魚と缶詰
本当に普通に帰ってしまった浜坂さん。
あんな綺麗な人に迫られた挙句に血を吸われ、「不味い」と言われて説教されたなんてシュールな出来事。普通だったら夢だったのではとも思ってしまうけれど。
朝起きても存在感のある名刺は消えていなかった。
念のため、スマホで【ライター】【浜坂真夜】で検索をかけてみたら、海外の紹介サイトに繋がり、そこの取材記録があれこれ見つかったから、本当にライターとしての浜坂さんは存在しているらしい。
それでも、昨日のあれこれは、からかわれただけなような気がして、私はなんとも言えずに首を抑えていた。
鏡で確認したけれど、傷口なんてなかった。たしかに血の匂いはしたはずだし、噛まれて痛かったはずなのに。
「どういうことなんだろう……?」
考えても埒が明かず、私はのそのそと着替えて朝ご飯と出勤の準備をはじめた。
シフトで朝出と昼出とある。残業で仕事が多くなってしまうのは昼出で、朝出は早朝から顔を出して昼まで働いているパターン。そういえば、今日は朝出だから、昨日みたいに遅くならないんだけど、浜坂さんに言ってないなあ……そう思って、ぶんぶん首を振った。
なんで自称吸血鬼に私のシフトについて教えなきゃいけないの。
そう自分で突っ込んでから、パンとインスタントコーヒーという中途半端な朝ご飯を食べてから、慌ただしく出勤していった。
私が働いているのはショッピングモールで、電話オペレーターを務めている。ショッピングモールに入っている店舗への問い合わせや、モール内で流通しているポイントカードの使い方のサポートなどを行っている。
座り仕事な上に、電話中に食事休憩ができる訳もなく、休憩も一斉に休める訳もなく、オペレーター同士で交代で休憩に行くしかない。おまけにシフトの関係で朝出と昼出だったら帰れる時間も違うから、どうしても昼ご飯や晩ご飯の時間まで変わってしまう。
朝出だったらもうちょっと凝った料理だってできるけれど、昼出だったら、もう夜中にお腹空いて起きなければいいやとズボラ料理になってしまっても仕方ないと思う。
自分にそう言い訳しながら、私は慌ただしく出かけて行った。
自転車使おうかなとも思ったけれど、朝に有料駐輪場を探し回ることのほうが時間ロスだなあと考えたら、今日も歩きで決まった。どうせ今日は夕方には帰れるはずだから。
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今日は電話の問い合わせがずいぶん多い。
来週にショッピングモール内で有名バンドがライブをするせいで、ライブ観覧の問い合わせが増えているのだ。朝からずっとその問い合わせに答えていたら、すっかりお昼を食べ損ねてしまい、ようやく時間が空いたのは三時のおやつの時間だった。
ショッピングモールの裏口にある休憩室で、コンビニで買ったサンドイッチに紅茶を流し込みながら、私はスマホをタップする。
吸血鬼について検索をかけていた……我ながらどうなんだろうとは思うけれど。
調べてみればみるほど、サイトによって言っていることが違う。
十字架に弱いと書かれているところがあったかと思ったら、宗教により効き目が違うと書かれていたり。
ニンニクが効く効かないもサイトによって違う。
でも自己申告で言っていた、鏡に映らない、写真に写らない、流れる川に弱いは、どの吸血鬼に関するサイトでも書かれているのに、私は「ふーん」と唸りながら、サンドイッチを咀嚼する。
そして好みの血についても書かれていて、私はなんとも言えなくなる。
吸血鬼はこの世のものとは思えないほどの美形と書かれていて、対になる捕食対象はどのサイトでも美しい女と書かれているのだ。
……美しい? 自分を振り返る。
典型的な日本人体系で、髪も硬い日本髪、美人とはお世辞にも言えない。おまけにズボラ……気が抜け過ぎてて、美人からは程遠い。
「行儀悪いよ、サンドイッチ食べながらスマホは」
そう言いながら私のスマホ画面を覗き込まれそうになったのに、私は慌ててスマホの電源を落として振り返った。
同期の花梨ちゃんだ。ズボラな私と違って、今日も爪の先から頭のてっぺんまでピカピカに磨かれている。
「ごめん。ちょっと気になることがあって」
「ふうん、休憩中にスマホでずっと検索かけてるのは珍しいとは思うけど。だってなる、休憩中は突っ伏して寝てるし」
「う……見ないふりしてくれたら嬉しいんだけど」
「休み時間だからとやかく言う気はないけど、気を抜き過ぎてて大丈夫かなとは思うよ」
私は「うう……」と唸り声をあげながら、ちらっと花梨ちゃんを見る。
隙のない彼女は美容と健康にはお金を使っているし、吸血鬼の捕食対象になるのは、むしろ花梨ちゃんのほうでは、と思ってしまう。
