言えない言葉とチーズリゾット
彼女を見た浜坂さんは一瞬呆けた顔をしたものの、すぐに口を開いた。
「……冴子」
「本当に、なんでこんなところにいるの! その子とこんな路地裏で……っ!」
とうとうその人は潤んでいた目からポタポタと涙を溢しはじめた。
これって、どう考えても。悪者は私じゃない。私はうろたえて浜坂さんを見るものの、浜坂さんがその人を見る目は険しい。
「堪忍な、なるちゃん」
「えっと……その方はいったい?」
「……付き合っとったんよ」
あ。一瞬頭を殴られたような感覚に陥るけど、普通にありえる話だった。
浜坂さんはすごい顔が整っている人なんだから、誰もこの人を放っておかない。彼女のひとりやふたり、いてもおかしくないんだ。
その人が泣き出してしまったのを見ながら、私はただ、浜坂さんに頭を下げて「今日は、楽しかったです」とだけ言って、その場を後にするしかできなかった。
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帰ってから、私は化粧を落としながらなんとも言えない感情を持て余していた。
浜坂さんと付き合っていたという冴子さんという人。あの人はずっと浜坂さんを探していたみたいだった。浜坂さんはどうしてあの人から離れていったんだろう。
「……吸血鬼だから?」
その言葉がぽつんと出る。
あの人は鏡に映らないし、カメラにも映らない。一度会わないと決めてしまったら痕跡なんて簡単に消せてしまう人だ。
私は浜坂さんとの出会いが出会いだったから、最初からあの人のことを吸血鬼だと知っているけど、あの人も真昼間に出会った人にいきなり噛みつく真似はしないだろう。そんなことしてしまったら、不審者だとして逮捕されてしまう。
冴子さんは? 冴子さんはそもそも浜坂さんのことを吸血鬼だと知っているのかな。私が浜坂さんに血をあげている現場を見て、なんか誤解していたみたいだった。
浜坂さんは冴子さんとお付き合いしている中で、彼女に吸血鬼だと告白したことはあったんだろうか。もし自分の好きな人が実は人間じゃないと言われても、普通は困惑するか信じないかだし、実際にそうなんだと理解しても、きっと理解に苦しむはず。
……浜坂さんは、冴子さんに自分が吸血鬼だと言わないで、吸血衝動で彼女を襲うのを怖がって離れたんだとしたら?
そこまで考えて、私は溜息をついた。
これは全部私の妄想、思い込みだ。推理にしては当てずっぽうだし、推論にしては乱暴すぎる。
あれだけ楽しかった気分が萎んでしまい、もう既に横になって泥のように眠りたかったけれど、明日からまた連勤だ。なにか食べないと、明日働けない。
私はのろのろと冷蔵庫を開けて、作り置きのおかずとご飯という、投げやりにも程がある食事を済ませたのだ。
ズボラが過ぎる私が必死で体を引きずって食事の準備をしたんだから、まずは自分を褒めようと、そう思った。
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もうすぐ年越しのせいか、今日も電話が多い。クリスマスプレゼントの問い合わせはさすがになかったものの、うちのショッピングモールの休みに対する問い合わせだとか、福袋を買う際の待ち列に関する問い合わせだとかは増えていく。
電話でお客様の問い合わせを店舗に中継していく作業をしつつ、ひとつ作業を終えるごとに溜息をつくものだから、さすがに花梨ちゃんに心配された。
「どうしたの? 休み明けにすっごい顔色悪いし」
「うーん、ごめん。ずっと仕事していたせいかな。ちょっと休み挟んだせいか調子が悪くって」
「いや、その考え方は危険だからね? ワーカーホリックって今時全然流行らないからね?」
花梨ちゃんにそう怒られながらも、どうにか休憩時間までやり過ごし、午後からの子たちと交代して、休憩室へと向かう。
