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案内

 夕陽が差し込む崖の上に二人の子どもが座り込んでいる。一人は薄汚れた服を着て、継ぎ合わせたコートを羽織っている男の子。もう一人は小綺麗な服を着た男の子。


『無理だ。そんなの出来っこない』

『無理かどうかは他人が決めるモンじゃねぇ! 自らが決めるモンだ!』


 小綺麗な男の子の言葉を否定するコートの男の子。その言葉には自信が宿っている。


『父上が言っていた。島の外は恐ろしい怪物しかいないと。だから海に出るのは愚か者のすることだと』

『だからどうした! 見もしない怪物に恐れていては何にも出来ないじゃないか! 俺は違う! 俺は自分の目で見たことしか信じねぇ!』


 そう言って彼は旗を掲げた。


『俺の夢は世界一周! どうだ大きい夢だろ? 海賊ってのは自由だ。そして自由な海賊を目指す俺は、必ず世界が一つであることを証明してみせる!』


 粗末な、それこそ棒切れに黒い布を巻いて粗悪な白ペンキで塗っただけの薄汚れた旗。しかしそれは男の子にとって何よりも輝く宝に見えた。


『だからよ、行こうぜ! 見たこともない冒険に!』


 にっと白い歯を輝かせて少年は笑った。

 その言葉に男の子は、いや、俺はーー





 微かに揺れを感じながらエンリケは目を覚ます。


「……死ぬ間際の白昼夢(はくちゅうむ)ではなかったか」


 軋むベットから起き上がる。パサリと毛布が落ちた。誰かがかけてくれたのだろうか。状況的にリコか。

 まずは自身の体調を確認する。

 頭痛はなし。吐き気と倦怠感(けんたいかん)もない。身体の一部は海に落とされたせいか、少し鈍痛があるがそれだけだ。どうやら風邪は引かなかったらしい。

 

 船内では時間が分からないが体感でお昼前だろうと予測する。随分と寝ぼけたものだと苦笑する。


 乱雑に置かれていた木箱から又も衣服を漁る。元から来ていた服はまだ乾いていない。しかし寝る為に来た服ではうろつき回れない。

 その後エンリケは(いささ)かマシな青シャツと灰色のズボンを履き、白いコートを羽織った。相変わらずゴワゴワしているが仕方ない。


「まぁ、これで良いだろう」


 部屋を出るために扉に手をかける。

 開いてなければノックしようと思ったが鍵は開いていた。

 不用心な。そう思ったが思い直す。元々女性のみの船だ。そういう事は起こらないから必要なかったのだろう。

 そう納得し部屋を出た。


≪うき?≫

 開けた扉の隣には一匹の猿が座っていた。口をもごもご動かし手にはバナナを持っている。

 誰かいるだろうとは思っていたが猿だとは思わず、互いに無言で見つめ合う。その間も猿はバナナを食べている。

 その後猿が何かを思い出したようにエンリケに待てと言うように手を出した後、バナナの皮を廊下に投げ捨て去って行った。


「なんだったんだ一体」








「おぉ、起きたのか? 調子はどうなのだ?」


 暫くすると角の奥からはコロンと少し後ろにリリアンが連れ添っている。笑顔を浮かべ、ドタドタと元気良く駆け足でこちらに走って来た。その背には何故か(いかり)を背負っている。


「ぬわぁー!」

「コローネー!?」


 コロンが先程猿が投げたバナナの皮を踏み転んだ。豪快にひっくり返り後頭部を強打する。ちょうど背負ったいかりの部分に当たった。あれは痛い。

 またもやゴロンゴロンするコロン。


「うぅー、いたいいたい! なぜこんな所にバナナの皮があるのだ!」

「先程此処にいた猿が投げ捨てていった」

「あいつか! ぐぅ〜! あとでリコに言いつけといてやる!」

「でもコローネ、猿の見分けつくの?」

「つかん! だけどリコなら何とかしてくれる!」


 ふんすと意気込むコロン。だが内容はえらく人任せだ。リリアンも思わず苦笑いになる。

 

