赤い月の夜に
空を見上げると、赤い月。
今日はストロベリームーンだと、早番の子たちがはしゃいでいたような気がするけれど、赤い月はどうにも私には落ち着かなかった。
満月で、赤くって、それが今は空の真上に浮かんでいる。
いつもは白い月が、赤くたたずんでいると、まるで。
「……血の色みたいで怖いって思わないのかな」
私はそうひとり呟きながら、視線を上から戻した。
既に終電も終わってしまい、駅前にはタクシー一台見かけない。人気が消えてしまった街は不気味で、早く家に帰らないとと、どうしても歩みは速くなってしまう。
こんなに遅くなるんだったら、今日は自転車で駅まで来て、ケチらずに有料駐輪場に置かせてもらえばよかった。この辺りは景観保護区域になっているから、無断駐輪をしていたら朝のうちに撤去されてしまう。
外灯がちかちかと頼りなく点滅しているのを横目に、私は必死で歩いている中。
私以外の足音があることに気が付いた。
思わず振り返り、息を飲む。
外灯の青白い光に照らされた彼は、ずいぶんと青白い肌の色をしていた。ひょろりと長い体躯が身を包んでいるのは、夜闇に溶け込むような黒い外套で、伸ばしっぱなしの長い髪の色も黒。
不審者だと思ってそのまま走って逃げてしまえばよかったのに、私が足を止めてしまったのは、彼の瞳の色に見入ってしまったからだ。
その瞳は石榴色で、ちょうど今、真上に浮かんでいる月を思わせるような色をしていた。
そして顔の造形。顔は小さく、まつ毛は長く、精巧につくられた人形を思わせるほどに、整っていた。
私は彼から目を離せないでいた。
……逃げないと。何故か背中に冷たい汗が伝い、体はガタガタと震えてくるにも関わらず、私は身動きが取れないでいた。
「ええ月やなあ」
男性が空を仰ぐ様は、ひどく様になっていた。口調がなまっていてもだ。
そして石榴色の目でちらり、と私を見てきたかと思うと、ゆったりとした足取りでこちらまで近付き、私の首元に近付いてきて、ひくっと鼻を動かした。
「……そして、ええ匂い。今日はええ日やねえ」
まさか、こんな日に変質者に会うなんて。
ガチガチと歯が鳴っても、私の足はピクリとも動かず、悲鳴を上げようにも声帯が縮こまって仕事をしない。
男性が口を開けたとき、私は見えてしまった。
白い綺麗な歯並びの中、不自然に鋭い八重歯の存在に。
「あんまり怖がらんといて。血が濁ってまうやろう?」
八重歯が……牙が、私の首筋に立てられた……。生臭い匂いが私の鼻を通っていく。
「……いったい……っ!」
ようやく仕事をした声帯は、どうにか悲鳴を漏らしてくれたものの、男性の口はなかなか離れてくれない。
声は出せても身動きが取れず、私は脅えていたところで。
「……まっず」
男性の憮然とした声を耳にした。
え、まずいって……私は噛まれた首筋に触れた。てっきりもっと痛くって穴が空いてしまったと思っていたのに、首筋には穴どころか、かさぶたひとつできていなかった。ええっと……さっき私の首、この人に噛まれて、血が流れていた……よね?
いきなりの展開に頭が追い付かず、私は呆然としていたら、目の前の男性は怒ったようにこちらに言葉を投げかけてきた。
「ちょっと自分! いったいどんな生活しとるん!? とてもやないけど、こんな血ぃ吸われへんやろう!?」
「え? ええっと、やっぱり私、あなたに血を吸われてたんですよね?」
我ながら間の抜けた言葉しか出てこない。
普通、変質者に襲われて怖いとか、なんてことするんだと怒らないといけない場面なのに、どうして私は変質者に襲われた挙句に怒られているんだろう。
気付けば、さっきまでピクリとも動かなかった体は動くようになっていた。……あれ?
