弐拾七 牧 2
ひと通り手入れを済ませると、童達は、衣類を脱ぎ捨て下帯ひとつになって水場に入り、頭から水を被り、お互いに水を掛け合ってはしゃぎ始めた。一瞬の間それを見ていた千方だったが、すぐに自分も衣類を脱ぎ捨て、童達の輪の中に飛び込んで行った。
童達は、千方にも遠慮なく水を掛け始めた。と言うよりも、いつの間にか千方ひとりが童達の攻撃の的となっていた。童達の心から、ひとつの壁が取り払われた瞬間である。
「うわっ! 参った、参った。でも気持ち良いのう」
暫くはしゃいだ後、千方を含めた童達は、水から上がって草の上に思い思いに寝転んだ。
「六郎様」
暫くして、ひとりの童が千方に語り掛けて来た。
「武蔵の草原とは、どんなとこですか? 」
鷹丸である。郷の童達の中では、割と端正な顔立ちをしている。
「うん? そうだなあ、まず、周りに山が無い。それから、北に大きな川が有る。川の縁は高台になっていて、家が沢山有る。少し下がった辺りから田が続き、南へ行くと湿地が多く、萱が多く生えている。だから、草原と言うのかも知れぬな」
「山は全然無いんですか? 」
「うん。遠くには見えるが周りには全然無い。冬の晴れた日には富士も良く見えるぞ」
「フジ? 」
「そうだ。日の本一の山だ」
「吾も見たことがありますぞ、富士を。尾根に登った時良く見えました」
そう口を挟んだのは犬丸だった。
「それは、浅間の山ではねえのか? 」
秋天丸が突っ込む。
「いや、富士だ。父がそう言った」
「京も見えるのかな? 」
もっさりとそう言ったのは長身の竹丸だった。
「京までは見えぬな」
「京は富士よりも遠いのかな? 」
「うん。麿も行ったことは無いが、ずっとずっと遠いと聞いておる」
「ところで、六郎様の父様は偉えお人だってこんだが、どんな人だ? 」
聞いて来たのは、鷹丸の弟、鳶丸だった。兄に似て端正な顔立ちだが、顔が少し長い。
「うん? …… 実は、まだお会いしたことが無い。兄上に始めてお会いしたのも、この郷に来る僅か三日前のことだ。だから、分からぬ」
一瞬、皆沈黙した。羨ましいとしか思っていなかったこの人の人生にも影は有ったのだ。それが、童達の思いの公約数であった。それは童達に取って、ある意味衝撃であり、同時に童達の心を少し千方に近付けることにもなった。
「すいません。余計なことを聞いてしまいました」
「いや、良い。皆にも知って置いてもらいたいのだ。…… 麿は母と祖父に育てられた。この歳まで、一度も会おうとしてくれなかった父上に恨みさえ抱いていた。兄上が尋ねて来るまではな。父親の代わりは、祖父や叔父達が果たしてくれていた。だから、どんな偉い人かは知らぬが、一生会わずとも良いとさえ思うようになった。…… しかし、兄上に連れられて下野に来てから、急に会いたくなったのだ。考えて見れば、叔父や叔母達さえも、麿を呼ぶのに『様』を付けるのは、麿が藤原秀郷という人の子なればこそだ。そんな父上とは一体どんな男なのか? 何故母や麿をずっと放って置いたのか、直接会って聞いてみたくなったのだ。…… この頃、祖父に良く言われる。麿が大事にされるのは、すべて藤原秀郷の子だからだとな。もちろん祖父の言葉は悪い意味で言っていることでは無い。麿が増長するのを心配してのことだというのは分かっている。だが、もし、麿が父上の子で無かったら、己に一体何が残っているのか、それが分からなくなって来たのだ」
「なんか、六郎様の言っとることは難しゅうて良く分からん。けんど、父に会うてみたくなったと言うことだけは分かった。でも、まだ会えておらんのですね」