私は花梨ちゃんを恨めし気に見ながら、ふと思う。
「ねえ、花梨ちゃん。血がドロドロの場合って、なにを食べればいいの?」
「ええ? どうしたの、なる。病院でなにか怒られたの?」
……まさか吸血してきた吸血鬼にさんざん駄目出しされたなんて、どうやったら言えるんだろう。
私はちらちらと休憩室を見回したら、献血の呼びかけのポスターに目を留めた。
「……この間、献血カーが来てたから行ってみたら、血がドロドロ過ぎて止められた」
「それまずいよ。そうだねえ……血液を綺麗にすると言ったら、青魚かなあ。私も安いときに、買って食べたりするしね」
「……青魚かあ……」
それに私はへにゃっとした。
恥ずかしい話、切り身魚以外を調理したことなんてない。だって、ひとり暮らしでゴミ出しが決まっている日まで、台所が生臭いなんて嫌だし。そもそも魚を捌いたことなんてないし。
私は「無理ぃー……」と呟いたら、花梨ちゃんは呆れた顔で見てきた。
「料理、もうちょっと覚えたほうがいいよ?」
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夕方になり、私はようやく家路についた。
まだ日も出ているから、さすがにいないだろうなあと思って、そのまま帰ろうとしたら。
「あ、なるちゃん。今日は早かったんやねえ」
声をかけられて、私は思わずのけ反ってしまった。相変わらず真っ黒なジャケット姿で、明らかに整い過ぎた顔の人がなまって一般人に声をかけたら、普通に目立つんですが。
私はあわあわしていても、浜坂さんは我関せずという顔で近付いてきて、こちらにふんふんと鼻を動かしてくる。ってなんですか。
「……今日はそこまでストレスもないみたいやね。匂いが酸っぱない」
「酸っぱ……それ普通に失礼ですよね!?」
「ストレスは血ぃ濁らせるからようないね。で、なるちゃん家にはあまり物入っとらんやろ? 買い物してから帰ろう思うけど、リクエストある?」
「ええっと……」
ちらちら思い返すのは、花梨ちゃんに言われた青魚だけれど。この人料理するって言っている以上はできるんだよね、多分。
「ええっと……青魚が、食べたいなあと……血が綺麗になるらしいんで」
「おお、ちゃんと勉強したんやねえ、偉い偉い」
同期の受け売りですなんて、言える訳もなく、私はただ頷いた。それで浜坂さんは顎を形のいい指で押さえて考え込む。吸血鬼の爪は鋭く伸びているのかなと思ったらそんなことはなく、普通の成人男性よりもちょっと綺麗な手という感じだった。
「せやねえ、じゃあなるちゃんは料理はなにが好き? 和食? 中華? エスニック?」
「えっと……イタリアンが好きです」
「自分家にハーブとかあるん?」
「ないです……うちにあるスパイスなんてせいぜい黒コショウくらいです」
なにが言いたいんだろうと首を捻っていたら、浜坂さんの中でなにかがまとまったらしく「ほな行こか」と言いながらゆるゆると歩き出したので、慌ててついていった。
魚売ってるのはこの辺りだとスーパーくらいしかないけど。意外なことにさっさと浜坂さんが寄って行ったのはコンビニだった。
「あの、コンビニですか?」
「せやで。今電子ポイント溜まっとるから、使わなもったいないし」
庶民的な吸血鬼だな。そんな突っ込みはさておき、さっさと浜坂さんは籠を取り出すと、私に持たせてぽいぽいと籠の中に材料を入れていく。
サバ缶にトマト缶、オレガノの小瓶に、パン粉……。私はサバ缶を見て、ポカンとしていた。
「サバ缶、なんですか? 昨日さんざん私に説教していたから、もっと手の込んだものつくるのかとばかり……」
「アホやなあ……手の込む込まん関係ないやろ、体にええ、悪いは。それに最近は缶詰も馬鹿にはできんで。だって骨まで食べられるし。圧力鍋でもあらへんと、骨まで火を通すんは難しいしなあ」
「そうなんですね……?」
そっか、缶詰でもよかったのかと、今更ながら思いながら、普段コンビニに行っても素通りしていた缶詰コーナーを見る。
普段買うのなんてせいぜいツナ缶くらいで、他の魚缶に目を留めたことなんてなかった。だって使い方わからないし。
最後に浜坂さんはサラダを買って、そのままレジへと向かう。サラダは出来合いのものでもよかったのかと、今更ながら思う。
本当にポイントで全部購入してしまった浜坂さんについて、私は家に帰ると、浜坂さんはうちの台所の器具の確認をし、溜め息をつく。
「……自分、これだけあるのに、なんで料理せえへんのん?」
うちのお母さんが料理好きだから持って行けと勧められて、ボウルも大中小と大きさが揃っているし、金網も同じくらい持っている。