私はグーチョキパーと手を動かしていたら、男性のほうは額に手を当てて、ジト目で私を眺めていた。
「はあ……自分、鈍いって言われん?」
「ええっと……運動神経は、鈍いです。はい」
「こんなところで立ち話も難やね。自分家に連れてって」
「え、嫌ですけど」
「はあ~!?」
もう変質者なのか粘着質なのか吸血鬼なのかはっきりしてほしい。
そもそもひとり暮らしの女の家に、今会ったばかりの人を連れ帰る人間はどれだけいるのか。
このまま逃げ帰ろうとしたものの、この人と来たら、今度はこちらが驚くようなことを言い出したのだ。
「ええやん、なるちゃん。これから長い付き合いになるんやから、家のひとつやふたつで躊躇しとったらあかんやろう?」
「え……」
なるちゃん。
私の名前はたしかに洲本鳴海で、愛称も「なる」とか「なるちゃん」だけれど。
どうして今会ったばかりの人が知っているのか。
やっぱり逃げたほうがいいのかな。私が身を震わせて鞄を盾にしたら、男性は手をひらひらと横に振った。
「だから、警戒せんでええよ。たしかにいきなり血ぃ吸ってもうたんは失敗やったと自分でも反省しとる。でも誓ってもええ。なるちゃんの悪いようにはせんよ?」
「そう言われても……」
「仕事忙しいんやろう? 終電で帰ってきて、ひとりで帰るのは怖いやろ。一緒に帰ったるし、なんなら迎えにも行ったる。その代わりちょーっとだけ血ぃ欲しいだけやけど、こんな血ぃ吸ったらら俺も体悪なるし、なるちゃんの体にも悪いやろ。だからちょーっとお話しよ? なっ?」
その言葉に、私は言葉にならなかった。
つっこみどころが多過ぎる。
今会ったばかりの人が、どうして私の事情に詳しいのか。そして何故か体の心配をされているし、勝手に送り迎えの話を進めている。そしてしっかりと血を吸うと言っている。
最近は全然ドラマやホラーでも取り上げられなくなったけど、この人。吸血鬼なんじゃないだろうか。
私は再び自分の首筋に触れる。私はたしかに噛まれたはずなのに、その痕はしっかりと消えてしまっていた。
困惑している私に、彼はふっと笑った。
「献血パックになってぇ、言うてるだけや。別に死ぬまで血ぃ吸わせなんて言わん言わん」
****
どうしてこうなったんだろう。
結局は男性に押し切られる形で自分の家に連れ帰ってきてしまった。
「あんまり大声でしゃべらないでくださいね……うちのアパートそんなに壁が厚くないんで」
「まあ安いアパートはそんなもんやろ」
深夜にお茶を出すのもどうだろうと思い、私は水を出そうとするけれど、男性は「かまへんかまへん」と手をひらひら横に振るので、結局座布団を勧めるだけに留めた。
「まあ自己紹介やな。俺は浜坂真夜。職業はライター。ほら、名刺」
そう言ってひょいと胸ポケットから深紅の紙を取り出した。そこにはたしかに『ライター:浜坂真夜』と書かれ、メールアドレスと携帯番号が書かれている。
吸血鬼だと言っていたのに、職業なんてあったのかと思っていたら、勝手に浜坂さんのほうからしゃべってくれた。
「履歴書いらん職業って案外少ないんや。俺写真に写らんし、鏡にも映らんから、堅気の仕事はまず付けへんし。ライターやったら仕事経歴だけでええからなあ」
「ええっと……」
「知らん? 吸血鬼は鏡にも写真にも写らんし、日差しには弱いし、なんなら流れる水にも弱いって」
そんなこと言われても……。
私が知っている吸血鬼の情報なんて、ホラー映画レベルの知識だ。せいぜい吸血鬼は血を吸うことと、十字架に弱いこと、心臓に杭を打ち込んだら消えることくらいしか知らない……でも人間でも心臓に杭なんか打たれたら死ぬと思うんだけど。
「……それ以前に、関西弁しゃべる吸血鬼は初めて見ましたけど」
「関西弁なんて一緒くたにしたらあかんで。俺がしゃべってるのは摂津弁やから、他と混ぜたら戦争になるんや」
「はあ……」
大阪弁や京都弁とどう違うんだろうと思ったけれど、あまりに真面目な顔で言うものだから、この辺りに触れておくのはやめておこう。
それはさておき、そもそもどうしてこの人に私は押しかけられているのか。
吸血鬼に血を吸われたら、その人も吸血鬼になるというのはホラー映画のお約束だけれど、今のところ吸血鬼になったような気はしないけど。