鳶丸は余計なことを聞いてしまったと、心の中で悔やんでいた。
「そうだ。実はこの郷に連れて来られる日の朝には、父上の舘に行くものだとばかり思っていた。甘かった」
「では、六郎様はここに来たことを悔やんでいるのか? 」
聞いたのは、秋天丸である。
「うん。一日くらいはそんな気持ちが有った。だが、すぐに諦めが付いた。ならぬものは仕方が無い。それよりも、兄上や父上が麿に何を望んでいるか分かった時、それに答えられる男になってから会えば良いと思うようになった。十四年待ったのだ。後三年待っても良いではないか…… つまらぬことを話したな」
まるで、自分に語り掛けているような口振りとなっていた。誰も、返すべき言葉を思い着けなかった。少し重い沈黙の時が流れた。
千方は、何故この者達にこんなことを話しているのか、自分でも不思議だと思っていた。こんなこと、今まで誰にも話したことは無い。それどころか、自分でも良く分からず漠然としていた思いが、もやもやが、言葉にして話してしまったことで、自分でも
『ああ、そう言うことだったのか』
と理解出来たのである。郷の童達に自分を理解して貰おうとして話したことでは無かった。
「朝鳥様に勝ちましたね! 」
雰囲気を変えようとしてか、秋天丸が、それまでに無い高い調子で言った。
「うん? 」
千方は一瞬、面食らった。
「太刀打ちのことか? 」
「はい。朝鳥様から、見事一本取りました。先を越されてしまって、正直、吾は悔しいのです」
「何故知っておる? 」
「見ておりました」
「何? 見ておった? 気付かなかった。この郷は、いつ誰に何を見られておるか分からぬところだな」
「はい。それが、この郷の者達の役目ですから…… 」
「麿を見張ることが役目だと言うのか? 」
「いえ、そういう意味ではなく、この郷の者達は、足音を消して歩くこと、気付かれぬよう跡を着けること、何日も野に伏して見張ることなど、幼い頃より躾けられているのです。それで殿様のお役に立っております。だから、郷の大人達の三分の一ほどが、いつも交代で郷を留守にしております。でも吾は決して、六郎様を見張っていた訳ではありません。あれは、偶然見掛けただけです。ただ、癖で、つい姿を隠して見ていただけです」
「そうか? まあ良い。別に隠し立てするようなことも無いでのう。あれは、たまたまじゃ。朝鳥に勝てたのは」
「いえ、お見事でした」
「そうか。だが秋天丸。汝の素早さには及ばぬ」
「それしか、無いっすから、吾には…… 。ところで、六郎様、本当に隠していることは無いのですか? 」
そう言って、秋天丸はにやりと笑った。それに連れて鷹丸、鳶丸、夜叉丸までもがにやにやし始めた。
「何だ、何だ。隠し事などしておらぬわ! 」
千方は少し剥きになった。
「この頃、郷の女童達が、いつもそわそわしています。髪を撫で付ける回数も増えとります。六郎様が歩いていると、ひそひそ話したりきゃっきゃと笑ったりしながら、遠くから後に着いて行きます。鳶丸など、想っている娘が六郎様に夢中なので、気が気でありません」
「そんなことは無い! 」
鳶丸が秋天丸に反論した。
「吾は蛍のことなど何とも思っておらんわ」
「吾は蛍などと言うておらんぞ。己から白状したようなものだな。はっはっは」
「煩いわ! 」
「確かに、鳶丸は蛍を六郎様に取られるのではないかと心配しておった」
そう言ったのは犬丸だ。鳶丸は横を向いた。
「まあ待て、麿はそんなことは知らんぞ」
と言ったが、千方には心当たりが有る。
