約束とトマト鍋
クリスマスソングがショッピングモールに鳴り響いている。それを聞くと浮かれていたのは、いったいいつまでだろうとぼんやりと思ってしまう。
これを聞くと、どうしても頭が痛くなってしまうのは、年末年始になるとクリスマス、正月、福袋、バーゲンセール、などなどなどなどの問い合わせがぐっと増えててんてこ舞いになり、ときには店舗のほうにまで電話までかけないといけなくなってしまうからだ。店舗だって、年末商戦の真っただ中なんだから、ショッピングモール側からの連絡よりも店舗に来ているお客さんを優先する。必然的に電話オペレーターは店舗側からも問い合わせ側からも怒られるという板挟み状態になってしまうので、本当に胃に悪いのだ。
私はぐったりとしながらシフトを見る。シフトはよりによってクリスマスも、大晦日も、正月三が日も入ってしまっているため、私は「なにこれ……」と声を上げていた。
花梨ちゃんはそれに怒っている。
「さすがにこれはおかしいでしょ。三が日一日も休みないじゃない。これちゃんとシフト抗議したほうがいいよ」
「うん……でもなあ……」
三が日の休みは、どうしても既婚者が優先されてしまう。子供がいるから、親戚に挨拶回りがあるから、親戚が遊びに来ているから、などなど。
独身にだって実家に帰りたいときはあるし、おせち料理の手伝いはしたいし、一日くらいなにもせずにひたすら寝るだけの正月を送りたいんだけど、これじゃあ期待できそうもない。
幸いというべきか、週に二日の休みは守られているのだ。一番忙しいときに入れられているだけで。
私は上司に言うだけ言いに行ってみたものの、案の定というべきか。
「ごめんね、洲本さん。お子さんがインフルエンザなのが二件、既に有給が入っているのが一件で、なかなか……」
「はあ……わかりました」
事前にシフトのハードさを察知した人たちがひと月も前から有給を申請していたんだったら、こちらも文句は言いづらい。おまけに身内がインフルエンザにかかったのが原因で、それが職場に蔓延してしまって大惨事になったというのはよくある話だから、身内がインフルエンザにかかったら最低一週間は職場に立入禁止にするのは正しいっちゃ正しい。
私は悪いのは自分の要領だろうと判断して、がりがり頭を引っ掻きながら戻ってきたら、花梨ちゃんに説教されてしまった。
「だから、そこでどうして文句を言わないの」
「そう言われても……既に申請が入ってたなら文句は言えないし、病気なんてどうしようもないでしょ」
「そうなんだけど!」
いい顔してたら駄目だとはわかってはいるものの、こればかりは誰を責めてもなあと思ってしまう。花梨ちゃんも三が日は一日だけしか休みをもらえていないんだから、交替してというのも忍びない。
私たちにできるのは「年末年始、無事に生き残ろう」ということだけだった。
きっと今の私たちの血は、ドロドロに滞っているだろう。
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その日もぐったりしながら家路に着く。クリスマスプレゼントの駆け込み需要のおかげで、お客さんから無茶な電話が続き、店舗側からも苦情が入ってひたすら謝り続けるというのを繰り返していたら、いろんなものがゴリゴリと削れていくのがわかる。
私がふらふらと改札口を出たら、浜坂さんが電話しているのが目に入った。このところ、私が来るまでずっと電話しているから、年末年始が忙しいのはどこの業界も同じらしい。
電話が終わるのを待っていたら、浜坂さんはようやく息をついて振り返った。
「はあ……お待たせ」
「いえ。浜坂さんもお疲れ様です」
「印刷所が年末年始は閉まるから、無茶ぶりが多いんや、この時期になると」
ライター業の具体的な部分は聞いてないけれど、ネットだけでなく雑誌のライティングもしてたんだなと今更思っていたら、浜坂さんは「せやから」と続ける。
「ちょっと缶詰せなあかんねん」
「缶詰……ですか?」
「業界用語やったっけ? 引きこもってひたすら原稿するやつ。せやから、最低でも一週間はなるちゃんに食事つくられんねんなあ……」
そう申し訳なさそうに言われてしまうと、私も目を瞬かせてしまう。
この人に献血パック扱いされてる今がおかしいのであって、ここは謝るところなんだろうか。これ、私が前に戻るだけなんじゃないのかな。
そう思うものの、私はただ笑顔をつくった。
「いえ。お仕事お疲れ様です。忙しいんだったら仕方ないですよ」
「うーん。なるちゃん、嫌なことは嫌やって言わなあかんよ? そこが心配やなあ……」
「人の血を吸っておいて、今更じゃないですか」
「せやなあ……」
浜坂さんが困ったように笑うので、私はその顔で意地悪くも胸がすくのを感じていた。
しばらくふたりで歩いてから、浜坂さんは「そうや」と口を開く。
「なるちゃんの年末年始のシフトは? もうわかっとる?」
「え? 私、今回無茶苦茶ですよ?」
大晦日から三が日まで連続出勤だし、クリスマスだって休みじゃない。私がシフトを教えたら、浜坂さんは「ふんふん」と頷いてから、にかりと笑う。
「なるちゃんの休みの日に、デートしょうか?」
その言葉で、一瞬頭が真っ白になる。
「はい……?」
