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9.寝床

 ぽたりと雛の頬に落ちてきたしずく。

 その刺激で目を覚ました雛は、ぼんやりと視線を持ち上げた。

「陽炎……? 帰ってたの? おかえりなさい」

 軽く丸めた指の背で目をこすりながら体を起こした雛は、そこでようやくしずくのもとがわかった。

 陽炎の全身が濡れており、そこここからときおりしずくをしたたらせていたのだ。

「水浴びでもしたの? ちゃんと乾かさないと風邪をひくわよ」

 そこまで言って、雛は小首をかしげた。

「あれ? 妖怪って風邪をひかないんだっけ? 病気とかはしないの?」

「ビョウキというのは、体を損なうという意味か? それだったら水に濡れる程度ではビョウキとやらになることはないな。毒を食らったり、爪牙や呪術で攻撃されたりすれば、場合によっては命すら危うくなるほどに体を損ねることはあるが、それくらいのものだ」

「へえ、ほんとに丈夫なんだね」

 雛は素直に感心した。

 病気をしないなんて羨ましい。

 小さいころの雛はたびたび熱を出して寝込むことがあった。

 村にいればいつでも布団の中で休むことができる。水も手ぬぐいもあるので、それを使って頭を冷やすことも容易におこなうことができたので、おとなしく寝てさえいればさほど手を煩わせることもなかった。

 困ったのは旅の途中で雨に濡れて風邪をひいたとき。そのときはただひたすら久哉に迷惑をかけた。布団がないからと、治るまで久哉の膝の上に抱きかかえられるようにして看病を受けた。ほかに方法がないとはいえ、迷惑をかけて申し訳ないという気持ちが病の治りを遅くして、さらにいたたまれない気持ちになる。その悪循環。結局何度か強制的に呪で眠らされたこともあった。

 陽炎や久哉のように病気をしない体であればと何度か思い、けれどそれは人でしかない雛には決して叶わぬ望み。結局迷惑をかけないように日頃から気をつけるしかない。

 実際そうやって気をつけるようになってからは、雛も病気になることはほとんどなくなった。

 雛は両腕を思いっきり高く持ち上げるようにして伸びをした。

 そうしておもむろに立ち上がる。

「陽炎はもう朝ご飯食べた? そういえば陽炎って普段はなにを食べるの?」

 すべての妖怪が毎日人を食べていたら、人などあっというまに滅んでしまっていただろう。むしろ人にかかわることがない妖怪のほうが多数なはずだ。そうした妖怪はいったいなにを食べているのだろうか。

「今日はもうたらふく食べてきたから数日はもつだろう。普段はといわれても、オレたちが食えるものといえば人や動物くらいだから、もちろんその中のいずれか狩れたものということになる。なにも狩ることができなければその間は空腹に耐えなくてはならない。そのあたりはほかの生き物と同じだ」

 そこで雛はあっと気づいた。

「……だから、水浴びしたの?」

 きっと血まみれになったのだろう。それを見せないために、もしくはそれを見て雛が怯えてしまわないように気を遣ったのかも知れない。

 陽炎の鼻先が小さく上下したのは肯定という意味だ。

「そっか。うん、ありがとう」

 手間をかけさせてしまったことをすまないと思いつつも、雛は感謝した。

 実際に自分の目で見てしまったときにどんな態度を取ってしまうのかわからないからだ。拒絶しない自信などない。だから今はここにいるしかない雛は陽炎の気遣いをありがたいと思った。

「じゃあ、ささっと私もご飯を食べ終えるから、そうしたら枯草を取りに行ってもいい?」

「枯草?」

「そう。ここに私専用の寝床を作ろうと思って」

 雛は昨日小石で縁取りした場所を指差した。

「オレの寝床で一緒に寝ればいいだろう」

「やだよー。陽炎が寝返りをうったときに潰されたくないもの」

 くすくす笑いながらも雛は現実的にありうる問題を提示する。

 それに対して特に機嫌を損ねることもなく陽炎はすぐに了承した。やはり隣に作ることにして正解だったようだ。許可を出す前に陽炎が自身の寝床と雛の寝床を何度か交互に見て距離を測っていた感がしたから。

 雛は昨日持ち帰った果実をいくつか口にすると、ココナッツジュースでのどを潤した。

「そういえば着替えはどうだった?」

「持ってきた。そこに置いてある」

 くいっと向けられた鼻先をたどるようにして視線を向けると、寝床の奥に布の包みが一つ置かれていた。

 さっそく包みを解くと着替えが出てきた。

 持ち上げてざっと体にあててみる。大きさはちょうどいい感じだ。雛のものだったかどうかははっきりしないが贅沢はいえない。四組入っていたのでうまく回せば長持ちしてくれるだろう。

