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藤原千方伝・坂東の風  作者: 青木 航
成年編 第一章
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壱百 残りし想い

 余りにあっさりと坂東を制覇したことで気の緩みが出たのか、或いは、覚悟を決めたはずの将門の意識が、客観的に見れば尚も中途半端であった為か、結果的にここが将門の頂点であった。

 恐らく、将門が、朝廷を倒すことを最大の目標としていたとしたら、間髪を入れず、上洛の為の西進を開始したであろう。みやこと坂東を結ぶ東海道沿いに在住する土豪達をどちらが先に取り込むかということは、勝敗を左右する大きな要素となる。

 追討軍に取り込まれた土豪達とは実際には戦っていないのだから、影響は無かったと見るのは間違いではないだろうか。

 もし、将門が直ぐに西進を開始し、官位・官職を餌に土豪達を取り込んで行ったら、どうなっていただろうか。まだ、海の者とも山の者とも知れない将門が、それぞれの国の国司に任ずると言っても、多くの者達は直ぐには反応すまい。しかし、国府に強い不満を持つ者や、息子達の出世の糸口が全く掴めず、将来を悲観していた者の一部が将門に賭けてみようという気になれば、様子見をしている者達の一部がそれに加わって来る。そうして、将門軍が膨れ上がって行くのをの当たりにすることに寄り、時の勢いというものが生まれる。迷っていた者達が、ある時、雪崩を打って将門軍に参加し始めるということが起こり得たかも知れないのだ。


 ところが、実際の将門の動きは、この辺りから急に鈍くなる。それは、将門の意識の中心が、打倒朝廷には無く、坂東制覇にあった為だろう。

 将門の意識の中に、みかど弑逆しいぎゃくするとか島流しにするなど全く無かった。いずれ、みやこに攻め上ったとしても、倒すのは、忠平以下の公卿達までである。みかどを頂点とする皇族達に手を掛けるつもりは無い。その気持ちが、親皇しんのう任国のつかさを介としようとしたことにわれている。将平の出奔により例外を作ることになってしまってはいたが…… 。


 いずれ追討軍が派遣されることは予期していた。それは現実となった訳だが、軍事に優れた武官を派遣した訳でも、畿内で軍を緊急招集した訳でも無い。

 高齢の公卿(三位さんみ以上で無くとも参議になると公卿と呼ばれる)に、道々兵を徴集させながら坂東を目指しているという噂が入って来る。将門は思わず笑ってしまった。

 坂東に着くまでには恐ろしく時が掛かるであろうし、そんな寄せ集めの軍など何万来ようと恐ろしくは無い。伯父・良兼や、常陸介・維幾と戦った経験がそう思わせた。ひとつ大きな違いが有ることを見落としてしまったのだ。

 将門自身、軍は数では無く士気と質であると思っている。その士気に於いて、追討軍は、今まで将門が戦って来た相手とは全く違うことになる。

「将門を討った者は、その身分に拘わらず、五位に叙す」

という布告がどれ程の重みを持つか、思い至らなかった。そして、その布告に影響を受けたのは、単に東海道の土豪達だけでは無い。坂東の土豪達の意識にも大きな影響を与えていたのだ。


 実はこの時期、追討軍に先駆けて、おびただしい数の朝廷の密使が急派され、坂東に入り込んで来ていた。 

 貞盛を探し出し将門追討の詔勅を渡そうとする者の他、各寺社を訪ね歩き、将門調伏の祈祷を命じる為の使者達である。平時であれば、国守に命じれば済むことであるが、行政組織が崩壊してしまっているので、一社、一寺毎に訪ね歩くしか方法が無いのだ。この命令に、多くの寺社が従うことになる。


 密使の中のひとり、真言宗しんごんしゅうの僧・寛朝かんちょうは、宇多うだ天皇の皇子みこ敦実あつざね親王しんのうの子であるが、他の密使に先駆けて、密勅を携えて、海路、上総国尾垂浜(おだれはま)(現・千葉県山武郡横芝光町尾垂 )に上陸。将門を調伏する為、下総国公津(こうづ)ヶ原(現・成田市加良部)で不動護摩ふどうごまの儀式を行っていた。成田山新勝寺なりたさんしんしょうじの起源である。

