければ、この郷の者達は生きて行くことは出来ないのです」
「見返りは? 」
もっともらしい述懐に違和感を覚えた朝鳥が鋭く切り返す。
「今は、さほどお役には立ってはおりませぬ。上野の山々に分け入って、道や地形を調べたりするくらいでしょうかな。時には、信濃の方まで行く者もおります」
「成る程、山か。町中の探索には不向きじゃな。目立ってしまう」
千常が上野、惹いては信濃にまで進出することを考えていることは、朝鳥も分かっていた。互いに対立する一方と誼を通じ、相手方に圧力を掛けたり、仲裁に立って恩を売ってみたりと、やっていることは、かつての将門とそう変わらない。その為に、揉め事、小競り合いに発展することは度々有る。
そもそも、承平の乱もそうした小競り合いの中から大きく広がって行ったものなのだ。
それは、身内同士の私闘から始まった。
何らかの官位・官職を得ようと都に上り、藤原忠平に仕えていた将門だったが、要領が悪いのか、都に馴染めなかったせいか、何年経っても官職に就くことが出来無かった。
一方、同じく都に上っていた従兄弟の貞盛は左馬允の官職を得ることに成功した。
そんな折、鎮守府将軍であった父・平良将の死後、その遺領を伯父達が横領していると聞き、将門は坂東に戻る。
交渉はのらりくらりと躱されて、一向に解決に至らない。ある時将門は、伯父の一人・良兼の娘を奪って妻とする。従兄妹同士なので、お互い幼い頃より知っていた可能性が有る。本人同士は好き合っていたが、良兼が許さなかったので、強硬手段に及んだということなのかも知れない。
国香、良兼、良正という三人の伯父の妻がいずれも前常陸大掾・源護の娘だった為、将門は源護とも争うことになる。
承平五年(九百三十五年)二月、護の三人の息子、扶、隆、繁の三兄弟は常陸国・野本に陣を敷き将門を待ち伏せ、合戦となった。
将門は三兄弟を討ち取り、伯父の国香(貞盛の父)をも殺した。国香は、将門の攻撃を受けた時、火に巻かれて死んだのだ。因みに、将門の妻の母は良兼の前妻であり、源護の娘では無い。
ここまでは、完全な私闘であり謀叛でも何でも無い。只の身内同士の争いなのだ。
一時的には負けた戦いも有ったが、その後も将門は伯父達を打ち破って行く。将門の強さは近隣諸国にまで伝わり、天慶二年(九百三十九年)二月、武蔵国に赴任した権守・ 興世王と介・源経基が、足立郡の郡司・武蔵武芝との紛争を起こした際、調停に乗り出すことになる。これが、私闘が乱に変わる切掛けであり、将門と興世王との運命の出会いだった。
身内の争いこそ無いが、当然、千常にも乱に突き進む危険が付き纏う。
しかし、これは千常の考えと言うよりも、強かな父、秀郷の思惑である。
実は、秀郷という男、若い頃より朝廷の意向に従わず、下野に勢力を扶植して行っており、朝廷からは、将門以上に危険視されていた男なのだ。
秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜十六年(九百十六年)、秀郷三十四歳の時、隣国・上野の国衙への反対闘争に加担、連座し、一族十七(若しくは十八)名と共に流罪とされた。更に、延長七年(九百二十九年)四十七歳の時には、乱行の廉で下野の国衙より追討官符を出されている。しかし、そのいずれも実行されることは無かった。
それは、在地官人達が秀郷の威勢を恐れて秀郷捕縛に動かなかったからである。最初に述べた通り、国軍を解体してしまった朝廷は、指揮官のみを派遣し、途中で兵を募るか、在地の官人、健児を使って処分を行わざるを得ない。ところが、官人の殆どが秀郷の身内、若しくは息の掛った者達だったため、何度か試みてはみたものの、遂に秀郷を流罪にすることも追悼することも出来なかったのだ。
これは、太政官に取って屈辱であり、恨みは深く潜航していた。しかし、将門の乱に際して、その秀郷を押領使に任命せざるを得なくなってしまったのだ。秀郷抜きでは、乱鎮圧の実効性が危ぶまれたのである。