「あのう……私、浜坂さんに血を吸われましたけど、私も吸血鬼になったりは……」
「せえへんせえへん。先祖みたいに血ぃ吸って相手を支配して眷属にするような力持ってたら別やけど、俺はせいぜいちょーっとばかり身動き取れんようにするので精一杯や。なるちゃんも別に蚊に噛まれたかて、貧血になって死んだりせんやろう? 俺が吸うんはそんなもんや」
どうも、私が血を吸われそうになったときに、全然体が動かなかったのは、この人の力のせいらしい。
「あのう……蚊に噛まれ? 刺され? そんなもんだと言ってますけど、だったら血を吸うのを我慢してもいいんじゃ……?」
「あーん、今時血ぃ吸う吸血鬼なんてほとんどおらんやろうなあ。人が死ぬのが当たり前な時代やったらともかく、現在は病院以外で人が死んだら事件やわ。ただまあ……どうも俺となるちゃんは、相性ええみたいでなあ。俺も匂いでやられて血ぃ吸ったんは初めてやわ」
「はあ……」
「大昔は好みの血ぃ見つけたら眷属にして支配し、自分に血ぃ捧げさせることもできたみたいやけど、俺にはそんな力あらへんからなあ。せやから、なるちゃんにお願いしとるんや。俺に、その血ぃちょうだい?」
そんな話を聞かされても。
たしかに浜坂さんは顔がいい。だからと言って、「血が欲しいからちょうだい」と言われても、「わかりました、あげましょう」なんて言える人がどれだけいるのか。
私は困った顔で首を振る。
それに浜坂さんは「それに」と付け加える。
「自分、あんなまっずい血ぃしてたら、いつか絶対倒れるで?」
「ま、まずいって言われても……!」
「なるちゃん不摂生やろ。血がドロドロやもん。食べるときは腹膨らめばええって感じで詰め込んで、休日は寝てるか甘いもん食べとる。別にそれが休みの日だけやったらええけど、そんな生活毎日毎月毎年続けてみぃや。倒れんで」
私はそれに言い返せなかった。
仕事がシフト制だから、いつが休みになるかなんて、シフトが決定する月末以外にはわからない。
おまけにひとり暮らしだったら野菜をたくさん買ってもすぐ傷んでしまうから、どうしても手軽ですぐに食べられるものばかり買ってしまうし。
休みの日は疲れ果てて一日泥のように眠っているか、自分にご褒美と称してカフェに甘いものを食べに行っている。
……血を飲んだだけで、そこまでわかるもんなの。
私は言い当てられた自分のだらしない生活に、恥ずかしくって今すぐ消え去りたい気分に駆られるけれど、浜坂さんはニィーと笑ってこちらに顔を寄せてくる。
なまっているし、言っていることはめちゃくちゃだけれど、顔だけは本当に整っているものだから厄介だ。私はどうしてものけ反ってしまう。
「だから、管理したるから。代わりに血ぃちょうだい?」
「……管理って、具体的になにするんですか……」
拉致監禁……一瞬そう思って震えるけれど、あっさりと浜坂さんは言う。
「食育やわ。血ぃ悪いんは体に毒やから」
「……はあ? あの、浜坂さん。それって」
「なにって、飯つくる言うてるんやけど」
そりゃ、ご飯をつくってくれたら願ったりかなったりだけれど、いいのかこれは。
てっきりやらしいことでもされるのかと思ったけれど、浜坂さんは本気でそう思っているだけらしかった。
……そもそも吸血鬼がなにをつくるっていうんだろう。吸血鬼がなにを食べるのかなんて、そういえば知らない。
私は恐々と見るけれど、浜坂さんは手をひらひらさせるだけだった。
「俺はノートパソコンとスマホ持ってたらどこでも仕事できるから。気にせんでええで?」
「って、私の家に押しかけるんですか?」
「飯つくられへんやろ」
なにがどうしてそうなったんだ。
私のつっこみは無視して、浜坂さんはあの紅色の名刺をこたつ机に置いてそのまま玄関へと向かった。
「それじゃまた明日」
「って、今から帰るんですか!?」
「自分言うてたやろ? ここの壁は薄いって。声は抑え」
なんで私が注意されているんだろうと思いながら、彼があまりに普通に帰っていく様を止めることができなかった。
あの人、本当に次の日もうちに来るの?
ご飯をつくる、本当にそれだけのために?
答えなんて出なかった。