ストレスとさつまいも
次の日、私は早番だったために、慌ただしく朝ご飯の準備をはじめた。
昨日炊いたご飯をよそい、昨日浜坂さんがつくってくれた具だくさんの味噌汁を飲む。あとは残っていたきのこを敷いて、その上に卵を投下してレンジでチンしたポーチドエッグは、ちょっとの醤油をかけていただいた。
「ご飯の朝食を食べるようになるとは思わなかったなあ……」
私はそうしみじみ言いながら、お弁当の準備もする。
ずっと菓子パンかサンドイッチをコンビニで買って、それにペットボトルのお茶を足すという食生活を続けていたけれど、浜坂さんがつくってくれたご飯がおいしくて、傷んで捨ててしまうのがもったいないと、それらを全部食べれるようにしたら、自然とお弁当を持っていこうという結論になってしまうのだ。
昨日つくった餃子のあんを炒め、レンジでチンして温めたご飯と卵を入れて炒める。そこにきのこを足したら、冷凍きのこは消えてしまった。だいたい炒め終えてから、少しだけ醤油を足す。お弁当は冷めたら味を感じなくなってしまうから、気持ち濃いめに味付けをしてから、チャーハンを完成させた。
「……本当においしい」
味見してみて、しみじみと思う。
レバーも餃子の材料と合わせたら食べやすいと知ることができたのは新鮮な発見だったし、野菜もたくさん入っているから、食物繊維で腹持ちもいいだろう。
私はそれらをお弁当箱に入れて、冷ましている間に、スマホに入っていた着信に目を通す。
花梨ちゃんからだ。たしか、今日は遅番だったから昼に一緒になるかならないかくらいだったと思うけど。
【昨日はおいしいレシピありがとう。どうしたの、彼氏でもできたの??】
あまりにも唐突な言葉に、私は乾いた笑いが漏れる。
吸血鬼に食育されているなんて言って、信じる人間がどれだけいるのかという話だ。
でも餃子をつくれたってことは、もうひどい生理痛のほうは大丈夫なのかな。それに……。
浜坂さんは花梨ちゃんの体調不良をストレスじゃないかと言っていたけれど。私がしゃべっている感じだと全然わからないけど、花梨ちゃんの身体のほうが悲鳴を上げているんだったら一大事だ。
私は少し考えてから、メッセージを送る。
【料理が得意な知り合いができただけだよ。餃子つくれたってことは、生理痛はもう大丈夫そう?】
すぐに返信が来た。早い。
【生理痛はもう大丈夫だけど、また婚活で失敗した。もう四組目。外ればっかり引いて、本当に勘弁してほしい】
……ん?
私は思い返してみる。
美人で、料理もできて、自分磨きに余念がないのが花梨ちゃんだと思っていたけれど。それが婚活って。
私はメッセージをタップする。
【どういうこと?】
【電話オペレーターの仕事なんて、全然キャリアにならないし、もうアラサーだから、今のうちに婚活しようかと結婚相談所に登録したけれど、なんか変なマッチングばっかりされて、本当に嫌】
そこからは、アプリ画面いっぱいが花梨ちゃんの愚痴で埋まってしまった。
花梨ちゃんは自分磨きを続けた結果、美人で料理上手というスキルを獲得した訳だから、ちゃんとしている人がいいと言っていた。でも職場は女の園だし、上司は既婚者だし、出会いなんてほとんどない。ショッピングモールの出入り業者の人とだって、オペレーションセンターのほうにいたらなかなかしゃべらないし。
学歴も年収も普通の人、誠実な人、と高望みはしていないにも関わらず、マッチングされてくる人、マッチングされてくる人が、お見合い初日でホテルに連れて行こうとする人ばかりだからと、逃げてマッチングをキャンセルする申請ばかりしていて、くたびれてしまったという。
アラサーと言っても、花梨ちゃんも私もまだ二十代半ばだし、そこまで焦る必要はないと思うんだけど。
