3.生け贄
朔月がもたらす闇夜。
木質化したタケと呼ばれる茎を指の太さほどに縦割りしたものと、タケほど太くも硬くもないが同じように木質化したヨシと呼ばれる茎。その二種類の茎をそれぞれ腕の長さほどに揃えて手に持てるくらいの太さに束ねて作ったたいまつ。そのたいまつに火をつけた明かりだけを頼りにして、村人たちはひとつの駕籠を担いで森を分け入った先にある沼のほとりへとやってきた。
沼からほんの少し離れた場所に駕籠をおろす。
駕籠はタケを編んで作ったもの。中に生け贄を入れてからタケを縦に四つ割りしたもので作った縦柵で四方を囲い、さらに縄で縛って固定してあるので、道具でもなければ自力で逃げることはかなわない。非力な童女であればなおのこと。
駕籠の真ん中に座っている生け贄の童女は、縦柵の隙間から外を眺めていた。ただしたいまつの明かりが届く範囲でしか認識できないため、興味を引くものは見つかりはしなかったが。
村人たちは駕籠を取り囲むような形で四隅に、まだ火のついていないたいまつを地面に突き刺すようにして立てた。
準備を終えると四つすべてに火をつける。
火のついたたいまつの明かりに照らされて、駕籠が闇夜に浮き上がり、中にいる生け贄の白い髪が炎の色に染まる。
生け贄として駕籠の中にいるのは雛だった。
村人たちは一人として口を開かずにここまでの作業を淡々と終えると、目配せして早々に立ち去った。
だれだっていつ妖怪が現れるのかわからない場所に長居したくはないだろう。
雛は後ろを向いて、村人たちが持っているたいまつの明かりが少しずつ小さくなっていくのを見送った。
点となった明かりが闇にとけたのを見届けると、雛は正面へと向き直る。そこには妖怪が棲むという大きな沼があった。
大きいとはいえ所詮は沼。深さなどたかが知れている。とはいえ人の背丈の数倍は水深があるのだから妖怪が棲むこともできるのだろう。
村人たちがこの地域に居を構えることにしたときに、当然この沼も調べていたという。そのときは沼底に生えている水中植物が確認できるほどには透明度があった。
しかし妖怪が棲みつき始めてからは沼の水は濁って悪臭をはなつようになってしまったそうだ。事実沼のそばにいる雛のところにまでその悪臭が迫ってくる。
(臭ーい。早く終わってくれないかなー)
声は出すなと言われているので、雛は心の中でぼやいた。
空を見上げてみても、朔月なのだから月の位置で時間を測ることもできない。星は見えていたが、まだ星読みができない雛にはそこからなんの情報も得られなかった。
(ひーまー)
抱え込んだ膝の頭に顎をのせて沼を見つめながら、雛はため息をついた。
すると沼のほうから突風がきて、たいまつの明かりをすべて消してしまった。
完全な闇と化した周囲。
しばらくして夜闇に目が慣れてきたころ、膝を抱えている腕に力を込めて雛は悲鳴を呑み込んだ。
沼の一部が不気味に盛りあがったかと思えば、勢いよく水をまき散らして妖怪が姿を現したからだ。
陸に上がってきた妖怪はおよそ大人三人分くらいの大きさだった。
横幅も同じくらいあるので球体にも見える。全体的にたるんだ表面は、人にたとえていうと人生を棄てているのではないかと思えるくらい醜い姿をしていた。
ぶよんぶよんと肉を揺らしながら妖怪が駕籠へと近づいてくる。
(気持ち悪ーい)
雛は両手で口を押えた。
そうやって無理やり吐き気と悲鳴を呑み込む。
星明りだけでは暗すぎて詳細はわからないが、たぶん体中に纏わりつかせているへどろや水中植物あたりだろう。妖怪が歩くたびにびちゃりびちゃりと不快な音をともなって周囲に飛び散るそれらが、余計に不気味さを増していた。
雛は月が出ていないこと、そしてたいまつの火が消えてくれたことを感謝した。おかげで妖怪を影絵に近い状態としてしか認識しないで済んだ。臭くて不気味であることには変わりないが、それでも醜怪なその姿をまざまざと見せつけられるよりははるかにましだと思えた。
駕籠のそばまでやってきた妖怪は、片手で駕籠をつかむと、顔の幅いっぱいにある口を大きく開いてそのまま口中へと放り込んだ。
丸呑みされた駕籠の中で毬のように転がりながら、目を閉じた雛はとにかく体を丸めて被害を最小限に抑えるように努力した。それが久哉からの指示でもあったからだ。
あちこちにぶつかるたびに痛みで悲鳴がもれそうになる。
それを歯を食いしばるようにして抑え込んで、同時に口も閉ざした。