もし、秀郷が将門側に着いたら、この乱は或いは成就したかも知れない。少なくとも、遥かに解決が長引いたことは確かなのだ。そう成れば、瀬戸内海で将門の乱に呼応するかのように乱を起こした前伊予掾・藤原純友を討伐することも難しくなり、朝廷は大混乱に陥る危険性があった。両正面作戦は是非とも避けなければならない。そうした観点から、ある程度の言い分を呑み、朝廷は将門討伐まではと純友とは一時的に和睦を結んでいた。
秀郷は、朝廷の為に将門を討った訳でも、貞盛の仇討の加勢をしたと言う訳でも無い。朝廷が約束した恩賞目当てかと言えば、それも確かに有る。だが、本筋は、将門を見切ったと言うことなのだ。興世王に踊らされ、もうひとつの朝廷をこの坂東に作る方向に走り始めた将門。常陸の国府を襲い、国司の印鑰(官府の長官の印と諸司・城門・蔵などの鍵)を奪ってしまった際
「一国を奪ってしまったからには、その罪は軽く無い。どうせなら、坂東を制覇した上で様子を見た方が良い」
と興世王にけし掛けられていた。
興世王と言う男は、将門と同じ五世の皇孫だったが、祖父の代に臣籍降下し平氏としてその勢力を下総、常陸に広げている将門に対し、王と名乗れる皇族の末端に残っては居るが、実情は、なかなか官職にも就けず、都に在る時は鬱鬱としていた。やっとありついた武蔵権守の職で、正規の武蔵守が赴任して来る前に一儲けを企んだところ、竹芝の思わぬ抵抗に合い収拾が着かなくなっていたのだ。
王と名乗れるのは五世まで。子の代には只の人になってしまう。そして、子孫は名も無き民となって行くことだろう。
『皇孫として生まれた身でありながら、なんと情け無きことであろうか』
そんな想いが有ったに違いない。
仲裁に現れた将門の威容を見るにつけ、我が身と比べ羨ましく思った。そして、将門を使って、都では叶わなかった夢を、この坂東の地で実現しようと企て、将門の顔を立て、竹芝と和解した。
この時、介である源経基は、同調せず引き籠っていた。手打ちの宴も盛り上がり、経基の郎等を誘おうと繰り出して行った兵達の騒ぎを、襲撃と勘違いした経基は都に逃げ帰り、将門、興世王、竹芝が共謀して謀叛を起こしたと朝廷に訴えたのだ。
しかし、天慶二年(九百三十九年)五月二日付けで常陸、下総、下野、武蔵、上野五カ国の国府の
『謀叛は事実無根』
との解状を以て弁明した将門の言い分が通り、逆に、逃げ帰った経基は、虚偽の訴えをしたとのことで投獄され、『未熟者』と笑われることになる。
ここで重要なのは、五か国の国司が、揃って将門の擁護に回ったことである。実際、この時点で将門は謀叛など考えていなかったのだが、正しいから弁護したといった単純なことでは済まない。
今の時代に、単に役所の証明を貰うのとは訳が違う。万一、将門が罪に問われることになれば、国司達も只では済まない。言わば、一蓮托生となるのだ。
こんな時、普通役人の考えることは、返事を先延ばしにしてなるべく関わらないようにすることだろう。そして、その間にことが進展して、結果が見えて来てから対応を決めれば良い。そう思うはずだ。ところが、五か国の国司が揃って、将門の側に立った。当時の将門の威勢を物語るものであろう。
その後、赴任して来た正任国司・百済王貞連と権守・興世王は不仲になり、興世王は将門の許に転がり込む。また、乱行の為、常陸介・藤原維幾の圧迫を受けた藤原玄明も、官物を略奪し保護を求めて将門の許に転がり込んで来たことに因り、将門は、維幾と対立し、遂には、国府を襲い維幾を追放し、権力の証である印鑰を奪って、反逆へと突き進んで行ったのだ。
そして、下野、上野の国司をも追放し、印鑰を奪い、天慶二年(九百三十九年)十二月十九日、菅原道真の霊を介して八幡大菩薩のご託宣が有ったとして、上野国厩橋(現・前橋市)で『新皇』を自称。その後、武蔵をも奪い、あっと言う間に坂東一円を手中に収めるに至った。