そうは思っても、花梨ちゃんは自分の努力を踏みにじられたような気がして、それでストレスが溜まってしまったんだろう。
私はその手のことはとことん鈍くできているから、花梨ちゃんの愚痴をただ、黙って読むことしかできない。
【大変だったねえ】
ただその文字をタップして送るくらいしか、してあげられることができなかった。
結局は私が出勤するギリギリまで、愚痴を延々読んで、相槌を打つこととなったのだ。
****
休憩室で、つくってきたチャーハンにコンビニで買ってきたサラダ、ペットボトルを足して食べていたら、バタン。という大袈裟な音を立てて休憩室のドアが開いたので振り返ると、不機嫌全開の花梨ちゃんが、大股で歩いてきて、私の隣に座った。
相変わらずちゃんとしたお弁当をつくってきて、自分で淹れたお茶を飲んでいるけど、花梨ちゃんのぶすくれた顔はなかなかいつもの笑顔の素敵な顔には戻らない。
「花梨ちゃん、おはよう……大丈夫?」
「……ほんっとうにもうやだ……今のマッチング相手」
そう言って、もぐもぐとお弁当を食べる。もうそれは食べているというより、無理矢理口に押し込んでいるみたいな感じだ。
それに私は恐々と聞く。
「その相手、相談所の人? 嫌だったら、マッチングを取り消してもらえないの?」
「……こちらからマッチングを連続で取り消すことってできないの。連続でマッチングが成立しているのを断ると、ペナルティーで相談所を辞めさせられちゃうから」
相談料……。その声を聞いて、私はなんとも言えなくなる。
これって、花梨ちゃんが結婚に焦りすぎて、変な相談所に入ったのが原因で、全部が裏目に出ているような気がする。
でも落ち込み過ぎている人は、落ち着いてからじゃないと説得が通じないし、どうしよう。
仕方なく、私は花梨ちゃんのお弁当をちらっと見て、ポテトサラダを見つけて「私のも食べていいから、それ食べていい?」とわざとらしく明るく言う。
それに花梨ちゃんは力なく「いいよ、食べたかったらあげる」と言うので、大袈裟に食べた。
隠し味にからしを入れているのか、味に奥行きが出ておいしい。普段は頼りがいがあって、努力を怠らない子が、こんなに落ち込んで体を壊すのは、やっぱり間違ってる気がする。
「花梨ちゃんのいいところを見ない男の人って、やっぱり変だし、花梨ちゃんにいい人宛がわない相談所もおかしいよ」
「……そう?」
「私はそう思うよ」
落ち込んでいる子を、どうやったら慰められるんだろう。私はそう思いながら、今日浜坂さんに相談することを考えていた。
料理で全部解決できるなんて万能なことは思ってないけど、少しでも助けになるんだったら、それはありがたいことだと思うから。
****
早めに終わって、駅に着いたものの、今日は浜坂さんの姿が見えない。
思えば、あの人とはメール交換もしてないし、アプリのIDすら教えていない。名刺はもらっているものの、あれって仕事用のものだったら、そこに連絡して仕事の妨害をしちゃまずいよなあと思って、登録していない。
変な出会い方だったにも関わらず、すっかり私は浜坂さんに甘えてしまっているな。そう思っていたら、ようやく見慣れた黒づくめの人が改札口から出てきた。
……電車通勤だったのか。吸血鬼なのに。変な驚きと共に、浜坂さんが笑顔で手を振るのに、私は会釈をする。
「ああ、今日は早かったんやねえ」
「こんにちは……電車で来てたんですねえ」
「せやで。ひとりで乗るのは大変やけど、定期があったら挟まることもあらへんし」
……今まで一緒に行動してたから気付かなかっただけで、この人は鏡やカメラにも映らないということは、赤外線センサーなんかも軒並みアウトなんだろうか。