「それでだキケ! 体調はどうだ?」

「悪くない。まさかベットもあるとは思わなかった。良くてハンモック、雑魚寝も覚悟していたが予想以上の待遇に至れに尽せりで恐縮したくらいだ」

「ぬははっ! ならば良かった。元々部屋は余っていたからな! 殆どの部屋が空か荷物置き場だ! ふむ、それだけ元気そうなら今日働いても支障ないな」

「……ねぇコローネ。本当にこいつを働かせるの?」

「くどいなぁ〜リリー。昨日あれだけ言ったではないか。キケはいるかさん号の一員にすると」

「そうだけど……」


 リリアンは未だに納得していない表情でエンリケを睨む。エンリケはそれも当然かと思い受け止める。

 寧ろ得体の知れぬ男を船員にしようとするコロンの方が理解出来ない。

 暫く悩むがやはり納得出来ないリリアンが口を開こうとした時


「駄目か? 私はキケとリリー、そして皆で旅をして行きたいと思ったんだが……」


 しょんぼりとしながら肩を落とすコロンは先程までの何事も自信満々、元気溌剌(はつらつ)の姿ではなく親に叱られた子どものようだった。

 その小動物のような姿に思わず姿にリリアンは


「いいに決まってるじゃない! 確かに猿たちじゃ手が回らない所もあるしね!」


 あっさりと手のひらを返した。


「男ならば重い荷物を運ばせるのにも使えるし、どれだけ働かせても良いし、未知な土地に上陸した時に先行させても良いし、いざという時には弓の盾にすることにもできるしさすがコローネだわ!!」

「……ふ、ふはは! そうだろう? 私は天才なのだ! 何故なら偉大な海賊コロン・パイオニアであるからな!」

(ふむ、遠回しに死ねと言われているな)


 リリアンは良い子良い子と帽子の上からコロンの頭を撫でくり回す。コロンも満更でもないのかもっと撫でろと頭を押し付ける。


「楽しそうな所すまないが俺はこの船について何も知らん。出来れば説明してもらえると助かるのだが」

「お? 確かにそうだな! すまなかった!」


 リリアンの手からコロンが離れる。

 リリアンは名残惜しそうにしながら余計な事を、とエンリケを睨むが無視する。


「昨日も言ったがキケ、お前は今日から《いるかさん号》の一員だ! そしてこの船には守るべき掟が一つある。それはな……『みんな仲良くすること』だ!」

「それだけなのか?」

「あぁ、そうーー」

「んな訳ないでしょ」


 横からバシッとリリアンが突っ込む。


「この船に乗る以上規則は守ってもらうわ。コロンみたいに緩いのじゃなくてね。まずあんたは武器の類を持つことを禁じるわ。倉庫などには許可がない限り近づかないこと。深夜に出歩かないこと。あと洗濯物は自分でやる事。何か理由がある時以外には私達に近づかないこと。それから絶対女の子の部屋に入ったりしないこと。ううん。近付くだけで銃殺刑ね。あとは……」

「な、なぁリリー。そこまでしなくていいんじゃないか? ほらあんまり規則で縛ってはギクシャクしてしまうだろ?」

「駄目よ! いいコロン? 男ってのはみんなケダモノなのよ? ちょっとでも隙を見せたら襲う狼よ。だから信用するなんて以ての外。だから部屋も誰もいない遠くにしたし鍵だって……あれ、ちょっと待って。あなた鍵掛けた部屋からどうやって出てきたのよ?」

「どうも何も初めから部屋に外鍵などかけられていなかった」

「おかしいわね、確かに私は……。またあの猿ねきっと。本当に悪戯ばっかりして」

「なーなー、リリー。襲うとは何だ? キケはお腹でも空いているのか?」

「いやそういう意味じゃなくて」

「そういえば確かに昨日から何も食べてない。腹が減って思わず襲ってしまいそうだな」

「やっぱり! あってるじゃないかリリー。それともリリーは他にも襲う理由を知っているのか? 私に教えてくれ!」

「うえっ!?」

「そうだな、俺も何を想像していたのか気になる」

「う、うぅぅ……!!」


 私怨も若干混じっているだろうが男女が同じ船で暮らすとなるとリリアンの懸念は概ね正しい。

 正しいが、それに対し思う所がないのとは別問題である。


 エンリケは死にそびれた。故に先程の盾となって死ねと言われても躊躇する事はない。それでも他人からそう言われる多少不服に思う気持ちはある。

 意趣返(いしゅかえ)しにリリアンを(もてあそ)ぶと睨んできた。


「なぁ、リリー。襲うって何のことなのだー?」

「そ、そんなことよりコローネ! この男に自ら《いるかさん号》の説明をしてあげるんでしょ? 早くしてあげないと」

「おぉ、そうだな!」


 うまく誤魔化したリリアンは安堵する。


「キケ、良く聞くのだ。このいるかさん号は何と3階層もあるのだ!」

「3階層? 多いな」

「この船は少々特殊だからな。今私たちがいる階が2階でさっきも言ったが荷物置き場や船員の部屋がある。3階は途中改装した箇所があるから少々特殊だが基本的には2階とおんなじだ。強いて言うなら水漏れなどを防ぐための機材が多いくらいだな。それで一階だが」