休憩室で買ってきたパンを頬張る私を目ざとく見つけて、花梨ちゃんが口を開く。この忙しい中でも、シフトのやりくりをして花梨ちゃんはきっちりとしたお弁当をつくってきている。おまけにポットを持ってきて温かいコンソメスープまで完備だ。
「どうしたの。最近ずっとちゃんとしたもの持ってきたのにまた菓子パンって。ライターさんとなにかあったの?」
「いや、なにもないよ? 本当に。私がただ聞けないだけで」
「なに? 元カノが乱入してきて修羅場にとかなったの?」
どうして知ってるの。そう一瞬思ったけれど、花梨ちゃんのことだから知っていた知らなかったとかじゃなくって、単純に私が落ち込む理由を並べただけだろう。
浜坂さんが吸血鬼だということを言わずに、どう説明すれば納得してもらえるんだろう。私はさんざん考えながら、ぽつんと言った。
「元カノさんが知らなくって、私が知ってるっていうのは、それは私が都合のいい女扱いされてるからなのかなあ……」
「はあ? なに? セフレ扱いでもされてたの? そうだとしたら、そのライターさんとは四の五の言わずに連絡断ったほうがいいと思うんだけど」
私はブッと噴き出し、ペットボトルのお茶を咳き込んだ。違う、そうじゃない。そもそも付き合ってもいない。
「ち、違うよ!? セフレでもなんでもないから……!!」
まさか献血パック扱いされている現状なんて言えないけど、浜坂さんの名誉のためにそこは必死で否定しておこう。「セフレ」とか言って大丈夫なのかと周りを見回しながら、声を窄めてそう訴える。
でも花梨ちゃんはじっとりとした半眼のままだ。
「でも、そのライターさんが元カノに気を遣って言ってないことが原因で、あんたが傷付いているんでしょう? 今カノにできないことを元カノにしていい道理ってひとつもないと思うんだけど」
「ち、違うよ……! 体質的なトラブルを私のほうが知ってるから、その面倒を見ているだけで。それを元カノさんが大きく誤解しているというか……!」
こ、ここまでだったら言っても大丈夫か。私はそう思いながら首をぶんぶん振りながら言うと、花梨ちゃんはジト目のまま「うーん」と唸りながらコンソメスープをすする。
「要はライターさんのトラブルの面倒見ていたのを誤解されてるのに傷付いてるって話? でもさあ、元カノさんにそれを言う必要ってどこにあるの? だってライターさんと今付き合っているのはなるでしょ?」
「付き合ってもいないよ」
「えー……ずっとその人のことばかり言っているのに、それで付き合ってなかったの?」
花梨ちゃん……なんでもかんでも恋愛の方向に持って行くのやめて。そうは言っても他に相談できる人もいないわけだから、花梨ちゃんに聞いてもらうしかないんだけど。
私が口の中でごにょごにょ言っている間、花梨ちゃんはまたコンソメスープをすすってから口を開く。
「付き合ってる付き合ってないはさておいて。あんたはそのライターさんのことをどうしたいの? 元カノのところに戻って欲しいの? それとも行って欲しくないの?」
そう言われて、はっとする。
冴子さんのことが気掛かりじゃない訳ではないけれど、根本的な話として、浜坂さんはいったいどうしたいんだろうと思ったんだ。
私が冴子さんの存在でもにょもにょしているのは、浜坂さんは私のことをどう思っているんだろうということだ。冴子さんは多分、浜坂さんが吸血していることも、そもそも吸血鬼だということも知らない。私は本当にただの献血パック扱いなのか、それ以外の感情がちょっとは含まれているのか、わからないから困惑しているんだ。
「……あの人、私のことをどう思っているんだろう。都合のいい女扱いだったら、それまでなんだけど」
「はあ……厄介な人を好きになったもんだねえ」
花梨ちゃんは溜息をつきながら、備え付けの紙コップをひとつ取ると、コンソメスープを注いで私の前に置いてくれる。
「落ち込むかもしれないけど、仕事は待ってくれないから。恋愛が面倒臭いって思ったら仕事に逃げればいいよ。私としては、そんな面倒臭い人は逃げたほうがいいと思うけど、恋愛って理屈でできたら苦労しないもんねえ」