ようやく底に達したか、もしくはどこかに引っかかったのか。とにもかくにも落下は停止した。うまい具合に駕籠は床を下にして停まってくれていた。もっとも側面が下になっていたとしても、ある程度は体を支えられるように縦柵を組んでいたため問題はなかった。縦柵をしっかりと固定していたのは、生け贄が逃げださないようにするためではなく、生け贄役の雛を守るためだった。
雛は周囲の気配を探って動きがないことを確認すると、ゆっくりと目を開ける。闇のなかにあっては人の肉眼ではなにも捉えることはできない。それでも実行しようとしたことが苦も無くできる状態というのは多少の安心感をもたらした。
ほっとしたように息を吐きだした雛は、なんとなく左手の小指の付け根に口づけた。そこには久哉の髪がお守り代わりとして一本巻きつけられている。
雛は久哉に教わったとおりに一拍柏手を打つと、大きく息を吸い込んだ。
「陽狭夜」
呼びかけに応じた存在が雛の隣に現れる。そこに立っていたのは久哉。『陽狭夜』とは久哉の真名だった。昼と夜の狭間に存在するミコ――陽狭夜。普段は決して口にしてはならないといいきかせられていた名前。
「よくやった」
久哉の姿を雛の瞳が捉えることはかなわないが、慣れ親しんだ気配と声を聞くことができて、ようやく雛は肩の力を抜いた。
そんな雛の頭を久哉がひと撫でする。見えないはずの久哉の満足そうな笑顔が見えた気がした。すると雛の胸がなぜかトクンと跳ねた。
雛にとって久哉は、父のようであり、母のようでもある。兄のようであり、姉のようでもある。現実面でいえば師匠であり恩人であった。けれどこのときはその中のどれにもあてはまらなかった。
戸惑う雛をよそに、久哉は次の手へと移る。
「こいつが沼に戻らないうちに始めよう」
雛は現状を思い出して気を引き締めた。
この時のために雛はずっと久哉に教わってきたことがある。
雛がおこなったときとはまったく響きの異なる柏手が一拍。久哉がおこなったそれは、瞬時にその場に二人を包む結界を築いた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
久哉の声に合わせて、雛は教わったとおりに手で印を組む。複雑な形をしている印はすぐには組めなかったが、何度も練習してきたため今では遅れることなく正確に組めるようになっている。
横で同じように印を組む久哉に呼吸を合わせる。
一拍おいて打たれた柏手もぴったりと重なった。
「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄と祓給う」
二人の口から紡がれるのは天地一切清浄の祓。
「天清浄とは天の七曜九曜二十八宿を清め、地清浄とは地の神三十六神を清め、内外清浄とは家内三宝大荒神を清め」
一音一音魂を込めて紡がれる詞は、その身を寄坐として神降ろしをなさしめる。
「六根清浄とは其身其体の穢を祓給清め給う事の由を、八百万の神等諸共に、小男鹿の八の御耳を振立てて聞し食せと申す」
寸分の狂いもなく同時に打ち鳴らされた柏手は、共鳴してさらに大きく響き渡った。
四方八方に広がる音を追うように、降ろした力が一瞬にして膨れ上がって雛たちの体からほとばしる。それはまさに爆発と表現するにふさわしいほどの威力をともなっていた。
雛は歯を食いしばってその衝撃に耐えた。
重ね合わせた両手にいっそう力をこめて、まるで嵐に呑み込まれて膝が折れそうになるほどの豪雨にさらされているような衝撃に耐える。
地を叩き、空を揺さぶるような咆哮が轟く。
やがて妖怪の体を内側から破裂させた清めの力は、妖怪の断末魔さえ呑み込んであたり一帯を祓い清めた。
これで一件落着かと思われたが、かすかにうごめくものの気配を感じて雛たちが視線を向けた先では、巧妙に隠されていた妖怪の核がいまだにあがいていた。
さすがは妖怪。二人がかりでもあっさりとはいかなかったようだ。
どうするのかと尋ねようとした雛の耳に、久哉が唱える呪が届く。
「ノウマクサラバタタギャテイギャク」
紡がれるのは火界呪。
「ウンタラタカンマン」
招来した火生は、妖怪の核を呑み込んで灰も残さずに焼き尽くした。
残滓を探ってゆっくりとあたりを見まわす久哉を真似て、雛も周囲に視線を投げる。
ほかに禍物の気配は感じられず、沼から漂っていた悪臭も消えて透明度を取り戻しつつある。沼底から巻き上げられたへどろなどが沈殿しきれば、本来の沼の姿へと戻るだろう。
雛は久哉の顔を見上げた。
「これで終わり?」
「そうだな。あとは村に戻って欠片を受け取るだけだから」
欠片を受け取ったあとは、また久哉と二人で気ままな旅に出るものと思っていた雛は、村長の提案に目を丸くしたのだった。