「1階はバリスタの矢などを蔵う武器庫といった所か?」

「察しが良いな! うむ、その通りだ。後は医務室もあるぞ。昔は外のラウンジ…、あぁ船の後方に食事場やお風呂場、お猿さん達の寝床と纏めた部屋があるのだ。そこで普段は私達は集まっているんだぞ」

「ラウンジは独自の階層として3階に直接繋がる階段があるわ。言っとくけど勝手に入るのは厳禁よ」


 その後もコロンは歩きながら説明を続ける。時折リリアンが内容を補足するので簡単に船の内部構造が頭に入ってくる。恐らく根は真面目なのだろう。


 話を聞きながらエンリケはコロンについて考えていた。


 いくら仲間に入れるといったからとは言え、簡単に喋るコロンは危機感が薄いのか、それとも頭が緩いのか。しかし昨日見た限り船員からの信頼は勝ち取っている。カリスマはあると見て良い。言動や態度が子供っぽいからといって侮ることなど出来ない。それに力もあると見て取れる。先ほどから背負う錨だが近くで見るとわかる。これは本当に鉄製の錨だ。当然桁違いに重い。エンリケが5人いても持ち上げられるかどうか怪しい。

 なのにコロンはそれをいとも容易く持ち運んでいる。どういう原理か全く想像もつかない。


 その後も廊下を歩きながら部屋の説明が続く。

 場所は既に二階層から一階層に移っている。三階層は食糧や荷物などしかないから説明する事がないとのことで行かなかった。食糧を積んでいるからこそ、新参者には案内しなかったのではとリリアンを見ていると思う。実際うまい具合にコロンを誘導していた。


「それでな! この部屋にはこの間現地人に貰った道具が飾ってあるのだ! 私は気に入ってるんだがどうにもみんなは微妙な反応しかしなくて……む、キケ聞いているのか?」

「問題ない。C(キャプテン)・コロン。頭に説明は叩き込んである」

「そうか。む、今なんといった?」

C(キャプテン)だ。お前は船長なのだろう? 船長とは船の総責任者。謂わば一番偉い人だ。例え歳下であろうと敬意を払うのは当然の事だ。そしてキャプテンとは外国語で船長を意味する。ならばこの船の船長である君に似合う呼び名だと思ったのだが」


 さすがにさん付けは馴れ馴れしいと思い没にした。かと言って様はなんだか違う。なので苦肉として役職を前につけることにした。

 ダメならば他の呼び名を考えようとしていると思いのほかコロンは気に入ったようだ。


「キャプテン……C(キャプテン)・コロン。…良いなそれは! 語呂が良い! かっこいい! うむ、今日から私はキャプテンだ! 名乗る時もそうしよう!」

「そうか、お気に召したようで何よりだ。因みにだがリリアン・ナビ。お前には航海士という意味でオフィサーやメイトという言葉をつけようと思ったのだがどうだろうか?」

「何よそれ。というか敬語使いなさい。歳はあんたのが上なんだけど、この船の経歴では私の方が上なんだからね。それにどうせなら様にしなさいよ様に」

「分かりましたナビ様。これでよろしいでしょうか?」

「きもい。鳥肌が立ったわ。前の口調で良いわ」

「難しいお年頃だな」


 腕をさすり引くリリアンに、女はよく分からんとぼやく。


C(キャプテン)・コロン。私の夢に相応しい通り名が出来たな。感謝するぞキケ!」

「そうか。ならば良かった。……夢? 夢か……」


 夢という部分に反応する。そのままじっと考え込むエンリケにコロンは首をかしげる。

 暫しの静寂の後エンリケは質問した。



「ーーC(キャプテン)・コロン。お前は何故海に出た」



 これまでのエンリケの声色と違う、真意を確かめる為の言葉にコロンはきょとんとした後、にっと白い歯を見せて笑いーー


「それは勿論世界一周を成し遂げるためだ!」

『俺の夢は世界一周! どうだ大きい夢だろ?』


 コロンとアイツが重なって見えた。


「世界一周だと?」


 エンリケが問う。

 この世界は平面であると考えられている。理由は、多くあるが特にこの世を作ったとも言われる精霊神王の内、水の精霊神王を讃える石碑が平面であり、文も平面だと考えられる内容が書かれている。その他の伝承や説でも平面であると言われている。