包丁もパン切り包丁、フルーツナイフ、肉切り包丁に穴あき包丁と揃っているし、菜箸、トングなども充実している。
鍋も圧力鍋はかさばるから置いてないけど、大中小とステンレス鍋がある。
おまけに、ミキサー、電動泡だて器、オーブンも食器棚の奥に仕舞い込まれていた。
ひとり暮らししたばかりのときは、土日にまとめ料理ができたらいいなと思っていたけれど、現実は違った。
そもそもシフト制だから土日に休みがあるかどうかも怪しいし、休みの日になったら疲れ果てて家で寝ているか憂さ晴らしに食べに出かけているから、調理器具が日の目を見るときはなかったのである。
私は縮こまって、明後日のほうを向く。
「暇なときに、料理できたらいいなと思ってたんです……あはは」
「……まあ、ほんまに料理せえへん家やったら、そもそも鍋も包丁もあらへんし、料理できる環境あるだけ、まだましやなあ……」
浜坂さんが本気で呆れかえった顔をしながら、さっさと料理の準備をはじめた。
私がほぼ唯一まともに使っているオーブントースターを温めると、食器棚を漁りはじめる。
「なるちゃん、耐熱皿あるぅー?」
「えっと、グラタン皿でいいですか?」
「それでええよ」
私は食器棚の奥に突っ込んでいたグラタン皿を取り出すと、それに浜坂さんは薄くサラダ油を塗りはじめた。
続いて買ってきた缶詰を開いて、サバ缶の中身、トマト缶の中身を交互に乗せて、最後に缶詰の中に入っているサバ缶の水もトマト缶のジュースも上からかけてしまった。
「なるちゃん、チーズあるぅー?」
「チーズって……トースト用のスライスチーズでいいですか?」
「ええよー」
私がスライスチーズを冷蔵庫から取り出している間に、浜坂さんはグラタン皿にオレガノを振りかけていた。
これくらいなら私でもできそうだなあ。ズボラの自覚がある私はそう思いながら眺めていたら、浜坂さんはのほほんと笑う。
「これくらいやったら、自分でもできそうやなあと思うとる?」
「えっと……はい」
「せやねえ、毎日できたらええね。じゃあなるちゃん、最後にパン粉振る前にチーズ乗っけて?」
さんざんズボラだというところを見せたあとなため、暗に「いや、無理だろ」と言われているような気がして、私は顔を逸らしてしまう。
でも。ここまで手を抜いてもいいんだなと思ったし。
チーズを乗せて、最後にパン粉を振ったら、本当にそれっぽいものが完成してしまった。
温めたオーブントースターの中に入れ、その間に出来合いのサラダをお皿に入れる。こたつ机の上に、サラダとお箸を並べている間に、チーズとトマト、サバの焦げるいい匂いが流れてきて、キュルルとお腹の鳴る音が響く。
「簡単やから、これでレパートリー増えるとええねえ?」
「はい……燃えないゴミ増えますけど」
「ゴミくらいちゃんと出しぃー」
さんざん呆れられた顔をされて、出されたサバ缶のパン粉焼きをサラダと一緒に食べる。
チーズとトマトの組み合わせは悪魔だと思うけど、サバ缶との相性も本当にいい。おまけにオレガノ。これがチーズとトマトのまったりとした味わいにアクセントを加えてくれている。
サラダは出来合いのものだけれど、十分おいしいのに、私はもりもりと食べているのを、浜坂さんは肘を突きながら眺めていた。
「なんや、ちゃんと食べるんやん」
「……自分でつくらなくっていいご飯だったら、食べますよ」
「はいはい。一日や二日で血ぃ綺麗になることはありえんけど。こんなに簡単にご飯つくらせてくれるんやったら、一週間ちょいで血ぃ綺麗になっとるやろ。次、リクエストある?」
そう言われて、私は考え込む。
「なんでもいい」って言われるのは、つくるほうが一番困るやつだ。でもなあ……。
私はもぐもぐ考えながら、ふと思いつくのは。
パスタが食べたいなあということだった。缶詰のおかげでぐっと魚料理に対する敷居が低くなったけれど、買ってくることが多いから億劫だし、パスタだったら茹でれば食べられるし、ソースづくりがもっと簡単だったら敷居も低くならないかなと思ったんだけれど。
「……パスタが食べたいです」
「ほう?」
「えっと、腹持ちがいいし、ズボラな私でもつくれるかなあと思ってレパートリー増やせたら嬉しいなと……駄目ですか?」
「せやねえ……明日はなるちゃんは早番? 遅番?」
どういう意味だろうと思いながら、私はシフト表を思い返す。
「明日も早番です。明後日は遅番かな」
「ほうほう。じゃあ考えとくわ」
やっぱり夜遅くと早めに帰れるときだと、食べる料理が違うのかな。私はそう思いながら、もぐもぐとパン粉焼きを食べ終えた。
自分ひとりだったら例えひとつは出来合いだとしても、二皿以上つくらないもんなと、自分のズボラ具合に頭を抱えそうになった。