この郷に来て間もなくの頃から、ひとりで歩いていると、少し離れて女童達が着いて来ることが良く有った。だが、話し掛けて来る訳でもなく、何かきゃっきゃと騒いでいるだけなので、気にはなったが、どういうつもりなのか分からなかった。一度、何か用でも有るのかと、道を引き返してみようとしたら、皆居なくなってしまったことが有る。
『何だ! 』
と思ったが、正直少しがっかりしたことも確かだ。だが、千方の関心は他に有ったから、それ以上気にすることも無かった。
話題の蛍がどの娘かは分からなかったが、どうやら童達に一番人気のある娘らしい。多分、あの頬のぷっくらとした娘のことだろうと見当は付いた。
「鳶丸、心配するな。麿は蛍と話したことも無いし、どの娘が蛍なのかも分からぬくらいだ」
「心配はしておりません。大体、吾ひとりのように言うておりますが、秋天丸も旋毛丸も犬丸も蛍を好いとるんです」
「ほう、人気が有る娘なのだな」
「六郎様が好いとるのは、芹菜ではないのですか? 」
いきなり体を起こして、夜叉丸が言った。
「えっ? 」
先に声を上げたのは犬丸の方だった。犬丸も体を起こし、他の者達もそれぞれに起き上がった。
「違いますか? 」
夜叉丸が畳み掛けた。
「う? あ、いや、何故そう思う? 」
千方は少し狼狽えている。
「もし、違っていなければ簡単なこと。この犬丸に手引きさせましょう」
「そんな馬鹿な。あんな男女子を、六郎様が好いているはずが無い」
犬丸は本気でそう思っているようだ。
「犬丸、もし、六郎様が芹菜と夫婦になったら、汝は六郎様の弟になれるのだぞ。そうなれば、吾に対して大きな顔が出来るし、吾も殴れなくなる。それでも嫌か? 」
「嫌とか、そういうことではねえが、…… 本当で御座いますか? 六郎様」
狼狽えてみっともない姿を晒す訳には行かないと、千方は思った。
『成り行きに任せるしかないか』
そう思った。
「う? 参ったなあ、誰にも言うておらぬのに、そこまで見透かされては…… 。その通りだ」
「あれ、六郎様。芹菜のこと思うて、毎晩、魔羅おっ立ててるだか? 」
竹丸がそう口を挟んだ。
いきなり、夜叉丸が竹丸の頭を拳骨で殴り付ける。
「無礼なことを言うな! アレがでかいだけで、外になんの取り柄も無え汝と六郎様を一緒にするな。汝と六郎様は違うんだ! 」
「何すんだ。いってえな。何も殴ることはなかっぺ。…… 恰好付けてっけんど、みんな、そうだっぺよ。女子んこと思ったら、魔羅おっ立つっぺよぉ」
「もう一度、殴ってやろうか? 」
「いい、いい。もうやめてくれ、頼むから。…… 」
「夜叉丸やめろ! 仲間を殴るでない。汝の強さは、敵と出会った時の為に取っておけ」
「あ、はい、分かりました」
夜叉丸は、多少不服であった。
『殴らぬと分からぬ者もおります』
と言いたかった。また、吾は口が上手く無いから、つい手が出てしまうとも弁明したかった。しかし、夜叉丸は既に千方を生涯の主にしようと決めていたのだ。だから、反論することは無かった。
「よし、決まった。後は犬丸、汝の仕事だ。上手くやれ」
秋天丸がそう言って犬丸の背を叩いた。
「どうするんだ? 良う分からんが…… 」
「虚け! 芹菜をここへ連れて来れば良いだけのことだ」
「おい、おい。そう勝手に決めるな。芹菜は麿のことなど何とも思っておらん。童としか思っておらんのだ。恥を掻かせる気か」
「ご心配無く。その時は大人だということを分からせてやれば良いだけです。芹菜とて六郎様のことを嫌いなはずは有りません」
秋天丸は退かない。千方と犬丸は、それぞれ別の理由で浮かない顔をしている。ふたりは何なんと無く顔を見合わせた。