 各寺社が将門調伏の祈祷を行っているという噂は、朝廷が尚も健在であるという印象を庶民に与える効果が有った。


 将門が坂東を制覇したとは言っても、それは単に、将門に対抗する軍事勢力が無くなったと言うだけのことに過ぎない。行政組織は崩壊したままで、除目じもくを行い、国守を任じたとは言っても、それは未だ名目上のものに過ぎず、下部組織を整えなければ何も出来ない。坂東の実態は、無政府状態なのである。

 実際に、庶民の怨嗟えんさまとになるような行為も行われていた。

 膨れ上がった将門軍は、毎日大量の食料を消費することになる。それを緊急に調達する為に、嘗て受領達が行っていた以上の過酷な徴発が行われ始めたのだ。そんなことはもはや、いちいち将門の耳には入って来ない。冷静に考えれば当然起こりる事態なのだが、嘗て農夫達と共にもっこかついで汗を流していた将門も、坂東経営という大きくて掴み所の無い問題に頭をめぐらせているうち、身近なところで起こっている事態にまで気が回らなくなってしまっていた。


 それでも将門は、

「善政を行わなければ」

と思っている。

 兵農分離が行われていない時代に於いては、農繁期のいくさは避けるのが常識である。農民の反発を招くばかりでは無く、国力を疲弊ひへいさせ飢餓きがを招くことになるからである。

 それは、戦国時代まで続く考え方であり、信玄しんげん謙信けんしんもその束縛を受けていた。兵農分離を実行した信長のみが年間を通していつでも戦える軍を持っていたのだ。

 しかし、朝廷を倒す為には常識をえた発想が必要であり、西進を開始する為には、それをどう解決するかということを考えなければならなかった。朝廷打倒に将門が執念を燃やしていたならば、真剣に考え、何らかの解決策を見出したかも知れない。だが、将門の意識はそこに無かった。


 追討軍の動きは鈍く、例え迫って来たとしても、足柄あしがら(駿河、相模国境の足柄峠)、碓氷うすい(信濃、上野国境の碓氷峠)の二関を固めれば防ぎ切れると思った。

 秋の取入れを待って食料を確保することが第一の目標である。その間に行政組織を整えなければならない。荘園や公田を接収し、人を入れて耕作させ、上がりを公費に充てる為の組織作りと、どれ程の収穫が得られるかの見積り、そして公費がどれだけ必要かの計算も必要となる。それが出来て初めて年貢をどれだけ引き下げられるかの見通しが立つ。

 国守に任じた者達だけでは、とてもそれだけの仕事は出来ない。まずは、新しい人材の発掘が必要である。善政を敷く為にはやるべきことは山ほど有った。

 だが、行政経験の無い将門に取って、それは心の負担として重く伸し掛かって来るばかりで、なかなか動き出せない。

 悩んだ挙句将門は、まず、休養と農事に携わらせる為に、前年十一月以来帰していない農民兵達を一旦帰すことを決断する。

 だが、その前にどうしてもやって置きたいことがあった。逃走した貞盛と為憲の捕縛である。そんな折、為憲が十数人の郎党を率い、石井いわいの営所に監禁していた維幾を奪い返したという報が入って来る。本拠地・石井いわいは手薄になっていたのだ。

 将門の脇の甘さである。かさに懸って攻撃している時の将門は徹底的に敵を追い詰めるが、一方で、取り逃がすことも度々有るのだ。


 激怒した将門は、一月中旬、五千の兵を率いて常陸国へ出陣し、貞盛と維幾親子の行方を捜索する。十日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかった。しかし、兵達が貞盛の妻と源扶みなもとのたすくの妻を発見しこれを捕らえた。そして犯してしまった。憎っくき貞盛ではあるが、仲の良かった従弟いとことしての感情がどこかに残っている。