 だからこそ、世界は平面。それが一般的な考えだ。故に世界一周など不可能。世界の果てにあるのは流れ落ちる滝で世界は繋がってなどいないのだ。

 だから彼女の考えは異端だ。世界一周とは即ち世界が()()であることを意味するのだから。


「そうだ。私は世界は繋がっていると考えている。大地も元は一つだったと思うし、お魚さん達も広い海を旅して生まれ故郷に戻っているし、渡り鳥さん達も広い空を旅して見たことない土地を旅していると思う。だから私はそれを確かめるために航海に出た」

「そんなことが可能だと? 君の勘違いかもしれない。仮にこの世が一つだとしよう。世界一周など無謀だと思わなかったのか」

「だろうな。だが私は成し遂げる! だけど私一人では決して出来ない。リリーが、リコが、ビアンカが、ノワールが、クラリッサが、オリビアが、ティノが、アリアが、おサルさん達の力が必要だ。このいるかさん号と仲間がいれば出来ないことではない!」


 そう言うコロンの瞳は眩しく、自信に満ちていた。

 その目には不可能だと微塵も疑っていない。

 エンリケは目を伏せる。


 馬鹿馬鹿しい。

 一体どれだけの船乗りがその夢の果てに海の藻屑になったと思っている。

 一体どれだけの人々がその夢を諦め現実を見たと思っている。


 愚かだ。馬鹿だ。無謀だ。不合理だ。異端だ。

 世界を一周する利点もない。危険なだけだ。死へとつながる片道切符だ。馬鹿にする奴らこそ正しい。



 あぁ、だが。



 それでも。




「そうか。それは良い夢だな」


 エンリケはその夢に共感した。




 次の瞬間今まで以上にコロンの顔が輝き、リリアンは驚いた表情を浮かべる。

「だろう!? 大抵の海賊は馬鹿にする。そんなのよりも海で略奪でもすれば良いと。その方が儲かると。先も見えない旅は無謀だと。しかし私は略奪は好きではない! そもそもそんなのは弱腰だ! 夢を諦める理由になどならない! だから私が誰よりも早く世界を一周して世界は一つであることを証明してみせる。キケ。お前やっぱり良い奴だな! そしてそんな奴を仲間に入れた私は見る目がある。ぬぁーはっハッー!」


 コロンがバシバシと腰(身長が足りない)を叩く。思った以上の力にうめき声をあげるが全く気にしていない。


C(キャプテン)・コロン。君の夢は分かった。部屋の説明を続けてくれないか」

「うむ! どんどん説明してやるぞ!」

 上機嫌なコロンは意気込む。その後も階段を上がりながら説明は続く。


「よぉーし、先ずは此処が弾薬庫だ。バリスタの矢や剣などもここにある。謂わば船の心臓部だ! そしてこの先が医務室……で……」


 それまで前を堂々と歩いていたコロンの足が止まる。


「……どうしたC・コロン。案内してくれるのだろう?」

 動く気配がないコロンを不審に思いながら問う。

「い、いや私はここで良い」

「何?」


 前まで行って顔を見ると目は泳ぎ、冷や汗がダラダラと垂れている。先程までのご機嫌な様子は全くない。

 そのことを指摘するより前に気付いたとばかりに手をポンっと叩く。


「あー! 何か仕事思い出した! 思い出しちゃったなー! ふ、ふははー! 仕方ない、これは仕方ない事なのだ。中には()()()()がいるはずだから仕事を聞けばいいと思う! あんまり長くはいるなよ! 他にも知るべきことはあるしリコにも頼んでるからな。ではなー!」