かろうじて出てきたのは、間抜け極まりない言葉だった。それに浜坂さんは眉を下げる。
「ありゃ、激務の合間やから、家で寝てたかった? あかんよぉ、冬場になったら寒くって家にこもりがちやけど、最低限外に出て体動かさな、血が濁るから」
「いや、そうじゃなくって。私、食育されてる真っただ中で、外に出ても、その……」
ただでさえストレスを溜め込むであろう激務の合間にデートしても、外食したら余計に血が濁るだろう。
この人に血を吸われても、また「不味い」って言われるんじゃないだろうか。私が口をパクパクさせてると、それに浜坂さんは「あー……」と言ってから笑う。
「俺も激務のあとで疲れとるから、お互い様や。お互いデトックスすりゃええやろ」
「そういうもんなんですか?」
この人、吸血鬼だからなのかライターだからなのか、相変わらず健康志向だな。
そうぼんやり思っていたら、浜坂さんは満足げに「そういうもんや」とだけ答えてくれた。
その日、ふたりで来る激務に備えるためと買いに行ったのは、鍋の材料だった。
トマトジュースに豚肉、鶏肉に、きのこ、ネギ、にんじんなどをぽんぽんと買っていく浜坂さんは、最後に溶けるチーズを放り込んだ。
「ストレスに鍋……ですか?」
「スープでもええんやけど、スープに溶ける栄養も逃がさんように食べるのが一番かなと。塩分としてソーセージ入れてもええんやけど、なるちゃんすぐに血ぃドロドロにするから、ほどほどにやなあ」
「ま、前よりは気を使ってますし!」
「そういうことにしといたろか」
そして浜坂さんは私に笑うのに、私は籠の重さを見る。
思えば、最初は私は浜坂さんに出されるまま食べていただけだった。いつからか、ふたりで当たり前のように食事をしている。
勝手に押しかけてきたはずなのに、しばらく会えないのかと思ったら、少しだけ寂しく思った。
私の気持ちを知ってか知らずか、浜坂さんは淡々と言う。
「なるちゃんはストレス溜めやすいから、定期的にカルシウム摂らなあかんよ。牛乳があったらええけど、ひとりやったらなかなか消費しきれんしなあ。チーズかヨーグルトみたいな加工食品やったらなんとか消費できるやろ。あとビタミン。野菜は摂るようになったから、豚肉食べるようにしい。豚汁やったら、野菜も豚肉も摂れるから朝と夕に食べられるやろ」
「あ、はい……そうします」
彼の説明を聞きながら、袋をぶら下げる。重い野菜類の入った袋は普通に浜坂さんが持ち、私は軽い肉類の入った袋を持って家路に着いた。
野菜の皮を剥いて薄切りにし、鶏肉はぶつ切りにする。私はその間に炊飯器に残ったご飯を全部そいで、網で水洗いしていた。チーズがあるんだから、締めにリゾットにするのがいいだろうと思ったのだ。洗っておいたら粘りが出ない。
トマト鍋は聞いたことがあっても、鍋の素じゃない鍋の作り方はあまり知らない。そう思っていたら、浜坂さんは鍋にオリーブオイルを敷いてそこで鶏肉に塩コショウを振って炒めはじめた。
「あれ、もうジュース入れるのかと思ってましたけど」
「鶏肉は出汁やし、先に味付けといて炒めとくんや。皮に火が入ったら、ジュース入れて、にんじんも入れて煮る」
言われるがまま、皮に香ばしい焼き目が付いたところで、トマトジュースを注いで、にんじんと一緒に煮はじめた。
その間に鍋の野菜をボウルに入れて机に運び、カセットコンロもセットしてその上に鍋を移動させた。
火が通ったら、残りの具材も入れて煮て、それをふたりでボウルによそっていただいた。
トマト鍋って、わざわざトマト鍋の素を使わなくってもつくれるんだなあと今更思いながら、目を細めてそれを食べる。
そして正面をちらりと見る。吸血鬼がトマト鍋を食べている。それは本当にシュールな光景だなとぼんやりと思うけれど、これもしばらくは見納めだ。
浜坂さんはのんびりと具を継ぎ足し継ぎ足ししたあと、「そろそろ締めにリゾットする?」と尋ねられたので、私は頷いた。
ご飯を鍋に注いで、上にチーズをかぶせて、蓋をする。
しばらくの沈黙の中、ふと浜坂さんが「なあ」と声をかけてくるので、私はびくんと肩を跳ねさせる。
「はい?」
「なんやその反応。別に怒ってへんよ。終わったら、血ぃ飲んでええ?」
そう聞かれてしまって、私はどんな反応をすればいいんだろうと困ってしまった。
いつだって勝手に噛みついてくるんだから、そんなに普通に聞かれると、言葉に詰まる。
「……私、もうすぐ激務ですから、血が足りなくなると困りますよ」
「ああ……せやねえ。すまんすまん」
そう言ってしゅんとされてしまうと、まるでこちらが意地悪言ったみたいだ。
仕方がなく、私は浜坂さんの隣に座ると、彼を抱き寄せた。座っていてよかった。座っていなかったらただ私が彼に抱き着いているみたいに見えた。
「……なんやのん、いきなり」
「ええっと。私、おいしそうな匂いがするらしいんで、匂い嗅ぐくらいならいいかと」
「それ、生殺しやなあ……」
蓋がぷつんぷつんと泡立つまで、しばらくそんな体勢でいた。
しばらく会えないと、この人のなまりを聞くこともなければ、料理も食べることができない。血を吸われる心配はないけれど、この人に会えない。
寂しいなと思ったけれど、口にしたら、まるで束縛する彼女みたいだ。だから、言える訳なんてない。
私たちは、別に付き合ってもいないのだから。