自動ドアに挟まっている浜坂さんを想像したら、シュール以外の何物でもなくて、思わず噴き出してしまうと、当の本人はきょとんとした顔でこちらを見下ろしていた。
「どしたん?」
「な、なんでもないです……! あ、あの……相談したいことがあるんですけどいいですか?」
「んー?」
ゆったりと歩きながら、私は花梨ちゃんの話をしてみる。さすがに変な結婚相談所に引っかかったことは言わなかったけれど、この間話をした知り合いが、婚活に失敗し続けてストレスで具合が悪そうだという話はできた。
「はあ……やっぱりストレスは万病の素やねえ。普通に考えたら、体壊してまで続けることちゃうから、婚活そのものをやめたほうがええって言ったほうがええやろうけど、問題はそこちゃうやろうねえ……」
「やっぱりそう思いますか?」
「どちらかというと、これは承認欲求の問題ちゃうかなあ」
「承認欲求の問題……ですか?」
自分だと考えたこともなかった言葉が飛び出て、私は目を白黒とさせる。すると浜坂さんは「せやせや」と頷いた。
「誰かにちゃんと認めて欲しい、そこからちゃうかなあ。過剰にきちんとしている子っていうのは、箱入りのお嬢さんか、そうせんかったらあかんかった……長女で下がいたり、実家が厳しかったりな……子のどっちかやろうし。んー……承認欲求満たすっちゅうのは、本人が納得せんかったらあかんから難しいなあ……」
「そこまで……難しい問題なんですか?」
「なるちゃんみたいに、悪くて鈍い、よくてマイペースやったらええんやけど、皆が皆そうは生きられんっちゅうこっちゃね」
鈍いとか言われた。私はしゅん、としながらも、そうじゃないと首を振る。
「せめて元気になって欲しいんですけど……甘いもの食べたら元気になりますけど、体に悪いのは浜坂さんは反対なんですよね?」
「別に甘いもん全般をやめえ言ってる訳ちゃうで、俺も?」
「……え?」
「ただ、白砂糖は体を冷やすし、摂り過ぎたら悪い。菓子全般に使われてるのは味に雑味が入らんようどうしても白砂糖になるから、食べんほうがマシってだけで。はちみつとか黒砂糖やったら、別に反対せえへんし……そりゃ、摂り過ぎたら反対するけど」
「え……そうだったんですか……?」
聞いたことはあっても、意識したことなんて全然なかった。
「だって、クッキー焼くのかて、二十枚分焼くと仮定したら、小麦粉200gに砂糖100g、バター100g……これを許可出せると思う? そりゃ一枚二枚やったら大したことないけど、これ仮に五枚食べるとしたら……」
「あーあーあーあー……聞きたくありませんっ!」
思わずばっと耳を塞いでしまう。
お菓子をつくっていたら、自然とダイエットについて考えてしまうという人はいるけど、数字にされたらそんなに量を使っているなんて、意識すらしてなかった。
私が脅えているのに、浜坂さんは「ははは」と笑う。
「さっきも言ったけど、別に甘いもん許可出さん訳ちゃうねん。まったく食べんでストレス溜まるくらいやったら、一番消費のいい朝に食べればええだけやし、もし夜に食べるくらいやったら、ちょっと考えなあかんよってだけで。それに話戻すけど。なるちゃんは自己管理きっちりしてる子に、甘いものでも食べて元気出してってしたいんやろう?」
「あ……はい……そうです」
私は気を取り直して頷くと、浜坂さんは「うん」と顎に手を当てる。
「せやったら、スイートポテトでもつくって持ってったりぃ。遅番やったら、お弁当じゃなくって、挟むもん程度しか食べられんやろう?」
「あ、はい」
でもスイートポテトって。私は作り方を思い返す。
基本的にさつまいもを濾して、バターでコクを出す。でもバターを入れたら結構なカロリーオーバーになってしまうんじゃ。
そう思ったけれど、浜坂さんのゆったりとした足取りに慌ててついていった。