「あっ、まってよコローネ」


 しゅたたーと逃げ去るコロンをリリーが追う。

 途中リリアンがクルッと振り返った後


「……コローネの夢に共感してくれたのは感謝するけど私はあんたのことこれっっっぽちも信用してないから! 勘違いしないでよね!」


 あっかんべーして去っていった。


「何なのだ一体」


 コロンの挙動不審さもリリアンの嫌われようも腑に落ちない。いや、後者については元々反対の立ち位置をとっていたから理解出来るが前者は全く分からなかった。


「とりあえず中に入るしかないか」


 気を取り直す。

 エンリケはドアノブに手をかけた。

 


 初めに感じたのは薬草の匂いだ。否、正確には加工された薬品のと言うべきだろうか。


 医務室の名の通り部屋の中には多く薬品が整備されていた。

 ベットもある。病床となる白い清潔な布が被せられたベットが4つ。そして何故かえらく拘束具ががっちりしているのが1つ。治療用であることは間違いないはず。決して拷問用ではないはずだ。


 そのまま中に入り辺りを見回す。瓶とペン立てがある机と椅子。薬品が入った戸棚。淡い光を灯す蝋燭。綺麗に並べられた本棚。そして部屋の隅を占領する多く並べられた植物。


「……粒々檸檬(つぶつぶれもん)か」


 その内の一つに近付いて膝をつく。

 粒々檸檬は1mほどの木に10数個の身を付ける果物だ。味は甘みより酸っぱさが強いが僅かな水と栄養で実を結ぶ為、果物が不足しがちな船乗りには重宝されている。


 だが今彼の目の前にある粒々檸檬は20個ほど実をつけているが元気がないように見える。


 少し気になったエンリケは腰を下ろし丸々と太った実を一つ取る。粒々檸檬は軽く押してしまっただけでぶちゅりと潰れてしまった。


 そのまま指についた汁を舐める。


「思った通り、これは……」


 通常、粒々檸檬は僅かな爽やかな香りと酸味が強いことで知られる。

 しかしこの粒々檸檬は酸味がなくなってしまい味は無味に近い。明らかに栄養が足りていない証だった。


 このままでは全ての実が駄目になると思ったエンリケは机の上にあったハサミを取り、処置を始める。


 エンリケはこの症状の対処法を知っている。


 他船の植物を勝手にいじるなど咎められても仕方ない行動であるがエンリケの薬師としての本能がそれに疑問を挟む余地なく処置を施していった。


「ふむ、これで大丈夫だろう」

「わぁ〜それで治るんですかぁ?」

「そうだ。粒々檸檬は沢山の果実をつけるがあればあるだけ過剰に果実に栄養を蓄えようと根が土から栄養を吸い取る。結果、限られた容器の中の土の栄養分を根こそぎ吸い付くす。元より少ない栄養で育つとされていた植物だ。当然水や栄養を与えるのも少量だから栄養などすぐに枯渇する。だからこそ、若い実は摘んでおいて枝も調節する必要がある。……ところでお前は誰だ?」

「私はオリビア・コンソラータですぅ。昨日会ったのにもう忘れちゃったんですかぁ〜?」


 いつの間にか後ろにいた桃髪の女性はそういって少し不満そうに眉を潜めた。

 確かに会った気がするが顔までは正確に覚えていなかった。

 改めて目の前の女性を観察する。


 おっとりとした声色に垂れた目尻。ふわふわとした触り心地の良さそうな桃色の髪は薄暗い船内でもよくわかる。

 微かに香る良い匂いのハーブ系の香り。甘く爽やかな匂いが鼻腔一杯に広がる。


 来ている服はゆったりとした薄黄色のワンピースに、その上から被った黒色のエプロンだ。エプロンはお花の刺繍が施されている。

 妖艶な色気というものがオリビアから漂っていた。

 それを醸す最たるものはエプロンの上からも分かる、豊満な胸。手のひらにとてもじゃないが収まりきらない。


 しかしそれよりもエンリケの目を引くのは彼女の左腕だった。

 途中で裾が結ばれ、ブラブラと宙を彷徨っている。彼女には左腕がなかった。



 それは確かに昨日いた人物、そして説明された内容と一致した。僅かに姿勢を直す。



 彼女はオリビア・コンソラータ。

 エンリケが手伝いを命じられた相手であり、いるかさん号の薬師である。

本日の投稿分はこれで終わりです。次回は明日のお昼頃更新。

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