「何たることだ! 」

と自責の念が込み上げて来る。犯した者達を目の前にすると、いきなり抜き打ちでひとりを斬り殺し、残りの三人も斬って捨てた。

 将門の怒りの激しさに兵達は驚愕した。当時の常識からすれば、敵の女を犯すなど、略奪と並んで、戦場では常識的なことなのだ。身分の有る女を犯した為かと皆解釈した。

 将門は兵に陵辱された妻達を哀れみ、着物を与えて帰した。そして、下総の本拠地に帰り、兵の多くをそれぞれの地元へ帰還させた。


 一方、秀郷はと言うと、一気に兵を集めることはせず、いざとなったら直ぐにでも集められるように根回しをしながら、時を掛けて徐々に集めていた。そして、小規模な集団を単位に、あちこちで基本的な訓練を繰り返していた。

 将門個人からの密使が何度も訪ねて来て、一日も早い参陣を催促して来る。最後の密使は、武蔵守の職を用意しているので、兵の数は少なくても良いから直ぐにでも参陣するようにと強い調子で迫って来た。

 放っていた細作しのびから、将門が新皇を名乗り除目を行ったという報せがもたらされたのは、その翌々日のことであった。


 将門を訪ねた時、その態度に違和感を持った。そして、その原因が興世王に有ることを見抜いた。期待に反して、将門と坂東のことについて語り合う機会は無かった。名簿みょうぶを捧げたのは、それより他に生きて戻る方法が無かったからである。

 舘に戻ってより、興世王をいつどんな風に排除するか、秀郷は真剣に考えていた。興世王に操られる将門に失望はしたのだが、将門のまれに見るいくさの才能には依然として期待を持っていたし、この幾を逃したら、坂東を変える機会は二度と訪れないだろうとは思っていた。ただ、将門の同意を得た上で興世王を排除する為の具体策が成るまでは、迂闊に動けないと思っていた。


 将門が新皇を名乗ったと聞いた時の秀郷の落胆は激しかった。

 将門は、この坂東にみやこの朝廷を真似たものを作る方向に動き出してしまったのだ。それは、あの興世王が望む方向に将門が引き摺られてしまったということに他ならない。秀郷の考える、朝廷とは全く違った体制をこの坂東に作り上げる、という方向とは明らかに異なったものとなってしまっている。もはや、興世王ひとりを除いたとしても、将門の進む方向を変えることは難しくなっていた。二度とは無い機会に敢えて賭けたとしても、いずれは将門と決定的に対立し、結果双方とも滅ぶことになる。成り行きを読めば、そう言う結論しか出て来ない。だが、秀郷は、まだ動かなかった。将門の周辺からも、秀郷に対する疑念が湧き上がり始めていた。


 正にそんな時。朝廷からの密使のひとりが、秀郷を訪ねる。

「何と! 朝廷が麿を押領使に任ずると言うのか。晴天の霹靂へきれきとは、正にこのことじゃな」

 良くもまあ抜け抜けと、と秀郷は思った。

「…… ところで、確か下野の国府から麿に対して追討の官符が出ておったような気がするが、あれはどうなったので御座ろうかのう。遠い昔のことのようで、記憶も定かでは無いが、取り消されたと聞いた覚えも無い…… 」

 秀郷の厭味いやみである。

「いや、この大事の時、もはや、そのようなことは無かったとお考え頂くようご沙汰を得ておる」

「どなたの? 」

「…… それは勿論」

「太政大臣様がそう申されたと取って良いので御座るな」

「罪有る者を押領使に任じたり出来ると思われるか? それに、今回の押領使のお役目は、単に下野の治安を守るだけではなく、国境を越えて、坂東全体の治安を回復せよとのめいに御座る」

 要は、将門を討てとのめいに他ならない。将門を討った者は、その身分に拘わらず五位に叙すとの布告に続いて、朝廷も随分と思い切った手を打ったものだなと秀郷は思った。と言うよりも、朝廷の形振なりふり構わぬ必死さを感じた。

 そして、数日の後、将門が、殆どの兵を家に帰したとの細作しのびからの報せが入って来る。こうした出来事を重ね合わせてみれば、秀郷の取るべき道は決まったも同然であった。しかし、この坂東を変えられるかも知れない又と無い機会を見逃して良いのか、という拘りから、秀郷は逃れ切れていなかった。

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