「花梨ちゃん……ごめん」
「そこはありがとうと言ってくれたほうがいいんだけど?」
彼女の綺麗なウィンクに笑いながら、私はありがたくコンソメスープのご相伴に預かった。
頭がぐるぐるして上手く吐き出せなくなっていた感情が、温かいものを口にしたおかげで、上手い具合に頭が働くようになった気がする。
仕事が終わったら、浜坂さんに聞いてみよう。そう決心して、休憩時間は終了した。
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仕事が終わり、更衣室でスマホの確認をしたところで、スマホにメールが一件来ていることに気付いた。
浜坂さんだ。
【今日は急な仕事が入ったので、行けなくなりました。待っていないでください】
その言葉で、折角花梨ちゃんの励ましで立ち直りかけていた気分が萎みそうになる。私は震える手で必死にタップし、【わかりました】と送信してから、スマホを鞄の奥に埋める。
それに花梨ちゃんは厳しい表情を送る。
「ライターさんから別れ話?」
「……ううん、急用で今日は会えないって」
「まあ、年末だもんねえ」
年末になったら忙しくなるのは、どこの業界も当たり前だ。本当のことかもしれないけれど、昨日の今日だったせいで、余計に気持ちが上手くまとまらないでいる。
私がグルグルしているのに、花梨ちゃんが溜息をついた。
「どうする? 今日もどっかで景気づけに食べに行く? まあ、年末だからどこの店も飛び入りでは厳しいかもしれないけど」
「……ううん、今日は帰る」
「あっそ。あ。私から重要なアドバイス。前に助けてもらったお礼も兼ねて」
花梨ちゃんから指をぴんと差されて、私は彼女を見る。
「本当にしんどいときこそ、ちゃんと食べなさい。あと運動。寒くて面倒臭いかもしれないけど、ちゃんと運動して三食食べてちゃんと寝たら、だいたいのことは大したことないから」
「……うん」
それは生理痛とストレスで苦しんでいた花梨ちゃんならではの言葉だ。
私はそう思いながら、ふたりでレシピを検索してから、帰ることにした。
そろそろ年末のせいで、三が日は休みと貼りだされているのを気にしながら、私は野菜の買い込みと料理を買いはじめる。
今日は寒いしひとり鍋にでもしようかと思ったけど、あまりたくさん食べられる自信がないから、リゾットをつくろう。リゾットに合うようトマトを買い、ピザチーズを手に取る。他に長ネギときのこを買っておけば、使い切れるだろうと思う。
買った荷物がいつもよりも指に食い込むのは、最近重いものはずっと浜坂さんが持ってくれていたからだと気が付いた。
駄目だなあ。あの人だってあの人の生活があるし、事情があるのに。私はそう思いながら、のろのろと台所に立った。
いい加減なものしかつくっていなかった人間が、少しずつ料理するようになって、いろんなものを食べるようになった。そのことはすごいことだし、簡単なものでもつくってみればいい、無理だと思うものはコンビニの出来合いのものや缶詰を使えばいい。そう教えてくれたのは浜坂さんだった。
炊飯器のご飯はちょうどひとり分。それをさらってフライパンに入れ、粉末ブイヨンを溶いたお湯を注いでくたっとなるまで煮る。トマトは賽の目切りにして、くたっとしたご飯に加え、その上にチーズを加えて、チーズがとろけるまで火にかける。
最後にそこに黒コショウをかけていただく。
私はお皿に出来上がったチーズリゾットを入れて、スプーンをすくう。
トマトは煮ても生でも栄養が壊れにくいし、ストレスが溜まったときは乳製品を摂るといいらしい。私は食べながら「おいしい」と言いつつ、浜坂さんのことを考える。
あの人はちゃんと生活できているだろうか。私の血を吸ったから、もう大丈夫なんだろうか……それとも。
また新しい人の血を吸っているんだろうか。
私はあの人のなにと聞ける勇気が持てないでいる中。スマホが点滅した。
【メールが一通届いています】