 包みの下のほうには、体を拭くための手ぬぐいまで数枚入ってあった。

「ありがとう陽炎。助かったわ。私もあとで水浴びしてもいい?」

 枯草を集めて寝床を作るとなると、当然体は汚れるだろうし汗もかくだろう。

 水浴びをして、着替えて、洗濯をして。

 そうして少しずつここでの生活の基盤を固めていこう。

 広げていた着替えをたたみなおして邪魔にならないように隅へと片づける。

 さあ枯草を集めに行こうと言いながら隣に顔を向けたところで、雛は動きをとめた。

「どうした?」

 不自然な動きにすぐに陽炎が反応する。

 雛は力なく首を横に振った。

「なんでもない。そういえば久哉には会えた?」

「いや。村にはいなかった。やはりあのまま村を出て行ったらしい。村の者も、雛のところに向かったあと姿を消したと言っていたからな」

「そっか……」

 やっぱりいなかったのか。

 ますます久哉との縁が途切れてしまったのだと実感した。

 もしかしたら雛のことを探してくれているかもしれない。雛が久哉の真名を呼ぶのを待っているのかもしれない。

 そんな都合のいい考えも捨てきれていない。けれど確かめることも怖い。

 呼んでもきてくれなかったら。

 せっかく解放されたと喜んでいたところを邪魔してしまったとしたら。

 久哉が雛の名を呼んでも、徒人でしかない彼女はとぶことができない。これは雛が生け贄の身代わりとなったときに教えられたことだ。

 これまで久哉からいくつか教わってきた簡単な呪はある程度使えるようになったものの、霊力の量さえ人並でしかない雛は久哉の補助程度のことしかできなかった。

 役立たず。

 そんな一言が頭をかすめる。

 さきほど振り向いた先に陽炎の瞳を捉えた雛は、あたりまえのことなのに視線の先にいる存在が久哉ではなかったことに動揺した。

 無意識に目を向けたのは久哉の目線の高さでもあった。

 久哉と陽炎。どちらも同じ高さに瞳があった。

 漆黒の瞳と、朱い瞳。

 漆黒の髪と、黒い体毛。

 ミコと、妖怪。

 ただそばにいてくれる数少ない存在だというだけで、目の高さのほかには黒色を持っているというくらいにしか重なるところはないというのに。それなのに、否、それだからこそ。修正の必要もなく自然と目を向けたところに目的のものがあるという安心感。それが求めたものとは違ったという落胆。複雑な想いが一気に去来して雛の思考を停止させた。

「ヒナ? 行かないのか?」

 結局またしても雛の意識を現世に呼び戻したのは陽炎の声だった。

「え? あ、ごめん。ちょっとボーっとしちゃった」

 ばつが悪そうに頭に右手をあててペロッと舌を出す。

 今度こそ雛は足を動かして洞の外へと向かった。

「ねえ、ところで陽炎の寝床で使っているような枯草って、今もあるのかな? どの枯草を使っているかとか見ただけでわかればいいんだけど。あとそれがどの辺に生えているのかもわからないから探さないといけないよね。すぐ見つかるといいな」

 時期が合わなければ草自体がないか、まだみずみずしい状態だということもありえる。それでは使えない。仮に朝露で湿っていたとしても、干せばすぐに乾く状態になっていなければ寝床には採用できない。

「まったく同じものでなければいけないわけじゃないだろう。むしろ今手に入るものの中から適した素材を探したほうがいい。寝床を作るなら、下のほうは硬いものを使って通気性をよくしないとすぐにダメになるからな。上にいくほど柔らかくて細いものを使えば体への負担が軽くなって寝心地を高めるようになるぞ」

 陽炎の説明を聞きながら、雛はあっけにとられていた。

「ねえ、陽炎。陽炎って本当に妖怪?」

 実は妖怪の振りをしている人ではないかと思えてきた。

 これに対して陽炎は盛大なため息をこぼす。

 こうした仕草も雛に人説を考えさせた。

 しかし陽炎はこれをあっさり却下する。

「ヒナ、いくらなんでもそれはオレに対して失礼だろう。妖怪が寝床にこだわっちゃいけないとでもいうのか? 人は『家』、動物や鳥や魚だと『巣』という名の寝床を作るだろう。どうして妖怪だけが寝床を作って不思議がられないといけない。おかしいだろう?」

 そういわれると返す言葉もない。

 たしかによく考えてみれば、小鳥があの小さなくちばしに小枝をくわえて何度も運んでは立派な巣を作っていくところを見たことがある。

 雛は素直に謝罪した。

「ごめんなさい。たしかに陽炎が言うように、鳥や動物たちが巣をつくっているところを見たことがあったはずなのにね。どうして妖怪だけができないなんて思っちゃったのか」

 肩を落とす雛。しばらくのあいだうなだれながら歩いていた。ふと思い浮かんだのは沼にいた妖怪のことだった。

(ああ、そういえば、あの妖怪も沼の中に寝床を作っていたのかもしれないのよね)

 単純に沼の中から出てきたせいで、沼自体が妖怪の棲み処であり寝床でもあって、沼の中になんらかの手を加えている可能性に意識を向けることができなかった。

 そうした意味で、陽炎も洞自体を棲み処――寝床にして、落ちている小石や枝葉が散らかったままの地べたに直に寝転ぶものと考えていたのだ。

 だから枯草の寝床の存在に驚いた。

 そして陽炎が今寝床として使っているものは、以前この洞に住んでいた人が作って放置したものだと勝手に思い込んでしまったのだろう。陽炎自身が作ったものとは欠片も思いつかなかったのだ。

 考えてみれば異種族である人と同じ言葉を喋ることも、言葉を使って意思の疎通を図ることもできるのだ。知能が低いなんてことはありえなかった。

 雛は深く反省した。


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