スーパーで籠を取ってさつまいもに手を伸ばそうとしたら、浜坂さんは「ちょい待ちぃ」と言って指を差す。指を差したのは、この時期だと多い、焼き芋コーナーだ。焼き芋器でいい焦げ目の焼き芋の匂いがお腹を刺激してくるのに、浜坂さんは「それふたつちょうだい」と店員さんに言うので、私は目を白黒とさせる。
「……わざわざ、焼き芋を買うんですか?」
「んー……本当やったら自宅で焼き芋できるのが理想的やけど、なるちゃん家でやったらいろいろうるさそうやしねえ。オーブンで焼き芋にする方法もあるけど、なるちゃん家のオーブントースターやと微妙そうやし。さつまいもって、焼き芋にするのが一番甘なるんよ」
「そうだったんですか……?」
焼き芋をほとんど食べたことがないから、違いなんてわからなかった。最近は焚き火を禁止されている場所も多いし、自宅で焼き芋をつくるのも制限が多過ぎる。
浜坂さんは笑いながら、次にジャムのコーナーに歩いていって、蜂蜜の瓶を手に取った。
「一番ええ具合のさつまいも使ったら、わざわざバターでコク出さんでも美味いからなあ。ぱさぱさせんようにやったら、蜂蜜を足せばいい」
そう言いながら籠に入れたので、私たちはそれを買って帰ることにした。
家に帰ると、焼き芋の皮をめくって、中身をボウルに入れて、蜂蜜を少し加えてざっくりと混ぜはじめる。
たしかに黄色い部分は艶々しているし、ボウルの中でも簡単に混ざる。
「卵黄があったら、それをはけで塗って焼き目を付けるんやけど、どうする? 見た目は綺麗になるけど、カロリーはちょっと上がるかなあ」
「うーんと、ストレス軽減するのが目的なんで、カロリーは度外視の方向で。もう充分カロリー抑えられてると思うので、卵ひとつ分くらいだったらなんとか」
「了解」
浜坂さんは納得すると、卵を割って、ひょいひょいと卵黄と卵白を分離させてしまった。卵白はあとでスープの具にでもするかなあとぼんやり思っている間に、浜坂さんはさっさと卵黄を溶いて、成型したスイートポテトの表面に塗りはじめた。
オーブントースターで焦げ目が着くまで焼けば、それでおしまい。私はひとつをひょいっと食べる。
いつも食べるスイートポテトはコクがあるけどこってりしていて、後を引くおいしさだとしたら、これは甘くてあっさりしているけど、充分満足感のあるおいしさって言えばいいんだろうか。
「……おいしいです」
「そうかそうか。でもあんま食べると晩飯入らんなるから、ほどほどにしいや。知り合いに持ってってあげるんやろ?」
「あ、はい!」
スイートポテトを冷ますために、食器棚から大きめのお皿を探しているとき。
すっと首筋がなぞられたことに気付いた。
浜坂さんの少し乾燥した指先が私の首筋を通っていくのに、私は固まった。
「あ、の……まだ私の血、おいしくないんじゃ……」
「……あー。まだ日も落ちとらんのに、悪い」
お皿に伸ばした手を引っ込め、固まっている間に、私の髪はかき分けられた。多分うなじが露わになっている中、ゆっくりと歯が首筋に入っていくのがわかる。
血の匂いが鼻を通っていき、痺れが襲ってくるのに震えている間に、今度はざらりとした感触が後を追う。血を吸われて……舐められたんだと思う。
「……やっぱり、不味いなあ。まだ」
体の自由がようやく利くようになったとき、既に歯型もうなじの傷口も塞がってしまっていた。
いったいどこに、血を吸いたいと思う部分があったんだろう。
ただお菓子をつくっていただけなのに。
私は困った顔で振り返ると、浜坂さんは困ったように眉を下げていた。
「ほんま、堪忍な」
「ええっと……」
ここで「いいんですよ」とも「困ります」とも答えることができず、私はただ、「お皿出していいですか?」とだけ尋ねた。